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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

不条理

 日常においては、「納得がいかない」ことが時として起こります。この「納得がいかない」こととは何でしょうか。わたしたちは、合理的に物事を理解できるように幼少時から教育を受けてきており、様々な事柄について、「こうだからこうなったのだ」、あるいは「こうすればこうなるだろう」と因果関係に基づいて捉えるよう習慣づけられています。たとえば、空に向かって投げ上げたボールがやがて地面に落ちてくるのは、万有引力の法則が働くからであり、海が青く見えるのは、青色以外の光が海水に吸収されて青色の光だけが反射されて目に入るからです。このように、原因がわかればその現象に対して納得がいきます。しかし、原因と結果の整合がつかないときは、誰しも納得がいきません。その深刻な事例としては、自分が何万人に一人しか罹らないような難病を患った場合などがあげられます。なぜ自分なのか、どうしても納得がいきません。一定の確率で起こることであるにせよ、なぜそれが他人ではなく自分なのか、頭では分かっていても心では到底納得できないのです。そのような時にどうして、自因自果だ、などと涼しい顔をしていられるでしょうか。つまり、「納得がいかない」というのは、言い換えれば「不条理」を感じるということにほかなりません。

 この不条理の苦悩から逃れるために、人間は太古から種々の工夫をしてきました。その努力の一環が宗教の始原であったと言えます。昔の人は、理由の見出し得ない不幸や災難を、前世の因縁あるいは先祖霊の祟りなどで説明して自らを納得させようとしました。とはいえ、このような「因果応報」説によって偶然の支配や不条理から逃れようとする試みも、無情な現実の前には為す術もありません。その際、人は天に向かってこう問い質すしかないでしょう。「一体、どうして自分がこんな目に遭わなくてはいけないのか」と。しかし仏教の考え方によれば、「生きる」ということそれ自体が不条理を経験することでもあり、結局、そうした不条理な現象を解明するのではなく、各個人がどう受け止めるかという問題に帰着するのです。歴史上、人類は戦争、飢餓、貧困、災害、疫病、圧政、侵略など多様多岐にわたる理不尽に苦しみ、膨大な数の無辜の民の命が失われてきました。現代においても、依然としてその本質的な状況は変わりません。それは、あたかも円周率の計算に終わりがないように、理不尽あるいは不合理の原因の追究に終着点はなく、その問いの答えは永遠に見出せないのです。

 では、人は運命的な不条理にどう処すべきなのか。正直一途に生きていた人が無念な最期を迎え、逆に陰に陽に悪事に手を染めてきた人が長寿繁栄を謳歌して一生を終える、という結末が往々にしてあり得ることもこの世の中です。そう考えると、どうしてもわたしたちは、この「不平等で理不尽な世界」に対して不条理な気持ちを募らせずにはいられません。また、人はある日ふとした折りに、それまで関心や興味を持っていた物事が俄かに意味を失い、人生あるいはこの世に不条理を感じて「心に穴があく」という経験をすることがあります。ただ大抵の場合、一度心に穴があいても、時の経過がその穴をやがて塞いでくれるでしょう。そして新たな人生上の張り、すなわち生きがいを得て、再び人生の意味を再構築していきます。しかし、その穴がいつまで経っても塞がれなければ、日常は無意味な世界でしかなくなり、何のために生きているのかわからなくなる。しかし、この不条理性は単に世界や自分の人生が意味を失っていくときに限るものではありません。物事が自分の思うままにならず、自分自身では理解ができないようなものに左右されているという意識に心が抵抗する状態こそ、不条理の感覚であると考えられます。

