「人と屏風は直ぐには立たず」の古言がいみじくも示唆しているように、真面目、正直一方で、曲がったことは大嫌いという人は、とかく周囲との折り合いに苦労する傾向が見受けられます。屏風は、直線状に両端を延ばしてしまうと立てることができません。折りまげて襞を作るようにすれば立つようにできています。このように人間の生き方も、真当正直なことに強く執着すると立ちゆかなくなる場合が無きにしも非ずであり、自らを折り曲げることも時によっては臨機応変に考慮してみる必要があるのかもしれません。
「正直」という言葉の指し示す内容は多岐にわたっており、「正しい」という概念とも意味合いが多少異なります。普段、わたしたちが何かについてその正しさを論じる場合、たとえば「法律に反していないか」という尺度から見て正しいかであったり、あるいは「親の言いつけを守っているか否か」という観点から見て正しいか、などというものでしょう。これに対して「正直」の方は、「嘘の有無」や「隠し事の有無」といった尺度に基づいて正しいのかどうか、という物差しで測った結果であり、正しさの是非を測る多くの尺度の一つにすぎません。先の「法律に反していないか」という、一般的に言って最も「正しい」という点を重視する印象がある尺度にしても、「正直」とは異なる方向を向くこともあり得ます。たとえ「正直に話した」からといって、人の名誉を貶めるようなことを言えば、それは名誉毀損の罪に問われることになりかねないからです。また、公務員や医師が職業上知り得た事実を包み隠さず当事者以外に明かしてしまえば、守秘義務違反となります。過ぎたるは及ばざるが如しで、「正直」も度が過ぎると「正直」ではなくなるようです。「正直」はたしかに美徳の一つですが、美徳が常に社会に適応して、称賛されるとは限らないのです。
昔からの諺に、「正直者は馬鹿をみる」という言葉があります。万事に対してあまりにも正直すぎる人は概して社会や人から翻弄されがちで、順風満帆な人生を送れるばかりではないようです。真面目に会社に通い、一生懸命に働いてきた人が過労死の憂き目にあう一方、適当にさぼりながら要領良くやってる人間が出世をしていくような例などはよく散見されます。では、ここで言う「正直者」というのは、どういう人物像になるのでしょうか。「何も考えずに感じたままを直接に表現する人」、「正義に対して愚直に信念を貫く人」、「たとえ人がどう評価しようとも、自分自身の意向に忠実であろうとする人」など、いろいろなタイプの正直者がいるはずです。そして正直者であるがゆえに、人から誤解されたり、不当な評価を受けたり、ということも起こります。自分の中で否定したい感情があるとき、その感情を打ち消したほうがよいのか、その感情を隠さずに出してしまうことがよいのか、どちらが正直な姿であるのか、正直者の人物像というのは単純に推し量れません。あるいは、どのような人に対しても誠実でありたい、という人生観は「正直に生きる」ことに本当につながるのか。瞬間的に湧き上がる否定的な感情をそのまま正直に顔に出しても、周囲からそうした挙動が許されるのは子供の時期までです。社会に生きる大人はそのような感情を抑え込んで生きていかざるを得ません。否定的な感情の克服の仕方が、温かい愛情へと向うのか、それとも建前としての損得勘定の打算へと向うかが、その人のまさに人間性の問われるところでしょう。
多くの人にとって、仕事や生活の場で「正直さ」を一貫して保ち続けることは至難の業です。俗に「十年のあいだ正直を貫けば信用は築かれる」といわれますが、世の中にそうした信用に足る人が数少ないのは、このことが如何にむずかしいかを物語っています。もとより人倫の基本は「正直」にあります。この「正直」という語の定義を考えるとき、常識として「嘘偽りを言わないこと」というのは無論ですが、むしろ重要となるのは何に対して「正直」であるか、ということです。よく「自分に正直になる」という表現をしますが、もし自らの迷いの心に素直に従うことを正直というのであるならば、大方の子供は勉強より遊びを優先し、大人も自らの願望や欲望を満たそうとして躍起になるでしょう。「正直に生きる」という言葉には抗し難い魅力がありますが、その理想を求めて生きようとするとき、現実の壁が重くのしかかってきます。自分に正直な生き方とは、どのような状態、姿勢を指すのか。「正直」とは、すべてにおいて嘘がないということなのか、それとも、相手のためになると思えば、その時に応じて真実を述べずに曖昧な発言でその場をやり過ごすことでしょうか。自分に嘘をつかないとは、果たしてどういうことなのか。心のおもむくまま本心に沿った生き方は、たしかに自分に正直であるといえますが、それは別の言い方をすれば、自分勝手であるともみなせます。
