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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

無常

 舞い散る桜の花びらや、紅葉した落ち葉を見ては、私たちはしばしば詠嘆を伴った無常を感じることがあります。しかし、自分や親しい人の老・病・死や心変わり、自分の大切なもの、失いたくないものなどの「無常」の変化は、誰しも受け入れたくないし、認めたくもありません。刻々とすべてが移ろうこの世においては、同じ瞬間というものはもはやありません。それゆえに、過ぎ去った瞬間を振り返る暇も当然になく、いかに今の瞬刻のありのままを受け入れて、過ごしていけるのかどうかが大切となります。ですから、過去の出来事について、現在に活かすための反省ということはあっても、それに対する後悔というものは無益な所業です。過去に束縛されて今の瞬間の心が苦しい状態にあるのであれば、それは無常の変化に自分の心身が追いついていないということでもあります。さらに本質的には、この世が無常でなければ私たちの存在すらも当然にありえません。すなわち、無常という中における一切の因縁正起の営みがあってこそ、この地球において生命が生存できる稀有なる状況の中で、私たち自体も奇跡的に存在してきたからです。宇宙が仮に何も変化しない定常的な状態を維持してきたならば、当然に何も変わっていかないため、地球における生命の営みはおろか、何の生滅変化もない。つまり、無常を否定することは、私たちの存在のみならず、この世の現象・存在そのものをも否定することになるのです。

 この「無常」ついて、私たちはどうしてもそれを一面だけでとらえがちです。すなわち、雪が溶けたり、紅葉や桜が散ったりといった、滅びの場面においてのみ無常感を抱きやすいということです。たしかに、もっと咲いていて欲しいのにいずれ散ってしまうのは、いうまでもなく無常なる現象です。ところが、寒々としていた木々の早春の枝先が小さな蕾を結ぶのも無常であり、花が開くのも無常です。人間で言えば、年老いるだけが無常ではなく、可愛いままでいて欲しいと願いたくなるようなあどけない幼子が成長して少年・少女となり、やがて青年になっていく、これも無常にほかなりません。楽しいことや望ましいことはいつまでも続かない反面、逆に、どれほどつらく苦しいことも、やはり永劫にそのまま残ることはなく、やがて必ず苦悩悲嘆から立ち直っていく。これも無常なるがゆえです。すべてのものは変化してやまないという真実が、無常の理なのです。そして、この諸行無常の世にありながら「いつまでも変わらない」ことにこだわりすぎる私たちの心が苦しみを生むひとつのつの大きな原因だと、釈尊は説いているのです。

 今春は、これまで経験したことのない規模の災害、事故が重なり、この先どうなってしまうのだろうかという不安は当分おさまりそうもありません。ただ、落ち着いて考えてみれば、この非常事態は切迫した緊急状況ではありますが、死の縁が無量であることは今までも、今も、これからも変わらないことに気づかされます。明日地震が来なくても、今日、急病で自分が死ぬかもしれない。放射線を浴びなくとも、車にはねられて命を落とすかも知れない。平和そうな街を歩いていても、突然通り魔に襲われ、刺されるかもしれない。そう考えれば、むしろ、今まで無事に生きてきたことのほうが不思議というべきなのかもしれません。否、生きてきた、というより、生かされてきた、という表現の方が適切でありましょう。衣食住どれをとっても、他者(人だけではない)の犠牲と支えの上に成り立っているのが「生きる」ということです。今こそ一人ひとり、これまで受けてきたさまざまな有形無形の恩を振り返ってみる必要があります。「恩」という字は原「因」を知る「心」と書きますが、これは、「なぜ自分はこんなに恵まれているのか」という問いにつながるからでしょうか。

