日常、わたしたちは空間については自分の身の回りの広がりを肌で感じることができますが、時間というものをどのようにして知るのでしょうか。時間は常に一定の速さで過ぎるもので、それに合わせてさまざまな現象の進行速度や周期の長さが計られる、と考えがちです。しかし現実には、ある周期現象(天体の運動や振り子の揺れなど)の繰り返しの回数を他の現象と比較しているだけであり、何か絶対的な時間そのものの歩みを計っているのではありません。さらに、人が感じる主観的な時間の速さは、気分や年齢などいろいろな条件の違いにより絶えず変わっています。子供にとっての一年と老人にとっての一年の長さでも心理的な違いがあります。つまり、生物それぞれの生理的な反応の速度が異なれば、主観的な時間の速さも当然異なってくるのです(生物間の時間感覚や体感時間の違いについては、本川達雄著『ゾウの時間、ネズミの時間』に詳しい)。人は誰でも限られた人生をより長く生きるため、すなわちより多くのことを成し遂げるために、時間を節約しようと考えます。宇宙の開闢から137億年、地球の誕生からも46億年が経過し、この悠久な時の流れの中にあって暫時のあいだこの世に存在するわたしたちは、時間とどのように接し、付き合っていくべきなのでしょうか。
古来、時間をめぐる考え方には大きく分けて二つありました。一つは、巡り巡る時間が生と死を繰り返していくという概念です。一年の四季の移り変わりを見ると、春には草木が芽生え、それらが夏に成長し、秋に実を付け、やがて衰えて死んでいく。しかしそこで作られた新しい種が芽を出して、また新たな生に受け継がれていきます。輪廻転生という言葉にもありますが、いろいろ姿を変えて生と死を繰り返しながら生きていくのです。そしてもう一つの時間論は西洋的(キリスト教的)なものであり、天地創造により世界が始まって「最後の審判」に向けて時間が一方的に流れていくというものです。現代でも、「光陰矢の如し」という言葉に代表されるように、いわゆる「時間の矢」として直線的に過去から現在、現在から未来へと延びているような時間感覚が一般的です。ただ仮に時間が直線的なものだとすると、当然「始」と「終」が存在しなければなりません。人の一生であるならば「誕生」と「死」で説明できますが、これが時間となるとなかなか説明は難しい。逆に言えば、本来、直線的時間という観念は、時間に「始」と「終」があることを前提とする宗教、すなわち「天地創造」と「世界の終末」を観念するユダヤ=キリスト教などの文化圏に特有のものでした。これらの宗教においては、ただ一回の創造と終末の間に張り渡された直線的時間を前提とし、終末の審判によって永遠の生命にあずかるという救済思想がとなえられました。こうした一方的に流れる時間と巡り巡る時間、どちらの考え方が良い悪いということではなく、時間を考える上では両方とも大事です。一方向に進歩、進化するだけではなくて、循環する時間、つまり毎日、朝に太陽が昇って夕に太陽が沈む、その繰り返しの中で人間はもとより、あらゆる生き物が生きているからです。
そもそも過去や現在や未来という時間の各相を考えてみると、過去はわたしたちの記憶の中に確かに存在し、未来は記憶と思考によって、記憶の延長上にあるものと疑いなく普通に信じられています。現在は知覚を通して確かに現前しています。これは別な見方をすれば、時間の中を人間が生きているのではなく、生きている人間の知覚や記憶の中に時間があると見るべきなのでしょう。そして仏教においても、「時間」はきわめて本質的な意義を持ちます。それは、死によってあらゆる価値が喪失するのではないことを保証する必要があるからです。仮に、過去から未来へと長く延びた時間軸の中で「現在」と呼ばれる一瞬だけが実在し、その目まぐるしく移り変わる「現在」という時を過ごした挙げ句に、死が人格を完全に無に帰してしまうとするならば、自分の死後にも自分を欠いた世界が延々と存在し続けることになり、個人の限りある生に高い価値を認めるのは難しくなります。人生が時間的・空間的に限られていながら、なおその人生に意義があることを見出すためには、わたしたちの存在と時間の関係を問い直さなければなりません。その際、常に問題になるのは、瞬間と継続についてです。普通、「時間は過ぎ去るもの」と解釈されますが、それでは「消失する過去」と「出現する現在」の間に断絶が生じてしまう。