「将軍、くれぐれもご注意を。恐ろしいのは嫉妬です。それは眼尻を緑の炎に燃え上がらせた化け物です。人の心を餌食とし、苛み、弄ぶのです。」
これはイギリスの劇作家シェイクスピアが人間の嫉妬を鮮烈に描いた悲劇『オセロー』の一節であり、劇中、将軍オセローの側近で策略家のイアーゴーが囁く偽善に満ちた科白です。人を煽り立て、邪な心に導く「嫉妬」の正体とは一体何であり、そしてどこから生じるのか。
仏教の考え方によれば、除夜の鐘の回数でよく知られているように、人間の煩悩の数は百八もあるとされます。その中でも特に人倫にとって諸悪・苦しみの根源を成す煩悩の代表格となるのが、いわゆる貪(貪欲:貪り)・瞋(瞋恚:怒り)・痴(痴愚:愚かさ)です。これを総称して「心の三毒」と呼びますが、「痴」の底流には嫉み・妬みの感情、すなわち「嫉妬」も含まれています。人を妬み、恨み、呪いつつ、かような気持ちの下劣さを省みない心性が「愚か」と言われる所以なのでしょう。私たちが嫉妬心を抱くとき、それを感じさせる相手は自分の最も敏感な部分を刺激してきます。しかし、人と自分を比較して、相手が不当に優遇されている、あるいは自分の方が実力は上なのに・・・等々、身勝手な僻みに基づく優劣基準で判断する癖から抜け切れないでいれば、人生はいつか必ずや誰かに対して悔しさのあまり嫉妬の炎を燃やすことに汲々となります。
ちなみに西洋にも目を転じると、キリスト教の一大宗派であるカトリック教会には「七つの大罪」という概念があります。「大罪」とは、いわゆる法律に触れるような巷の犯罪そのものではなく、人間を倫理的な罪に導く可能性があると教義上みなされてきた特別な欲望や悪癖のことを指します。その内訳は、高慢・物欲・嫉妬・憤怒・色欲・貪食・怠惰です。ここにも期せずして「嫉妬」が登場しています。それはたとえば、傍目にも幸せそうな人や成功して意気揚々としている人を見て、なぜか不愉快な気分が沸き起こり、無性に腹立たしく思う心です。「どうしてこういう気持ちになるのか」と、我ながら嫌になりつつもそうした精神の状態を経験したことのない人は、ほとんどいないはずです。そして自分でも嫉妬の醜さを頭では重々わかっているため、その心中を人には知られないよう隠そうとします。年を重ねるにつれ私たちは一般に、自分の欲心や憤懣を人に吐露したり、周囲に訴えたりすることはあっても、嫉妬心を剥き出しにすることはしません。そんな心は微塵もないように表向き装うのは、その見苦しさと恥ずかしさを誰よりもよく本人が自覚しているからでしょう。
私たちは概して、いろいろな面で自分とあまりにもかけ離れた存在の相手に対しては純粋に羨望することはあっても、自分とほぼ変わらないような境遇や価値観の人、あるいは普段から身近に接している人に対しては、時に強い嫉妬の念をもつことがあります。相手との力量の差において「超えられない壁」がある場合よりも、「薄皮一枚」の差の方が苦痛は大きいものです。嫉妬は、能力、容姿、地位、名誉、財産など、往々にして「自分に欠けているもの」が対象となります。それが「嫉妬」という「私利私欲」の一変型の実態です。この現象は老若男女を問わないばかりか、芸事や学問上の師匠が愛弟子の急速な台頭を嫉む、母が年頃を迎えた娘に同性としての妬心を抱く、といった身近な者同士ならではの愛憎模様は古来から文学や舞台での恰好の題材になってきました。加えて特異な例としては、他人の美点を誉めそやすことの裏にも嫉妬心が伏在している場合があります。そこでは相手の素晴らしさに対する敬意よりも自分自身の見識に対する得意が先に立っています。本心では嫉妬を意識しているにもかかわらず、敢えて相手への賛美を通じて妬ましさを糊塗することで「鷹揚な自分」を演出しているからです。これは、嫉妬が常に怒りや非難という形で生じるとは限らないという屈折した心理をいみじくも示唆しています。しかし当然のことながら、どれほど嫉妬しようとも、当の相手の「環境」それ自体を手に入れることは不可能であり、況やその人自身になれるわけでもない。私たちはこの冷厳な現実を理性の面では承知していながらも、人を羨み、そして妬む気持ちを如何とも鎮め難いことがあるのです。ただし、そのような感情を増長させるばかりでは、決して物事が建設的な方向に進まないことは自明の理です。
ここで翻って我が国の実情を振り返ると、人々の間での「平等」を維持することに腐心してきた独特な歴史があり、その根底には互いに「妬まない」ようにするという暗黙の了解が世間知として存在していました。「平等」の概念は、嫉妬を生じさせないための共同体の知恵であり、今に至るまで脈々と残り続けているのです。たとえば、かつては学校教育の現場で「ゆとり教育」の一環と称し、運動会の徒競走で順位を廃したり、学業成績も相対評価ではなく絶対評価とする事例もあったようです(注:この文教政策に関しては肯定、批判を含め、未だに議論の対象となっている)。敗者、弱者に一定の配慮を為すことはむろん極めて重要であり、また過度に競争を煽ったりすることは厳に慎むべきでしょう。しかし、悔しさが嫉妬に変じた際の解消法を十分に身につけないまま実社会に出た暁には、何かの折に敗北感や挫折感を味わった際、他人を陰で罵ったり、足を引っ張るなどといった非生産的な言動を日常化してしまう人間になりかねません。
