近年の社会的な議論には、「平等」をめぐる内容のものが多いようです。男女平等や国政選挙での一票の格差といった旧来からの課題に加え、夫婦別姓問題、非嫡出子相続分についての解釈、消費税の軽減税率の是非、あるいは外国人の参政権等々、枚挙に暇がありません。その一方で、「格差社会」という文字を目にしたり聞いたりする機会が日本でも増えてきました。しかしながら、機会が平等である限り、そこから生ずる格差があったとしても、それが人々の中で許容できるものであれば不平等なものとは必ずしも言えません。たとえ経済的・社会的な格差はあっても、充実した人生が送れるか否かは最終的にその人の心持ち次第であり、当人の価値観に依存する部分も大きいはずです。ただし、格差や不平等を漫然と放置して自由競争に任せていれば、社会は良い方向へ進むのでしょうか。否、そうでないことは過去の歴史のみならず、現今の国際的な格差反対運動の盛り上がりを見れば明らかです。
世界人権宣言の第一条には、「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。」と記されています。たしかにわたしたちは「平等な権利」を持ってこの世に生まれ、社会に出ていくはずですが、現実には各個人に多様性と異質性がある限り、立場の違いや社会的な優劣がどうしても付随します。世界の各地で見られる様々な「不平等」に関しては、近代の経済成長の結果として、とりわけ貧富の差の増大とその克服という難問が残されていることも厳然たる事実です。また資本主義の社会においては、誰でも平等に世俗的な成功を得る機会が建前としては与えられている半面、その機会を掴んだ人と掴み切れなかった人が必ず出てきます。これについて、よく引き合いに出される象徴的な国がアメリカです。米市民の間では、「不平等こそ公平だ」という社会認識が建国の昔から広く根底にあります。努力し、多くの汗をかいて働いた者の富が、そうではない者と平等であることは承服し難い、ということです。彼の国で国民皆保険制度(日本はすでに実現済み)が手放しで歓迎されないのは、おそらく経済的理由だけではないのでしょう。
わたしたちの周囲で展開する諸々の自然現象を仔細に観察してみれば、ちなみに「降雨」を例に取ると、雨は平等に降り注ぎ、草木の大小によって雨量を差別することはありません。表面積の広い草木は多量の雨水を受け、そうでない草木は少量にとどまります。すなわち空から万遍なく降ってくる雨は、対象ごとに差別的に受けさせつつ、平等にすべての草木を生かしているのです。では、翻って人間の場合はどうか。残念ながら「自然」のようなわけにはいきません。何事であれ、すべての人が平等権を主張して一律の扱いを要求すると、社会の運営は立ち行かなくなってしまいます。たとえば、震災や災害など非常時に不可欠の要素である食料あるいは水の配給。受け取る側には各人個別の事情があるとはいえ、届ける側がその希望の個々に付き合っていたならば、公平かつ平等に配ることなど不可能になります。さらに喫緊の事態としては、人命救急の医療現場を挙げることができます。その際に、先進諸国の間で広く用いられるようになってきた概念が「トリアージ」(語源は「選別」を意味するフランス語。「識別救急」とも称する)です。トリアージとは、患者の重症度に基づいて治療の優先度を決定して選別を行うことです。つまり、助かる見込みが絶望的な患者あるいは緊急な治療を必要としない軽傷の患者よりも、処置を施すことで命を救える患者を優先するというものです。
トリアージの発想は、「すべての患者を救う」という医療の大原則から考えると、例外中の例外です。これはまさに「差別」的な治療方針ですが、本来は議論の余地なく平等であるべき「生きる権利」が競合するような時、どの患者の搬送を優先させるのか、あるいは誰から応急処置を施すのかが客観的に判断されなければなりません。トリアージはそういった公平性を合目的に解決する手段であり、現代における災害医療の基本理念を支えるものです。しかし、少しでも多くの瀕死者の命を救う必要から生じたものとはいえ、治療の対象者を選別する点においては非情である点は否めません。幼児が如何にしても助かる見込みがないと冷静に判断されれば、確実に救命できるかもしれない老人の治療が優先されるでしょう。世の中には、公平性を厳格に維持しつつ、こうした不平等な仕組みも時として必要になるのです。事ほど左様に、利害得失が絡む諸個人間での平等と公平の兼ね合いは社会の存続にとって常にきわめて重要な課題です。
したがって、平等と公平をどのようにして整合させていくかという問題意識をもって、実生活上の様々な問題に立ち向かう姿勢が、いつの時代でもわたしたちに問われています。特に社会福祉の分野では、支援を必要とする人をいかに手厚く救済するかが最も根本的な政策要素であることは論を俟ちません。その際、国家財源の効率的な使い方の問題はどうしても影が薄くなりがちです。あるいは社会保障を充実させたいがために社会保険料や税の負担を重くすると、今度は十分な経済成長の維持に影響が及び、結局、所期の社会保障を維持することが難しくなりかねません。平等性を担保するための議論は理屈や建前がどうしても主となる傾向がありますが、公平性の問題は人々の現実的な価値判断が常に絡むからです。万人が平等で公平な世の中が望ましいといっても、その理想像は人によって異なります。所得格差や貧困の問題についても、人によって受けとめ方は様々です。結局、「これが正解である」という答えを出しにくいのです。