 こうした不条理感の多くは、実は相対比較によって生じます。つまり何かが自分の観念と「相容れない」から不条理なのであって、この世に単独で不条理なものは存在しません。近年横行する狂信的なイスラム過激組織による自爆テロや人質殺害なども、その闘争が正当だと考える人間に対しては、いくらそのような行為が不条理の極みであると責めてもまったく通用しません。わたしたちが戦争や虐殺を不条理とみなすのは、そういうものが本来あってはならないと信じているからであり、逆に、それが世の常であると信じて不条理を感じない人間も世の中には数多くいることも残念ながら否定できません。不条理の実体は、「ままならぬがこの世の常」ということです。これはまさに、「思うとおりにならないこと」として仏教が説く「苦」です。人が生きている限り、たしかに不条理なことが数多く起こります。それと同時に、わたしたち自身も気づかぬうちに周囲に対して不条理なことを起こしているはずです。それもやはり、生きている限り「思うままにならないこと」なのです。

 先の東日本大震災で亡くなった多くの人々や、今も困難な状況に耐えなければならない方々について、いかなる必然性があって生命あるいは人生を奪われなくてはならなかったのか、納得のいく答えを見出すことは誰にもできません。単に海底プレートに蓄積された膨大なエネルギーが一挙瞬時に解放され、その結果、一帯の地盤上に住む人たちが大震災に遭ったのだと考えれば、地学的な理屈の上では決して「不条理」な現象ではありません。しかし、この世を支配するのが原因結果の法則であり、善因が善果をもたらし、悪因が悪果を生むのであれば、誠実に生きていたはずの人たちが、なぜこのような災害に遭わなければならなかったのか。たしかに、この世は不幸さえも学ぶために存在する、と肯定的に解釈することもできます。しかし仮にそうであるにせよ、やはり長く生きて多彩豊穣な人生経験を享受することの方が断じて望ましいはずであり、若くして、あるいは志半ばで命を落とすことの意味を理解することは困難です。他方、不条理な出来事に対して怒りや不満を抱き、暴力あるいは犯罪的行為に向かうのであれば、やはり同じくこの「不条理」というものには人生上の意味が絶無です。

 「神の創り賜うたこの世界が、なぜこのように不条理なのか」とは、あるロシア人作家(ドストエフスキー)の嘆息であり、彼の終生の執筆テーマでした。心清き人の苦しみが贖われることなく、邪悪な人々の快楽が罰せられることもない。この世界はそれほど無慈悲なものなのか。これは結局、「無常」ということの本質につながるものです。仏教の「無常」は一般に、「この現象世界のすべてのものは生滅して、とどまることなく常に変移しているということ」を指します。しかし、無常をただ「移り変わること」に重点を置くのであれば、あえて強調するほどのことではありません。むしろ無常の真意は、「因縁にしたがって移り変わる」ということにあるのです。「因縁」とは、現代風に言えば「物理法則」のことであり、そこには絶対的な超越者の差配など一切ありません。もし因縁そのものを超越者と見るならば、その超越的存在はわたしたちの意志など省みる慈悲を持ち合わせているような存在ではないということになります。この世界はわたしたちの感情や願望などを些かも斟酌せずに堅牢無比な歯車の如く回り続ける、というのが無常の本質であるとみるべきです。無常は、決して詠嘆的な「もののあはれ」を意味する言葉ではないのです。この世にはわたしたちの思いや願いを保障担保してくれる何ものもない、という冷厳な事実です。さらに仏教では、この現実世界を「末法濁世」と呼び、この「濁世」の「濁」というものが、他ならないこの「わたし」の身の現実の上に現われているという考え方を採ります。そして、現実の苦悩は他の誰かの所為なのではなく、誰でもないこの「わたし」がその不条理を引き受けねばならないという自覚が、仏教の「末法」という思想に込められているのです。わたしたちは、たしかに理不尽で不条理な悲しみや苦しみが次々に襲いかかってくるこの世界に生きていかざるを得ません。しかし、その悲しみや苦しみにはもともと理由や意味はなく、あくまで確率論的な偶然の所産であると達観し、原因探索に貴重な日月を費やすべきではないと、仏教は教えているのです。

