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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

罪悪感

 罪という意識はどのように形づくられるのか、また罰という概念はどうやって誕生したのか。これは、罪と罰はどちらが先に生まれたのか、という問いにもつながります。果たして人は、自分が罰を受けると意識した時点で罪を感じるようになるのでしょうか。あるいはその逆なのか。罪の意識が生じる状態を考えた場合、通常であれば、自分自身が「してはいけないこと」であると承知していることを行った段階でこれを感じます。そこに罰が伴うか否かは、実はあまり関係ありません。この「してはいけないこと」は日々の生活環境を通して記憶され、意識の中に潜在的に埋め込まれているものです。つまり、わたしたちが考える「してはいけないこと」、すなわち「罪なこと」は人や社会によって植えつけられたものであるといえます。しかし、法律や掟で罪と定められていることであっても、自分がそれを罪と認識しなければ犯してしまうこともあります。反面、特に罪とはみなされていなくても、なんらかの思いや振る舞いで罪を感じてしまうことも多々あるでしょう。これはいわゆる良心あるいは道徳心に由来し、本稿の主題である「罪悪感」と呼ばれるものです。

 人は、育った環境によっては、差別することに何ら疑問をおぼえず、自分と同等とみなす人間へは罪の意識を感じますが、同等とはみなさない人間に対してはそれを感じない人がいます。罪悪感を伴わない「いじめ」などは、こうしたケースから生まれるものです。その一方でわたしたちには、罪悪感、あるいは罰を受けているという感覚を自ら必要とする場合があります。人の心の奥底には、あえて罰を受けているという自虐的な感覚によって自分の「存在」を確かめたいという、屈折した願望もあるからです。自分という人間はこの世で唯一ひとりであり、特別のかけがえのない存在であると人から認めて欲しいのです。世間から認知されたいというこの欲求があるからこそ、わたしたちは懸命に勉強をしたり、仕事に勤しむともいえます。しかし残念ながら、「自分は特別である」という感覚は社会生活の中で絶えず脅かされています。世の中には、どれだけ努力しても自分より優れた人間は必ず存在し、自分の手がけている仕事などはしょせん誰にでも代替される程度のものなのではないかといった不安な気持ちが、自分は特別だと思った瞬間に湧き出てきます。それでも、「特別な自分」を証明してくれる「何か」をわたしたちは無意識のうちに求めています。普通は、青年期を経て成人するにつれ、自分がこの世で特別であるのと同じように、ほかの一人ひとりも皆それぞれ特別であるという現実を認識して、精神的なバランスをはかるようになってきますが、時として「自分が自分であること」にこだわり続けていくと、不可避的に「自分をほかの人間から区別して成り立たせているものは何なのか」という疑問から逃れられなくなってしまいます。その結果、周囲や社会の関心を惹こうとするあまり、あえて反道徳的な行動に走り、その結果「罪」を犯して「罰」を受けることを厭わないといった事例は、人間心理の発達上きわめて普遍的にみられる現象です。こうした、いわゆる自傷行為としての「罪」は、他人への行為としてはたらきかける通常の罪ではありません。自分自身が定めて下す「罪」と「罰」であるといってよいでしょう。