「平等」を考える上で特に大事な点は、人々の行動や思考形態が均質または等質であればあるほど、予測不能な環境の変化に対して社会全体の適応性が弱まる危険性が高くなるということです。それを回避するには「多様性」が必要となってきます。その場合、多様な人材の各々を評価する価値基準も多様でなければなりません。そうした反省に立って、日本においても近年では企業の社員評価に能力主義が導入されたほか、安直な平等こそ「逆平等」だという声が社会各層の中から少しずつ聞こえ始めています。実際、就労環境の面でも、終身雇用制度の崩壊や企業活動の国際化によって価値観の多様化が進んだ結果、組織集団からの経済的な保護や恩恵を受けられる保証が必ずしも得られない時代に転じつつあります。皆と一緒に行動していれば安心で大丈夫という便利な保険の効用は、完全に消滅していると言えます。こういう時にこそ、一人ひとりが自分の問題として平等の本質を見極めることが求められるでしょう。どこまで機会の平等は与えられるべきなのか、さらにはどこからが公平な競争なのか、という難題にわたしたちは直面しています。
一般によく言われることですが、日本人は思考・行動の有り様が横並びになりがちであることが多いようです。この点については、島国であるが故の民族的な同質性や、他人との間合いを重視する国民性が影響していることも関係しているのかもしれません。いずれにしてもその背景には、「日常生活において同じように振る舞うことが平等である」という認識が人々の間に横たわっているものと推察されます。しかし、各人が他の人と異なる価値観を持ちつつも、一様ではない者同士が真の「平等」であるためには、「それぞれの違いを認め合う」こと以外にないはずです。悪しき平等主義は、当然ながら、自分と異なる思考や行動の持ち主を排斥することにつながりかねません。平等で均質な社会像というものは、高度に分業化が進んだ現代社会において過去の遺物となりつつあります。生物の体を構成している各細胞がそれぞれ独自の機能を持つ細胞集団へと特化したおかげで、わたしたち人間を含む多細胞生物が成り立っているのと同様に、各個人が特定の役割を闊達に伸ばしていけるような環境が整備できなければ、もはやこれからの社会は存立し得ないでしょう。
では、現代に即した平等性の実現を阻む社会的な病因の代表は何か。それは「階級」あるいは「身分制度」の存在です。たとえばインドでは、いわゆる「カースト制度」が1950年に憲法で公式に禁止されましたが、この慣習がインド社会から未だに消えることはなく、実質的な階級の縛りが相変わらず根強いのが現状です。ほかにも周知のごとく、世界の各地には他国や他民族に対する偏見や差別、少数民族に対する侮蔑や虐待が牢固として残存しています。「平等」に関わる歴史的背景を改めて考えてみれば、人間はどうしてこれほどまでに「差別」を好むのか、と嘆息せざるを得ません。持てる者あるいは上位の者は、常に持たざる者や下位の者を差別してきました。その心理的源泉は、人間を虜にしてやまない「優越意識」でしょう。この意識はあまりにも人の心の奥深くに根を張っているため、日常の中では簡単には気付かないものです。それが、他の人との接触の中で不意に姿を現すことがあります。自分に自信のない人、あるいは他人との関係の中で情愛を持てない人は、何らかの目に見える形で自分の立ち位置を確保しようとします。その最も短絡的な精神構造が、自分以外の人や自分が属する集団以外の者たちを差別する結果を生み出すのです。さらに厄介なことですが、差別された人々は己の自尊心を保つために、さらに自分たちより下の者を探し出して差別しようとします。この心理が悪い方に働いて次々と差別を生み、やがて社会や組織での「階級」が生み出されていくのかもしれません。
昔を振り返ると、西洋で人権思想と共に生まれた「平等」という概念は、中世から近代へと時代が変貌を遂げる際の重要な起爆剤でした。イタリアのルネサンス(語源は「再生」)を皮切りとして、旧ロシア・中国から東欧・中南米へと波及した社会主義革命、西欧諸国の植民地支配に対する独立戦争など、世界史的な出来事の多くに「平等」思想は深く関わっているのです。しかし、現実に行き着いた先はどのようなものであったのか。それは、個人と個人のせめぎ合いと勝ち負けにこだわる世界であり、際限のない利益追求と効率一辺倒の世の中でした。平等が叫ばれた時期は、奇しくも差別や格差が激しくなる時期と重なっています。現在、米国民のあいだで格差反対の運動が盛んなのも、そうした事情によるものであることは否定できません。加えて、国際社会はいま大きく変わろうとしています。去る2016年、英国では国民投票によってEU(欧州連合)からの離脱が決まり、アメリカの大統領選挙で破天荒な実業家が勝利しました。これらの政治的な激変は、この数十年のあいだに格差の拡大が進み、不平等感による深い亀裂が走るようになった社会の現実を否応なく映し出しています。先行きへの不安と現状が変わらないことへの大衆の苛立ちは、事の是非を問わず当面の変化を強く訴求する政治に予想もしない力を与えるものです。
