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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

如実知見

 仏教の本質のひとつは、『如実知見』、つまり事実を事実としてあるがままに、ものの真実の相を正しく見極めることであるといいます。

 この人生において確かなのは、出る息と入る息の間の命だけです。しかし、そんな人生だから面白おかしく生きようというのでは、浅薄な快楽主義に堕してしまいます。仏教の無常観は決してそのようなものではありません。明日の知れない人生であるがゆえ、一瞬一瞬を懸命に生きなければならないとして「酔生夢死」を断固拒否します。

 私たちはだれでも、なにがしかの悩みを抱えて生き、そしてなんとかその悩みを解消して、幸せになりたいと思っています。しかし人間の幸せというものを考えるとき、私たちはそれをどこか山の彼方にでもあるように考えがちです。そしていつまでたっても、幸せ感を味わうことができないでいる、そんな毎日を繰り返しているような気がします。

 また、私たちはいつまでも若々しく幸せな人生をおくりたいと願っています。しかし、予期せぬことが起こったり、思いどおりにゆかない事態に泣かされることがたびたびです。一番心やすまるはずの家庭のなかでさえ、家族間の反目がおきています。そして気がつくと、自分自身が戻ることのできない老病の道を歩んでおり、最後には例外なく死の淵に沈んでゆかねばなりません。ところが、私たちはそうした厭な現実を自分のこととして認めたくないあまり、できるだけ眼をそらそうとしています。そのために、真剣に考えることもなく空しくこのかけがえのない一生を終わってしまいます。この現実に気づいた青年釈尊は、釈迦族の王子としての地位をすててこの問題の解決にとりくみました。老・病・死の根本苦がある限り、どんなに目先の楽しみを追い求めても結局幸せにはなれないという結論に達したからです。

 何が起こるかわからない不安定な現実に直面して、私たちはどうしたらいいでしょうか。神に祈って自分だけは災難にあわないようにと願う多くの人がいます。この世のことはあきらめて、次の世では楽しみに満ちた極楽や天国に連れていってもらおうと神に願う人もいます。これに対し、釈尊はそれらのいずれもが本当の意味で問題を解決するものではないと考えました。そして、まったく独自の方向から問題解決の方法を見出したのです。

 一般に宗教の世界では、「神のことば」を根拠にしてものごとが真理であるか否かを判断し、たとえそれが事実に違ったことであったとしても、それにしたがうことが信仰だとみなされています。しかし釈尊は、そのような権威によって真理を決定したり、神の思召しにまかせるという立場をとりませんでした。私たちが眼をそらしている苦の現実に向きなおり、避けていたゆえに見出せなかった苦の正体を自らの眼ではっきり見つめました。そして、苦の本当の原因はどこにあるのか、その原因はどうしてとり除けばいいのか、一切の先入観を取り払った上で思考をめぐらし続けた末、その答え---「如実知見」---を見出したのでした。現実直視の姿勢は釈尊の思想の根底に一貫して流れているもので、これこそ仏教を成り立たせている基本的な考え方です。これは仏教の特質として非常に注目すべき点です(他の多くの宗教では、真理は神から啓示されるもので、人間の方からは近寄れないものであるとしているからです)。

 その結果、釈尊はそれまでだれも気づかなかった二つの重要な事実を発見しました。

第一、苦は外に存在して自分を苦しめているものではなく、自己中心の心(=我執、煩悩)がつくり出しているということ。

第二、苦の原因となっている自己中心の心は、私たちがものの本当のあり方に無知であり、事実を誤認して受け取っていることによって起こるのであるということ。

 私たちは、心が苦しいのはお金がないからだとか、モノが足りないからだとか、原因は外にあると常識的に考えています。従って、外の条件が整えば幸福になると考えています。しかし釈尊は、むしろ事実はその逆であって、苦しみや楽しみをつくりだしている原因は自分の方にあるということに思い至りました。私たちはしっかりとものごとを見ていると思いながらも、実は自分の思いや関心ひとつで世界が変わって見えてしまいます。釈尊はそのことを「すべては心がつくりだしたものである」と言いました。私たちが「苦」と思っているものの実体はじつは無く、自分がつくりだしたものにおびえ、それによって争っていたにすぎません。このような悪循環が「迷い」の本質です。釈尊は、私たちの苦悩の現実、迷いの原因が私たちの内なる煩悩の心にあることを明らかにしたのです。

 そして次に釈尊は、煩悩が起こるについては更に根本的な原因があることを発見しました。それが前述の第二の発見です。すなわち私たちの自己中心の心がはたらくのは、私たちが「ものの本当のあり方を見ていない(=無明)」ところに原因があったのです。

現実を事実としてとらえる「如実知見」の自由な思考を通じて本当の人間として生きる道、すなわち「仏教」を確立したのが釈尊でした。晩年、弟子たちに残したとされる遺言「自らを灯明とせよ、法を灯明とせよ」は、まさにその教えの集約です。人の定めた権威や先入観にとらわれず、真理に基づいて自立した人間として生きること、それが釈尊の教えるところでした。


 いま時代は従来の価値観や世界観が崩れ、まだ新しい思想や秩序を持ち得ないまま混迷を続けています。そのなかで、私たち自身はどのような考えを持って生きていくのか。人生の意味と目標をどこに見いだせばよいのか。多くの異文化が交錯し、いろいろの宗教がささやきかける中で、私たちに必要なことは「思考の自立」です。「人がそう言うから」ではいけないのです。私たちが選ぶべきものは何かを自分の思考力で見極めていくことです。しかし、ただ自分が「面白いから」、あるいは「そう思ったから」であってはなりません。真の「自立」は、「正しいことは何か」、「真実は何か」を悟った確かな基盤の上にはじめて可能となります。羅針盤のように、たとえしばらくは動揺しても必ず元の位置に戻ることができるよう、「如実知見」の姿勢を通して自己を確立しておかなければなりません。これによってはじめて、釈尊が発した「自らを灯明とせよ」の意味が痛切に理解されるのです。

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