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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

俗信の壁

 昔の人々は日の吉凶や方角の良し悪しに対して非常に敏感でした。病気を治すのに祈祷を用い、幸運を願って占いをおこなうなど、実にさまざまな俗信が広く社会に流布していました。他方、現代社会に生きるわたしたちはそういった俗信にどう対処しているでしょうか。やはりいまだに、星占いや血液型判断に一喜一憂する人々が多く存在しているようです。

 俗信の特徴は、「こういうことだから、こうである」という因果関係(原因と結果のつながり)が成り立たないところにあります。たとえば、人相術や手相術を考えてみます。これらは、今から数千年前に古代インドで発祥したといわれています。たしかに、わたしたちの肉体と精神は一体ですから、心に大きな悩みや心配事があれば如実に肉体の各部位にあらわれます。本人の生活信条や性格なども、長い間には外見の姿や形に反映されるものです。したがって、人相や手相から人の性格や健康状態をある程度推測することは、それほど非合理ではありません。しかしながら、将来を見通せる、というのは誤りです。したがって自分の未来を占い師に問うことよりも、現在の自分が将来の幸福のために正しい徳行を積んでいるかどうかを考えることの方が先決でしょう。


 また家相や墓相についても、その因果関係や科学的根拠は皆無です。いわんや今日のように住宅事情が思うようにならない状況下で、台所はどの方角に作ってはいけないとか、手洗所はどの位置、玄関はどの向きが望ましいなどと指示を受けたところで、それらの条件をすべて満たすことは不可能です。むしろ、現状を無視して家相あるいは墓相をとやかくいうこと自体がおかしなことなのです。たしかに新しい家を建てる場合、その地形や方角、通気性など、生活用途に応じた構造を考えなくてはなりません。しかしこれは設計上当然であり、あらためて家相をもちだすまでもないことです。


 暦の中に大安とか仏滅などの文字をよく見かけますが、これも六曜(先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口)という一種の占いです。古代中国で時刻の吉凶占いとして使われていたものが、室町時代の末期、日本に伝えられ、その後次第に手を加えられて、江戸時代中期に現在のような形になったといわれます。たとえば、葬式を友引に行うことは友を引くからといってこれを嫌い、婚礼などの祝いごとは仏滅をさけて大安を選ぶという例はあまりにも有名です。しかし友引は本来、先勝と先負の間にあって「相打ちともに引きて勝負なし」を意味しました。つまり、単なる語呂合わせにすぎません。仏滅も、物滅(ぶつめつ)からきており、仏教とはまったく関係ないのです。


 守護霊信仰も牢固として現代に残っています。守護霊をないがしろにしたり、先祖の浄霊をしないから、わが身や家庭に災いが起こるのだなどという説がその代表例です。しかしわたしたちは、過去や未来の出来事、いわんや死後の世界について実体験を通して明らかにすることはできません。霊能者がいかに不可思議な霊の話をしても、それは因果の法則を無視した想像の産物です。仏教の上からみれば、彼らが説くような、その人の運命を支配する守護霊などという存在はあり得ないのです。


 さらに血液型に関する話題について言えば、血液型判断をもって人生の根本指針を決定したり、他人の性格や長短を頭から決め込んだりすることもやはり迷信の類であるといわざるをえません。逆に、本人の意思ではどうしようもない血液型で人を分類したり、価値付けすることは差別に通じる危険性すらあります。人間はすべてそれぞれ独自の因縁をもって生まれてきています。血液型にしても自らの過去の業を因とし、各々の両親という縁によって決まります。その性格も、血液型だけではなく、育った環境や教育、その人の生きてきた過程などのあらゆる縁によって異なってきます。同じ血液型でありながら正反対の性格の人があったりするのは、これらの縁や過去からの業などによるものといえましょう。


 そして俗信の最たるものに、丙午信仰が挙げられます。丙午とは中国における「十干」と「十二支」を組み合わせた暦記号の一つで、60年ごとに巡ってきます。これに、丙と午も「火気」に当たるという中国の万物組成論「五行説」が結びついて、丙午生まれの女性を差別する迷信に発展していきました。1906年(明治39年)の丙午では出生数の対前年度減少率は4%足らずに過ぎなかったのが、1966年(昭和41年)には27%となっています。教育がはるかに進んだはずの昭和期においてむしろ、丙午迷信の影響が広がったことになります。その原因の一つには、医療の発達で人工中絶がしやすくなったことがあるでしょう。しかしそれだけではなく、明治期には存在しなかったテレビや女性週刊誌などが丙午の存在を煽りたて、それを多くの人が気にするようになったものと考えられます。俗信や偏見は無知だから囚われるというより、生半可な知識を持ったためにかえって囚われやすいものなのです。まさに、わたしたちや次代への警鐘であるといえます。

