人は、自分が「正しい」と確信することを追求していると、あたかも絶対に自分の考えや言動が正しいかのように錯覚してしまうだけでなく、自身の倫理観や価値観を他人に強いることさえあります。しかし人生では、正しいと信じて疑わなかったことが、そうとは限らないものだ、と改めて認識させられることが往々にして生じます。つまり、自らの偏見や誤謬に気づいた時、自分にとっての「正しさ」は単なる一つの見方でしかなかったということに思い至るのです。自分だけの価値観が普遍の正しさであると無条件に信じることは、仏教においてわたしたちが最も忌避すべき態度です。欧米流の自己主張が金科玉条のごとく求められる現代は、ある意味で、自分を是とし、他を非とする傾向が顕著な時代でもあります。そして、「自分のことは自分で決める」という近代社会の自己決定権思想は、独善的な人々が世間に増えつつあることの源泉かもしれません。
誰しも、知らず知らずのうちに自分本位にものごとを考え、他人から見たら疑問符がつくことでも頑迷な態度をとってしまうことがあります。このような精神状態を仏教では「我執」と呼び、強く戒めています。そうならないための大切な心構えが、自己観照です。「観照」とは、何ものにもとらわれず偏見のない観察であり、物事をありのままに見つめることですが、それを自分自身に振り向けるのです。「山に入る者は山を見ず」とよく言われる通り、山の本当の姿は山中にいると分かりません。一度、山から離れて、外から眺めなければ全貌がつかめないのです。それと同様に、自分のこともできるだけ外から眺める習慣を持つべきです。これは、自己を客観視するということです。しかし、実際には自分の心を外へ離して見る作業は、なかなか容易ではありません。わたしたちは基本的にどこまでも主観の呪縛から逃れられないからです。とはいえ、自分の価値観が無謬の正しさだと信じることは個人だけの問題ではなく、国家にあっては独裁主義や専制主義を生み、社会においては変革や改革を徹底否定して、硬直化した閉塞状況を招くことにもつながりかねません。
人が生きていくためには、自分で考えるだけでなく、他人の思考傾向を把握することがどうしても必要です。「この問題について他の人たちはどう考えるであろうか」と、常に考えながら行動することが特に社会人には欠かせないでしょう。所詮、自分と自分以外の思想、良心、善意、正義などのあらゆることは、「相対的」でしかないからです。相対的であることを忘れて、自分が絶対であり、それを肯定するために判断基準となる価値観を人に強要することは、まさしく横暴の極みです。自分の中の「内なる良心」あるいは「独自の善意」というものが、世間の評価を受けるに値する「正義」であると考えはじめた時点で、たちまち独善の影が色濃くなります。ただし、自分が独善的であるかどうかは、自らではどうしても分かりません。では、相手の世界から見たら間違っていることもあり得るという事態が理解できない原因は何か。それは、現状認識に自分の価値観が入り混じるからです。人は、多様な価値観を他と共有することが減ってくるにつれ、自分にとって正しく思えることばかりを優先するようになってしまいます。
わたしたちの日常においては時として、身勝手に相手を支配したくなる衝動に駆られることがあります。これは要するに、健全な意味での「自分は自分、他人は他人」と、自他を切り分けて考えられない心理が関わっています。自分がこう思っていたら、相手も絶対に同じように思っているに違いないと勝手に確信している心の持ち様であるとも言えます。その結果、相手が自分の思うように考えていないと許せないのです。これは、人が基本的に備えている利己心の範疇を超える病理性を帯びた状態であり、独善性の特徴でもあります。しかし、自分のみが正しいと思うならば、結局、他人を拒否することになります。自分の考え方だけが正義だと思えば、それに相反するものは「悪」ということになります。人が最も残酷になるのは、「自分は正しい」と思いこんだ時です。それは、正しくないとみなす者に対する徹底した非寛容となって現れるだけでなく、「正しくなければならない」という過度の要求は強迫観念に変貌し、やがては自分自身をも陰に陽に攻撃することにもなっていくでしょう。
