我々人間はだれでも、自己一人のみでは生きていけるものではない。家族、隣人、自然あるいは世界の人びとの中にあって、意識するとせざるとにかかわらず、相い依り、相い関係しているからこそ生き永らえることかできるのである。
ところで、現今の科学技術の発達は実に目ざましく、従来不明であった宇宙の神秘、あるいは生物学の領域での「いのち」の神秘が次第に解明されるようになってきた。しかし、試験管ベビー、代理母出産、妊娠中絶、薬漬けによる「いのち」の延長、臓器移植等、自然なる生への人工的介入による「いのち」の操作が相当程度行なわれるようになった結果、科学に過度なまでの信頼が寄せられるようになり、これまで無条件に唯一絶対、超人間的と考えられていた神、仏に対する畏敬の念が薄くなり、人間万能と考えるごとき、高慢にして浅薄な科学への盲信者が多数生み出されるにいたっている。しかるにその反面、現代人が、日々のストレスのなかで心豊かに生きるべく、心の依り所を右往左往して求めているのも事実である。本稿では、人間にとって最も大切な「いのち」について、それが実は、仏の加護により生き永えさせて頂いている「いのち」であるということを、浄土宗の本義である「念仏申す」という立場から若干触れてみたい。
一般に「いのち」と言う場合は、いうまでもなく肉体的「いのち」のことを指す。「いのち」は生物の一種である人間が人間として存在し得る「本源的動力」であり、感覚、運動、成長、増殖等の生活現象を有機的に行なわしめる力と考えられる。その肉体の有機的体系の全的崩壊が「死」である。したがって、人間は一般に、死を恐れ、「死にたくない」という本能的欲望をもっている。古代中国の道教的思想に由来した神仙説話における不老不死薬の探求などはこうした願望によるものであるが、残念ながら人間の肉体的「いのち」は有限である。ちなみに、小乗仏教系の『倶舎論』では「いのち」は、心不相応決(肉体、心でないもの)の範疇に収められ、肉体および精神を存続・持続せしめる原動力とされている。また、浄土宗開祖法然上人はこの「いのち」のある肉体について、
「まして往生程の大事をはげみて、念仏申さん身をば、いかにもはぐくみ、たすくべし」
と喝破し、念仏申す人間の肉体的「いのち」を大切にすべしと説いている。
肉体的「いのち」が有限であるに対し、原初の仏教では六道輪廻、三世流転の説によって、流転する永遠の「いのち」を説いた。この考えの是非は一応おくとして、六道輪廻の「いのち」とは地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天人の六種の世界に生れかわる「いのち」をいう。それは、この六種の世界にちょうど車輪が廻って止まらないがごとく際限なく転生を続ける「いのち」のことである。すなわち、現実に生きる人間が六道世界のひとつである人間界に生をうけたものであり、その人間は本源的に生、老、病、死の四苦を背負った存在であるということを意味している。このような四苦の「現存在」は、原始仏教において、過去世の悪業によるものであるという考えかたから、現在苦を過去世の悪業の報いとして見る。さらに、現在の人間行為が原因となって、未来は六道世界の中のいずこにか生を受けるとする。因果応報の所以である。ここに説かれる「いのち」は迷い、苦報の結果としての「いのち」である。即ち、これは現実の人間苦を過去の悪業の報いとし、現在の人間行為が未来の苦報の因とする考えであり、因果応報の所以である。しかし、過去世の悪業、未来の苦報は実証できない。実証できるものは現実の生老病死の四苦のみである。だが、実証・検証できないから存在しないというのではなく、これは釈尊の言葉によって信ずべきものなのであり、したがって、この「いのち」は「三世に迷ういのち」であるということかできよう。
法然上人は、
「それ流浪三界のうち、いずれの界におもむきてか、釈尊の出世にあわざりし、輪廻四生のあいだいずれの生においてか如来の説法をきかざりし、……いま多生億劫をへてむまれがたき人界に生をうけ…」(「登山状」)
云々と述べているが、まさにこの「いのち」が「三世に迷ういのち」である。現在は有限の肉体的生命であるが、それは無限の過去より多生の流転の生を経て、人間として生れた「いのち」であるとするものである。このことは現実の肉体的生命(いのち)は無限の過去を背負い、永遠の未来を包むものであるという意味に解釈できよう。
さらにこの三世に流転する「いのち」について、法然上人は、善導大師の考えを継承して、
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫なり、億劫よりこのかた常に没し常に流転して出離の縁あることなしと深信す」
