最近は「遺伝子」や「DNA」などの言葉が日常でも頻繁に用いられるようになってきました。この「遺伝」という概念には、おおざっぱに言うと2つの意味があります。「伝えていく」と、「新しく生み出していく」という意味です。受け継いだものを伝えていきながら、同時に新しいものを生み出していくという二重の意味がそこには込められているのです。
「伝えていく」というのは、いわば共通性の問題です。たとえば、人が100人いれば、みな顔はちがい、当然ながら性格もちがいます。ところが遺伝子レベルでは99.9%共通しています。チンパンジーと人についても97%ほど同じであるといわれ、生物というのは総じて共通した要素に満ちています。そうした共通項を生物の子孫が連綿と受け継いでいきます。ですから科学的に見ると、人間を含むこの地球上の生物は時間と空間を越えて遺伝子でつながってきていると考えられます。
その一方で、遺伝には多様性の要素もあります。多様性というのは、新しく生み出していくことです。100%近くまで遺伝子が共通なのに、やはり人間はそれぞれ全然ちがいます。親兄弟のあいだでもまったくちがう。いわんや、チンパンジーと人はとうてい同じとは思えません。進化論によれば人は猿から進化してきたといっても、両者の差はやはり歴然としています。
遺伝という現象からこれらの点を総合的に考えると、遺伝子の問題は仏教に通じるものがあります。「多様性」の中に潜む「共通性」、あるいはその逆ということです。これを「一即多、多即一」と言います。つまり、多様性を軸にして、それぞれがバラバラでも究極的には同じであるという考え方です。この「相違と同一を等しく認める世界」というのは、命を差別すべきではないという仏教最大のテーマにつながっていきます。現在確認されているだけでも地球上には約130万種もの生物が存在するといわれています。しかし、こうした多種多様な生物も、約35億年前に誕生したであろう一種類もしくは数種類のごく原始的な生命体から進化してきたものなのです。
ところで、「多様な価値観」という言葉もいまや流行語の感があります。これについて思い出されるのは、「盲人と象」という6人の目の不自由な人が象をさわったときの様子を描いた仏教寓話です。象の鼻にさわった人は「象は蛇のようだ」といい、耳にさわった人は「団扇のようだ」といい、足にさわった人は「木の幹のようだ」といい、胴にさわった人は「壁のようだ」といい、尻尾にさわった人は「縄のようだ」といい、牙にさわった人は「槍のようだ」といって互いに自説を譲りませんでした。そこへ釈迦が通りかかり、彼らが言い合っている有り様を見て、「これが人の世の姿である。それぞれが自分の小さな世界に閉じこもり、善悪を自分勝手に決めて大きな真理の眼を得ようと思わないのだ」とつぶやいたということです。
象の全貌を把握するためには、そのさまざまな部分を尊重して全体を模索しなければなりませんが、一つ一つの箇所だけを単独に盲信してしまうと、いったいどれを信じていいのか分からなくなります。つまり、多様性だけを無自覚に重んじる姿勢を続けると、むしろ混乱しか生じないという可能性があります。そこには各部分相互のあいだにまったく共通性がないからです。したがってある物事の全体像をつかむためには、多様性の中に潜む共通性を探り、新たな秩序や体系をつくらなくてはなりません。上記の寓話は、人間の認識力がいかに偏見に満ち、そしてその範囲が限られたものであるかを示す好例です。ただし、もし彼らひとりひとりに、象の表面をくまなく触って報告する機会が十分に与えられたならば、その報告を総合して立体的な象の姿を想像することはできるかもしれません。多様性の問題ではこのように、共通した認識をもとに議論を進めなければ、いかに物事の本質からはずれていくかという点を常に考えることが求められます。
現代人のあいだには各人の価値観やライフスタイルに変化が生じつつあります。すなわち、合理性や画一性の下に組織されてきた社会機構に対する疑念と嫌悪です。その結果、多様性に基づいたさまざまな新しい価値観が生まれるようになりました。その一つとして、個人の自由や主体性、つまり「私という個人がどう在りたいか」といった側面にいっそうの重点を置く価値観が挙げられます。人々の関心はこれまでの「所有」優先の考え方から、「存在」そのものを大事にする見方へと移ってきているのです。またその一方では、多様性や差異性に重点を置く傾向が行き過ぎた結果、個人の多様性や差異性に依存した不確実であいまいな価値観が社会のあらゆる分野に広がるようになりました。しかし、そうした不確実性が支配する世間を生きるということは、国や社会の安定的な後ろ楯がない、いわば羅針盤を欠いた状態で荒海を渡っていくようなものです。つまり、自分の人生は自分次第という事態に直面するのです。不確実な社会状況の中で自分の人生を自分で築いていくには、自己の能力と意思をどのように主体的に発揮していくかという強い決意が求められます。現代社会は否応なくそうした方向に進みつつあります。こうした状況において私たちがまず念頭に置くべきものは、自分がどう在りたいか、つまり自分の真の人生とは何かを問いかけるという、自分自身に戻って考えることの重要性でしょう。