平等になれば他人との差別を欲し、逆に差別があれば平等を欲するのが、古今東西を問わない人間の本質です。しかし仏教には「平等即差別」という、一見すると逆説的な概念があります。本来、「差別」という言葉はわたしたちの日常感覚からすると、直ちに拒絶感の対象となりますが、仏教では「ただ単純に違いがある」という意味であり、それ以上でもそれ以下でもありません。つまり、世の中のあらゆる物は異なる姿を備えている(差別)のに対し、それを包含している自然の法則は公平に同じ(平等)ということです。ただし、この「違い」の認識に「我」(すなわち「わたし自身」)という意思が伴った時に、わたしたちが通常の感覚で捉える「差別」に転じてしまいます。それは、違いを区別として自分中心の中で選り好む心がそこに突如として現れるからです。自然界の形相を見ると、動植物の世界においてはその種類、形状、機能の違いが千差万別であり、まさに「差別」は歴然としています。人間の有様も然りです。男女や親子の違いはもとより、師弟、貧富、老幼、賢愚、美醜など、数えきれないほどの差別があります。「平等即差別」とは、そういう差別を認めながら平等であり、差別と平等はいわば貨幣の表裏に過ぎないということです。各々がそれぞれに主人公であり、存在の違いに何の不平等性も見いだすことはできないのです。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」(『学問のすゝめ』)という惹句を発したのは福澤諭吉でした。これはアメリカ合衆国の独立宣言からの引用(「われわれは、自明の真理として、万人は平等に造られ・・・」)とされています。実は、諭吉が伝えたかった真意は、その後に続く文章でした。すなわち、「されども人の世は賢き人あり、おろかな人あり、貧しき人あり、富めるもあり。人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧乏となり下人となるなり。」つまり、後段では一転して「人の世は平等ではない」と断じているのです。わたしたちは同じ人間であるのに、仕事や身分に違いが出るのはなぜなのか。同じであるのに違うのならば、その違う部分こそが、「学ぶ」と「学ばない」の差にあると説いています。この「学問」とは、いわゆる机上の勉学だけに終始するものではなく、洞察力や構想力を養うために知識と経験を重ねる努力、時代の情勢と趨勢を冷静に見通す頭のはたらきも指しています。これはすなわち、「智慧」の涵養にほかなりません。
智慧という言葉は元来、仏教の用語です。「智」とは一切の差別相(違いを見る)、「慧」とは一切の平等相(等しく見る)という意であり、両者合わせて「智慧」となります。区別あるいは平等視した内容について、両方を同じ比重で正確に判断することが、いわゆる偏見や独断から脱する最良の方法です。森羅万象の違いを見きわめ、それを等しい価値観で了解できる姿勢の有無こそが、知的な成熟度を測る指標の一つであるといえます。いつの時代でも、わたしたちには「智」と「慧」の均整のとれた精神が求められているのです。人の世も所詮は大いなる自然の営みの一部にしか過ぎません。その現実を踏まえた上で、わたしたちは平等なる命によって各々の個性のままに生きていることに自信を持ち、智慧を養い続けていくべきなのでしょう。「学ぶ」目的は、わたしたち自身が他に寄り掛かる心を捨て、それぞれの立場で自ら運命を切り拓こうという意志を持つためです。現実世界は様々な格差と差別に溢れています。特にこれからの世の中は、それが一層加速されていくに違いありません。そうであるからこそ、何が自分にとって有効な知識技能であるか、そしてそれをいかにして身につけていくかを真剣に考えるべき必要性は、諭吉の生きていた時代以降、些かも減っていないと言えます。
人は、この世に生を享けるという「機会」においては確かに平等ですが、その先は決して平等ではありません。人生航路も、ある人には順風が快適な航海を約束してくれる一方、別の人には故なき逆風が吹き荒れます。しかし世間は結果で人を判断し、評価します。人生の成否が努力のみで決まるものではないという「不都合な真実」を認めることは、わたしたちの心中で実に苦々しい限りですが、現実を否定して目を背けても仕方ないのです。自分と他人を比較して不平等感や不公平感を募らせて嘆き憤り、世の中の差別的な面ばかりに意識を向けていると、そういうものばかりが目につくようになり、ますます自分の生き方を圧迫して狭めてしまいます。
「銀椀裏に雪を盛る」という禅語の一句があります。その端的な意味は、「見分けがつかないくらい似ているが、まったく違う」ということです。銀の椀に盛った雪を遠目から眺めると白い塊のようですが、凝視するうちに似たような姿のなかにも違いが歴然と見えてきます。言うまでもなく、銀椀と白雪は互いに完全に異質の存在です。この言葉は、差別を尊重した上で平等を諒解する心情を示しています。雪も椀も渾然一体となった状態は、分別あるいは差別、つまり究極的には「比較」を絶した境地と重ねて見ることもできます。平等と思えることの中にこそ各々の違いが明白に存在し、様々な違いの中にも本質的に無差別の平等性があるのです。
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