と説き、また、
「自身はこれ具足煩悩の凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出ずと信知す」
と述べ、現実の自身が流転の悪業を背負った罪悪、煩悩具足の凡夫であり、出離解脱の縁なき存在であるとの自省を表明する。しかし、ここに言う「いのち」は煩悩、罪業によって汚された三世流転の「いのち」である。
法然上人は、煩悩、悪業によって三世に流転すべき「いのち」をもった凡夫が、いかなる宿縁か不明なまま、人間として生を受けたという動かしがたい事実を直視し、そうした人間であるが、生死の苦を解脱することのできる浄土念仏の教えを聞くことにより、遇法・聞法の因縁を喜び、その価値を一人の人間の人生において意義づける。つまり、我々人間は、生老病死の四苦を背負った有限の「いのち」を有する、罪悪にまみれ、絶望と常に隣合わせの存在であるが、仏に対して聞法仰信し、称名念仏することによって、阿弥陀仏の無限の大悲に懐かれ、そのまま生死を超えた無限の「いのち」、すなわち無量寿に生きる境地を開くことができるという状況につながるのである。この境地を、法然上人は、
「いけらば念仏の功つもり、しなば浄土へまいりなん、とてもかくても此の身には、思ひわづらふ事ぞなきと思ひぬれは、死生ともにわづらひなし」
と説明し、有限の「いのち」でありながら、最も恐ろしい死を超えた無限のいのちに生きる「死生ともにわずらひなし」という安堵した念仏信仰に生きる心境を示している。このことが実は、『観経』に宣明されている。
「光明はあまねく十方の世界を照して念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」を意味することになる。
仏教思想において、阿弥陀仏は、四智、三身、十力、四無畏等の一切の「さとり」の智恵を得た万能の存在であり、十方世界の人びとのことを全て知りつくしている。そのような全知状態の「光明」を「身光」という。摂取とは正しく導き擁護することである。この「光明」を「心光」という。「仏は称名念仏するものを心光をもって照す」とは、仏の大悲心をもって衆生を教導擁護する、ということである。
仏は、我々が聞き、礼敬すれば見、念ずれば知り、憶念すれば、同様に仏も憶念する。その結果、仏と念仏者との呼応関係が生じて親しい関係を結ぶことができる。また、仏を見奉りたいと願ったならば、仏が目の前に現われるが、凡夫の肉眼では容易に見ることが出来ないものの、仏は常に眼前に存在する。そして、称名念仏すれば心の汚れが除かれて、現世において多劫の生死流転の罪が消え、人生の終末が到来する際には浄土に往生することができるのである。
人間は、先述のごとく、肉体的に有限の「いのち」を持った存在であり、生老病死の基本的な四苦を背負わされた「悲しき存在」である。それは、また、煩悩のために三世に旦って永遠に生死に流転する罪業を背負った凡夫である。
しかし、苦悩からの脱却、すなわち悟りを得るためのひとつの手段として、仏の御名である称名念仏を実践することにより、精神的に仏の護念を確信し、その延長線上に、肉体的寿命の概念を超越した延年転寿が得られるばかりでなく、仏の無量寿無量光の中に心身深く生きることができ、生死流転を超えた「死生ともにわずらいなし」という安心立命の境地が現前し、阿弥陀仏に依托した静謐で、安楽な生涯を送ることができるのである。このことこそ、絶対的に限りある我々の生涯において、(いつまで「いのち」が存統し、いつ終末が訪れるか未明であるとはいえ)全てを仏に任せきる生き方であり、無量寿の「いのち」の中に生きる人と言えよう。そうした人が、仏の「おかげ」で日々生かされていると自覚した「いのち」の人であり、日々喜びと感謝に生きる理想的な念仏信者といえるのではあるまいか。
人生の究極の目的は何か、と問うとき、そこには各人各様の答えが見いだされよう。しかし、上述のごとき仏道の教義を通じ、悟りの世界を自己の中に確立していく中で得られる、確固たる精神の持続が心身の健全性を保つ上で不可欠の要素であることはまちがいない。この要素を基盤とした「社会的存在」としての「自覚」により、肉体的に有限な「いのち」と、宗教理念的に無限な「いのち」を融和させることが、「労苦に満ちた」人生を生き抜く上で、ひとつの有益な指針となり得る。浄土宗の「念仏」は、その「融和」のための強力かつ堅固な精神環境を我々に提供するのである。
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