 常日頃から、わたしたちは罪悪感というものに振り回されています。罪悪感とは、自身の考え方や行為などに関して否定的かつ排他的な気持ちをもつことです。さらには、「その場の空気」などに代表される漠然とした気分や、個人の価値観に基づく「美学」などに反することでも罪悪感を抱く場合があります。罪悪感は誰にも潜在する基本的な感情であるため、わたしたちの行動や態度に大きな影響を及ぼしています。人生観または生活上の悩みをもたらす原因の多くには罪悪感がかかわっており、自己嫌悪に陥り、自分への精神的あるいは肉体的な攻撃が生まれることすらあります。わざわざ自分を痛めつけ、自虐的に自分を幸せな心境から遠ざけようとするのです。しかしこうした自己攻撃も度を越えると、やがてその矛先は他者へ向かうようになります。誰彼なく人を非難するだけにとどまらず、政治が悪い、社会が悪い、会社や学校が悪い、と口癖のように周囲の一切を悪く言うような人の場合、これは自己否定の鬱屈した思いが、周りの人や社会・組織に投影されたものと考えられます。近年頻発する児童虐待も、親自身の罪悪感という面から説明することが可能です。本来、わが子を虐待したいと思う親はいません。ですから、子どもに手を上げてしまった瞬間に「親として最低なことをしてしまった」という罪悪感が芽生えます。そして自分を「親失格」と責めるようになりますが、それを子どもに投影してしまうと自分を攻撃するようにして子どもを攻撃してしまいます。その結果、罪悪感がいっそう募り、自己攻撃が激しくなり、その分だけ子どもへの虐待も止まらなくなる、という悪循環につながっていく。このように罪悪感は、さらなる罪悪感を積み重ねてますます自分を苦しいところに追い詰めるという負の連鎖をもたらすことがひとつの特徴です。

 今次の大震災では、災地で被害に遭わなかった住民や非被災地域の人々の間に一種の罪悪感に似た感情を持つ人が増えているという報道もありました。その心理を端的に表現するならば、「辛い思いをしている人がいるのに、自分は安穏と生きていてよいのだろうか」という思いに尽きるでしょう。それを他人の苦しみへの共感であると解釈する向きもありますが、むしろ、他人の苦しみを他人事としてしか捉えられないことへの「後ろめたさ」が根底にあるものと考えられます。他方で、こうした「後ろめたさ」の感情とまったく無縁の人は、「自分は何も悪くない」、「自分こそが被害者だ」と信じることに何の疑いがありません。そういう人間は「自分こそが一番の被害者」という認識の持ち主ですから、「自分が人に与えている害」、つまり「加害者としての自分」というものを考えません。とはいえ、周りをよく見渡せば、人と人とのトラブルのほとんどが実は被害者意識のぶつかり合いだといえます。それは、「自分の方が、より多くの被害を被っているのだ」ということを互いに認めさせるための「不毛」な闘いです。その意味で、世の中は被害者だらけです。多かれ少なかれ私たちは「自分こそは不運な被害者である」と自らを慰めることによって、罪悪感から逃れようとしているのかもしれません。

 しかし、そもそも罪悪感を感じることに怖れを抱く必要があるのでしょうか。むしろ、罪悪感には現実の罪悪を抑えるはたらきがあるという側面も注目すべきです。この世に、心に一点の曇りもない純粋な人間など存在しません。「自分は完璧に心の清らかな人間なのだ」と信じ、罪悪感をまったく感じていない人こそが、その思い込みを否定されたときに、心が暴走してブレーキが効かなくなってしまうのです。生まれてから一度も他人を傷つけずに生きてきた人がひとりでもいるか、と問われれば答えは否でしょう。他人とかかわるということは、互いにとって喜びであると同時に、ときには迷惑でもあり、負担でもあります。皆、意図せずとも他人の権利を何がしか侵しながら生きています。大げさに言えば、生きていること自体が「罪つくり」であるともいえます。それでもわたしたち人間は、許しを乞いながら、他人とかかわり合って生きていくしかないのです。

