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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

「品格」を問う

 「閉塞の時代」とも言えるような現代の世相は、暗雲がたれこめて明日の姿がなかなか見通されにくい状況です。新聞の社会面を見れば、ただ殺すためだけの目的で殺すといった動機なき殺人のみならず、親殺しや子殺しまでが頻発しています。企業の世界でも、終身雇用や年功序列の制度が崩れ、能力主義という名のもとで、競争に敗れた者は「負け組」と蔑称されて社会的な疎外の対象となっています。高齢者も、年金問題や医療制度の歪みの中で、確固たる将来をえがけないまま不安を抱えて生きています。そうした時代背景においては、どうしても倫理道徳が廃れがちとなります。これまで日本人の品性や品格を裏打ちしてきたものはこの国特有のいわゆる「恥の文化」でしたが、近年、その「恥」の概念や基準もずいぶん変容しました。また昨今では人間の品格を問題にすることが非常に少なくなり、人徳や高雅さ、気高さといったもので人が評価されることがほとんどないのは、時代の特徴とはいえ、憂うべき風潮でもあります。

 人間の品格について考えてみると、これは人が窮地に立たされたときの行動ににじみ出てくるものです。普段の生活では、その人に真の品格があるかどうか、まず分かることはありません。人間の窮地というのは、言い換えれば、自分の価値基準を問い直されるような状況です。たとえば、最近よく報道されている謝罪記者会見の場においては、謝罪するその当人の人品、つまり品格が如実にさらけ出されます。品格は、その人が経験してきた環境や立場、責務、それに文化的な素地が加わってつくり上げられたものです。それは人間の生存に関わる部分ではなく、人間としての振舞いにあたる部分です。また、口に出してひけらかすものでなく、日々の積み重ねの中で自然とその人の中から醸し出される「空気」のようなものです。その人なりの矜持を保っている様が周囲におのずと感じ取られて、品格が生まれるものといえます。すなわち、当人が矜持を維持できるような環境にあるという精神的な「ゆとり」の証でもあります。品格(あるいは品性)の上下は元来、他者からの評価を前提にした価値判断のひとつです。したがって、本来、「自分には品格がある」と自ら吹聴するというようなものではないのです。加えて、品格とはもともと定義することが不可能なことばであり、しばしば恣意的に使われる傾向も強い。そして恣意的な用い方を通じ、「品格がある(上品)」と「品格がない(下品)」を線引きし、ある意味で人を上下に「差別」することばとして流通しています。しかし、何が上品であり、逆に何が下品なのか、その区分けは決まったものなどなく、ルール化されていませんので、「品格がない」と言われた者にとっては反論する手だてがありません。ある横綱のように、左手で懸賞金を受け取ることは品格を欠く所作だと言われて右手に直してみても、次には別の恣意的な基準が押しつけられ、「品格」は逃げ水のように目の前から遠ざかる一方なのです。

 現在、終身雇用制や年功序列制が姿を消しつつある背景には、雇用体系の欧米化ともいえる実力主義の文化が、実力主義に対する受入れの用意が整っていない日本になだれ込んで来ているという事情があげられます。そもそも、この「欧米の文化」と従来の「日本の文化」が同じであるはずはないのですから、日本人の道徳観がそのまま欧米の文化に適応できるはずはありません。日本人が持つ「謙虚さ」とは、欧米文化の中では「消極性」を意味し、日本人の「礼儀正しさ」は欧米人との間に「打ち解けない壁」をつくり、それがひいては相手に自分のことを誤解されかねない事態すら招く場合もあります。また、欧米人の自己主張の強さを日本人が表面的に模倣した場合、かえって行き過ぎた傲慢さにつながるということもよく聞く話です。しかし、日本人が「謙虚さ」や「礼儀正しさ」といった品格道徳観を失いつつあるのは、やはり欧米文化の普及浸透という「国際化」の一環であることは疑いのないところでしょう。そういう点で、「品格」を論ずるということは、この国から失われつつある「平等主義=反競争主義」をなんとか死守したいという一部の人々の意思の表明なのであり、そこには、これまで自分のことを「人並み」あるいは「中流」と見なしてきた人々の倫理観や道徳意識が色濃く投影されています。そして、もし「品格」ということばに一抹の懐古の趣味がつきまとうとすれば、それは、私たち自身が、高度経済成長がもたらした安定平等社会の終焉に立ち会い、その後ろ姿を見送っているからにほかなりません。また同時に、安定平等社会からの決別という苛酷な現実から暫しのあいだ目をそらすための、一種の幻想なのかもしれません。先の相撲界を例にとっても、「横綱の品格」とは、誰もその実体を的確に示すことのできない蜃気楼のようなものです。日本人のあいだからは気概と根性を備えた有望な新弟子がなかなか満足に確保できないので、東欧やモンゴルなど世界中の国々から成功に餓えた青年たちを掻き集めなくてはならないのが現実なのです。今や国技たる大相撲を支えているのは「品格に欠ける」とされる外国人ばかりだという実態を、誰もが認めざるをえません。その現実を覆い隠すために、「横綱の品格」なることばがかろうじて存在すると言っても過言ではありません。さらに広く日本の現実に目を向ければ、少子高齢化と職場の国際化に伴って押し寄せる外国人労働者、いくら働いても正社員になれない非正規雇用者の増大、なりふり構わず必死にならなければ生きていけず、「品格」ということばとは無縁に生きる人々が社会に増えつつあります。最近、書籍や雑誌で喧伝される「品格」ブームとは、戦後の日本人が築き上げてきた「安定平等社会」が消え去っていく過程で立ち現れる、最期の輝きのようなものかもしれません。しかし同時に、今の日本社会には、旧来の武士道的な「品格」だけでなく、新時代に即した「品格」が求められているようにも思われます。

