何か悪い出来事に遭遇した人に向かって、「そうなったのは自業自得だ」ということがあります。自業自得とは自因自果ともいい、自分の行為の結果が自分自身に及ぶことをいいます。これは必ずしも悪い行為に限りません。そして、良きにつけ悪しきにつけ、「蒔かぬ種は生えぬ、刈らねばならぬ一切は自分が蒔いたもののみ」と教えるのが仏教です。
この世の一切は必ずそうならしめた原因があって生じたもので、固有の存在や偶然の出来事などで生じたものはありません。しかし、いかに原因があって果の成ることに定まっていても、その因だけでは果にはなり得ないので、その因を果ならしめることを扶助する縁がなければならないわけです。例えば、米はモミダネを因としてできます。しかしそれを畳の上に蒔いてはいつまでたっても米という果にはなりません。モミダネを米という果にするには土壌や水分や日光が必要であり、空気や肥料、人間の労力などの助けによってようやく米になるのです。こうした、いわゆる「因果の道理」は、仏教の重要な考え方のひとつとなっています。
それでは、自業自得の「業」とは何でしょうか。業とは、元来「為す」ことの意味ですから、身、口、意のそれぞれに対して善悪を造作し、苦楽の果報を受ける原因を指します。そして行為の影響が一種の力となって残るのです。その業力が因となって果を結び、善因には善果、悪因には悪果を招きます。釈尊といえどもこの道理に背くことはできません。否、釈尊自身がこの道理を自覚し、この道理に従うことによって悟りを開いたのです。
私たちは日々の行為によって無量の業を積み重ねています。その業は心身と共に常に存続します。今生の心身は離散しても業は残り、その業が次生の心身を生み出します。それはちょうど、ビリヤードで、手球の速力とその方向は必ず的球の動く方向と速力とを決定し、手球と的球は同じではなくともその間に密接不離な関係があるようなものです。
因果というと、時代遅れな言葉と思われるかもしれませんが、現代の科学が研究しているのも実は、物事の因果関係なのです。最先端技術を駆使した情報通信や宇宙開発も、因果の組み合わせで動いています。世界は無数の因果関係から成り立っています。仏教を開いた釈尊はこの因果の法則を人生に適用したに過ぎません。
人が生きていくうちにはいろいろな縁がありますが、その縁を「たまたま」と感じるか、「縁」と感じるかでずいぶん自分の存在感が違って見えてきます。この「縁」を強く感じていくと、日常の出来事がすべて繋がっており、それらが皆自分に深く関係して尊いものに思えてくるから不思議です。このような目で周囲のありようを見ると、他との境が消え、卑小な自尊心や意地が消えて、楽な気持ちになれます。
さて自業自得において、自らの業のどの部分が不幸を呼ぶのでしょうか。それは不幸を招く元となるある種の感情や欲望に起因します。人はその感情によって自らを滅ぼすものなのです。心が自由に物事を感じ、自由に表現したり、様々な世界を認識したりする行為を、感情が阻んでいるのです。また往々にして、感情のために正確な判断を失いがちです。記憶さえも混乱し、自分が思っている世界のみを現実だとして、過去の記憶を勝手に並べかえてしまいます。ところが感情によって歪められた世界は本当の現実ではありません。また、概して思い違いや勘違いを頻繁にする人は、感情の制御ができない場合が多いといえます。自分の思い込みでさらに激しい感情を呼び起こし、事態を複雑化し、人間関係を損なわせる。その結果、自分で考えてもみなかったような状況を自分自身につくり出し、「不幸である」と嘆き悲しむ。あるいは出口の見つからない不幸な状況を体験し続けます。自らの行為が自身にはね返るのは、その行為や言葉がその周りの人間に影響を与え、様々な不快な感情を引き起こし、その不快なものが自らに向けられたからにほかなりません。
人間として「生きること」とは何か、といえば、「自分らしく、よりよく生きる」ことに尽きます。ところが私たちが忘れているものは、ほんとうの自分とは一体何かということです。カネやモノに恵まれたからといって幸せになれるものではないことは、誰でも知っています。あの世に持って行けないこの世の預かりものであるカネやモノに翻弄され、いがみ合っている姿を、仏教では「餓鬼」といっています。そんな人生は到底幸せな人生とはいえません。仏教はそうした魂の所在や人生の価値を教えてくれるものです。その根本にある原理が「自業自得」です。私たちは毎日毎刻、いろいろな原因をつくってはその結果を得ているのですから、幸せになりたかったなら、それ相応の原因を生み出すより仕方がありませんし、悪い結果が現れたといって他を恨み、責めても仕様がないのです。過去の自分が犯した悪業が自分に降りかかる状態は、ちょうどブーメランが自分の手元に戻ってくるようなものです。自分を害する恨むべき相手、憎むべきものがあたかも外在するように見えるのも、自我に対する誤った見解から生じる利己心のせいです。すべての苦しみは、今までの自分の悪い業、すなわち執着心や利己心から出たものです。そう考えて、苦しみの原因を自分の心の内に求めるべきなのです。仏の教えは、己の心を制御し、そして他の人もそうできるように助けるということに尽きます。
人生の目的とは、自分の置かれた立場とその方向性をしっかり自覚し、自力によって可能な範囲を見極めることです。それと同時に、人生は一編のドラマでもあります。人生の途上において種々の過ちや苦悩があっても、それを反省し克服し、むしろバネにして、最後には人々にも幸福をもたらすようになれば、ハッピーエンドとなります。逆に、最初は正しい道を歩み人々にも慕われていても、途中で躓いて変節してしまえば、自身も不幸です。のみならず、周囲の人々さえ迷わせ、不幸へと向かわせかねません。それだからこそ、私たちは「過去の業」に縛られることなく、常に「今からは」、「これからは」という前向きな姿勢で「過去の業」をも生かしながら豊かな人生を築ていくことが求められているのです。
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