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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

疑と信

 一般に「常識」とは、多くの人々が共有する思考や行動の型を指しますが、常識に従って行動することは、一つひとつの局面ごとにあらゆる事情を勘案して判断することに比べれば、はるかに至便です。それ故、わたしたちはたいてい常識に則って行動します。しかし、常識が常に正しいとは限りません。中には、事実に反することや、人の自由を縛ることなども含まれています。不合理であるにも拘らず、権力や権威に誘導されて信じ込まされているといった事例も多々あります。また、かつては合理的であっても、時代や状況が変化したために適合しなくなるということもあるでしょう。その結果、たとえ理屈に合わない内容でも、人々から疑われない常識はそのまま社会に残存してしまいます。したがって、誤った常識を覆すためには、まずその常識を疑ってみることが出発点となります。

 それでは、常識など世間に流布する「当たり前」のことを疑う力は、どのようにして身につけることができるのでしょうか。「疑えるものならば、一度はすべて疑ってみよ」、そう唱えたのは近世の西洋哲学者でした。しかし、森羅万象のすべてを疑うことなど到底できるはずもなく、おそらく疑うだけで一生が終わってしまいます。ですから、まず何よりも、疑わなければならない常識や固定観念を嗅ぎ取る直感と、その疑いを論理と証拠によって確かめる過程が必要です。実際、様々なものを疑ってみると、従前まで当然のことと思われていた事物も非常に怪しくなってきます。それは、いわゆる世の中の裏が見えてくるということに他なりません。疑問を持たずして、世の中の仕組みや実相を知ることはむずかしいともいえます。ただし、疑うこと、すなわち懐疑は「否定」とは同じではありません。最初から否定することを目的にして疑うべきでないのは当然です。たとえば裁判においても、頭から犯人と決め付けるような予断を持っていると、無罪の証拠が見えなくなる危険性があるばかりか、冤罪という最悪の結果さえ招きかねません。

 また、「疑うこと」はたしかに重要ですが、厄介な副作用もあります。それは言うまでもなく、人も何も信じられなくなってしまう精神状態に陥ることです。本来、何でも最初から疑ってかかるべきではなく、疑いが晴れた時点で信じてもよいはずです。ところが疑心の気持ちが昂じると、ある段階から何事においても自分との間に一定の距離を置こうとする傾向が顕著になり始めます。人間関係を例にとれば、誰しも、人を疑うのは気分の悪いものです。人と気持ち良く付き合いたいのであれば、相手を疑うより信じる方が良いに決まっています。ところがその人の一部でも疑いはじめると、それができなくなります。では、疑う気持ちを抱きながらも、なおかつ信じるということは果たして可能なのか。

 現実をみると、当たり前を常に疑うことの大切さを自覚しながらも、わたしたちの生活は常識の範囲内に収束して暮らしている感があります。常識という輪から外れた者はどうしても異端視されがちです。しかし元々、学問上の新たな研究成果や理論創造などは、「すべては疑い得る」という懐疑の精神から生み出されてきました。問いを立てるところから、思考は始まります。思考停止に陥ることほど、恐いことはありません。次々と押し寄せてくる情報を鵜呑みにし、物事の本質を見失ってしまうかもしれないからです。他方、疑いの根拠が薄弱であるならば、その疑い自体も脆弱なものにしかなりません。そうであるとすると、きわめて逆説的になりますが、常識にとらわれず疑うためには、自分が強く依拠できるものを持つこと、つまり何かを信じることが必要だということになります。何かを信じながら何かを疑う、しかしその後、今度は信じていたものを疑って、新たな別のものを信じる。疑と信を繰り返しながら、常に自ら常識や情報の真偽を問い続けていくことが、とりわけ現代社会において大事でしょう。

 何かを疑う場合、たしかな事例がないと確証できません。さらに、何かを実証するためには、その現象を仔細に観察し、一定の条件で現象を再現(実験)して客観的に示す必要があります。「懐疑」は、自然科学の発達に大きな役割を果たしてきました。ちなみにそのユニークな例の一つが、現在では胃癌や胃潰瘍の主な原因とされているピロリ菌の発見です。従来、「胃の中の強い酸性ではいかなる細菌も生存できない」ということが医学界の常識でした。しかし発見者は自らピロリ菌を飲み込んで胃炎状態を人為的に再現し、この常識を覆したのです(この発見者と同僚は2005年にノーベル医学生理学賞を受賞)。自然科学は、あくまでも物事を疑い、多くの人によって追証され、確かめられた後に初めて一定の「事実」となります。しかし、その事実でさえ、後世の人が覆す例が数多くあります。