他方、「人に正直」でありたいということは、「人に嘘をつかない」と言い換えることができます。「嘘」は一般に、自分に疚しいところがあって、それを隠したり、都合の悪いことを言い逃れたりするために使われます。世間を見渡せば、食品の産地や製造日を偽装したり、帳簿を改竄したり、規定以上の政治献金を実体のない団体に迂回献金させるなど、現代は上から下まで嘘が跋扈する時代といえば言い過ぎでしょうか。しかしこういった邪な目的でなくても、たとえば重篤な病人に本当の病名を告げなかったり、子供への教育的見地から一時的に嘘をついたりと、わたしたちの身の回りにも嘘をつく場面は多様にあります。このような際に「嘘も方便」などと弁解がましく、わたしたちは自分の嘘を正当化しようとします。そもそもこの「方便」というのは仏教の言葉で、「衆生(一般大衆)を救うために仏が用いる巧みな手段や方法」を意味します。わたしたちが仏の教えを正しく理解できるように、仏が便宜的にとられる手段として「方便」ということがあるのです。片や、苦しまぎれの嘘をつく際に「嘘も方便」と言い訳をする人がいますが、決して保身のためや他人を騙す嘘を認めているものではありません。
「嘘も方便」は、あくまで相手の気持ちや立場を慮って、「真実を伝えない」ほうが良いと判断した時などに使うものです。我が身のことだけに専心する人が用いる手段ではありません。「方便」が「巧みな手段」となるためには、その目的が重要です。相手に大切なことを教えるために、あの手この手で分からせようとすることは、根本にどうにかして、この大切なことを理解してもらいたいという思いがあってのことです。したがって、方便は親切心、すなわち慈悲心なのです。キャッチボールの上手な人は相手が投げるとんでもないボールでもたいてい捕り、自分が投げるときは相手の一番取りやすいところに投げますが、相手に自分の真意を伝えるためには、相手の力量に合わせなくてはなりません。素人相手に専門用語で煙にまくというのは、不親切の極みであり、実は当の本人がよく分かっていないことの証左でもあるでしょう。伝えたい内容を深く理解していれば、相手のレベルに合わせてかみ砕いて説明できるはずです。釈尊の説法は、常に日常の現実を土台として、決して抽象的な概念から始めることはありませんでした。それは、聴く者が理解しやすいようにという配慮があったからであろうと思われます。
冒頭に記したように「正直」だから「正しい」とは限らず、相手のためを思ってやむを得ずつく嘘が必要となる場面に遭遇することがあります。本当のこと、あるいは真実を知って相手を傷つけてしまうくらいなら・・・、と考え込んでしまう状況を誰しも一度ならず経験するはずです。とはいえ、相手のためについた嘘でも、結局は自分の勝手な都合によるものである、という側面も忘れてはならないところです。加えて、「正直」ということは、何でも思った事を口にするというのは違います。胸の内にあることや、言わなくていいことはあえて言わない、というのも成熟した人間の知恵です。同様に、他人の秘密を包み隠さず暴露するのは、決して正直な振る舞いとはなりません。また、自分の過去の出来事であっても、洗いざらい吐露しないほうがよい状況もあります。仏教では、一般の常識をとらえなおし、「正直」を無条件に「善」とみなしているわけではありません。智慧の浅い人間が自分の心、欲望に正直に生きたら、いったいどうなるか。小は家庭内のトラブルから、大は世界史的な事件にいたるまで、その悲惨な結果は列挙するまでもないことです。人が心底から正直に生きることほど、実世界の社会にとって危険かつ迷惑なことはないのです。人間の「正直さ」というのは実は、貪瞋痴(貪欲、憤怒、暗愚)の感情に突き動かされている状態にほかなりません。極論ですが、盗賊稼業も自分に正直な生き方でしょう。冷酷な殺戮者も然り。なぜならば、彼らは己の欲する事を己に「正直」に行なっているからです。
他面では、対人関係において正論や真実が必ずしも相手を理解・納得させないばかりか、嘘は一種の必要悪として容認される場合があることも否定できません。その究極の実例の一つが「癌告知」の問題でしょう。「癌告知」については、欧米では以前から比較的抵抗なく患者やその家族に対しておこなわれてきましたが、日本では近年までそうした慣習がありませんでした。日本人の癌告知の意識調査について、「自分が癌になった時は知らせてほしいが、家族の誰かが癌になった時に知らせることにはためらいがある」という結果が多く出ています。そこには、ある種の文化的理由があると考えられます。日本人は、相手と自分との関係に配慮することを通じて、はじめて自分の意思や意向を実現させようとする心性を持った民族です。たとえば、「かわいそう」という心情の根底には、真実を話せば相手がかわいそうであり、それを思うと自分もつらくなるという気持ちが流れています。それは、自分が傷つきたくないという利己主義では決してない。「正直」であることは、必ずしも絶対的な価値をもっているわけではありません。真実を伝えることについては、道徳的な側面から嘘をつくことは許されないという意見や、真実を知ることが患者の権利であるというような法的な側面があり、一人ひとりの患者およびその家族にとって個別独自の対応が求められるところでしょう。