一般に、わたしたちは他人に対するよりも自分に甘いという傾向があります。そして、自分の暗部欠点は見たくない一方で、他人の悪いところや不備な箇所にはすぐに気づくという偏りも見受けられます。あるいは、自分の行為の正しさを確信しつつ献身的に活動していると思っていればいるほど、その意義が人から理解や評価がされない場合、「自分の考え方は正しいのに、なぜ人は分かってくれないのか」という不満が生まれてくるものです。こうした独善的な心情の根底には相手への「差別」意識が見え隠れします。しかし再述するように、「正しさ」は相対的なものでしかあり得ません。それぞれに各々の信じる正しさがあり、言い分があります。視点や立場が変われば、正義と悪とはたやすく入れ替わりさえします。ちなみに、聖書に描かれた「失楽園」の物語において、アダムとイブは善悪を知る木の実(「知恵」の暗喩)を食べることによって堕落し、人間は善悪という概念を身につけてしまったとされています。その結果、自己中心的に「これは善いが、あれは悪い」、「人間は優れているが、動物は劣る」などといった小賢しい知恵(仏教では「分別知」と呼ぶ)から派生してきたのが差別の観念です。人の独善性を生む背後には、我と他をどこまでも隔ちたいという、こうした根源的な人間の本質があるものと考えられます。
今日、一つの主義あるいは主張を固守するあまり、それ以外のものはみな間違っている、という考えに陥った個人や思想集団が世界中に拡散しています。たとえば、ある環境保護団体(「グリーンピース」)が世界遺産に指定されているペルーの「ナスカの地上絵」の立入禁止区域内で環境保護を訴える運動を展開しました(2014年12月)。温暖化対策の国連会議「COP20」が同国の首都リマで始まる前に世界に向けてメッセージを出すことが狙いだったようです。当該活動家たちは、注目度の高い世界遺産を利用することで地球温暖化への警告を発信したつもりなのでしょう。しかし、目的が手段を正当化するわけではありません。いかに崇高な理念に基づいているとしても、不法侵入であることには変わりません。それ以前に、世界遺産の土地に勝手に文字を書くことは、それ自体が環境破壊です。事ほど左様に、環境保護活動に限らず、啓蒙的な運動は一定量の独善を含んでいるものです。ただ、社会運動が独善を含むのは、ある意味で仕方のないことです。なぜならば、人々の動員を志向する運動は、一面、個人的あるいは集団的な独善を公共の道徳や正義に昇華させようとする運動でもあるからです。しかし、その「独善」も善意の原動力になっているあいだは良いのですが、規模が大きくなると内部的な動機では済まなくなります。とりわけ、環境保護関連の運動が独善に陥りやすい理由は、「環境の保護維持」が万人にとっての疑わざる「善」であり、客観的あるいは科学的な観点から別の視点で異を唱えることに勇気を要するからでしょう。
独善的思考の最大の弊害は、たとえ純粋かつ善意ある動機であっても、それを客観的に検証しないまま拙速に行動してしまう点にあります。その背景には、単なる個人的な欲求や憤懣に過ぎないものをあたかも社会的な正義正論として皆が支持し固持するべきだ、という心理がはたらいています。しかし、自分の気に入らないものを一方的に社会悪と決めつける言動は、過激思想のみならず、凶悪な暴力に転じてしまう危険性を秘めています。戦争や政争、あるいはその前段にある個人間の争いは、実はそれぞれが持つ固有の正義、善意、良心などが引き起こすと考えられます。こうした争いを対話と理解で抑止しようとするならば、それぞれが互いに相手の正義を尊重するということに尽きるでしょう。ところが現実には、異なる正義は併存できないだけでなく、善意が必ずしも歓迎されるとは限りません。これが、人間同士の齟齬と紛争、やがては戦争という状態を避けられないものにしています。
物事がうまくゆかないときに、わたしたちは自らの非や拙速を棚に上げて原因を外に求めがちです。さらには、責任を他人に帰して自分を擁護しようとすることさえあります。自分の至らざる部分、正しくない箇所を正当化しようとすれば必ず外部に原因を求め、誰か他の者が悪いということにしなければならないからです。自省の念を忘れて他人や社会の粗探しを始めると、不思議なことにいくらでも見つかるものです。「人は転ぶとまず石のせいにする、石がなければ坂のせいにする、そして坂がなければ履いている靴のせいにする。人はなかなか自分のせいにはしない。」(ユダヤの格言)。「自省」とは、自分自身について振り返ることを指しますが、「自分自身をより良くしようと自身を探究すること」と表現してもよいでしょう。故意も悪意もない、幼稚で未熟な自己中心性ほど厄介なものはありません。他者や世界と自分との間に境界線を引くことができない人は、いとも簡単にそうした境界を無自覚のうちに、かつ無神経に乗り越えてしまいます。しかも、本人自身は人一倍気をつかっているつもりですから、余計に始末が悪い。