仏教を開いた釈尊(お釈迦さま)は、「心」からすべての幸不幸が始まると説き、心の在りようを重視しました。では、心とはいったい何なのでしょうか。そして心は体のどこにあるのか。「心ここに非ず」という表現がありますが、「ここ」とはどこを指すのか。あるいは「つながり合う心と心」といったとき、二つの「脳」がつながり合うイメージで正しいのでしょうか。「理に働けば角が立つ、情に棹させば流される・・・」とは、夏目漱石の小説「草枕」の有名な冒頭部分です。理の勝った角を憂うのは情の働き、情に流される危うさを思うのは理の働きですが、そうした働きの根源は脳にあるのか、それとも心にあるのでしょうか。
心の解明は、宇宙の成り立ちの解明と並んで、おそらく人類最大の関心事であるといえます。心は一般に「人間の理性、知識、感情、意志の源」と定義されますが、さらに加えて、大脳内の神経伝達物質の信号が行き来する部位全体の活動を指すということになるでしょう。そして心をつきつめて考えるということは、人間という存在の究極に思いを巡らすことにつながります。しかし人体、とりわけ脳をいくら手術メスで腑分けしても、心そのものは決して眼前に現れてきません。それは人体という「構造」を見ているからであって、構造そのものから機能は現れないのです。したがって自然科学の立場からすれば、心とは脳細胞などの「働き」に対して便宜的に名づけられたものに過ぎないかもしれません。脳は他の身体の構成要素と同じく、物質的な原因(精子・卵子、遺伝子、細胞分裂など)によって生み出されます。しかし、心は物質としては存在していないのです。別の言い方をすれば、心は脳の中での現象であるということになります。実際、脳に刺激を与えると、さまざまな心の作用が影響を受けることは明らかです。また、薬物や物理的刺激によって心の状態が変化したり、さらには幻想や幻聴がつくり出されるといった事実もよく知られています。ちなみにアルツハイマー病という脳の疾患は、主に大脳の神経細胞が大幅に失われていくことによって生じると考えられており、その結果、認知障害に陥ったり、人格が変わってしまいます。しかし、心は脳の機能あるいは産物であるという考え方は、臓器移植の際の脳死判定をめぐって複雑かつ深刻な社会問題を引き起こしています。人間性や自我も脳によってつくり出されるという考えに立てば、「脳死」という脳の機能が止まった時点で、心を含め人を人たらしめているすべての要素も消滅することになるからです。
ある人に向かって自身の手を見てもらい、「その手は誰の手ですか」と質問すれば、誰もが躊躇なく「わたしの手です」と答えるでしょう。「手」は、たしかに目で見てその存在を確認することができます。では、「わたし」という言葉が指し示すものはどこにあるのでしょうか。手や足、身体は明らかに目に見えるものとして存在します。しかし、「わたし」というものの総体は、あくまで言葉の上で認識されている一種の「概念」です。心も同様に、刹那に生滅する変化してやまない諸行無常の過去の記憶が深層心理に貯えられたものです。つまり「わたし」も「心」も、固定された外形を伴う実体ではないということです。心に生じる千変万化の喜怒哀楽の感情や、言葉では言い表せないような千々に乱れる思念などは、すべて「わたし」の脳の中で起こっている「脳内現象」にすぎない、といえば極論でしょうか。そしてわたしたちの心が宿っている脳それ自体は、蛋白質や核酸などの物質が相互に作用し合う電気的・生化学的な、ある種のきわめて精巧な「機械」です。脳を含めて人間は一個の機械であるにもかかわらず、わたしたちは「心」という物質に非ざるものを一人ひとり独自に持っているのです。わたしたちは誰もが、この広い世界の中で自分の心だけが特別な存在であると確信しています。しかし、自分の心、といっても、それはごく限られた環境条件の中で生じた思念の無数の偏り、癖、思い込み、傾向などの仮の集合体です。わたしたちは、それを生来の自分であると無条件に信じています。ところがその要素は常に変転極まりないがゆえに、心はいつも揺れ動いています。