 俗信の例をいくつか紹介しましたが、俗信は結局、「洗脳」の問題と深くかかわっています。理性のみに頼って俗信をまったく無視するような人ほど、実は別な意味で洗脳されやすいので、余計に注意が必要です。そういう人は感情と理性の非常に脆い均衡の上で生きているからです。いわゆる「高学歴者」と呼ばれていた人たちが破壊的カルト教団に入って罪を犯した事実は忘れてはならないでしょう。人の心に芽ばえたある種の宗教感情が狂信に変貌する過程を知らないと、俗信はどんな場にも入り込みます。素朴な俗信はまだ害が少なくて済みますが、理性が狂気に変じた俗信は人を大量殺戮するに至ることがあり、実際、西洋の宗教はこの轍を何度も踏んでいます。


 そこで、俗信と正信を見分ける心の目を持つことが特に現代において大事となってきます。俗信や迷信、あるいは社会で喧伝されている流行思想に接した場合、「その本当の意図はどこにあるのか」と疑い問いただす姿勢が、物事の真実相をキャッチするいわば「受信機」となります。これを仏教では「菩提心」と呼びます。どんな物事にも相応の歴史が存在し、いま目の前に展開している有様についても、そこに潜む経緯をたずねてゆくことが真実に至る道となります。すなわち、「最初の原因はどこにあるのか」、「その原因の展開に何がかかわっているのか」、そして「現在の結果が最初の原因にかなっているのか否か」という探究精神が基本であり、この精神こそがわたしたちにとって何よりも求められます。


 問う心を忘れてしまえば、理性的な精神が廃れていくのは必定です。精神が廃れれば、言葉や事柄に対して各自が勝手な解釈をするようになり、次第に真意が曖昧模糊となって隠されてしまいます。問う姿勢を失えば、わたしたちは煩悩や社会の毒に容易に染まってしまうのです。こうなれば無数の俗信がはびこってゆき、俗信的な解釈に対して万が一組織的な支配思想が加わるようなことにでもなれば、理性的な人々をも洗脳する結果となります。したがって、社会の俗信性を打破するためには、わたしたち自身が主体的に考え、判断する姿勢が必須となります。これは前述の「問い続ける」姿勢にもつながるのですが、仏教思想の根本である「自灯明、法灯明(自らを灯火とし、真理を灯火とせよ)」の原則が無くなれば、健全な信心は朽ち果てて邪な信仰に堕することになります。


 主体性のない「信仰」は自分以外の何ものかに盲目的に従うことであり、「信心」とは自らが主体となって立ち上がった姿をいいます。前者には「問い」がなく、後者には「問い」があります。古今東西において、なぜ宗教が時として和や平等を妨げるのか。これについては、結局のところ批判精神の有無がその分かれ道となるのです。俗信や偏見、あるいは固定観念が一人歩きし、歴史や伝統に組み込まれてまことしやかに語られるようになると、もう誰も簡単にはその流れを止めることはできません。もし人々の中から菩提心が消失してしまえば、仏教はむろんのこと、あらゆる宗教が名ばかりの抜け殻になってしまい、異臭紛々とした邪教に陥ってしまうでしょう。


 現代も幅をきかせている多くの俗信は、「昔から続いている」というその一点だけを拠り所にして、改めて「なぜ」と問われることなく当然のものとして考えられてきました。そういう状況は、俗信に縛られて自分を狭い枠に入れ、狭い生き方をしていることにほかなりません。さらには、自分だけならまだしも、誰もがやっているからと横並びの意識をつくりあげ、同調しない者を嫌悪し、そして排除していく。その差別の過程をしっかり目を開けて認識しておかねばなりません。概して、日の良し悪しにこだわる人は、人の良し悪しまで執拗に言うものです。多くの俗信があたかも常識であるかのごとくに社会の中で生き続けています。しかし、それが人と人とを結びつけるものではなく、人と人とを切り離し排除・差別し、人を傷つけ、命まで奪う結果になるということほどの悲劇はありません。現に、穢れ意識、そしてその意識を担う俗信によって、人格はおろか尊い命までが傷つけられている多くの人々が現に世界中に存在しています(特定民族の迫害など)。その人々を、「昔からおこなわれていることだから」のひと言で切り捨てていくことは断じて許されるものではありません。それゆえ、わたしたちの身のまわりにある俗信の根拠と本質をもう一度見つめ直し、わが事として考えていく態度が大切でしょう。


 いつの時代も社会は新たな俗信を生んできましたが、そこには必ず発生と伝播のメカニズムがあります。原因が判然としない不幸や不運に見舞われたとき、何らかの因果関係を求める人間心理と、そのような不安を取り込んで信じられやすい形で因果を説く教えや思想が介在します。俗信に御霊信仰や先祖崇拝が結びついている程度では別段の罪も害もありませんが、他人に何かを強いたり、影響を及ぼすようになると、それは有害な俗信になるのです。最近の風潮として、社会の情報化が進む中で、逆に、馬鹿げた超現実世界に傾斜していく若者が増えつつあります。なんとも皮肉な現象といわざるをえません。そういう状況のときにこそ、根拠のないものを見分ける確かな目を育てるのが教育の本来の姿であるはずです。