周囲との意思疎通の作法あるいは技法、そして、そうしたものを支える感性や想像力が身についていない人は、俗に言う「空気を読む」ことができず、その結果として、やること為すことが独善的なものにならざるを得ないのです。本人の願望や意図とは無関係に、他者が「不在」であり、自分が唯一無二の世界に生きて傍若無人に振る舞っている状態であると言えます。そこにあるのは、自意識過剰な自己満足の孤閉した世界だけです。こうした状況から脱するには、自分の正しさだけを雄弁に主張できる「知性」よりも、己の不完全さを吟味できる「理性」が必要ということになるのでしょう。独善の弊に陥らないための内省検討は、すべからく「我執」を離れることに他なりません。自分勝手な判断は、特に我執によってもたらされることが多いものです。我執にとらわれていると、公平な判断ができず、万事において自分の都合の良いように解釈してしまいます。
人は皆、正邪の感覚を生まれつき備えています。ただ、何に対してそう思うかということは、人それぞれに異なります。自分が信じる正しさを常に貫き通していけるならば、それは疑いなく素晴らしいことです。ただ、それを人にまで押し付けることに留まらず、「人は正しさに対する別の価値観を持っている」ということを一切認めようとしない姿勢の是非が問われているのです。わたしたちは、自分が信じ、考えている通りの「正しい自分」であろうとして生きていくことしかできません。いかに自分にとって論理的に導き出した「客観的に公正である」と自負できる結論だとしても、その結論に納得しない人や反論する人は必ず存在します。自分自身にとっての「正しさ」はあくまで己にのみ適用すべきものであって、それを他人にも該当させようとすることは至難の業です。人は、間違っているから争うのではなく、独善的に正しくあろうとするから争うのです。人の世の悲しみも、人間の愚かさも、極論すればすべてこの「正しさ」ということをめぐって起こるのです。したがって、無理に人の間違いや不備(であると自分には思えること)を正そうとするのではなく、人は何事も自分自身にしか働きかけることができない、という冷厳な現実を常に忘れないようにすべきでしょう。
「独善」を引き合いに出す際、よく「唯我独尊」という言葉が使われます。これは、釈尊の誕生における「七歩の宣言」と呼ばれる伝説が由来となっています。釈尊は生まれると同時に七歩あゆみ出し、右手で天を、左手で地を指差し、「天上天下唯我独尊」と声を発したというものです。生まれたばかりの乳児が突然歩き出し、言葉を話し出すということは、現実にはあり得ないことです。そうであっても、昔から現代に至るまでこの話が語り継がれてきたということは、これが事実か否かなどとは関係なく、仏教が伝えるべき重要なメッセージがこの逸話に託されているからです。しかしながら、この「天上天下唯我独尊」という言葉は、「この世で自分だけが最も尊い」という意に通例的に誤解され、いかにも独善的で傲慢な文言であるように響きます。実はその含意は、天上天下に一人の、誰とも代替できない人間として、そのままに尊いということの「自己認識」です。一人ひとりの人間は一個の考えや感性を持った独自の存在であり、その事実に対してわたしたちは揺るぎない自信を持つだけでなく、他者の心をも等しく尊重すべきであると宣明しているのです。自己を的確に見つめる眼を持つ人は、他人の自己をも正当に評価することができます。自分を見つめる眼を持たない人、すなわち我執にとらわれた独善的な人は、他人の心をも見つめることができません。
自分の考え方や行動の方向性を「結論ありき」というかたちで捉え、「この道しかない」という姿勢を頑なに固守し続けていると、あらゆる事態を想定する上で柔軟性に欠け、視野を狭めてしまいます。そうならないためにも、自身の内なる声だけでなく、幅広く周囲の見解にも耳を傾けていく姿勢の重要性について銘記すべきことは言うまでもありません。人間関係を危うくするのも、国と国との関係を壊すのも、「自分は間違っていない、相手が間違っている」、「自分は悪くない、相手が悪い」という独善が災いしているからです。老若男女を問わず、他人から自分の過ちや間違いを指摘されて、反発あるいは自己弁護をしない人は非常に少ないものです。内心、自分の方が間違っていると分かっていてさえ、すぐに言い訳が浮かびます。これは、どれほど精神修養を積んでもなかなか解消されるものではないでしょう。しかし少なくとも、自己観照をできるだけ怠りなく意識していれば自省が促され、誰もが多かれ少なかれ抱えている自身の独善性の実相を知る契機となるはずです。
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