ですから、あらゆる存在はその時点における現在あるいは今に実在しており、この実在が相互に時間的なつながりをもって結ばれていると考えるべきです。過去が消えて現在が現れるのではなく、過去・現在・未来が分かちがたい連なりとして、一つの「経過」を構成しているのです。こうした経過によって、過去の行いの成果が今に生かされることになります。仏教では、すべてのものは単独に存在するのではないと考えます。時間についても同様です。わたしたちが過ごすどの時間の一場面をとっても、それは決して映画フィルムの一齣のようなものではありません。そこには常に自身の過去からの全時間の場面が含まれており、一瞬の中にすべての時間が込められているというべきです。
わたしたちは時計という物理的な時間の進行を正確に知る道具によって、体感時間と物理時間のあいだの不規則な揺らぎのようなものを経験することがよくあります。楽しいことをしているときは一日があっという間に終わるし、退屈な一日は耐えがたいほどに長い。また、少し物思いにふけって、どこか遠い国にはるばる出かけて帰ってきたような夢想からふと我に返り、さぞかし時間が経っただろうと思って時計を見ると、わずか5分ほどしか経過していないなどということもあります。こうした短期的な体感時間の変動以外にも、歳をとるほど時間の進み方が早くなり、一年が短く感じられるようになるという感慨は誰もが抱くものです。たとえば、青年時代のある一年は、そのわずか一年前のことですら遠い過去の出来事と思えるほどに長い。それが今では一年という期間が手のひらから砂が滑り落ちるようにあっというまに過ぎてしまいます。こうした違いを生む原因はどこにあるのでしょうか。脳の処理速度が加齢に伴って低下するようになると、相対的に外界の時間経過が早く感じられ、結果として一年が短くなっていくという生理現象によるものなのかもしれません。一年の長さを測る指標となるのは、一年が現在に対してどれぐらい過去の出来事と感じるかということにも関連しています。一年前を昨日のことのように思えれば一年は短く、逆に遠い過去のように感じるならば一年は長いということになります。好奇心のおもむくままに頭や体をはたらかせ、勉強や遊びに一日をあわただしく過ごす子供と、毎日同じ仕事の繰り返しで一日が終わる大人とであれば、一日当たりの行動記憶の累積数というのは大きく異なります。その積み重なった記憶の厚みが一年の長さになるとすれば、子供や若者の一年は実に長くて当然ということになります。この仮説に立てば、老人になって単調な毎日を淡々と生きていれば一年はいくらでも短くなるし、逆にさまざまな刺激を積極的に求める姿勢を失わないでいれば、おそらく青年と変わらないくらいに一年が多彩な思い出で満たされるということになります。
哺乳類の心臓の鼓動の速さ(心拍数)は体重のおよそマイナス1/4乗に比例するということが、先の『ゾウの時間、ネズミの時間』に書かれています。つまり生体の時間の進み具合というのは、体が大きくなるほど緩慢になり、結果として寿命が伸びる傾向があるのです。人間も含めた哺乳類の体には心拍という一種の生体時計が備わっており、それとの相対時間で時間感覚が決まるため、哺乳類ではどの動物でも一生の間に心臓が20億回ほど打って寿命を終えるという計算になります。したがって、100歳近くまで生きるとされるゾウは「長命」で、数年しか生きないネズミの一生は「短命」、というときの「時間」はあくまで物理的な時間のことであり、ゾウやネズミそれぞれの生に直接かかわる「生理的時間」(たとえば心臓の拍動を時計として考えるならば)においては、ゾウもネズミもまったく同じ時間の長さだけ生きて死ぬことになります。小動物では体内で起こるあらゆる生理現象のテンポが速いため、物理的な寿命が短いといっても、一生を生き切った感覚はゾウもネズミも何ら変わらないのです。「生き急ぐ」という言葉には否定的な意味が込められていますが、充実した中味の濃い人の人生はたとえそれが短いものであろうと、中味が薄く凡々たる長寿の生に比べて、一概に薄命とばかりは言い切れないのではないでしょうか。いずれにせよ、この「生理的時間」からみた命の諸相という観点は、人生の長さと時間の関係についていろいろ示唆に富む材料を与えてくれます。
