死は人生の終末ではない、生涯の完成である
マルティン・ルター(1483-1546)
仏教を開いた釈尊の出家は、ご承知のように、生老病死という人間にとって最大の課題をいかに解決するかという問題意識がその動機となっています。釈尊は長い修行を経て、人間を「生老病死していく存在」としてとらえ、死もその流れの中で「死すべき身」としてとらえました。
「死すべき身」をいかに生きるかという問題を解決し、よりよき人生を自覚せしめるところに仏教の目的があり、そこに「生死一如」という自覚がめばえるのです。釈尊は初転法輪にあたって「不死の法」を説いてゆくと宣言していますが、「不死の法」とは、生老病死という苦悩を越える教え、すなわち死に対する自らの執着に目覚め、死が苦悩としての意味を持たなくなる教えのことです。
あわただしい世相の流れの中で、ふと晴れ渡った夜空を見上げると、私たちは何ともいえないような安らぎを感じます。それは、忙しさの中で我に帰る一瞬なのかも知れません。仏教は、天空に瞬く無数の星ぼしを蔵する宇宙の大きさと永遠性を解き示し、同時に生命の連続性と人間の存在意義というものを私たちに伝えています。人はこの世に生まれてくると、成長し、やがて年をとり、病を得て死んでいきます。仏教の根本原理ともなっている生老病死という四苦は、まさに人間存在の基本的な条件です。
ちなみに、般若心経の始まりは次のようになっています。「この故に空の中には色も無く、受想行識も無く……」。ここで、空は精神の世界、色は物質あるいは肉体、受想行識は心ですから、精神の世界には物質も肉体も心も無い。つまり精神だけが存在して活動しているということです。そして、「無所得を以っての故に、菩提薩唾は般若波羅蜜多に依る」とあります。つまり心境の進んだ修行者(菩薩)は何も所持するものが無いから、知恵を拠り所にするというわけです。知恵だけが活動する精神の内奥では、物質も肉体も無いのです。したがって、お金も、セックスも、所有欲も、物的刺激も、肉体的安全も不要です。そのうえ心も無いのだから、肉親愛も、名声も、能力も、目標達成も不要ということになります。このように心境の進んだ人は何物にも執着しないから、知恵だけを拠り所として、自他一体の愛を生きがいとするというのです。
経はさらに続きます。「故に心に圭礙無し。心に圭礙無きが故に恐怖有ること無く、一切の顛倒夢想を遠離して、涅槃を究竟す」。従って心にとらわれや妨げが無い。とらわれや妨げが無いので恐怖心が無く、事の本質を逆さまに見る間違った思いから遠く離れて、究極の境地に到達する、というのです。
人生の理想とは、精神的成長を目指す生き方と、それに伴う達成感や深い安らぎにあり、これこそが真の生きがいであると考えられます。一方で、人生の最大問題は生老病死です。生老病死はある意味で、仏教的世界観として「四苦八苦」の言葉にみられるように現実世界を生きていくための心構えを示したものです。しかし科学技術の発達した現在、私たちの意識の中にはこうした苦の世界を克服したものとしての「快」中心の生き方が理想とされています。しかしここにある種の落とし穴があります。どれほど医療技術が進んだとしても、いわゆる不治の病がなくなることはありません。やはり死は必ずおとずれるからです。
こうした諸問題をあらためて整理していったのが生命倫理なのですが、それによって私たちの生命観はどのように変わったのでしょうか。言い換えると生命倫理は「生老病死」観を果たして越えていけるのか、ということです。と同時に、生老病死、すなわち四苦にくらべれば、政治や経済、倫理や道徳、いわんや名誉や栄達など、世俗のいっさいのことがどうでもいいもののように思えてきます(もちろん、そうなったのでは身も蓋もありませんが)。
仏教では一切は苦であるといい、この世は迷いの世であるといいます。しかし私たちはこのことをしっかりと理解しているでしょうか。迷いから解脱した人のことを「仏」といいますが、仏に導かれ、悟りの世界に触れることによって、この世は苦に満ちた迷いの世であるということがわかるのです。
そこで人生は苦であるとして、その苦とはどういうことでしょうか。
仏教では、自分の思いどおりにならないことを苦といいます。病気などで体が苦しいというのも、楽になりたいと願うにもかかわらず、なかなか自分の思いどおりに楽にはならない、そういう状態です。生老病死は、そのどれをとっても自分の思いどおりになりません。これは誰でもすでに体験していることです。また、生について考えてみると、この「生」は今生の「生」なのです(今生というのは、いまのこの世のことです)。そうすると、今生はどういう生なのでしょうか。この世は迷いの世であり、苦の世であるといいました。その迷いの世に私たちが生まれてきた、そのことが苦なのです。人は誰でも生まれるからには、自分にとって好ましい所に生まれたいものです。ところが生まれてきて気がついたら、迷いの世に生まれてしまった。そして迷いの世を迷いながら生きなければならない。これが苦なのです。