 常識あるいは定説や権威を疑うことは、いわば「智慧」のはたらきの一つといってよいでしょう。仏教ではこの智慧を非常に重視し、何かを信じてみたいと思うのなら、それについて「疑え」と説きます。信じるためにこそ、あるいは確かめるためにこそ、懐疑心は大いに推奨されるのです。懐疑的態度あるいは批判的精神は、まさに仏教の本旨に適うものです。仏教の開祖である釈尊は、自分が口にしたどれほど明瞭至極な見解にさえそれに固執してはならない、と弟子たちを戒め、あらゆる教説や構想を絶えず疑い、吟味すべきであると諭しました。いかに素晴らしい教えや思想であっても、それはあくまで暫定的な真理にすぎず、新たな真理が見出されて不要になれば惜しげもなく捨て去るべきなのです。人は時に、迷い疲れて、何かを無条件に信じたいと思う気持ちになることがありますが、結局は迷いの上塗りに終わってしまい、むしろ懊悩が深まるものです。したがって、自分の頭で納得できない物事は受け入れないことです。つまり、正しく「信じる」ためには、自らの感性と知性に背くことなく、盲目的に「信じてはいけない」ということになります。

 では仏教において、「信じる」とはどのような意味を持つのでしょうか。仏教は人生苦を乗り越えて生きるための教えであり、自分に内在する理性の力を信じる宗教です。たとえば「正しい行い」といっても、それを本当に正しい目や心で正しく判断できるかどうかも、必ず誰の目から見ても論理的に明らかだとは限らず、自らの理性を信じるほかはありません。ただし、現実や世界共通の道理に反する教えを指針にして従うのは、真の意味で「信じる」ことにはなり得ません。また、何らかの救済、利益、願望の成就などの見返りを求める信仰という意味での「信」ならば、それは適切とはいえないでしょう。求めるものが何であれ、信仰の先に自己の欲望の充足を求めるなら、何を信じても---たとえ鰯の頭でも---同じことです。それは所詮、信仰を通して何かを得たいという「自我」の発露であることには何の変わりもないのです。

 現代社会では膨大な量の情報が日々生産され、その中には、相手を騙し、陥れることを目的とした情報も多数含まれています。しかも匿名性が高いため、有害な情報の発信者が罰せられる可能性は低く、容易に淘汰されません。結果として、「振り込め詐欺」のような事件がますます跋扈している状況であることは周知のとおりです。本来、お互いを信じ合える社会が願わしいことであるのは、子供でも分かります。しかし現実には、「本当に信じていいのだろうか」、「何か裏はないのだろうか」、「ほかの視点から見たらどうだろうか」などと、頭の片隅で一度は疑ってみるべき時代にわたしたちは生きているのです。世界中の人々がインターネットで結ばれ、多種多様な情報で溢れる今、懐疑精神を養う必要性はますます高まっています。

 現代人が重視する合理主義とは、「世の中は合理的に動いているはずだ」という信仰に過ぎません。わたしたちの周囲は、その内部がどうなっているのか、どういう仕組みで動いているのか想像もつかない機械や商品だらけです。人々は自分の頭で確かめることができず、ただ信じるしかありません。航空力学の知識がない人(ほとんどの人がそうでしょう)でも、平気な顔をして飛行機に乗っています。科学と技術を信頼あるいは信奉しない限り、そういうことはできません。その意味で、人類史上、現代人ほど「信心」深い者たちが集っている時代はないともいえます。しかし、この科学技術信仰が皮肉なことに、公害、薬害、温暖化など様々な社会問題を生み出す遠因の一つとなっているのです。気象予報や緊急地震速報が外れると人々は気象庁を批判しますが、これも科学を過度に信じていることの現れです。今後も科学技術は発展を続け、産業や生活に与える影響はますます増大していくでしょう。そして身のまわりの物は一般市民の理解をさらに超えたものとなっていきます。それゆえ、科学や技術を盲信しない姿勢も一層大切になるのです。

 ただし忘れてならない点は、懐疑精神の必要性は自分自身にも当てはまるということです。概してわたしたちは、自分の考えについては、疑いもしないで正当であると思い込んでいるものです。基本的にこういう心の姿勢がある限り、自分の考え方や生き方に問題があって、その結果、自分も他人も苦しめている可能性が存在することに関して反省や改善ができないのは、当たり前かもしれません。実はわたしたちは平生、ある物事に対して信じるか否かをその都度、理性よりも好悪の感情で選んでいます。自らにとって喜ばしいことは受け入れ、そうでないこと、受け入れがたいことは拒む。外部の情報と自身の願望の合体、これがわたしたちにとっての「信じる」ということの本質です。

 他方、その「信じる」心のはたらきが人間自身を苦難に追いやることもしばしばです。戦争や内乱、果ては個人的な諍いを含め、すべての争いごとは「我を信じる」者同士の闘いです。その意味でも、何事もまずは「疑ってみる」こと、無批判に盲信しないことが肝要であることは論を俟ちません。そして常に、違う観点や反対意見を耳に入れる機会をつくることに留意すべきでしょう。ただ、そうした客観的、中立的な立場をとり続けるのは至難の業です。だからこそ、意識的にいま自分が信じていること、当たり前と思っていることを時々は見直すべきなのです。玉石混交の情報が入り乱れる現代ですが、もちろん世の中に情報が溢れていること自体は、悪いことではありません。少なくとも情報が制限・統制されている社会より、はるかに正常です。判断の材料が多ければ多いほど、より多様な視点から物事を見られるからです。