わたしたちは、人生における日々が次々と「もはや無い過去」へと過ぎ去っていき、自分の歩んだ人生は変更不可能なものとして存在し、そこからさらに「未だ来ない未来」へ向かって歩みを進めていくよう感覚を持っています。しかし、過去は単に過ぎ去っていったものではなく、過去に属する経験や記憶が「今」という瞬間における判断の中にも生きています。たとえば「××をこれからどうするか」という判断の局面に際しては、今現在の自分の状況・心境だけで決定していることではなく、自身の生育環境、経験、蓄えた知識、それまでの人生行路の集大成によっても判断されます。その意味で過去とは、「もはや無い」のではなく、既に在る(既存の)ものなのです。未来も、未知・不可知のものであるとは単純には言えません。「将来は××になりたい」と願望を抱く時、その未来をありありと想定し、それに向かって行為するという志向性が働きます。すなわち何かを行為するとは、未来に向かって行為することであり、意識が未来を志向しているから行為できるのです。そのような意味で、「現在」とは、蓄積された過去と志向された未来が合一する場であるといえます。「××をやり遂げよう」と決意する現在の瞬間とは、人生の積み重ねによって得られた判断と未来に向かって生きようとする意志が出会う瞬間なのです。
若い時と老いた時とでは時間の質が違うことは先述のとおりであり、また老眼や白髪など老いの兆候は、遅かれ早かれだいたい四、五十代頃から現れはじめます。その一方で、野生動物の世界では原則として「老い」が許されません。少しでも肉体の衰えが見られると、たちまち他の野獣や病原菌に襲われてしまいます。人間についても同様に、老いの時間というものは本来存在しないものであり、医療技術等によって人為的に「つくられた」ものなのです。言ってみれば、それは「余得の人生時間」です。そういう意味でも、現在、多くの人が享受できるようになった長い老いの時間は、若い時の時間とはまったく違う異質なものです。そうしたことを念頭において、人の生涯を全体としてどう位置付けるべきでしょうか。
インドには昔から、人生の理想的な過ごし方として「四住期」という考えがあります。これは一生を、学期、家か住期、林住期、遁世期の四段階に分けて考えるものです。学生期には師からひたすら学び、厳格な禁欲を守る。このような学びの期間が過ぎると、次は家住期で、社会の一線で生計を営む。この時期は世俗的な生き方を中心としており、現代人であればこの二期で人生がだいたい終わるものと考えますが、「四住期」の場合にはさらに後半の二段階が加わります。第三の林住期は、これまでに得た物心の財産を捨て、社会的義務からも解放され、人里離れたところで暮らす。そして最後の遁世期は、この世に対する一切の執着を捨て去り、日常時間に縛られない「永遠の自己」との同一化に生きようとします。つまり、「学生期」はいわば青少年時代であり、「家住期」は社会人の時期です。第三期の「林住期」と「遁世期」は現代の寿命から考えると壮年期以降の期間に当てはまるでしょう。これは「社会生活中心の生き方からの方向転換」の期間と考えることができます。すなわち、林住期からが一個人としての主体的な新しい日々の始まりともいえます。それゆえ、林住期からの人生では本来の自分の世界に戻り、周囲の環境に振り回され続けていた自分自身を静かに見つめ直す上で最適の時期といえます。
上記のように、古代のインド人は人生を前半と後半に分けて考えました。前半は自己実現の時期で、後半は自己解放の時期です。いわば峠に上ってゆく時期と峠から下ってゆく時期といえるでしょう。あるいは、種子が芽を出して成長し、花を咲かせるまでが前半生であるとすれば、花が散って実をつけ、落葉して枯れ果てるまでが後半生です。この論法によれば、人は前半生で教育を受け、仕事を持ち、家庭を築き、社会での地位や人望を得るための努力を行う。しかし後半生においては内面性を高め、人格を向上させ、社会と文化のために貢献するよう努力しなければならないということです。前半生から後半生に移るには劇的な心境の変化が必要であり、前半の人生観と方法論を後半に引きずって持ち込んではなりません。このインド的な人生観あるいは時間観に従えば、人生の最も重要な時期は隠退してからの後半生にあるのであって、前半生はその準備期間に過ぎない。ところが現代人は、金を稼げる間だけが人生であると思い込んでいるようなところがあります。その結果、退職・引退のあとは塵同然で社会的にはほとんど存在価値がないなどと、周りからそう見られるだけでなく、自分自身もそう信じこんでしまいます。