 人は常に何らかの劣等感や懊悩をその人生に抱え込んで生きていますが、その困苦の原因の多くは、何処から出来するのかといくら考えても、あるいは追究しても仕方のないことばかりです。それは、わたしたちが願う「条理」の世界と、実際の世界のあり方はほとんど無関係だからです。その典型が、人間は決して平等に生まれてくるわけではないという現実でしょう。一人ひとりが持つ資質も、生きていく環境もそれぞれ異なり、同じ資質さえも環境が変われば評価は変わります。不条理を人間の側が肯定しようとしまいと、不条理は否応なく存在します。むしろ不条理が先に存在するのではなく、わたしたちの「条理への願い」から外れた物事を、わたしたちが一方的に「不条理」と呼んでいるだけなのかもしれません。したがって、「生きる」とは常に耐え難い不条理感を抱えながら生存することだという認識に基づき、自分の人生にどのような意味を持たせたいかということについて、自身の創造力と意思力を最大限に発揮していく気構えが求められるのです。

 不条理が厳然として在る以上、自分自身と世界との相克は避けられません。そうであるならば、変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの心の落ち着きを得ることが先決です。次に、変えることのできるものについては、それを変えるだけの勇気を得ること。そして、変えることのできるものと、できないものとを見分ける判断力を得ることが肝要でしょう。不公平も不条理も、この世から消え去ることは決してありません。消えて無くならないものにいつまでも固執しても無益至極です。況や、運命・宿命についてまで原因を求めるとすれば、やがて超自然的なものに傾倒せざるを得なくなってしまいます。何とかして自分の身に起こった悲劇を納得したい、という焦慮。そこには、運命に対して無抵抗であり、理由の分からない不条理をただ受け入れるしかない人間存在に対する痛切な嘆きがあります。この世の森羅万象には「理由」など始めからないのです。したがって、自身の人生に意味を見いだすのは自分しかいません。自分が自分だけの「意味」をつくり出すのです。

 わたしたちは毎日様々な出来事に遭遇し、ほとんど意識せずに心の持ち方を通じて、どう考え、どう行動するかを決めています。その連続が人生を形成している以上、心の持ち方はその人が抱く人生観と価値観によって決まります。したがって、わが身に纏わるすべての出来事に対しても、自分自身でそこになんらかの意味をそれぞれに感じ取るという姿勢が求められます。つまり、たとえそれがいかに不条理であっても、その出来事を通じて天地自然が何かを伝えようとしている、と考えれば、自分の身に起きる出来事に無駄なことは何一つなく、嫌なことも苦痛に思うことも甘受できるようになるかもしれません。事実、なんらかの好ましくない出来事に遭遇した際に、その忌避したいと思っていた出来事ほど、貴重な教訓を含んでいたということが後日往々にして了察されるものです。「運命」は天の配剤ではありますが、ただその素材を与えられただけであって、自らつくり得るものであると見定めることが不条理な世の中を生き抜く原動力となるでしょう。人間は運命を自ら切り開くからこそ存在理由があり、そこから主体性や創造性が生まれるのです。たとえ理不尽なことであっても、その起きた事実を虚心に受け入れ、その上でどう対処すべきかを考えることが建設的な生き方と言えます。「生きてよし、死んでよし」の心の持ち方を大切にして、残された可能性の限界を見極めるのです。

 仏教は、世界を世界たらしめ、自分を自分たらしめている現状に対して、自分の心を信順させる合理的かつ実践的な教えです。つまり、周囲や世界の事象を自分の心に合わせるのではなく、あらゆる事象に自分の心を合わせることを目指すのです。人生の不幸に際して感じる不条理は、ある意味で「負」の不条理です。生きていると辛く悲しいことがあり、なぜ自分はこうまで不運なのかと、「苦」ばかりを取り上げて嘆きがちです。しかし物事には左右、裏表、苦楽など数えきれないほど「背中合わせ」の状態があります。わたしたちは不運だけをことさら強調しがちですが、幸運の数も同じほどあったはずです。つまり、視点を変えてみれば、わたしたちの存在にはもう一つ別の不条理、恵みの不条理、すなわち「正」の不条理によっても支えられているのです。自然は、わたしたちの側にそれを受ける理由も何もないのに、この世での命を与えています。わたしたちの存在自体が天地自然の恩恵によるものであることを知るとき、人生の諸々の不条理は、やはりそれも人知を超えた大いなる力の計らいであるとしか考えざるを得ないでしょう。

