日常の歩みのなかで、私たちは様々なものを失いながら生きています。世間で耳にすることが多い「会うは別れの始めなり」あるいは「生者必滅、会者定離」とは、まさに文字通り、出会いには必ず別れがあるというのが世の常、との意です。そこには、出会う喜びと別れの悲しみの両極をもたらす人生の儚さへの詠嘆が込められています。始めがあれば終わりがある以上、別れが到来するまでの時間を大切にしなければならないのです。そう考えると、人生は「喪失」の連続であるといっても過言ではありません。人であれ何であれ、取り返しのつかないものを失った時、その喪失感はやはり筆舌に尽くしがたく、絶望に苛まれることは誰もが一度ならず体験するものです。しかし後から思い返してみると、「失うこと」つまり「喪失」が新しい自分への入り口になっていることもあります。
自分にとって愛おしい存在を失うという事象は「対象喪失」と呼ばれます。その際には愁傷や悲哀などの強い感情が生じ、愛着の対象がもはや目の前にいないと頭では分かっていても、最初はそれを受け入れられず、何かの間違いではないかと現実否認をしたり、さらには自分を置いて去ってしまった対象に恨みの感情が浮かびさえします。とはいえ、失った対象とは二度と接することができず、これこそが仏教で伝える諸行無常の「道理」なのです。この苦痛の最大の原因は、失った対象とそれを悲しむ私たちとの間に何らかの形での同一視が起こり、堅固な一体感が生じていたことにあります。つまり、その対象が自分の一部分になっているからこそ、対象喪失となって体験されるのです。縁もゆかりもない他人はむろんのこと、たとえ肉親知友であっても、まったく愛情を失い、自分とは繋がりのない人と割り切っているならば、少なくともそうした喪失感を味わうことはないでしょう。
喪失の体験は、なにも人間関係だけに限りません。自分の身体の一部を事故や病気で失う機能障害、思い描いていた自己のイメージの壊滅なども広義の喪失体験です。効率や利益が最適化されている現代の競争社会では、挫折を味わった者に精神面での尊厳の喪失が起こり得ます。自らに対して、あるいは他との関わりにおいてそのような状況に遭遇した場合、深く傷つき、心を閉ざしたくなるのは古今東西の万人に共通した感情のはたらきです。しかし喪失という現象それ自体は、自分にとって心から愛顧の対象と思える「何か」がそこに確かに存在したことを意味しています。当たり前のことですが、最初から持っていないものは失くしようがありません。たとえ仮に短い間であったとしても、そのような「何か」を持ち得たことは揺るぎない事実であり、人生の貴重な財産であると言えます。喪失が避けられないのであれば、自身にとっての「喪失」の本質を理解し、その体験と折り合いながら生きていくほかないでしょう。
では、喪失に直面したときにどのような心構えで対処すればよいのか。私たちは普段、何かを「失う」ことよりも、人との出会いや財産など何かを「得る」ことに軸足を置いて生活しています。失うことを好む人はいません。ひとつでも多くの物事を獲得することが、人生を豊かにすると信じているようにも見受けられます。しかし、何かを得ることもむろん重要な目標ですが、いかに失うのかということも生きていく上での大きな課題です。喪失の体験を積み重ねていく過程で、私たちは多くのことを学び、自らを育養できるからです。「失ってみて初めて、失くしたものの大きさに気づいた」という慨嘆を耳にすることがありますが、それは明日の我が身であり、決して他人事ではありません。失ってから後悔しないためには、ことさらに失うことを恐れて忌避するのではなく、喪失を見据えて生きることが特に求められるかもしれません。失うことの大きさは、与えられてきたものの大きさでもあります。獲得と喪失は表裏一体を成しているという、その条理を知っているだけで生き方や考え方への対応が変わるはずです。
かつて古代中国(紀元前2世紀中期)の漢の武帝は、この「喪失感」を「歓楽極まりて哀情多し」と詩に表現しました。世に味わうどれほどの歓楽であろうとも、やがてその終焉を迎えるときが間違いなく到来します。人は楽しい毎日の途切れぬことを願いつつも、結局は歓楽と哀情を繰り返して生きていかざるを得ません。しかも歓楽の度合いが大であるほど、それが終わったときの寂寥感は深くなります。そのなかには、日々癒しと喜びを与えてくれた愛犬・愛猫などを失い、寂しさと悲しみのあまり立ち直れなくなってしまう「ペットロス症候群」や、子育てが終わって子の独り立ちを見送った後に、生き甲斐を失って抑鬱状態となる「空の巣症候群」なども加えることができるでしょう。喪失感とは心に穴が開いたような感覚ですから、それはまさに自身の一部を失ったことに等しいものです。一般にそうした喪失感をもたらす原因は、自分自身の拠り所であったからかもしれません・・・人や物の喪失のみならず、馴染んでいた居場所や環境の喪失、若さや体力の喪失、目標や自尊心の喪失、等々。いずれも、その人自身の存在意義に直結し、生きていくための心の支えとなっているようなものばかりです。残念ながら、喪失感との向き合い方に正解はありません。喪失の現実を受け入れるには一定の時間を要することがありますが、究極的にはそれを認容していくしか術はないのです。そして、その経験を通していかに自己変革するかが、当人にとって為すべき作業ということになります。