心と最も密接な関係にあると思われる大脳は、おそらく兆単位の膨大な数の神経細胞から成り立っています。さらには、それぞれの細胞が集合的あるいは個別に特有の働きをしています。たとえば視覚中枢はものを見るために機能し、聴覚中枢はものを聞くために機能しています。これを物質面から言うと、ものを見る主体は視覚中枢、ものを聞く主体は聴覚中枢ということであり、同様に、ものを嗅ぐ主体やものを味わう主体もそれぞれ別々ということになります。しかし、心理上の事実はどうでしょうか。わたしたちは、幼い頃からの個人的な出来事、まわりの情景、人々の思い出、学校や社会生活で身につけた知識など無数の記憶を脳に貯えて日常を送っています。そして、その記憶の対象はそれぞれ別々です。しかし、この種々別々のことを知っている主体は「わたし」一人です。外界の物事を知覚する器官(眼、耳、鼻など)は別々であり、知覚の対象や内容も種々多岐にわたり、記憶の対象や内容も多種多様です。それにもかかわらず、その知覚内容や記憶を自分のものとして統一している主体はただ一つなのです。しかも一生涯を通して不変同一です。では、この統一的な「主体」は、いったいどこにあるのでしょうか。
生物の教科書に記されているとおり、心臓の拍動によって押し出された血液は行く先々で体内の老廃物を取り込む一方、新鮮な栄養分を与え、再び心臓まで戻り、肺に送られて、一呼吸ごとに空気中の酸素を取り入れて新たな血液となります。こうして体は絶え間なく新陳代謝を続けています。この新陳代謝というのは、一つの物質が変化するのではなく、別の物質と入れ替わるということです。ちょうど川の流れのようなもので、川のある一点を凝視していると同じ水を見ているように思われますが、実際はその瞬間ごとに別の水を見ているといってよいでしょう。今この瞬間にわが肉体を構成している物質も、川の流れのように徐々に新陳代謝して、やがてすべて入れ替わってしまいます。つまり、たとえば10年前の自分と今の自分は、「物質」ということで言えば、完全に別物だということになります。同じことは大脳についても当てはまり、10年前にあったものと今あるものは、まったく別々のものだということです。ところが自分自身はどうか。「今、見たり聞いたり感じたりしているのはわたし自身だが、10年前に見たり聞いたり感じたりしていたのはわたしではない」と主張する人は誰ひとりいないでしょう。10年前の自分と今の自分は、物質としては別々のものです。それなのに、物事を知覚体験する主体としての自分は同一人物です。10年前の自分の大脳を含め身体のすべては、今はもはや完全に変容しているにもかかわらず、知る主としての自分は相変わらず厳然と存在しているといるのです。そうであるならば、「自分」という「統一的で不変な主体」は大脳や身体の中にあるのではないということも考えられます。釈尊は、心の仕組みを一つひとつ仔細に探求していった結果、「自分」というものがもともとあって自由意志を発揮している部位など体のどこにも存在しない、という結論に至りました。それが、「般若心経」で説かれる「無色無受想行識」の真意であるといえます。すなわち、色は身体、受は感受、想は想像、行は行動や思考の根源、識は認識であり、それら心の仕組みと働きのすべてに関して「わたし」というものがまったく介在していません。これこそ、仏教における「無我」の教えの根幹を成すものです。
わたしたちは、失意絶望の淵に立たされた時、何のために自分は生きているのかと真剣に悩むことがあります。また同時に、何らかの目的や目標あるいは理想がないと生きている意味がないと思い込みがちです。しかし身近な自然に目を向けてみると、たとえば寒々とした冬空の下で雀たちは道端で何かを一心に啄ばんでいたり、屋根や電線に止まって羽繕いをしたり、あるいは不意に何処かへ飛び去ったり・・・と、およそ平然かつ気ままに生きているように見えます。また人気のない公園の隅などでは、野良猫が身動きせずにじっと寒さを堪えている姿などを見かけることもあります。雀も猫も、この世に生まれきてその時々の現実の環境の中で、おそらく自分自身の過去や将来のことなど関係なく、ただ現時点でいのちがあるから現在を生きているだけなのです。彼らの脳の内部においては、人間の「心」のような強い「我」というものはほとんど意識されていないでしょう。