私たちはふだん自分の意志の力で生きているように思っていますが、はたしてそうでしょうか。夜寝ている間は生きるための努力というものは一切しておりません。ですから、生きるための努力はしていないが、目が覚めると生きていた、といったところが本当のところではないでしょうか。
では、昼間はどうでしょうか。昼間起きている時は確かに意志を持って、自分の力で動いています。仕事に出かけたり買い物に行ったりするのは、なるほど私たちの意志や努力によるものです。ところが、その意志は生きるための意志なのかどうなのか、考えていくとはなはだ疑問です。生きるための意志や努力とは、心臓を動かして全身の血管に血を送ったり、呼吸をして酸素を肺から吸収するということですが、どうやらこれは私たちの意志で行っているのではないようです。
では私たちの意志とは何かというと、多くは欲ではないでしょうか。仕事に励むのも、よりよい生活を求めてのことですし、食事も、空腹を満たしておいしいものを食べたいという欲を満足させる行為であるような気がいたします。生きるための意志や努力はほとんど持っていない、あるいはしていない、というのが実は私たちの毎日ではないでしょうか。
しかし、やはり私たちは生きています---いや、厳密には生かされています。夜も昼も、寝ている時も起きて行動している時も、生かされて生きているとしか表現できないのが私たち自身のこの世でのありようなのです。起きている間は自分の意志で生きているようにただ錯覚しているだけのことなのです。そこのところに、生物学的な生命と、いわゆる本質的な意味での命の違いがあります。ですから、私たちが呼吸をし、精神活動を営み、種を保存する行為に励むことの意味は、私たち自身があずかり知らないところで、宇宙開闢以来営々と続いてきたある種の秩序ある力を信じることによって有意義なものに転じるのです。しかも、時間というひとつの要素を感じとるからこそ、私たち人間だけがその枠組みの中で自らの生について、その始まりと終りを定めているに過ぎないのです。大宇宙においては、実は時間の存在を意識しているのは人間しかいません。
昨日から今日、そして明日へと物事が継続していると思うのは、極端にいえば、人間の錯覚であるかもしれません。
言い方をかえると、自分の努力で生きているわけでもないのに、今ゼロであって当然であるのに生きていること、これはいただきものの命であるということです。そして当然のことながら、今日の朝もいただきものです。使い古しの朝でなく、今日だけの、ただ今だけの真新しい朝の光をいただいているのです。気がつけば、自分の命を含め、この世における全部がいただきものということです。
仏教の各宗派に共通するお経として礼讃文というものがあります。
『人身受けがたし、今すでに受く。仏法聞きがたし、今すでに聞く。この身今生にむかって度せずんば、さらにいずれの生にむかってかこの身を度せん。』
現代語に訳すと、『生まれがたき人間として生まれ、聞き難き仏法を今聞いています。この命を、この人としての生のあるうちに明らかにしなければ、いったいいつ明らかにできるのか』となります。
仏教の教えを聞くことによって自分の命の本当の拠り処を明らかにすることがこの世に生を受けた生きがいだというのです。そしてその拠り処とは生死を超えた拠り処です。これさえあれば死んでいけるという拠り処を持つところに、人生の意義があるのです。
最近、脳死判定による臓器移植が日本でもいよいよ本格化しつつあります。しかし、この脳死-臓器移植について問題もあります。それは、いうまでもなく、命がその長さで判断されてしまいがちなことと、命の差別が生まれること、そして誰かの死を待つ心を持つということです。
医学や科学の進歩により私たちは、短命より長命、病気より健康を善とし、平均寿命より長く生きられれば幸せ者で、短ければかわいそうな不幸せ者といったレッテルを貼っています。つまり命の価値を長さで判断してしまっているようですが、それでいいのでしょうか。また、臓器移植に関して言えば、老人患者は明らかに臓器移植の対象となっていないようです。そこには果たして、老人よりは若い者の命の方が尊いという命の差別がないでしょうか。そして臓器移植の一番の問題は、誰かが亡くならなければ臓器移植が成り立たないということです。当然そこには、他人の死を心待ちにするという心が生まれます。こうした心を私たちはどのように正当化したらいいのでしょうか。
仏教は、命の尊さは長さではなく、また命に優劣はないものとして、「生のみに執着することなかれ、死もまた我らなり」と教えています。特に現代は生への執着が顕著となり、それが、臓器移植という延命技術の進歩によってますますその傾向に拍車がかかっています。つい五十年、いや二、三十年前まで私たちは、生も死も「お蔭様」という縁の世界の中での営みであることを理解していたように思います。