 一個の人間として、避けられない運命とそれが引き起こすあらゆる苦しみを受任するということは、究極において人間の内面は外的な運命よりも強靭であると証明することです。動植物の中には、極寒の冬を経なければ十分に成長できなかったり、豊かに実を結べなかったりするものがたくさんあります。人間にも同じことが当てはまるかもしれません。むろん、不条理で過酷な苦しみの人生が自動的にその人を偉大崇高な人物に変えるわけではありません。むしろ、その試練の重圧につぶされていく人たちも少なくないでしょう。しかし、誰であろうと、苦難を生きて耐え通せば、そうでなければ得られなかったものを大なり小なり必ず身に付けることができるはずです。それは、不条理な人生の現実に対してわたしたちはいかに生きていくべきかという、根本的な意味での「智慧」の問題です。人生には残念ながら、善行を積めば良い報いが与えられ、悪行を重ねれば災いが起こるというような条理はありません。不条理は合理的に説明できるものではないのです。しかし人間の本当の生の意味は、そもそも合理性の中にはないのではないか。機械の仕組みは「合理」の典型ですが、機械の部品は代替可能だからこそ部品であり得ます。部品を入れ替えることで、その機械は修繕復元できるからです。しかし人間の生は代替不可能です。それは個別唯一のものであり、そこにこそ人間の掛け替えのなさも、したがって尊厳もあるのです。

 不条理の中に生きていることが人間的であり、合理的ではないという意味で、ある種の破綻を当初からそなえている状態が「人間的」であることの本質ではないのでしょうか。人生にはなんらかの試練が本来的に組み込まれており、その試練への対応を通して自分の人生の「意味」が開示されていきます。したがって、試練に「意味」を見出せるか否かが、生きる上での大きな鍵となり得ます。人生はたしかに試練の連続であり、その中には人が対応し得る力を遥かに超えたものもあります。そこには、「悪」の存在という倫理の根源に関わる疑問を含め、人生の不確実性、人間としての存在価値など、さまざまな問題が複雑にからんでいます。また、わたしたちは、自身の選択の余地なく特定の父母から生まれ、その遺伝子を受け継ぎ、精神的および肉体的形質、家庭環境を与えられて成長していきますが、「なぜわたしを生んだのか」と父母に問えば、「なぜお前がわたしたちから生まれたのか」という答えしか返ってこないでしょう。問いは、さらに広がります。ある人は富裕な家庭に生まれ、ある人はそうではなく、ある人は健康で生まれ、ある人はそうではない・・・。なぜこの世は公平でないのか、と考え出せば、慨嘆の念が終生ついてまわるしかありません。

 第二次世界大戦下におけるナチスドイツのアウシュビッツ強制収容所でのユダヤ人市民の壮絶無残な最後や、盲・聾・唖という三重苦の障害を抱えて生まれたヘレン・ケラーの生涯を一望したとき、限界状況あるいは希望が失われた日常の中で人はどのようにして生きてゆくべきなのか、ということを痛切に考えさせられます。「人生に起こる様々な出来事が、どうしたら納得いくものになるだろうか。」結局、この問いこそが、わたしたちの心の根底に常に流れているものでしょう。しかし、どのような宿命的な状況に対しても自分の態度を選ぶ自由はあり、これが人生を意味あるものに変える契機となります。いかなる外部の力といえども、自身の態度を決する自由、すなわち自分で変えることができない状況に対してどう向き合うかという心の「自由」を奪うことはできません。人はそれぞれ肩幅がみな違うように、異なった運命と重荷を背負っています。そうであるならば、人生の不条理にどう答えるかを考えるのではなく、内面の自由を見出すにはどうすべきかを思案すべきです。そこに、当人独自の「問い」があり、その人にしか出せない「答え」があるからです。


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