 広く思想的な視野で見ると、キリスト教文化の西洋では行動の規範に神の戒律があり、それに反すると強い罪悪感を人々にもたらします。彼らの心の中心には常に神がいるのです。これはいわば「罪の文化」と呼び得るものです。翻って日本では、神の存在に対する意識は希薄で、むしろ強く意識するのは世間の目です。絶えず他人の目を意識しないわけにはいかない。怖いのは神や仏ではなく、他人の目であり、他人の口です。他人に笑われたくない、あるいは恥をかきたくない、といった感情が日本人の行動を規定してきたといってよいでしょう。つまり、倫理道徳的に正しいかどうかで行動を決めるのではなく、世間がそれをどう思うかによって自分の行動を決める傾向が見られます。これはまさしく「恥の文化」です。この心性は、外国人に対しても向けられます。日本人ほど、外国人が自国のことをどう思っているかに高い関心を寄せる国民はあまりいません。どれだけ外国で評価されるかについて、日本人は異常なほど敏感です。また恥の文化では、罪を告白しても心は軽くならず、むしろ自身の悪い行いが世間に知れない限り、心の中で悩むことは少ない。わが国では、自分や家族の幸せを神仏に祈願することはあっても、自身の贖罪にかかわる儀礼行為はほとんどありません。こうした文化には、功罪相半ばするところがあります。「功」の面では、人前では恥をかきたくないという意識から、義理を重んじ、人情を大切にする気風が生まれます。さらには名誉を尊び、ときには大義のために一命を擲つというような、高潔な行動となって人々の称賛の的になります。「恥」を示す日本語は非常に独特で、恥ずかしさに結びついた言葉、たとえば「居心地が悪い」、「格好がつかない」などの繊細な心理を表す表現は、外国語に翻訳するのがきわめて困難です。一方では「罪」の側面も当然あります。世間の目を恥じるということは、世間の見方が変われば自分の恥の感じ方も変わるということになります。それは柔軟な生き方といえば言えますが、一面では狡い、功利的な生き方につながるということもできます。

 日本人の「正義」は理念や行為の正しさに重点が置かれていますが、西洋人における「正義」では、法を守る、公平を期するということが重視され、罪を犯した者は相応の報いを受けなければならないと考えられています。旧約聖書には「目には目を、歯に歯を」という記述がありますが、ここに西洋的な正義感の原型を見ることができます。他方、日本人は「和」を大切にする民族です。いわば「出る杭は打たれる」社会で成り立っています。ですから、ほかの人と違った生き方に抵抗を持つ人が多い。「好きなことをして生きる」という道に罪悪感を持つ傾向があるのも、日本人ならではの感情です。西洋では、自分の願望について積極的に生きることは美徳であり、当たり前だと思っています。西洋人は、「これが自分の生きる道」という言葉を好みます。片や、我慢や忍耐を美徳とする日本人が「好きなことをして生きる」という言葉を口にすると、「それほど世間はあまくない」という否定的で冷たい言葉が返ってきます。和を尊しとする国民にとって、その集団から抜けだして、一人で幸せになろうとしている人を妬ましく思う感情がそこに存在しているのでしょう。

 では、わたしたちが日常において罪悪感をおぼえるのはどのような場合でしょうか。むろん、法的あるいは道徳的に悪い事をしてしまった状況であることが大半ですが、何がその人にとって悪事となるかは、人それぞれに異なります。よく見られるケースとしては、何かの誘惑に負けてしまった、自分だけ何か不正に得をした、為すべき事をしなかった、怠けてしまった、などでしょう。こうして罪悪感が生じると、誰しも人知れず慙愧の念に苛まれます。「罪悪感」は時として、その要因となっている悪癖や悪習からの絶縁をはかるべく生活習慣を良い方向へ変える原動力にもなり得ますが、その気持ちが肥大してしまうと問題です。罪悪感を抱きやすくさせる素地は、当人の性格自体や幼少時の体験など幾つかの要因が考えられます。何事にも正確無比を求める完璧主義の人は、物事が中途半端になると後悔や罪悪感を感じてしまいがちです。他人に喜んでもらいたい気持ちが強い人は、相手の誘いを断る時に罪悪感を覚えやすいものです。また、幼年期に親兄弟や周囲から罪悪感を植えつけられるような言動に接した人は、成人後もその体験に類似した状況に遭遇することで罪悪感を感じるなど、終生にわたって尾を引くことがあります。さらに、罪悪感がその罪と釣り合いが取れないほど本人の心を苦しめている場合は、その事を誰にも話さず、心の内に長いあいだ秘めていることが多い。こうして罪の意識が増幅すると、行動にも歪みが生じやすくなります。その結果、頑な態度や行動を取り、対人関係に支障をきたすようになります。