 豊富な情報を時宜適切に活用し得る意識や能力は、盲目的な肯定などの「信」によってではなく、現状否定などの「疑」によって育まれるものです。中世ヨーロッパにおいて、民衆の多くは神の御心に従ってさえいれば万事無難という生き方が趨勢でした。しかし実情は、生活も一向に良くならないばかりか、封建社会の身分格差も解消されない。この閉塞状況を打破するべく、それまでのすべての固定観念や既成概念を疑い、ギリシアやローマの古典古代に生きた人々のような自由奔放な人間性を復興させようという気運が一部の知識人のあいだからいつしか芽生えてきました。この人間復興が文芸復興へと発展し、やがて世界史に名高い「ルネサンス」と呼ばれる時代を迎え、健全な懐疑主義を基本とした近代への扉が開くに至りました。日常生活において何もかもすべて疑って生きるというのは、非常に勇気のいることです。しかし実は、「疑うからこそ、信じることができる」のではないか。疑い続けて、確信を得る。そこで、はじめて信じることができるのです。「智慧」というのは知識の問題ではありません。学習して知識を詰め込むのではなく、一つの事柄を自分自身で徹頭徹尾疑い、吟味し、納得した上で確信を持つことが「智慧」ということの本質です。

 「虹は何色か」と問われれば、反射的にほとんどの人は「7色」と答えるでしょう。しかし、「虹は7色」ということを学んでいない子供であれば、自分が見て感じたままの色を描きます。虹の色は、太陽光が空気中の微小な雨粒のプリズム効果によってさまざまに屈折することで生じ、多彩きわまる色調から成り立っています。科学的には虹の色は連続した色の変化であり、画然と区別することはできません。したがって、世の中の常識や固定観念に縛られずに虹について考えてみると、この「7色」というのは、社会の決まりごととして区分されたものであるということがわかります。国によっては6色(たとえばイギリス)、あるいはそれ以下の場合もあります。つまり、実際に自分の目で確かめずに「虹は7色」であると思うのは、社会の常識にとらわれていることの証です。ここでの核心は、虹が実際は何色から構成されているかということではなく、知ってしまったことに対して関心が薄れていくことであり、「もう新しい情報はそこに何もない」と思ってしまうことに対する危機意識であろうと思われます。

 いわゆる「歴史」についても、歴史とは、「現代から見た過去」に人が意味づけをして編集したものです。編集者あるいは執筆者の立場によって、史実の内容が大きく変わってしまうことが往々にしてあり得ます。このように考えると、本に書かれた歴史が必ずしも真実とは限りません。活字になっているからといってそのまま信じるのではなく、「歴史は過去に関する一つの解釈に過ぎない」と受け取るべきでしょう。人は大人になって知識がつけばつくほど、常識や固定観念、既成概念にとらわれて物事の本質を見る目を曇らせてしまいます。無論、社会の秩序としての常識は必要です。しかし、「常識」を墨守する時点で精神の成長が止まってしまいます。常識や固定観念を疑って、他人や社会通念と少し異なる目線で物事をとらえる---情報過多の時代にあって「自分を見失わない」ためには、そういう視点を持ち続けることが大切です。その意味で、現代においては信疑の平衡を取ることがかつてないほど大切でありながら、実行は非常に難しい。「人は、自分が信じたいと思うものだけを信じるものだ」とは古諺の一つです。現代人がいくら情報化社会に首まで漬かっていても、情報の真贋を見抜けるかどうかは別問題だということがよくわかります。人心を荒廃させ、惑わせる有害な情報が横行闊歩するネット社会は、わたしたちの生活が便利になったことの代償として、情報量の増大がそのまま判断力の向上に結びつくものではない事実を突きつけています。情報化社会には人心を狂わす危険性が内包されている、ということが十分に重要視されるべき時代にわたしたちは生きているのです。

 結局、「信じること」と「疑うこと」は一見相反するように思えますが、実は表裏一体の関係にあります。これを仏教では、信疑一如(信じることと疑うことは一つの如し)と表現します。「自ら確かめ、判断することの自由」を標榜していることは、他のどの宗教にも見出すことのできない、まさに仏教が誇るべき特色です。そこには、見当、推論、推測を排し、可能性や願望を判断の基準にしない、という姿勢が込められています。本来、人間の力の根源は何かを強く「信ずること」ですが、再度付言しなければならないのは、信じるという行為が、時として盲信あるいは狂信に変じてしまうという真実です。実に、「疑う心」を欠いた「信じる心」は人に偉業を可能ならしめることもできる反面、悪業に走らせることもできる両刃の剣であるといえます。


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