残念ながら、日本社会は現代でも成功者への嫉妬心が強く、難癖をつけて個人の努力を公平に評価しない風潮が多く観察されます。その遠因は、言うまでもなく日本人の高い「同質性」に求められ、肌や髪の色、話す言語もほぼ変わらないため、これらと外形的に異質で目立っていたり、特に周囲から羨望される立場にいる人は忌避や排斥の対象となる傾向が顕著なのです。畢竟、日本でのいわゆる「処世術」とは、特定の個人ひいては世間からの嫉妬を浴びないよう、場の空気を敏感に感じ取り、巧みに振る舞うことでもあります。「出る杭は打たれる」の格言がいみじくもその間の事情を物語っています。従来はネット社会での特殊な隠語であった「炎上」という言葉も、今では週刊誌や一般人の間でも日常的に使われるようになりました。何気ない一言で交流サイト(SNS)が炎上したりするのを目の当たりにすると、なぜそこまで非難され、叩かれるのかと訝しく感じられますが、実はその背後にも「嫉妬」が関係していることが少なくないようです。自己評価を高く見積もる人ほど、他者を貶めることによって自尊心と自己愛を保とうとするのは、私たち人間の悲しい性です。だからこそ、人の幸せや成功を素直に喜べない、そんな心が自分にも他人にも牢固としてあるのだと絶えず心に留めておかねばならないのでしょう。
嫉妬の渦中にある人は、その対象である相手を望遠鏡越しに見ているような心理に陥っています。つまり、相手に対する「羨ましい」あるいは「妬ましい」部分が極度に拡大強調された状態であり、自分自身の立場は逆にまったく視野に入らなくなるのです。そのような場合、まず為すべきは「この嫉妬によって、いったい自分は何を手に入れたいのか」を自問することでしょう。仏教では、人間の煩悩はどうあっても消し去り得ないため、慢性病のように上手に付き合っていくしかない、と断じています。嫉妬に限らず、自然に発生した感情を抑えつけることは、自分の正直な気持ちに嘘をついていることになり、いっそう自分を追い込む状況を招いてしまいます。嫉妬感情を消し去ろうとする行為は自分の価値を自らが下げることであり、自己否定を強化させてしまいかねません。
したがって、繰り返される「発作」として妬む気持ちが生じてしまうのは仕方ない以上、要諦は「どのように処していくのか」の一点に尽きます。嫉妬は、良くも悪くも非常に強烈な感情ですが、身を亡ぼしかねない危険な情動であると同時に、少し視点を移してみると自分を変える源泉にも転じ得ます。嫉妬が生じるということは、今の自分に満足していないからこそ芽生える情意の現れでもあり、その際、ある程度の嫉妬心はそれまでの生活状況からの脱皮を促す起爆剤になります。とりわけアメリカのような独創性や競争優位を常に要求される社会では、「嫉妬」の感情を自ら封印することは逆に心理的な負の要素となります。なぜなら、そのような口惜しさは恥じる必要のない人間の自然な心のはたらきであり、むしろ嫉妬を感じることで相手との比較において自分の足らざる部分や改善すべき要素に着目し、奮闘努力する動機づけが生じると考えられているからです。
知るべきことのみならず、知らなくてよいことも耳目に次々と押し寄せて来る現代は、どうあっても私たちの嫉妬心を掻き立てる要素が至るところに散在し、そのために自分の存在価値を見失いがちです。いわば我が身を取り巻く四方八方が「隣の芝生は青い」のです。しかし一度限りの人生において、本当に為すべき事、為し得る事の数は限られています。世の中に情報が溢れすぎている結果、やらなければならない事がたくさんあるような錯覚におそわれているだけに過ぎないのです。その焦りが、他人の幸せを陰で妬み、人の不幸を密かに喜ぶ浅ましい心理を生み出しているともみなせます。いかなる社会、組織、団体、そして個人にあっても、前進と発展を阻むものは人の心に巣食う「嫉妬」の病弊であることは疑いの余地がありません。徒に放置したままにすれば、あたかも錆びが鉄を蝕むように、己自身を蝕んでいきます。
とはいえ別な角度から見ると、嫉妬心が本当に人間にとって不要で、むしろ有害なものであれば、人類の長い進化の中で脳機能から淘汰されてきていたとしても不思議ではありません。否、人間にとって何らかの有用性が秘められているからこそ、今も私たちの精神活動のなかに備わっていると考えられます。感情や欲求に関して、人間の本質は時代を超えても変わるものではなく、そのなかのひとつに「嫉妬」があるに過ぎません。これは「痛覚」の存在とよく似ています。どのような肉体的な痛みであれ、誰しも感じたくないものですが、「痛み」という生体機構がなければ生命を脅かされることも事実です。痛みを感じないと、例えば熱湯に手を入れても何も感じず、火傷をしてしまいます。すなわち嫉妬は、集団で暮らす人間の進化過程において、自分の置かれた状況や立場が不公平あるいは不本意であることを知らせる「警報」としての役割を兼ね備えています。嫉妬心を感じる対象相手の姿は、実は自分がそうなりたかった姿なのかもしれません。人の心というものは潜在意識で強く願っている方向へ引き寄せられる性質があるため、嫉妬を感じたということは将来の自己実現のあり方を示唆する貴重な経験でもあります。したがって、「嫉妬」への対応という観点に絞って人生の方向性を展望した場合、結局、「嫉妬に支配される人生」か「嫉妬を力に変える人生」のいずれかに二分できると言えるでしょう。
了
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