 さて、世の中には、ただ単に「美しい」というのとは異なる「上品な顔」の持ち主がいます。とはいえ、どこがどうだからその顔が上品なのだと言い表すのは、かなりむずかしい。むしろ、一般に品格の有無を最も判定しやすいのは人の挙措動作からでしょう。すなわち、時と場所と状況にふさわしい礼儀作法あるいはマナーを心得て優雅に振舞う人からは、たしかに品格が感じられます。これは基本的に家庭での教育や躾によって習得されるものですが、そうした機会に恵まれなかった人でも、その後の人生のどの段階においても身につけることは可能です。しかし、一見、優雅な挙措動作で品格を感じさせるその同じ人が、目下の人に尊大な態度をとったりすると、にわかに品格に疑問が生じてきます。さらには、その人が目上の人には卑屈にへびこつらっているのを目撃したりすると、私たちはむしろ、品性下劣と感じてしまいます。そう考えれば、「優雅な立居振舞い」は品格の必要条件ではあっても、十分条件ではないようです。上の例から類推すると、身分制度が厳しかった昔は別として、現代の文化環境の中では、相手によって露骨に態度を変えるようなことをしないことが、品格を保つためのひとつの要件ということになります(もっとも、この場合の態度とは、見下したりへつらったりという種類の態度であって、相手の立場や能力等を考慮して、善意で態度を変えるのはこれには当たらず、場合によっては必要ですらあることは言うまでもありません)。他方で、「品格」には適度の自制心も求められます。金銭欲、物欲、権力欲、支配欲、性欲、さらには食欲ですら、度を越すと「貪欲」となり、品格とは正反対の「卑しさ」を強く感じさせます。そのほかにも、妬み、恨み、憎しみなどの敵対的感情も、余りにもあからさまになると「醜さ」が目についてくる。どれだけ度が過ぎると卑しさや醜さを感じるかは、見る人の感性や社会の許容度、すなわち文化によっても異なります。ある社会では、覇気のあらわれとして評価される「欲求の強さ」が、別の社会では、貪欲であるとして軽蔑の対象となることも珍しくありません。このように、文化による違いがあるとはいえ、個人や社会の中に、過度の欲望や敵対的感情に接した場合に多少なりとも卑しさや醜さを感じとる感性がある限り、適度に抑制された欲求や感情は好ましいものとして受けとめられ、卑しさや醜さの対極にある「品格」をかたちづくる要件となるのです。さらに言えば、「品格」に求められるものは、自分自身の確固たる価値観に支えられ、目先の利害で右顧左眄しない毅然とした姿勢です。それは、知性と理性が生みだす論理を世俗的な損得勘定に優先させるという、ゆるぎない意思がつくり出す姿勢でもあります。