 この世は無常である、と喝破したのは仏教の開祖、釈尊です。とはいえ、その真意を本当に理解していればこの危機的な状況も自然の営みにより引き起こされた事象として受け入れることもできる、という考え方も成り立ちますが、現実には私たちはこれを自然なこと、当たり前のこととして受けとることなど到底できません。しかし、仏教では、何事もいろいろな原因、条件によってこの一瞬一瞬に成り立っているに過ぎないと捉えます。私たちの立っている大地も、本当はいつどうなるかも分からないからこそ無常なのですが、普段はみな誰しも今までの安定した状態が続くものとして気に留めません。それが今回のように急激な大異変を伴うと、突然すべてのことが急転直下、変化したと感じる。青天の霹靂、と誰もが思ったはずです。一方では、自分の周囲を見渡すと、たしかに何事も移り変わり、常に変化しつつあります。私たちは、これも当たり前のことだと思っています。ただ、おそらくそれは頭で理解しているに過ぎない。本心では無常ということを私たちは受け入れようとはしていません。安定し、変わらずにあって欲しいものと、変化していって欲しいものとが自分にとって望ましい状態である間は、何の疑問も感じずに普段の生活を送っている。それにもかかわらず、そのいずれもが実は無常であるからこそ成り立っているということには着目しません。それらが自分にとって望ましくない方向に変化していくと、途端に無常ないしは無情だと感じるに過ぎません。

 永遠なるもの、磐石なるものを追求し、そこに美を感じ取る西洋人の姿勢に対し、日本人の多くは移ろいゆくもの、はかないものにこそ美を感じる傾向を根強く持っているとされます。「無常」あるいは「無常観」は、中世以来長い間培ってきた日本人の美意識の特徴の一つといってよいでしょう。しかし戦後このかた、私たちはいつしか「無常」を忘れてしまい、「日常」の維持に汲々とするようになりました。急激な科学技術の進歩や、通商貿易の国際化、情報通信革命なども相まって、ついこの数十年前には考えられなかったような便利な日常を手に入れた結果、情報が膨大になりすぎたことを言い訳に、どこかで人任せになり(あるいは思考停止に陥り)、これだけ科学技術が進歩したのだから、いかなる災害、事故が生じてもある程度は大丈夫だろうという日常の安全神話を盲信してきたことも否めません。今回の震災で、文明の進歩なるものが地球上においては人間の茶番にすぎないのではないかということと、科学技術が百パーセント安全な社会をつくり出す事は不可能であろうと今更ながら感じている人も多いはずです。実際、完璧に安全な技術・方策などこの世には存在しません。原子力はもとより、航空機や大規模コンビナートなどの事故がその良い例です。このような現状を鑑みるに、現代社会は多くの分野が高度(ここで言う「高度」とは高尚という意味ではなく、単に「複雑」という意味)に専門化・細分化される一方で、そこに山積する解決すべきまたは解決困難な事項については、その専門性ゆえに、一部の専門家のみが技術やシステムの不完全性を実感として密かに抱いているケースが多いと思われます。

 私たち個々人にあっても、自分だけは安心、安全だ、という思い込みは一種の「極痴」状態です。今や、この極痴を無常観によって正していくことが必要です。むしろ、私たちが持つべきなのは正常な「不安感」であり、これは注意深く生きていくための本能的かつ正常な防衛反応とみなすべきです。したがって、「不安をどうするか」という問いには、それはどうにもならない、不安は無くせないと答えざるをえないのです。私たちはしょせん、自然法則に従って生きていかねばならない存在です。私たちはこの法則のもとで努力して身を守って生きているだけであり、人間のいかなる努力も及ばない場合は、世の常であると理解して、冷静沈着な態度をとるしか術はありません。変わるものは変わる、ということ。あるいは、失われるものは失われるのです。世の常に対して、人は完全に無力であるという一点を常に忘れずに生きていくしかないのです。