多様性を人間関係の面から見ても、私たちは日常においてさまざまな人々と出会います。各人各様の考え方や思想、価値観にも出会っています。中には、自分自身を受け入れてくれない人もいれば、陰で悪口を言ってる人もいるかもしれない。しかしこれらもすべて対人関係における多様性あるいは多面性の一要素であることはまちがいありません。多様な人間関係を持つ上での悩みは、極論すれば、人との接触を通じて時として生じる不愉快な感情をどう受け入れ、どうコントロールするかということに尽きます。好むと好まざるとにかかわらず、自分とは異なる考え方をする人と相対せざるを得ないからです。自分とまったく同じ価値観の持ち主を見つけることは非常にまれであるといえます。結局、いくら人生経験を積んだからといっても人々の多様な価値観をすべて受け入れることができるとは限りません。また、自身で多様な経験を積むのにもはっきりした限界があることはいうまでもありません。
基本的に多様性の意義を認めることに吝かでない人でも、そうした多様な社会・人間模様の中に身を置くことに疲れ果てると、逆に物事を単純化してしまう傾向が生じてきます。その方が現象を理解しやすいからです。しかしそこに落とし穴が待っています。意識の中から多様性が失われ始めると、にわかに偏見が生まれ、相互の理解が阻まれるようになるからです。逆に、多様性を意識し過ぎると、他の人の行動や業績が気になって自分に欠けているものやまわりの情況にばかり目がいってしまい、いつまでも心が満たされません。また、モデルとなる生き方が多すぎて何を目指して生きていけばよいのか、さらには自分にとっての生きがいとはどんなものかが見失われてしまいます。
ここで少し方向を変え、生きる意味という問いについて考えてみます。この問いは根本的に、命の有限性を前提として成り立つものです。限りある能力と限りある命であるからこそ、大事に生きたいと願う気持ちが私たちのあいだに芽生えることは疑いありません。もし人が不老不死であるなら、生きがいなど考えたり悩んだりは決してしないでしょう。生きているということ自体の意味が存在し得なくなるからです。「生きる」とは、死を前提としてはじめて存在する概念です。ですから、生きがいを得たいと思うなら、限りある命という前提条件を今一度よく認識する必要があります。生きがいのもう一つの側面は、それが心の中に住むということです。死への恐れや飢えへの恐れも心の中にあります。こうした恐れを共有したからこそ、昔から人は寄り添って助け合い、協力し努力し支え合ってきました。飢えという共通の恐れを克服しつつある今、人が共有できる恐怖、つまり自らを弱いもの同士と思い合えることは、生の根本に横たわる最後の砦です。私たちは最も根源的な生命の有限性に目を向けていないために心が空虚になり、寄り添って生きるという社会の絆が失われるのです。そのために、漠然とした「価値観の多様性」という一種の精神的に不安定な状態を自ら招いているといえるかもしれません。
仮に死を無と捉えるなら、必然的に生は有という存在になります。しかしよく考えれば、厳密な意味で死とは「無」ではありません。「無」と考えるから意味を失い、思考の埒外に追いやられてしまうのです。自分の存在に対する意味付けが「生きがい」の正体であるなら、死の意味に直面しなければ生きがいというものが浮かび上がってこないでしょう。例えば、今自分がこの世間から消え去ったとしたら後に何が残るだろうかと想像してみます。もし、自分の蒸発を意に介するような者は誰もいないだろうと思えたとしたら、その人の人間としての存在はもはや意味を失っているといえます。自分で自分の存在をしっかりと自覚できるためには、他者との関係が存在するという状況が必要です。人の存在価値を定義するとすれば、「他者との連帯した共通意識が存在してはじめて成り立ち得る」価値であるといえるかもしれません。無人島に一人取り残され、生き続けたのちに死に臨むとき、果たしてその人には生きがいがあったと思えるでしょうか。多くの漂流物語では、人は必ず日記のような記録を残そうとしています。いつか誰かに自分の存在を認めて欲しいと願うからではないでしょうか。一人の人間がこの世の「ここ」に生きていた事実を誰かに知って欲しいと思うのは、自分の存在が多様な他者との関係の上でしか確かめられないということがわかっているからです。そうであるとすれば、自分が生きていた歴史が他の人の価値観につながっていると証拠立てできて実感できることが、「生きがい」の実体であるといえるでしょう。