人間も「ヒト」として類人猿から進化しはじめた当初は、この雀や猫などと変わりなく与えられた命を環境に適応させながら、ただ無心に生きていたのではないかと考えられます。ところが、ふとした契機に脳が環境との相互作用により発達し、次第に「自分(のもの)」という心あるいは意識が強烈に自覚されるようになっていったものと推量されます。考えてみれば、本来この世界に存在するものは、生物も無生物もすべて只管(ひたすら)生きている、あるいはただ存在しているのです。つまり、わたしたちの生きているこの地球を含む広大な宇宙・大自然が、生物や無生物などありとあらゆるものを生かし、存在させているのです。しかし宇宙や大自然には、人間が考えるような意味での目的や目標などむろん存在するはずがありません。人間の目標や目的などは、それがいかに高邁崇高なものであっても、しょせん人間の生理的現象である「心」の所産に過ぎないのです。ところが、人間は「何のために」などと、何でも自分中心にものを考えないと気が済まないために、あたかも宇宙や大自然それ自体にも意思があるかのように、人間の生存に何か意味や目的を見出したがるのです。宇宙生成の理由や原因がいまだ科学的に解明できていない現在、人間の存在そのものになんらかの特別な意義を加えようとする試みも含め、人生の「意味」を過度に追い求める現代人の性向はますます自分自身の心を苦しめる結果となっているのかもしれません。
わたしたちは、自分の意志、意欲、思考などあらゆる心の働きが単に人間の身体の一部である脳の生理現象であり、人体の束の間の表情あるいは景色に過ぎないものであるということを心得ておかなければならないでしょう。人はその生涯において、苦しい事やつらい事を厭い、幸福で満ち足りた状況をひたすら永続させたいと絶えず願っています。自己満足の追求は人間だけが持つ抜きがたい習性です。自分の思い通りにいけば喜び、いかなければ悲しみ、そして悩む。しかしこのような日々の喜怒哀楽も、所詮はわたしたちの身体の生命活動の一時の現れです。大自然そのものである身体の生命本来の在りかたから言えばその時々の生理現象に過ぎず、どれほど悲嘆に陥ろうとも、あるいはいかに喜色満面の状況でも、その心理状態は長続きしません。身体の生命活動のリズムは、人間の心とは一向に無関係です。いかなる喜びも悲しみも、時間の流れに伴って収まるところに収まり、再び新たに芽生える感情に動かされていきます。さらにまた、わたしたちの人生は脳に支配されている側面がありますが、同時に生き方が脳を変え、さらには心を変え、思考も、言葉も、行動も変え得るという事実を忘れることはできません。たとえば、バイオリニストが演奏の流れを心にイメージするだけで、脳内の「運動を司る領域」に血流の変化が起きるということや、悲観的な思いが堂々巡りしてどうにもならない状況を断ち切るべく、未踏の旅に出て非日常的な体験を得ることで、従前まで囚われていた暗い気分が多少なりとも改善されるといったことは、脳と心の在りようも変わり得るということの証左でしょう。心と脳とは相互作用します。心の持ち方一つによって脳それ自体のはたらきを変えられるのです。人の心で起こった劇的な変化が脳の大きな変化となっていき、脳が変わることでさらに心が変わっていく。そしてそれは人生を大きく変えることにつながります。
普段、わたしたちの脳は自分の意識や思念とは無関係に働いています。「考えよう」という意識を持たなくても、脳は勝手自在に活動しているのです。たとえば「何も考えずに静かに目をつぶったままにしてください」と指示して、数分のあいだ黙想してもらうと、たいていの人は自分の意志で止めることのできない思考が無限に湧いているのを感じます。「考えまい」と考えてしまい、湧いてくる思考のうねりを冷静に観察すると、それはたいてい「過去」の後悔であったり、「未来」への不安や恐れなど、「過去」や「未来」などの時間に関係する事柄であることが多い。しかし、「未来」の時間は未知で不確定であり、わたしたちにはどうすることもできません。「過去」の時間も既定しており、もはや変えようがありません。脳の中で思考をいくら反復重畳させたところで未来や過去が変化するわけではなく、変化させうるのは「現在」という一点でしかないのです。