そのような考え方をするのは、前半生の価値観および生き方に過度に依存した姿勢から抜け切れていないからです。それはあたかも、春夏だけに人生の価値を置き、いつまでも花鳥を追い求めて、ついに秋冬の飛花落葉の真価を知ることがないかのようです。前半生の人生観だけで一生を過ごすということは、せっかくの後半生の意義を損なう危険性があることを銘記する必要があります。現代人は、心を自分に従わせることができずに、壮年から老境にさしかかっても生活の忙しさにかまけて、内面生活に十分なエネルギーと時間を費やすことができない傾向にあります。野山の草や木は、夏の間にあれほど繁らせた葉を、冬になると惜しげもなく落としてしまいます。すなわち、「個」としての存在を捨てて「種」に戻るのです。森に生育している木々は、それぞれが一本の木という個であると同時に、個を超えた森(種)という存在でもあります。人も、個人であると同時に、個を超えた社会的存在でもあります。「四住期」は、前半生において周囲の人々と競争し、あるいは助け合いながら成長した暁に、後半生において個と個の競合する環境の場から退き、社会全体や地球生態系という、より広くて大きな世界に意識を向けた調和的な生き方を目指すよう教えているのかもしれません。
人の一生とは毎日の時間の積み重ねであり、与えられた寿命の中で流れるそうした時間の経過にほかなりません。生活や人生を考えることは、実は時間の意味を考えるのと同じことです。そして、時間が希少であること、生活・人生の時間は死ぬまで決して同質的であるわけではないこと、そして時計の針が一秒、一分を刻むように無意味に過去を積み重ねるのではないこと、このような時間認識を研ぎ澄ませていくことが、現代人にとって基本的な時間への態度であると思われます。一生という限られた時間を主体的に使えない人は果たして豊かな生活を送れるのでしょうか。この希少な時間資源をどのように使うことが自分にとって望ましいのか、という問題意識を常に持つことが大切です。また言うまでもなく、青春時代に友人と過ごした楽しい一時間、働き蜂のように働いていた頃の一時間、現役を退いてからの一時間、これらはみな同じ一時間ですが、さりとて70歳の時の一時間を、20歳の時の一時間と等価交換することはできません。わたしたちの人生は突き詰めて考えると一日一日の連続体ですから、その一日一日を最高に生きることこそが充実した人生への近道となり、これを「一日一生」という言葉で表わします。その意は、今日が自分の人生の最後の一日だと思って全力を尽くせということなのです。毎日の生活の質を着実に高めるための努力している人と、そうでない人との間には、埋めがたい溝が遠からず生じていくはずです。そしてこの溝の幅こそが、その人がいかに非凡高尚であるかを示す指標ともいえます。より質の高い人生、より非凡な人生への試みこそ、最善を尽くす人生だと言えましょう。わたしたちには、時計が刻む時間のほかに、心の時間というものが具わっており、これが瞬間を無限の永さにさえ変える働きをもっています。そして現在の瞬間こそが、何をおいても常にかけがえのないものです。しかし「現在」がかけがえのないというのは、その時点で、あるがままの状態がわたしたちにとってすべてだからです。確かに、過去のことを振り返り、そこに教訓を見出すのは大切なことです。しかし、「過去を生きる」という姿勢は賢明ではありません。それは現在の自分を否定しかねないからです。また、未来のことを考え、あらかじめ準備することは不測の事態を回避する上でも望ましいことです。しかし、「未来を生きる」ことはやはり賢明なことではない。それも現在の自分を埋没させることだからです。「現在」とは「ありのまま」と同義であり、それがすなわち「かけがえのない」ことなのです。しかし「現在」という瞬間は、そうなるべくして成ったものとしかいいようがありません。その現在を知り、現在を受け入れ、現在を生きるならば、満ち足りて落ち着いた心境が得られるはずです。仏教における人生の「苦」は、ありのままの姿(現状)と願望とが食い違っている場合に生じるものですが、思いどおりにいかなかった過去を悔やみ、どうなるかわからない未来を思いわずらうのは、現在を生きていないということです。それを戒めるために、仏教の時間論では「ただ今日まさに為すべきことを熱心に為せ」と説くのです。
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