この世は、優しい温情ある嘘で成り立っている部分もあるのかもしれません。米国の作家O・ヘンリーの作品に『最後の一葉』という短編があります。重篤な病を患う若い女性が病室の窓から見える蔦の落葉を数えながら「最後の一枚が散るとき、自分も死ぬのだ」と覚悟していました。それを知ったある老画家は激しい風雨の晩に夜通し一葉の絵を描きます。嵐の翌日、とうに散っているはずの最後の一枚がしっかりと留まっています。落ちなかった葉の強さに女性は生きる希望を見出し、体調が回復していきました。最後の一枚の葉は、実は老画家が自らの命を賭して外壁に描いたものでした。『最後の一葉』も、考えてみれば人をだます嘘の話です。しかし、そのことで人が救われます。欧米には「結果は手段を正当化する」という意味の格言がありますが、意訳すればこれも「嘘も方便」と同じことです。大事なことは、人を思いやろうとする自分の良心の声に耳を傾け、それに嘘をつかないようにすることでしょう。実はわたしたちは、嘘をつかないという努力をするより、嘘をつく必要のない生活を送るべきなのでしょう。仏教はただ単に、嘘をつくな、悪いことをするな、ということではなく、道徳や倫理に反した嘘をついたり、悪いことをする必要のないような生き方をこそ実践すべしと教えているのです。
人間は長く生きていると、「自己都合」という仮面を知らず知らずのうちにかぶっています。わたしたちは、小さな嘘やお世辞を含め、自分の心に正直でない言葉を毎日どれほど発しているものか。おそらく誰でも、数十回から数百回にのぼるのではないでしょうか。またわたしたちは日常において、他者に対してだけでなく、あまり強く意識せずに自分自身にも細かな嘘を数多くついたりしているものです。自ら禁煙や禁酒を誓っても、つい自分に言い訳をしてその禁を破ってしまう。知らぬ間に、この仮面を通して暮らしているわけです。誰しも、何かの拍子に嘘をついてしまったため、その嘘を隠し通そうとしてさらに嘘を次々と重ねなければならなかったことを経験しているはずです。また、自分を大きく見せようとして大風呂敷を広げ、結果的にその落差を埋めるために嘘をつくこともあります。それは、自分にとって都合のよいものは善、都合が悪いものは悪であるという仮面にほかなりません。その「自己都合」という仮面を外していくのが、仏教における修行の一つであるといってよいでしょう。その仮面を取り去ったところに平安な精神的境地が開かれます。
釈尊の考え方を敷衍すれば、「正直に生きる」ことは必ずしも無条件に肯定されるわけではなく、「ただ単純に正直に生きるのではなく、正しく生きることを心して考えよ」というところに力点が置かれているのです。他人に気を使って自分の気持ちを見失うことはむろん良くありませんが、自身の後ろめたさを「自分に正直」という言葉を使って糊塗することは、自分に対しても「正直」ではないでしょう。そもそも「自分に正直」と言う人自身すら、果たして本当の自分を知っているのか。しかし、「正直」の対象を他人ではなく、自分に振り向けることは、自分の本質を理解しようとする作業の上ではきわめて健全かつ枢要であるといえます。そのような志向性を持った人こそは、他人に対しては誠実さにつながり、自分が正しくないと思うことについては正直に意見を開陳し、自分が間違っていると思えば素直に謝罪や反省ができる人であるといえます。
弱肉強食の世界に暮らす生き物は、我が身のあるがままを無防備に相手にさらけ出すということは決してありません。自分を強く高貴に見せかけたい場合には、「虚飾」という嘘をもって対応します。戦いに際しては、相手を威嚇し、自分を大きく強く見せようと虚勢を張ります。あるいは逆に、餌食にならないよう、動物や昆虫によっては自身を木石化や擬死などの「卑下」的行為で敵を惑わす場合さえあります。人といえども変わりません。子どもから大人まで日常においては、自分の立場を少しでも有利にすべく、程度の差こそあれ、虚飾と卑下という両極端の嘘を駆使して周囲をあざむこうと画策するのが、人間の悲しい性です。「正直」の真実は、この虚飾と卑下の中間に存するのです。ただし、嘘をすべて寄せ付けない端的に純朴な「正直」さから脱皮して、状況に応じて惻隠の情による嘘を許容するか否かは、あくまで個々の倫理観に委ねられるべきものであることは言うまでもありません。
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