 ちなみに科学も、いわば「仮定を前提として成り立つ」学問体系であり、その点では一種の信仰といえるかもしれません。ある時代には当然真理と考えられていた学説や思想も、時代が進むとともに根底から覆される事例は枚挙に暇がありません。たとえば天文学において、二千年前には天動説は誰も疑念を抱かなかった一つの「真理」でしたが、コペルニクスの地動説とニュートンの万有引力説によって天体の構造がはじめて科学的に解明されて以来、天動説をもはや信ずる者はいなくなりました。科学では新説が出てそれが正しいと判断されると、旧説は打ち捨てられ、歴史上の一項として処理されてしまいます。


 たしかに、不安なときや自信を無くしたときに何か信念と呼べるものをもっていることは、わたしたちの心の支えとなり、精神的危機を脱するのに役立ちます。しかし逆に、ある種の強固な信念に取り憑かれてしまうことで、精神的あるいは肉体的に自身を傷つけてしまう場合もあります。このような信念の一つが俗信なのです。そのなかには厳密な検証を経て科学となり得るものも含まれるため、俗信のすべてが間違っているとは一概に言えません。しかし、これほど科学が高度に発達した現代社会において、定義の上では科学と相容れない俗信が広く受け入れられている現象をどう説明したらいいのでしょうか。


 「俗信」を排除するということは、「因果の道理」を理解するということです。因果の道理とは何か。それは原因と結果の法則にほかなりません。この世には、理不尽とした言いようのないさまざまな不幸や不運があります。また現代科学ではすでにその原因や仕組みが解明されているにもかかわらず、わたしたちは人間の力ではどうにもならない突発的あるいは不可避的な災難にも出遭います。家族や自分が予期せぬ困難に陥ったり、原因不明の不治の病にかかることは前者であり、地震や雷、台風などに襲われることは後者です。


 人生行路はもともと「不条理」な現象の連続です。それは科学文明を謳歌する現代においても変わりはありません。わが身がいつ、どのような不慮の事故にあうか、実際のところまったくわからないのです。人がもし人生の途上で不条理な出来事に直面し、絶望の奈落に突き落とされ、苦悩に喘いでいるとします。その耳元で甘い言葉がささやかれればどうなるでしょうか。そのとき、人はすでに理性的判断力を失っています。その耳にこういう囁きが聞こえてきます。「あなたはなぜ不幸に陥っているかわかりますか。それはご先祖の中に供養を受けていない人がおり、その霊が迷って、今あなたを苦しめているからです。」あるいは「この神さまを一心に信じなさい。きっと家運が向いてきますよ。」等々。もし、通常の健全な心持ちであれば、そのような言葉は即座に一笑に付すでしょう。しかし、悪運が二度三度と重なったり、原因の不明なままに体調を崩して病状が悪化の一途をたどっていくような事態に遭遇した場合は如何? そんなとき人は神秘的な占いにすがり、甘い信仰の囁きに負けてしまうのではないでしょうか。人間の心とはそれほど弱いものです。今日の時代で、何か一つの通説について、これを俗信だとわかっていながら信じる人はおそらくいないでしょう。誰しも普段は俗信や迷信の類を否定しているのですが、どうしようもない不安に駆り立てられると、わが身を救ってくれる霊力や超自然の力に頼り、なんとしても助かりたいと願うものなのです。「溺れる者は藁をも掴む」といわれる所以です。わたしたち現代人は、原因と結果の法則に即しながら物事を考えるといった理性的判断には比較的慣れていますが、その反面、理性的判断が成り立たないような場面を前にすると脆くもうろたえてしまい、冷静な思考や行動ができなくなります。そうならぬためにも、日の吉凶に右往左往するのではなく、「日々是好日」という心境を早くに確立すべきでしょう。


 この語はむろん、毎日幸運が続いて結構なことだ、という単純な意味ではありません。一般にわたしたちが「今日はよい日だった」と思う場合、それは「天気が良かった」、「金が儲かった」、「何か良いことがあった」など、そんな基準で日々の流れを判断しがちです。しかし、これは優劣や損得あるいは是非に囚われすぎた考え方です。ある日幸運が訪れても、その後にやって来るかもしれぬ不運に脅えなければなりません。「日々是好日」とは、そんな拘りや囚われをさっぱりと捨て去って、その日一日をありのままに生きる楚々とした境地のことです。何か大切なものを失った日であろうとも、現実の結果を虚心坦懐に受け入れてただひたすらに生きれば、毎日が好日となるのです。それは、過ぎ去ったことに拘ったり、まだ来ぬ明日の僥倖を密かに期待したりはせず、いわんや俗信に惑わされずに、今この一瞬を精一杯に生きるということに尽きます。


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