 無常は、いろいろな姿をとります。自分自身の外面を観察してみても、そのことは分かるはずです。髪の毛を剃り、爪を切っても、また生えてきます。内部で微細な変化が生じ、その変化が最終的に外面的な変化となって現れる。内からの変化がなければ、外に変化が現れることはありません。また、年をとると、身体を緊密堅固に構成していたさまざまな力が弱まり、老いの兆候が随所に現れます。こうした老いの変化は私たちすべてに襲いかかる運命なのです。無常の理についてどうして考えを巡らす必要があるのかというと、私たちがいつ死ぬかわからないという現実に、無常が結びついているからです。人として生まれたならば、必ず死ぬ運命にあります。にもかかわらず、私たちはあたかも自分が死ぬことがないように振舞って生きています。明日は死ぬまい、明後日は死ぬまい、今日生きている人は明日も明後日も無事だろう、すべては恒常のままである「ふり」をして生活を送っています。私たちは皆、内心、昨日の自分がそのまま今日ある、今日の自分はそのまま明日あると思い、自分が変化していることにはあえて目を伏せたままです。それは、私たちが慣性の法則の中で生きているということにほかなりません。自分の持っている知識・価値観に従って、いったん動き出してしまえば少々の障害には立ち止まることもなく「日常」を遂行し、止まったならば今度はかなりの異変にも動くことはない。あくまでも自分の価値体系でしか物事に相対することをしない。それがどんなに危ういことであるか、今回の原発事故を通じて改めて痛いほど思い知らされました。しかし、この「慣性の法則」に流されたいのは私たち現代人に特有の性向なのではなく、実はそもそも人間の本性であると見るべきものです。

 目の前の変化に丁寧に心を留めていくことの大切さを仏教では「諸行無常」と呼び、仏教の根幹として教えてきました。そのことは逆に言えば、物事を丁寧に受け取ることがいかに難しいか、の証左です。きわめて当たり前のことですが、大震災の犠牲者・被害者一人ひとりは、単なる統計的数字の中に埋まることのない、顔と名前と生活を持っていた人々であるということ。人を数字として処理してしまわず、一人ひとりの固有のかけがいのない命があることに常に立ち帰ること、それは「慣性」に抗うことのできる感性を保持するための基本的な姿勢のはずです。ちなみに、「諸行無常」という言葉を、自分自身に沿って理解すると、「生命活動を維持し続ける自分が無効になること」を意味します。換言すれば、過去から現在へとつくり続けられる自分という同一性はもともと存在しないということです。諸行無常を考えると、「私とは何か」つまり、自分がこの世に生まれてきたことの意味への解明につながるのです。私は「自分」をどのように自覚しているか? それについては自分の記憶を辿らねばなりません。いつ生まれて、どんな育ち方をしてきたか・・・。それは部分的、断片的にしか頭に残っていません。その部分・断片をジグソーパズルのように繋いでいきながら、その集積の先に「私」を見つけようとします。まさに部分から全体を構成していくことで「私」を思い出すのです。思い出すという行為が、自分をつくることにもなっているのです。これができないと記憶が繋がらず、「私」が形成できなくなります。私たちはしばしば、ある一時期の「自分」を理想的な存在として、そのまま固定したい願望に駆られますが、そういう願いは無効、無意味であると教えてくれるのが「諸行無常」なのです。

 また、「私はどこへ向かうのか?」という問いに対する究極の答えは、言うまでもなく「死」ですが、では、「始まりは?」と考えると、それは自分の「誕生」でしょうか。否、誕生前にも私たちは存在しています---母親の胎内に。さらに遡ると、どこまで進めるか。存在が目に見えるところまで遡ると、受精卵が誕生した時点と一応考えることができます。これが科学的な見方です。仏教では、さらに考察を進めます。受精卵の前は精子と卵子の存在がある。では、私の始まりは・・・と考えれば、父母の存在があり、そしてその先は、いわゆる延々と連なる「御先祖」です。その流れの上に乗って私たちは、一日一日の経験をひとつに紡ぎながら「私」という一文字におさめ、自己を形成しているのです。「過去の自分はどんな生き方をしていたのか?」という自問によって今の自分が見えてきます。変わらない何か---その象徴は私たちにとって本来「自分そのもの」であるはずですが、「私」という存在は確固不変なものではありません。たとえば、物理化学的に言っても、今見ている花と数秒後に見ている花は同じではなく、今の自分と明日の自分は同じではありません。この事実を素直に受け入れ、自分が変化の果てに死していく存在であることを認識し、今を生きる、ということが無常の真の理解へと導き、心を平安に保つ生き方につながります。