不確定な未来や既定の過去を自分の思い通りにしようとする結果、わたしたちは脳の中で虚像や虚構を作り出し、それによって自分が自分を偽ったり、縛るという状況を招きます。したがって、わたしたちは脳が生み出す錯覚や虚構に細心の注意を払う必要があります。すなわち、「偏見」や「思い込み」を極力排除するということであり、虚像ではなく実像である「今」にこそ集中する。「集中」とは、「今」という現在を生きることです。それは、たとえば子供が無邪気に遊んでいる時、すなわち時間を忘れて熱中する際に体感する瞬間です。まさに「無我夢中」の境地であり、「我」を無くして「夢」を見ているような無時間の状態です。そのときに、脳内における無統御の思考の荒れた海は凪の静寂となるのでしょう。「見ざる、言わざる、聞かざる」という格言は、「見なかったことにする、言わないことにする、聞かなかったことにする」と理解されるのが一般的ですが、「わたしたちは本当のことを見ていない、本当のことを言っていない、本当のことを聞いていない」ともみなすことができ、わたしたちがいかに虚構で偏見に満ちた世界に生きているかを指摘する意味合いもあるようです。どの場合でも、「現実世界に対する心の持ちようを変化させていく」ことを目的としているのです。
仏教では、人間の心が多層的な構造を持っていることを踏まえ、心の深層に分け入ることで現実世界をこれまでよりもいっそう明瞭に把握することができ、「今」への集中力が養われると考えています。それが、人生においてきわめて大切な「平常心」の確立と維持に結びつきます。平常心とは、完璧にバランスのとれた心のゆるぎない状態であり、その境地が仏教で頻繁に用いられる現実への「目覚め」ということの含意です。これは、決して人生に失望することでも不満を抱くことでもなく、見せかけの魅力や恐怖を見抜き、それらにまったく惑わされないことを意味します。そして、平常心はさらに心の奥の静けさへと深まっていき、放置しておけば情調から渇望へ、渇望から執着へ、執着から苦しみへと移り進む心の動きを阻止する役割を果たします。それはいわば、電気配線のブレーカーに似ています。
言うまでもなく、日常で使う「風景」といえば、わたしたちの目に映じる景色のことを指しますが、「心象風景」ということになると、それは文字通り心の中の景色を示します。しかし目に映じる景色も正確には、網膜という眼の感覚器官を通した脳の働きで景色を見ているということであり、脳の中で再現された像であるということになります。したがって、人が見ている景色や視界に映る風景は心象風景であり、心の中の景色に過ぎません。心象風景が心の働きを伴った風景であるということは、人の個性や認識能力の程度が各々の心象風景に大きな影響を与えていることを意味します。すなわち、自分の個性あるいは性格を心に投影した景色が心象風景なのです。言い換えれば、人とは、生まれてから死ぬまで自らの心象風景の中で成長し、老いを経験してゆく存在です。それゆえ人生を豊かにするとは、自己の内面を明るく照らして心の風景を多彩に豊かにすることにほかなりません。
すべてのものが変化する無常の世の中。そこで生きるのは、言うならばわたしたちはみな絶えず川に流されているということです。その奔流を溺れずにうまく渡っていくには、波のうねりに体を合わせるしか術はなく、川の流れに応じて適宜的確に判断しなければなりません。そのためには、「本来の自分」がどういうものであるかをよく理解することが求められます。仏教には「照顧脚下(あるいは脚下照顧)」という言葉があります。これを文字通り読めば「足下を照らし、顧みよ」になりますが、「足下」は自分自身すなわち「わが心」であり、これを照らして自身の心の在り方から主観や偏見を可能な限り減じていくことが肝要であると説いているのです。別言すれば、肩肘虚勢を張った自我を捨てて本来の素直な自分の心に立ち返れ、ということでしょう。そのためにこそ、心の所在について改めて思いを致すことが一人ひとりに問われているのです。
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