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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

自然法爾

 昨今は地球環境問題といった大きなテーマから、人間性のありように至るまで、「自然」という言葉が従来以上に深い意味をもって論じられるようになってきました。本稿では、この「自然」を私たちの心構えの中でどのようにとらえるべきか、について考えてみます。


 「自然」は仏教読みでは、「じねん」と発音します。「自然」とは、「他から力を加えることなく、自らそうなっていること」と解釈できます。一方「法爾(ほうに)」とは、ものが何らの作為なく、本来の姿において存在することを意味します。したがって「自然法爾」は、存在の本来的な状態で真理の法則にかなうこと、というほどの意味です。

 「自然」は、いうまでもなく、人間によって計画されたり、作為されたものではありません。人間の思量を絶したものです。自然に対して、しょせん人間はそのはたらきの成り行きに任せてしまうよりほかありません。そういう状況を「他力」といいます。それは「己」以外のものを信じ任せるということです。

 私たち人間は、ある一定段階まで心身が成熟してくると、自分の力では如何ともしがたい現実に気づき、たんなる自分の「はからい」では乗り越えられない壁につき当たる経験をするようになります。例えば、リラックスした状態が望ましいということは、確かに頭ではわかります。しかし実際の場面では、つい力が入ってしまう。心の深い部分でそのことを信じていないからです。臍下の一点に心を静めていればいいのに、つい心を上げてしまう。あるいは相手の激昂にいやおうなく反応し、心の波風を起し、術中にはまる。坐禅において、普段どおりの呼吸に専念していればいいのに、あれこれと呼吸の仕方を変えたり、坐り方を変えたり、つまらないことを考える。また、念仏の最中に雑念に襲われる。つまり、ありのままの天地を心底には信じきれていません。

 そうした人為的な「はからい」を捨てるには、絶対的なものを信じ任せることが必要になります。だからといって、似非宗教のように教祖を絶対視したりする盲目的姿勢でもいけません。天地の理は人間界にあるものではなく、また、天地の理に合わないことはどこかに歪みを隠し持っているはずです。それを見極める冷静な知性も、よく考えてみれば人に与えられた天地からの授かりものです。そのことを見極めた上で、知性と意志をフルに発動して、天地と一体となるべく心身統一の修行に邁進し、己の天命を全とうできる主体的な人生を見出していくことが肝要です。そうした善し悪しを離れた世界、つまり自然で、ありのままの自己に身を委ねた世界が「自然法爾」なる境地といえます。つまり、「自然に身を委ねる」あるいは「自然の中に生かされていることに目覚める」というのが大事なのです。それはキリスト教やイスラム教でも同じであって、宗教においては、結局「生かされている私」の発見というところに意味があるのです。人間の浅薄なはからいで生きるのではなく、大きな真実に包まれて生きているという自覚を持つことによって、自在な人生が得られます。それこそが仏教で言う「如来の本願」、つまり真実に身を委ねる人の姿です。

 人間の範疇で言えば、自己を超えた、というのが「自然」ということです。思いを超えた大きなはたらきが自然のはたらきです。自然な状態が一番安らげる、その自覚を持つことが大事であるといえます。もともと力む必要などないにもかかわらず、私たちは何かにつけて善悪・好悪の分別をして、それで苦しんでいるのです。また他と比較して優越感に浸り、あるいは劣等感にさいなまれている。ここから脱却しなければ、真の充足感は得られません。

 ただしここで気をつけなければならないことは、「ありのまま」と言うと、「自然体ということだから、何をしてもいい」と誤解する人がいる点です。何をしてもいいというのは、「ありのまま」ではなくて「わがまま」です。「ありのまま」は「わがまま」とはまったく違います。「わがまま」は我の世界です。我が先に立っている状態です。「ありのまま」というのは無我の世界です。自己を超え、自らの我執が消えている世界です。「ありのまま」と「わがまま」を混同することは断じて許されません。

 人間は一見強そうでいて、実は弱い生き物です。知性が備わっている分、過去や未来に対する焦慮の念に始終つきまとわれています。そして、高い建物のように、外部から引きあげる力よりも内面的に支える力がないと、人間はあっけなく崩れてしまいます。内面的な支えとなる大きな要素のひとつが宗教的な信心です。信心とは心を信じる智慧です。心を信じろといっても、自分の心を信じるのではありません。自分自身の中に生まれながらに具わっている大いなるいのちの心を信じるのです(大いなるいのちの心とは、「仏の心」あるいは「神の心」と言い換えられます)。加えて、そうした心を信じることのできる人が、おのずから智慧や愛や慈悲のはたらきを具えているといえるかもしれません。そして、私たちが逆境や危機に瀕したとき、逆に自分を取り巻く自然の山や川や、花や鳥、つまり森羅万象から、自分の生き方やあり方をうなずきとれる能力がいつしか体に備わるきっかけとなります。それは、人間も自然の一員であると私たちが謙虚に気づいてはじめて得られる心の開眼であるといえましょう。自然法爾の境地をめざしていけば、天地とひとつに溶け込んだ自分が見えてくるはずです。

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