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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

不完全

 かつて清少納言は「枕草子」の中で、「月は満月よりも、幾分欠けているほうが風情に富む」と記し、「徒然草」の兼好法師も「螺鈿は少し剥げ落ちたところに味わいがある」と述べました。こうした不完全さの中に美や意義を見出す心のはたらきは、そのまま自分自身やまわりの世界にも広げることが可能です。考えてみれば、「完全」などというものはこの世に存在しないのかもしれません。人間も決して完璧ではなく、欠点が必ずあります。不完全なものをことごく切り捨てるならば、最終的には人間それ自体を否定することになってしまうでしょう。他方、化学上の「不完全燃焼」が有害な一酸化炭素を発生させて生体の機能を著しく損なうように、自分の人生が不完全燃焼であると一方的に思い込む人は、当人だけでなく周囲の人も蝕んでいきます。仏教では、こうした鬱屈に満ちた人生を「空過」の生、すなわち空しく生死を流転する生として、人間の最も痛ましい在り方であるとしてきました。人はなぜ人生に苦しむのか。それは、この世の中も自分自身も随所に不完全であるにもかかわらず、どうしても完全な状態を願い、頭に思い浮かべてしまうからです。結果として、「完全」を理想としつつも「不完全」に覆われている現実に日々出会わざるを得ず、その懸隔に煩悶するのです。

 では一体、「完全」とはどういうことを指すのでしょうか。どうなれば完全と言えるのか。たとえば、数学の幾何における「線」を取り上げてみます。線とは点と点を結ぶ幅のない図形ですが、そのようなものは現実の世界には存在しません。ペンや筆で書いた線には、どれほど細くしていっても必ず一定の幅(太さ)があるからです。しかし、人間の脳は「太さをもたない線」というものを想定することに些かの違和感もおぼえません。わたしたちの脳は、現実にはありえない物事や概念を容易に想像することができるからです。「完全な人間」というものも、疑いなくそうした架空の産物のひとつに入るでしょう。すべての面において完全(あるいは完璧)な人間など、この世の中に誰一人として存在しないことは子供にもわかります。

 その不完全な「わたし」が、自分の人生を十分に納得できるものに導いていくには何が必要なのか。その第一歩は当然ながら、自分は決して完璧ではなく、不完全な人間であるということを率直に認めた上で、「等身大」の自分に立ち戻ることでしょう。仏教には「煩悩即菩提」という、一見すると煩悩と菩提が同値であるかの如き難解な語句があります。ここで示された「煩悩」とは人間の欲望や拘泥のことですが、わたしたちのあらゆる苦しみの源でもあります。これに対して「菩提」は、叡智あるいは悟り、または「現実への気づき」と呼べるものです。したがってその含意は、人間は所詮、煩悩から逃れられぬという現実を観念し、煩悩をあるがままの姿として捉え、そこに悟りを見い出だそうとする考えです。つまり、自分の「不完全性」から目を逸らすのではなく、余すところなく気づくということであり、自分がいかなる人間なのかを知り、その上でありのままの自分を拡大縮小せずにとらえることが肝要です。

 言うまでもなく、わたしたちは一人ひとり個性を持ち、皆それぞれに異なる状況あるいは環境の中で生きています。生まれつき障害を背負っている人もいれば、身体のみならず知能にも恵まれた人もいます。現実はまさに、差異と不公平が横溢する過酷な世界であり、そのことが我が身の不完全性をさらに強く感じさせる結果となります。しかし大切なのは、現に移ろい行く人生という「過程」それ自体に、不完全な(あるいは未完成な)自分という存在を全投入することではないでしょうか。換言すれば、未完了の仕事をいくつも抱えて生きる----これが現実のわたしたちの人生です。自らの生涯を振り返ったときに抱く無念な気持ちはすべて、自分なりの完全を目指す向上心から生じたものですが、その大志自体はなんら否定すべきではありません。ただ、「完全」へのあまりにも強い憧憬は、往々にして当人の能力を超えた願望を抱かせしめ、徒労を招きかねない危険性があります。人間の存在価値は、各々が有する難点の度合いや範囲は千差万別であるにしても、人間がその不完全さを少しでも克服しようと努力する時点で、それぞれはみな等しい価値を持つのです。