 他方、あわせて巨視的に考えるべき点は、地震の「予知」あるいは原発の「制御」など、「想定内」の事象などというような言葉に象徴される、無常を否定してあらゆる対象をそれぞれに自在に操作することが、人間にとって可能であり、かつ意義があるという、現代科学技術の思想がもはや限界を迎えつつあるということです。この「自在に操る」という思想は、資本主義と市場経済を足場とし、科学と技術を道具にして現代文明の根幹を為してきました。しかし、資源・エネルギーの量的限界や、地球温暖化問題に見られる環境負荷の許容し難い増大化を勘案すれば、私たちは、近代以降の社会と文化の骨格たる「自在」主義に大きな穴が開いていることを認め、抜本的に見直す必要があるでしょう。つまり今後は、どの程度、自然を思いどおりにしてもよいのか、するべきか、という点に関して、困難で面倒な検討と実践が絶えず求められていくということです。これらを、無常の道理を基軸にしながら社会・経済システムの問題として捉えることは、今後の世界史的・文明史的課題となりえるでしょう。かりに今回の大震災をそういう文明史的な課題であるとみなすならば、日本人には、現代文明の「更新」を他の国々に先駆けておこなう使命と能力が与えられたのだと理解すべきなのかもしれません。

 疑いなく現下の日本はまったく予断を許さない危機に瀕しています。私たちは、現代文明が抱える根本問題を引き受け、身をもって世界中へ示しています。そのなかでも原発事故はある意味で、日本が犠牲となって人間の驕りがもたらす宿痾を広く国際社会に知らしめる役割を果たす象徴的な出来事であるといえます。天の時と人の業が重なり、文字どおり未曾有の災厄となりましたが、無常の邪鬼に魂の気を奪われつつも、今こそ私たちは動転することなく粛々と日常のつとめを果たすほかありません。今回の大震災を前にして、これまでの生き方、自然と環境、日常と非日常との関係がこれまでとは違う別な意味づけをもって我が身に迫る思いをしている人は多いはずです。それと同時に、ともすれば私たちはそれまでの社会情勢を忘れがちになりますが、世界は震災前にすでに、大きな混迷に陥っていたのです。今なお、復興という言葉に成長する経済のイメージを重ねている人が多いようですが、その路線はもうすでに限界にきていたと覚悟すべきでしょう。震災関連ニュースに覆われて世界情勢が見えにくくなっていますが、北アフリカ・アラブ諸国の反政府運動、中東地域の紛争、ヨーロッパの金融危機、中国・インドをはじめとする新興国経済の急膨張など、世界は確実に変化を迫られているのです。振り返れば、日本という国はその民主国家としての制度疲労に加え、人口減少社会、そして今回の震災がきっかけとなって原発依存のエネルギー政策の抜本的な見直しという問題も加わり、右を向いても左を向いても近未来的な課題に八方塞がりに陥り、「先進国病」の中でも超先進的ともいえる状況にあります。先述のごとく、日本はこれらすべての課題に立ち向かい、前人未到の道を先頭に立って、切り開いて行かねばならない役目を図らずも天から授けられてしまったかのようです。その重責に対処する個々人の為すべき第一歩として、この今生の一大事を深く心にかけ、「諸行無常」の道理を他人事のように思わず、我が事として受け止めていく必要があるでしょう。

 人の生死を分ける偶然は、科学的にも論理的にも、どんな因果関係でも説明できるものではありません。納得のいかない割り切れなさ、受け入れがたい事実を前にすると、人は立ちすくんでしまい、耐えることもつらくなります。しかし「無常」を曲解してしまうと、「何かあって死んだら死んだとき、どうあっても仕方ない」という諦めにつながります。これは一見すると、人生への達観であるように映りますが、そういう自暴自棄がかえって、この時代の無責任な体質を助長していることも否定しがたいといえます(類似の表現として「なるようにしかならない、何を言っても変わらない」、そんな言葉も耳にします。このような態度が、今のこの非常時にあっては無政府状態を生み出す遠因ともなりかねない)。現況において差し当たり求められるものは、科学技術万能主義への盲信から脱却した上で、森羅万象を統べる無常界のなかに私たち人間も存在しているという現実認識であると思われます。

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