人生はしばしば一編の物語に喩えられます。その物語のなかでは、大なり小なり喪失が生じ、その都度、筋書きを修正しながら、次の新たな物語が紡がれていく。想定外の喪失、たとえば物語を構成する重要な登場人物が忽然と姿を消してしまうと、物語はときに壊滅的に構成が崩れ、筋書きが大きく書き替えられなければならなくなります。しかし、喪失後の物語はまだ白紙かもしれませんが、命ある限り人生の物語は途切れることなく続いていくのです。重大な喪失に直面して間もない時点では、その後のことを考える余裕はないであろうし、強烈な拒否感を抱くかもしれません。しかし、爾後の方向性や展開はその物語の主人公である私たち一人ひとりが考えていくほかないのです。つまりそれは、喪失の現実を自分なりにどのように捉えてこれからの人生をどう処していくのかという、自身のみに課せられた宿題です。つまり、あるときは喪失の現実に向き合い、一方では生活上の問題に取り組むという、その両者の間を往来する対処の過程です。しかも双方に対して同時並行での対応が求められるのです。喪失の現実を受け入れることができて初めて新たな人生の物語が始まるのではなく、完全には受け入れられなかったとしても、生活や人生は着々と進んでいて、新たな物語はすでに始まっています。
実は私たち自身も、喪失前の自分とまったく同じ自分ではありません。喪失から「立ち直る」ということは、あたかも風邪が治り、本来の健康状態を取り戻すかのような印象がありますが、何事もなかったかの如く喪失体験を消し去ることはできないのです。私たちに課せられているのは、喪失から回復して以前の状態に戻ることではなく、対象を失った状況のなかで生きることです。すなわち、喪失からの「回復」ではなく、喪失への「適応」が求められるのです。この「適応」という考え方は本来、生物学の概念であり、生物が生活環境に応じて、生存に適するように形態や習性を変化させていく過程であるとされます。喪失への適応を旅にたとえるならば、目的地は喪失前と同じ場所ではありません。異なる風景を見ながら、決して平坦ではない道のりにおいて旅を続け、やがて以前とは違う新しい場所にたどり着くのです。喪失に適応するためには、失った事実を受けとめ、自分の気持ちや直面している困難と折り合いをつけていくことが肝要です。拭いきれぬ思いをいかに消し去るのかが大事なのではなく、その思いを抱えつつも自分なりにどのように生きるのかが問われるのです。同時に、それまでの自らの生き方を見直す機会でもあります。喪失の経験を契機にして、今までとは異なる関心が芽生えたり、初めての活動に足を踏み入れるなど、自分の人生に新たな目標を得ることもあります。そのような観点から、喪失体験は人生の岐路に私たちを立たせるものであると言えます。
喪失体験の渦中にある当事者にとっては、我が意に反した「ままならない」ことであり、不合理で理不尽な現象と映るものです。その心理状態においては、暗然たる思いはもとより、怨嗟、後悔などが脳内の閉鎖された回路のなかを激しく循環することになります。動物はなんらかの身体的苦痛を経験することで生存に欠かせない行動上の事柄を随時体得していきますが、私たち人間も同様です。喪失感を負の感情であると断じてしまうことは簡単ですが、逆に自身の成長の為の糧であったと肯定的に受け止めることができるのであれば、この憂悶がむしろ有益な経験に転じてくれるはずです。対象が失われる以前の状況が自分にとってどのような価値をもたらしていたか—-いかに我が人生を彩る貴重な一頁であったか—-を丁寧に振り返ってみることは、白黒の画像にひとつひとつ色を付けていくような地道で根気の要する営みかもしれません。しかしこれは、喪失の悲しみに向かい合い、その体験について深く思いを巡らすことで、「生きることの意味と価値」を私たちに改めて自覚させてくれる自然からの得難い教えでもあります。
旧約聖書(伝道の書 第三章)の「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」という一文は、出会い、別れる・・・この世のすべての計らいには然るべき「時」があるという哲理を説いています。そこには、人生は単に喜びや幸せが継続することだけによって成り立つのではなく、それらと正反対の現象が常に反復されていることも暗に示唆されています・・・生あれば死あり、幸あれば不幸あり。訪れたその「時」は、いかに不本意であっても、潔く受け容れなければなりません。対象が人やペットであれ、自分を取り巻くそれらの事物がいつの日か一方的に思い出すだけの存在となることを、どこかで覚悟しておく必要があります。とりわけ、無益なことと分かってはいても「いつかまた会えるはず」と信じていたい気持ちを抱くのは世人の切なる心情ですが、いま生ある自分自身も否応なく「死」に向かって生きている以上、相互に「いつか必ず会えなくなる」日が訪れることは顕然たる世の定めでもあります。この事実から目を背けることなく、あらゆる事象に対して「一期一会」のもつ重みを絶えず忘れぬよう心がけたいものです。
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