 一般に人は、万事に手際が優れ才能に秀でた自信家よりも、どこかに欠点を持ち、自分に劣等感を抱えている人物のほうに親しみをおぼえるものです。茶器の類でも、非の打ちどころの無い完璧な形をした器より、手作りの少し形の崩れた物の方に慧眼の士は風流を感じ、さらにはそこに人生の情趣さえ見出します。人は精神の成熟度に呼応して、不完全や未完成の味わい深さを実感することができるようになるのでしょう。そうは言いつつ、わたしたちは頻繁に何かに躓き、失敗し、あるいは出すまいと思っても愚かな事に手を出してしまい、至らぬ我が身に対して後悔の念に苛まれることが一再ではありません。また、昨日と今日で考えることも、口にすることも、行動も変わることはごく当たり前です。ひとりの人間の中でも相矛盾した考えを抱き、行動をとるのであれば、そうした人々が膨大に集う社会の不完全さは目を覆うばかりです。残念ながらわたしたちは、自身の不完全さを自覚しない限り、自分が他者の寛容と支えによって生きてこられたということに気づきません。そして逆に、完全性は自分に求めることはおろか、他人に求めることもできないものです。不器用に生きている自分というものを直視すれば、人それぞれに足りないもの、欠けている部分が個性となり、その人らしさになっているという事実に思いが至るようになります。完璧ではないからこそ得手、不得手が生まれます。わたしたちの人生には、より完璧でありたいと思うが故の懸命な生き方と、自分の人生や人間性の不完全さを虚心に認めて受け入れるという生き方の両輪が常に存在する、ということを忘れてはならないでしょう。

 人は自身の人生における様々な取り組みの顛末を回顧した際、達成できたことよりも、達成が叶わなかったことの方が強烈な印象となって鮮明に覚えているものです。どのような事であれ、成功体験は人の生きがいを高める大きな動因ですが、「あと一歩」の思いも、果てしない追求への推進力になり得ます。その顕著な例の一つは、スポーツにおけるオリンピックや世界選手権大会での銀メダリストと銅メダリストの自己認識の違いにあらわれているようです。概して、銅メダリストはメダルの授与されない4位を免れて比較的満足することが多いのに対し、金メダルに手が届かなかった銀メダリストは未達への強烈な不満を感じ、その悔しさがあるからこそ次の大会を目標にするという選手の話をよく耳にします。わたしたちが「あと一歩」に駆り立てられる理由は、自分が念願していた状況に手が届きそうだという切迫感が強い支えとなって、今度こそ年来からの願望の達成に本腰を入れよう、という熱意を湧き起こさせるからです。人が成長するのは、何かを成し遂げた時ばかりではありません。「あと一歩」の生み出し方は人生にどう影響するのでしょう。わたしたちは自分の限界と闘った時に大きく成長することを知っています。だからこそ、「未完成」の思いがわたしたちの人生に生きる意欲を継続して与えるのです。

 良くも悪くもこの世は完璧ではあり得ず、必ずどこかに一部の欠けを伴い成立しています。したがって、一部が足りない状態こそが現実的な意味での「調和」であり、絶妙な均衡を実現しているのです。人はどれだけ優秀であったとしても、必ず自分より上回る存在を思い知らされ、どこまでいっても満足できません。もうすでに人よりも何かを十分持っていたとしても、なお足りないと感じてしまいます。他方、完全・完璧を目指していかに奮迅の努力をしたとしても、100%の成果を得ることは至難の業です。しかし、誰もが日々の生活で不平、不満、欠点に向き合っている以上、何らかの不足が見つかるということは、むしろそこに発展進歩の余地があるともみなせます。生活環境や能力の「不完全」状態を宿命的な悪運などと悲観せず、自分を磨く契機に転じさせることはできないものでしょうか。人間そのものは言うにおよばず、人生の総体についても、むしろ不完全を包み込んだ状態こそが本来の自然な姿であるのかもしれません。

 この世の道理を通観すると、完成されたものは建物であれ組織であれ、後は時間の経過とともに摩耗崩壊の一途をたどるのみですが、未完なるものはそうした宿命とは無縁です。常に完成に向かっているということは、絶えず改善修復がなされていることと同義です。ちなみに、壮麗華美を誇り、外面的にはこれ以上の手を加えようがないほど完成されていると映る日光の陽明門には「逆柱」というものがいくつかあり、しばしば巷間の話題になってきました。これらの逆柱は、彫刻の模様の向きが他の柱と逆になっているそうです。通説では、「建造物はすべて完成した瞬間から崩壊が始まるので、あえて逆手にとって一部を未完成のままにした」とされています。この逆柱の思想は、ある意味で「未完成主義」と言えるものです。陽明門の例だけでなく、昔は家を建てる際、縁起担ぎの気持ちを兼ねて意図的に「瓦三枚残す」風習などがあったとも伝えられています。これらはすべて、形あるものは必ず滅びる、という仏教の「諸行無常」を強く念頭に置いた考え方でもあります。まさに「満つれば欠くる世の習い」であり、頂点を極めた以降はやがて間違いなく衰退に至るのです。陽明門の逆柱が象徴するように、往古の日本人は完璧なものには魔が潜むと考え、未完成な部分を残すことで厄難を逃れようと願ったのでしょう。これは、現代のわたしたち自身にも通じるものがあります。自分を不完全で未完成な人間だと思うからこそ、常に自身のさまざまな能力を高めようとするだけでなく、発展途上であるとの自覚が謙虚さと自制心を生み出し、ひいては他者と相補い合おうとする気持ちにまで及ぶからです。