それに引き換え、現代の私たちはとかく目先のことにとらわれ、視野だけでなく心も狭くなって、ともすれば自分は自分の力で生きていると思いがちです。生かされている喜び、不思議なご縁ということを忘れて、自分の今生きている瞬間だけよければいいと考える風潮が蔓延しています。
現代は科学も医学も共に進歩し、DNA(遺伝物質)の研究のお陰で命の歴史を学ぶことはできるようになりました。しかし、いくらDNAの研究が進んでも命の根本がわかるということとは別問題です。DNAがいくら優れていても、幸運にも授かった受け難き命に気づかないで、小さな頭の中で自分の都合の良いことばかり考え悩むことは愚かなことでしょう。むしろ、DNA研究が、宗教心なき医学となる時は非常に怖い面を持つ可能性があります。
天文学の新しい知見によれば、宇宙は誕生してから約150億年経っているそうです。しかし、仏教的立場からすればその年齢は無始であり無限なのです。有限の無限なる宇宙ではなく、無限の無限なる宇宙といえます。つまり、私たちが、いま、ここに、こうしてあること、生かされている背景を知ること、それこそが釈尊のいわれる「天上天下唯我独尊」ということになります。この言葉は「ただ我独り尊い」という、そんな独善的な意味ではありません。この命が支えられている背景というものは、人が気づくと気づかないとにかかわらず、はじめからそう成っているのです。人間は自分で生きているのではなく大きな存在によって生かされているのです。
人間は自らの生命の限界を悟ることで存在なるものについて想い、その結果迷ったり悩んだりするからこそ宗教が生まれてきたのです。そして、人間社会とは助け合って生きているわけですから、ここが道徳となり宗教の示すところでもあり、他人に対するいたわりや思いやり、やさしさのない人とは悟りとはほど遠いと言わざるを得ないのです。
仏教というのは、この成っていることに気づかせてもらう、自覚させてもらうということが大切なのです。この気づかせてもらう、自覚させてもらうとは、よく知るということとは決定的に違います。よく知るということは、眼耳鼻舌身の五官による知覚、納得であって、あくまで知識の筋道だったものです。気づかせてもらう、自覚させてもらうとは、その五官を踏まえて成り立つ常識を放棄する心の作業です。修行してはじめて成るのではない、最初からそう成っているのだ、それを、成っていることを、修行することで気づかせてもらうということなのです。
人生五十年から人生八十年になって、私たちはいくらかでも命の満足を得たでしょうか。この先、仮に百歳まで生きても、百五十歳まで生きるつもりだったのに、あるいは百歳で死ぬのは不本意だ…と苦しまなければならないのは必定です。得れば、得たことでそのものに心が奪われてゆく。むしろ、何かをつかもう、どうしてもつかもうとするその手が緩んだときが、真に心から安らげるときです。それを知らせてくれるのが仏教の「智慧」というものです。
自然に身をゆだね、賜ったままに、「長くてもよし、短くてもよしと思えたとき落ち着ける。それこそ真の長生不死の法です。仏教は、奇跡で延命長寿をかなえてくれる教えではないのです。
逆に、死をぎりぎりまで見つめると意外なことに気づきます。まず、死は避けがたい現象であること。どんなに医学が発達しても死は必ず私たち全員におとずれます。避けがたい死を避けがたいと知ることが、死苦を超えることです。思い通りにならない死を、思い通りになると力むから当てが外れて苦しむのです。死んであたりまえと思えたとき、死が受容できる。老いてあたりまえ、病んであたりまえ、死んであたりまえ、生老病死を超えた境地であり、それが無常ということです。そして、死を見つめることで命の不思議さに気づかされます。人は思いがけず生まれ、思いがけず死んでいくものです。また生まれてから今日にいたるまで、所詮は思いがけない出来事の連続です。
情よりも知を重視する現代人は、いまこうして生きているその命を「我が命」としてとらえ、あたかも自分の究極の所有物のように感じています。しかし、その命について考えてみると、現実には自分でその帰趨を決定できません。なぜなら、私たちは自己を越えた大きな「はたらき」によって生かされ、突き動かされているからです。
仏教は、あらゆる存在が無常、無我であり、相互依存して、生かされて生きていることを教えています。何かに執着した固定的なものの見方から自由になることを示したものです。こういった普遍的な真理を学ぶことを通して、患者の病気が誰のせいでもなく、自然な道理としてありのままに受けとめながら、病や老い、死の苦しみを越えた真実に目覚めていくことをめざします。患者や家族は、悲しみを悲しみとして抱えながら、苦しみの闇をさらにつきぬけて、生死に左右されないみ仏に抱きとられ、深い安らぎや感謝の心が少しずつ育まれてくるといっていいでしょう。
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