 しかし、生まれてからほとんど罪悪感を抱いた経験がなく、道義的に許されざることをしたり他人を傷つけても悪びれずに平然としている人というのは、いうまでもなく自己中心的で、社会的には迷惑千万な存在です。本当に自分が間違っていたと反省し、自分を改めたいと思うならば、罪悪感は自分を成長させる起爆剤となります。自分に誇りをもち、胸を張って生きようと思うからこそ、そうではない状態の自分自身に恥ずかしさを感じるのです。健全な罪悪感は、自分自身を正しく評価しようとする心、そして向上したいという欲求から生まれます。罪悪感は、自分の中の最も大切な部分、つまり成長飛躍を欲している部分を端的に気づかせてくれるものであるといえます。それゆえ罪悪感によって意欲を失ったり、自己嫌悪に陥ってしまうのであれば、それは真の罪悪感ではない。偽りの罪悪感は、謙虚さの発露ではなく、傷つくことから自分を守るための逃げ口上であると同時に、他人から自分の価値を否定された際に、相手にも自分にも言い訳をするための逃避行為に過ぎません。罪悪感を通して自分で自分を責めるのは、他人から責められるよりも、はるかにつらく苦しいことです。しかし、行動の基準が他人の行動に追随的な人ほど、良心の呵責よりも他人からの非難を避けることに重点が置かれてしまいがちです。とりわけ道徳が乱れている世相のもとでは、「ほかの人もやってることだから、自分がやってどこが悪い」という正当化を行う傾向が強くなります。こうして、良心の呵責から免れ、かりそめに心の安静を保とうとしているのです。

 私たちは、生きていく過程でさまざまな体験をします。そうした中でも幼児期や成長期の体験は、何歳になろうとも人の心のはたらきの大きな部分を占めるものです。特に自分の行為や心を無意識的に支配するような重要な体験は、後々まで意識の中に「内なる幼児」として存在し続けます。つまり、自分の中にいつまでも子供時代の自分が居すわり続けているのです。たとえば、父母や周囲の大人たちから何気なく投げかけられた言葉が、子どもの心に甚大な影響を与えることもあります。通常わたしたちは、幼い時代に傷つき、悲しみ、つらさを味わったような出来事について、それらを心の深くに押し込んで忘れようとします。しかしそれは決して脳裏から消え去ることはなく、無意識の中で負力となって自分の行為や心を支配していきます。これは、まさに心の「抑圧」にほかなりません。たとえば学童時代に「話すこと」への恥辱を経験すると、発話への抑圧になり、やがて吃音や対人恐怖症を引き起こす遠因ともなるでしょう。心の底に話すことへの不安の種が常にあり、それがある時期に心身的な異常として芽を出すのです。また、自分を責める罪悪感(後ろめたさ)が何らかのかたちで心深くに横たわっている場合があります。人は、法の裁きが無くとも自分の犯した間違いを心に深く刻み込みます。自分の良心が間違いを許さず、それを罪悪感として残すからです。その心の内奥に潜む罪を償おうとして、自分自身に苦しみ(自己処罰)を与えるのです。

 罪悪感というのは、別の言い方をすれば、「善くあらねばならない」ということへの引け目です。善い人間でなければならないのに、そうではないから「悪い」と感じてしまう。では、どうして善くあらねばならないのか。善い悪いの基準はどこにあるのか。そもそも善悪というのは相対的な概念であり、一枚の貨幣の裏表のようなものです。それは時と場所によって簡単に反転します。また見る角度によって、善にも悪にもなり得ます。つまり自分は善いと思っていることでも、違う人から見れば悪いことかもしれません。この世に絶対的な善悪など存在しません。したがって、善いも悪いも等しく自分の中に抱えることによって、はじめて心の均衡が保たれるようになります。しかし心というものは、自分で自覚できる「意識」の部分と、決して意識することのできない「無意識」の部分で成り立っています。意識は別名「自我」とも称され、この自我には「防衛」機能が備わっています。自我が壊れてしまいそうな緊張や脅威にさらされると、この機能がはたらいて無意識下に押し込めてしまう。こうして抑圧されたものは、逆にその圧力によって意識の上に押し戻そうとする。その結果、意識と無意識のせめぎ合いが起こります。これがいわゆる「葛藤」と呼ばれるものの正体でしょう。人は意識の上では極力、自分の身辺で展開する物事や生じた事象を「言葉」に置き換えて理解しようとしますが、心のはたらきというものは、すべて言語化できるものではありません。無意識の領域内に抑圧された屈辱感、不快感、劣等感など幼少期から現今にいたるまで貯めこまれた負の感情は、意識が防衛機能をはたらかせて、できるだけ言語化されないようにさらに圧力をかけて心の奥深くに閉じ込めようとします。そうしないと自我が崩壊する危険性があるからです。その結果、無意識のものが当人の意思に反してやむをえず心の表面に表れるような際には、形を変えて、つまり歪んだ思念や行動となって出てこなければなりません。それが罪悪感の本質の一部であると考えられます。