 このように、品格とは、高い道徳観念に裏打ちされた感性が映し出す、ひとつの人間的な価値です。そしてこの価値は、これに接する人にほとんど例外なく好ましい印象を与え、人間の尊厳を実感させてくれるという意味で、社会的にも高く評価され大切にされてしかるべきものです。ただし中には、品格のある人や品格それ自体に反感を示す人が存在することも否定できません。そういう人は、品格が無制限の欲望の追求を制約するものであることを直感的に感じ取り、無意識のうちに抵抗しているのかもしれません。このような人たちにとっては、自分がどれほど傍若無人に振舞っても、周囲の人たちが紳士淑女のごとくに対応してくれるのならば、これほど快適なことはないでしょう。しかし、周囲の人たちも同様に好き放題のことをしたいと考えている場合には、話が違ってきます。品格のある人や品格それ自体に反発している人でも、他人が品格を欠いたり身勝手な振舞いをしているのを目にすると、癪にさわるものです。こうして、傍若無人な者同士が接触すると、そこに摩擦や争いが発生することになる。このような事態を防ぎ、できる限り多くの人々の快適さを確保するためには、社会が個々人の品格を高く評価して、品格を否定する人々を包み込み抵抗できなくしてしまう、質の高い文化をつくり上げることが必要でしょう。すなわち「品格」は、個人だけでなく、社会自体(あるいは国家)も備えることが必要な価値であるといえます。

 「品」を高める上で大事な点は、人も自分と同じような「欲」をもっているという現実を真正面から認めることです。その上で、自分自身の欲を意識的に浮かび上がらせ、相手と自分の欲に折り合いをつける。そのとき、相手の欲を優先させれば、それだけ品がよくなってくるのでしょう。したがって、見せびらかすより隠そうとするほうが、あるいはでしゃばるより控えめにするほうが、上品に見えるわけです。上品と下品の分岐点はまさにそこにあるといえます。そもそも人の性格には、二つの側面があります。ひとつは、生まれつき持っている「個性」、もうひとつは生後の習慣で身につく「品性」です。個性は生まれつきのものですが、品性は自分が気をつけて良い習慣を獲得してゆけば、良い品性を身につけることができます。習慣が品性をつくり、やがてはその品性が人の運命を大きく左右することになるのです。しかし、品性を備えたからといって、知恵や知性や感性ほど日常生活を快適にするのに役に立ちそうにないと感じる人は少なくないはずです。社会はまさに知恵計略が万能の世界です。日常生活の場で優雅に振る舞っていたら、小は電車の席取りやバーゲンセールでの争奪戦から、大は受験や出世にいたるまであらゆる競争に遅れをとり、結局は自分が損をしてしまう、と考える人の方が多数派なのではないでしょうか。本当は、互いに譲り合った方が、それぞれの必要性や必要度に応じて収まるべきところに収まって、社会全体としての快適度はむしろ高くなるのではないかと思われるのですが、そのようなささやかな品性の効用さえなかなか認められず、目先の知恵が最優先されるわけです。

  品性を欠く人々によって構成される社会は結局、万人による万人への闘いが展開されるか、逆に、万人の(闘う)自由を徹底的に制約することによって専制的秩序を形成するか、いずれかの方向に向かわざるを得ません。その点、現在の日本の社会が辛うじて自由と秩序のバランスを維持できているのは、混乱や抑圧を嫌う知恵や知性がいまだ健在であるからだと思われます。社会での自由と秩序のバランスをより安定して保つことができるかどうかは、その社会に生きる人々が、生活の知恵に加えて知性と感性と品性をどれだけ身につけているかにかかっています。一見あまり役に立たないように見える品性も、より快適な人間関係、ひいてはより充実した人生のためには、決して無視できない効用を持っているのです。特に、内面あるいは心の充実に関心を持つ人にとっては、どんな重圧にも屈しない自分自身の品性を感得するときに、自分は地球上でかけ替えのない唯一の存在であることを実感し、充実感を持つことができるのではないでしょうか。


 これまで日本人の倫理観は、単に自分の周囲の「人の目」だけではなく、ご先祖、先人や恩師、そして自分自身に対して「恥ずかしい」という感覚に支えられてしました。しかし、そうした恥の感覚が薄れ、「人の目」だけを気にするほどに「恥の文化」が縮小してしまい、それゆえ、「人の目」が気にならなくなれば何でもやってしまうというのが現在の日本人の姿であるように思われます。そこには決定的に欠けているものがあります。それは自分自身に対する「自尊心」です。自分自身に対する自尊心がある人間ならば、「人の目」がないところでも、何でもやりたい放題ということにはならない。自尊心とは自己信頼と言ってもよいでしょう。自己を信頼し、自尊心のある人は、日ごろの行動や振る舞いについて自分を恥じる気持ちが常にあります。しかし、自尊心が低く「自分など、どうせたいしたものではない」と思っている人ほど、人の目が届かない場では平気でどんなことでもおこなうものです。