 物事には正と負、善と悪、黒と白といった一刀両断の部分だけでなく、明瞭にそうした区別が付かない部分があります。たとえば、黒から白に階調が変化していくあいだには、灰色の領域が必ず存在します。この領域は上述の論旨に沿って考えると、完全と不完全の中間地帯に属するということになります。「完全」という固定観念を徐々に取り除いていくと、やがて実相としての「不完全」な状態が至るところに見出されてきます。世の中のあらゆる現象は、無数の要因や要素が複雑に絡み合い、絶えず消長を繰り返しています。生命そのものも、不完全性や特異性があることで膨大な種類の生物が生まれました。こうした生命の根本を貫いている原理は、柔軟性と発展性です。決して完全かつ完成された機能の集積ではありません。たとえば、生き物が「歩く」という動作をおこなうには、数多くの筋肉が一定の組み合わせで収縮と弛緩を繰り返さなければなりません。しかもその組み合わせは状況に応じて千変万化します。大脳から発せられる「歩行」の指令によって、なぜ筋肉が組み合わせを自在に変えながら運動できるのか。生物は複雑な環境変化の中で行動して生命を維持することを運命づけられている以上、初めて遭遇する不測の事態にも対応する能力が必要です。すなわち、あらかじめ完全な状態を規定しておくことがまったく不可能な環境の中で生き残るには、生物自身もまた「完璧な生体」ではなく、環境の変化に対応する柔軟性を備えていなければならないことを意味しています。また、生物にとって「安定性」は必要な条件ですが、一方で、安定した状態がそのまま固定化されると、新しい環境の変化に対応する柔軟性を失ってしまい、最悪の場合、生存の危機に直面しかねません。そのため、生物はいったん安定した状態を自ら不安定にして、環境から新しい情報を取り入れるような機能が備わっていると考えられています。この臨機応変さこそが、わたしたち人間を含め、動植物の柔軟な形成や修復を可能にしているのです。しかし、このような生物の特徴あるいは性質がいかなる進化の仕組みに基づくのか、まだほとんど明らかにされていません。

 生物は、自らの生息する環境や生き方によって、最適な形質を進化によって獲得してきました。学術的な意味での「進化」というのは「高次元の生き物に変化する」というのではなく、単に「環境へ対応した形態を持つ」ということだと見たほうがよいでしょう。特殊な環境に対応するために余計な機能を捨てて単純な生命になるのも、さまざまな環境に対応可能な多くの機能を持ち複雑な生命になるのも、どちらも「進化」のあり方です。そして環境適応の結果、以前の状態や形態からの断絶が生じます。その断絶や進化を生じさせる背景のひとつに、「不完全な伝達」という現象があります。これは生物の遺伝を考えた場合、不完全な伝達であるが故に、その生物種が存続のために様々な試行錯誤を迫られることになります。しかし同時に、偶然のはたらきも相まって新たな形質を備えるということでもあります。不完全に遺伝情報が伝わるという逆境を、むしろ「種」の保存への強靭さに転じ得た生物だけが外部の激変にも対応可能となったのです。人間の場合も同様に、心身の不完全さは必ずしも負の要素ばかりではありません。その分、環境から情報を取り込み新しい自分につくり直していく余地が大きく、柔軟性が豊かであるともいえます。わたしたちは自我が芽生えはじめる頃から脳のなかに自家製の世界地図を築きあげていきます。この自家製の地図は、それぞれの人生観と言い換えてもよいかもしれません。あらかじめ規定しておくことが不可能な白紙部分が広ければそれだけ世界地図は多彩になり、自らが新たに加えるべき領域が多くなります。畢竟、不完全で自由な空間が広く、外からの情報を受け入れやすいという融通性を心の内奥に抱えていることが、人の精神の発展を後押しする原動力なのです。

 人生は、計算通りに行かないことの方が圧倒的に多いものです。むしろそうであるならば、「自分が思い描いたようには人も社会も動いていない」と達観するに尽きます。結局、世間のあらゆる仕組みを知り尽くしている人間は皆無である以上、誰もが不完全でありながら互いに折り合いをつけて生きているということになります。問題はその現実を了知し、受け入れられるか、という点です。自分の尊さに目覚めることは非常に大事ですが、それはあくまで自身の不完全さを認めることが前提として付随していなければならないものでしょう。

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