 仏教では「罪」の入る文字の例として、罪業、罪障、罪根、罪垢、過罪などが用いられます。罪を障「さわり」、垢「あか」、過「あやまち」などとみなしているように、仏教においては罪は人間にとって本来的なものでなく、不可避的に外から加わった付加物であると考えます。人間の心は本質的に清浄なものであるという仏教の理念は、このような立場を示したものです。これは、決して罪が人間にとって生来のものでない以上、なんらかの方法を講ずることによって、それを取り除くことが可能であることを意味しています。そして罪があくまで内面的に受けとめられる以上、罰もまた内面的な良心の呵責という性格をもちます。そこでは、罰による罪の相殺は成立しません。したがって仏教でとらえる「罪」は、それがいわば外来的であることと同時に、完全に「自律的」であるという点に注意すべきです。他人が迷惑したり、道義的に芳ばしくないことでも法に触れなければ正しいとする「他律的」な道徳生活は、真に人間の正しい生き方とはいえません。仏教的には、心の中でなんらかの罪悪感を抱いた時点ですでにわたしたちは罰を受けているとされます。しかし仏教の罪悪感というものは、特別に「罪悪」ということに主眼を置くのではなく、自責感あるいは後悔を、当人にとって害にも益にもなり得る心のはたらきとして見ます。

 常識的には誰しも、悪事をはたらいたり、良心の呵責に結びつくようなことをすれば罪悪感を持つものです。その罪悪感がやがて心の棘となり、時として祟りや天罰を恐れる心にすら転じることもあります。心にささった棘は、早く抜かなければなりません。仏の教えによれば、知らず知らず罪をつくってしまう人間だからこそ、そのたびに罪過を精算していかなくてはならないのです。罪をつくらないように萎縮しながら生きるのではなく、悪いことをしたと思ったその時点で精算することが最善であることは言うまでもありません。罪悪感の芽生えはその精算作業の第一歩です。実は日常の生活において、自責の念あるいは罪悪感よりも、いわゆる「無力感」の方が圧倒的に辛いはずです。「自分のせいだ」、「自分が悪い」という自責の念や罪悪感には、「自分の努力次第によっては事態を救うことができたのに、そうしなかった」という、自分は本当は事態を変える力があったのだ、それを為さなかっただけだ、という自己の力への信頼が根底にあります。「自分のせいだ」は、「自分には本当は力がある」の意味が逆説的に含まれているからです。つまり罪悪感は、「無力感」という、より痛切な挫折の苦しみから我が身を守るために自身で無意識に選び取っている「罰」かもしれないのです。いわば、自分は無力ではない、自分が奮闘しさえすれば事態は変えることができたはずだという、自負心を失わないための防衛作用です。

 もし「罪悪感」という感情が存在しなかったとしたら、「自分に何一つ罪がないのなら、なぜこれほど辛い目に遭わなければならないのか」という決して答えの得られない問いに延々と苛まれることになるでしょう。その結果、不条理に対する怒りと葛藤を生じることになり、それは今まで信じてきた人間関係、社会全体への信頼も崩壊させます。そして、何もできなかった自分の「無力さ」を痛感することで、人生への絶望を抱くことにもなりかねません。したがって、「罪悪感」は自分の力への信頼感を内に秘めていることの表れであり、それを肯定的にとらえて今後の前向きな行動につながる源とすべきでしょう。

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