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  • 執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

よどみに浮ぶうたかた


よどみに浮ぶうたかたは かつ消えかつ結びて 久しくとどまりたる例なし

(方丈記)


 上記の一節は、水の上に浮ぶ泡沫(うたかた)は儚く消えやすいものだ、という「実体のない無常なもの」の譬えです。わが国においてバブル(泡)経済が崩壊してもう10年を超えますが、現下の苦境を単に金融破綻という経済的側面だけでとらえるのではなく、「人間生活を豊かにするのは物質文明である」というーつの価値観を改めて見直す機会として考える必要があります。もちろん、物質文明は人間社会に大きな貢献を果たしてきましたが、余りにもそこにのみ偏重したがゆえに、私たちは「内を見つめる」という習慣を失いかけています。

 日本人の伝統的精神の中には、内を見つめることによって悟りうる人生観、世界観といったものがあったように思います。それは自然界ともよく調和し、地味ではあっても美しく素晴らしい心の遺産です。しかしながら、現代日本にそれが今でも息づいているのかと言えば、少なくとも肯定しがたいでしょう。

 また、極端な言い方ではありますが、現代は二者択一の合理主義の時代です。生が謳歌され、死は遠ざけられる。若さがもてはやされ、老いは敬遠される。目に見えているものに愛情が注がれ、見えないものは無視されています。これが現代の世相であり、人の価値判断の基準になっています。しかし、果たしてこれで良いのでしょうか。人間社会ではあくまで人が主人公であるにもかかわらず、人間が不在の現代社会がたどる末は悲惨な状況が待っています。それは人間同士の醜い争いです。

 仏教では、思い通りにならないことを「苦」と説きます。人生は無常です。永遠不滅の舞台ではありません。そこで、何もかも思い通りにしようとするところに問題があるわけです。私たちの生活態度や人生観は、まずこの認識から始まる必要があります。幸いにして、近年、特に自然環境や福祉医療への意識が高まり、社会的には今まであまり顧みられなかった面にも目が向けられるようになりました。二者択一によって見落とされていたものに新たな価値を見出してこそ、手元にあるものの真価もわかるのです。徐々にではありますが、社会には変化が起こっています。花や新緑のみを愛でて、落葉や老木を忌むわけにはいかないのです。それらはともに命の姿です。死を直視してこそ、今の生き方を問えます。そして真摯に生きてこそ、死もまた問えるのではないでしょうか。


ゆく河の流れは絶えずして しかも、もとの水にあらず


 個の命は、一つの泡沫にすぎません。その命が生かされている根本の環境が、いうならば大きな河の流れです。現代文明とは単に利便性と快適性だけを目指すものではないという自覚のもとに、自らを知り、自らの生き方を大切にし、そして同時にほかの人のあり方も大切にしなければならないのです。


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