 野に自生する山菜は人間の手で水や肥料を与えられずに育ち、鳥獣も人間の手でえさを与えられて飼育されずに大きくなります。そして、これら野生の動植物には自然素朴な風味、風格があります。私たち人間も同じく、俗世間の名利や習慣に汚染されなければ、その人間性は、おのずから気高くて品格もはるかに世間の人たちと異なっているにちがいない。かつて、東洋思想の大家であった安岡正篤(1898-1983)という人が次に紹介するような六か条の処世訓(「六中観」)を残しています(ちなみに安岡は戦中戦後を通じ、吉田茂をはじめとして歴代宰相や財界首脳の指南役と言われた人物でした)。これは品格を考える上で益するところが多いと思われます。

 「死中、活有」---人生は浮き沈みがつきものであり、「沈み」そうな場合でも、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」です。一身をなげうつ覚悟があってこそ、活路を見出す可能性が開かれます。まさに、座して窮すべからず。そうした気迫の中に、自ずと凛とした品性が漲ります。

 「苦中、楽有り」---人は生老病死の苦しみから逃れることはできません。しかし、苦しさの中に心にゆとりを持つと、苦しさが一味変わってきます。もう一歩踏み込めば、苦楽をつくり出しているのは自分自身の「心」にほかなりません。切羽詰まった状況下においては、現実をどうするかということよりも、わが心をいかに平安にするか、ということが大問題です。

 「忙中、閑有り」---私たちは、絶えず後ろから急き立てられて毎日を送っています。焦りの中に生きているといっても過言ではありません。しかし、そうした自身の日常を変えるには、やはり忙しさの中にゆとりを持つ以外に方法はない。多忙の中から得た寸暇が「閑」の真意であり、その人にとって本当の生きた時間です。一日の中で、自分の心を見つめる時間を生み出すようにすべきです。

 「壺中、天有り」---日常の中に心の別天地を持つことを「壷中の天」といいます。自分だけの別天地を持っている人は、いかなる逆境にあろうとも泰然自若としています。自分独自の世界を持ち、苦難にあっても心に余裕を持って生きていく時間、夢中に生きられる時間を享受できる精神状態が、「壺中、天有り」です。そこには、名誉とか利害などは一切ない。すなわち自分だけの存在感がある世界です。「壺中の天」を持つか否かによって、その人の品格風致が決まるといってもよいでしょう。

 「意中、人有り」---これは、自分の心の中に大切な人を持つべしという意味です。常に心の中に、自分が尊敬・敬愛している人物がいて、その人のようになろうと努力すること自体が人としての修養になります。むろん、「意中の人」は、生きている人とは限りません。今は亡き人たちでも意中の人となり得ます。

 「腹中、書有り」---「腹中の書」とは、自分の血肉となった愛読の書を指します。そして、腹の中に書物があるということは、心の中に確固とした信念や哲学を持つことにつながります。頭での断片的な知識ではなく、しっかりと腹の底にたくわえた哲学を持つ。それは、自分の心の中に人の教えがあり、信念と見識を養う優れた人生観をいかに持っているかということです。自分自身を導く座右の書を置いて常に修養に努め、人間として徳を磨くことが、とりわけ今の時世では大事でしょう。

 「自由」ということばがありますが、これは元来、仏教のことばです。「自らに由る」と書くように、独立自存し、なにものにもとらわれない悟りの境地をさします。それはまた、欲望に振り回されず、むしろ、それを自在にコントロールすることを意味する。したがって、そこには当然、自分自身のきびしい規律や節度が求められ、それが自然に備わってはじめて、自在に欲望を昇華させることが可能になるのです。そうでなければ、獣のごとき欲望に縛られ、不自由になってしまいます。私たちは自由と放縦とを混同してしまいがちですが、この二つは似て非なるものです。同様に、品位と気位もそれぞれまったく異なるものです。この違いをはっきりさせ、勝手気ままな行動に走る恥を知り、自分の節度をわきまえて、おのれの分に従って行動すべきです。わがまま放題が許されている今日ほど、品格を基本にすえた「真の自由」のありようが問われている時はありません。

 何のために自分は生まれてきたのか、なぜ自分は今生きているのか、という人生に対する根本的な問いにどう答えるか。それは仏教的な意味での、いかに「悟り」に到達するか、という問いでもあり、その問いを常に抱いていることが自ずと「心の品格」を考えていく道筋ともなります。いかなる場合も決して絶望や屈託に陥いらずに、先の「六中観」に代表されるような心の品格を養う努力を忘れないでいることによって、人生の苦楽がともどもに我が掌中のものとなり、それがひいては人生の喜びを享受することにつながるといえるでしょう。

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