私たち人間もかつては、他の動物のように自分の今現在の生だけを精一杯生きていければよかったのですが、明日すなわち「未来」を想像する力を獲得したために、死を意識するようになり、その反動として生きがい探しの苦しみを背負わされています。私たちは自分の存在を自分のみならず、まわりの人との関係の中で確認しなければ安心ができません。生きがいとは生命の有限性の中で他とどのように関わり合えたか、その関わりがどれほど確実なものであるかという尺度で測られる価値基準のようなものなのかもしれません。自分の存在が他の存在にとって役に立つものであり、たとえ捨て石であってもそこに意味を認めてもらえれば、それは生きた証となります。これこそが、人が持つべき最高の価値基準です。この基準に当てはまることが生きがいになります。価値観は多様であるといわれますが、多様な価値を判定する「原器」という基準をここで忘れてはなりません。古代ギリシャの哲学者アリストテレスが指摘したように、人間は社会的な存在です。他とのつながりが、生きていくために必要不可欠なのです。しかしそこでは、個人が持っている価値観は他の人の価値観と換算ができなければなりません。メートルと尺とフィートなどの長さの尺度はさまざまであっても、同じものは同じ長さとして認め合わなければなりません。ある人は1尺の棒、ある人は30センチの棒、ある人は1フィートの棒などとそれぞれ別々の尺度を使っていても、これらの3人の持つ棒は同じ長さであるという前提条件が欠かせません。つまり、個人的な価値観に対しても人類社会共通の基準が必要であり、換算し合う心遣いが不可欠なのです。したがって、多様性と共通性の意識を常にバランスよく保てることこそが、これからの時代を泰然自若として生きていく上で求められる要件のひとつとなるでしょう。
話を再び生物の世界に戻すと、生命科学の進展によって生物を構成する分子の共通性、遺伝情報の伝達の経路の共通性などが解明され、あらためて、人間が生物として他の生物と変わりないこと、および「ヒト」という生物としての人間が再認識されるようになってきました。また、クローン技術によってほぼ無限に同じ遺伝子の個体生成が可能になり、新薬の開発や食物の増産などへの利用可能性が広がりつつあることは周知の事実です。その反面、生物の「種」とは何か、という生物の根本概念がますます曖昧になってきています。「地球にやさしく」というような発想は、自然が制御可能であることを前提としており、人間圏の中に生物圏が含まれるという、たいへん驕った考え方です。生物圏から人間圏が少しはみ出しているものでもなく、本来は、人間圏は生物圏に含まれていると理解すべきです。現代社会では、生物種としての「ヒト」と、文明をもった「人」が分離しています。しかし、人と人との関係で生まれる情報と、ヒトと自然との関係であるエネルギーや物質は、地球全体の安全と繁栄を確保するための両輪でなければなりません。
「生命倫理」という言葉も最近よく使われるようになってきましたが、これを学ぶ最大の目的は、私たち人類がこの世のあらゆる存在と分かちがたく結びついていて、すべては一つ(共通)であるという感覚(万物一体観)の涵養です。ですから、人類の幸福だけを追求する功利主義的な生命観から脱却して、あらゆるものが相互に支えあって生きているという「縁起」の生命観に方向を転じていくべきです。生命工学は人類の生み出した成果の一部であり、それ自体は善でも悪でもありません。とはいうものの、そうした新しい学問の応用にあたって、私たち人間の欲望は際限がなく常に過ちをおかすということを自覚しておくべきです。技術の利己的な利用は、言うまでもなく他の生命体の尊厳を一方的に傷つけ、ひるがえってその技術による改変が人類をも傷つけます。したがって私たちには、他の生命体の視点から世界を見る力を培うことが求められます。そのためにまず、人類の抱える多くの問題が人間の優越感に根ざしていることを認識したいものです。あわせて、自分とあらゆる存在との調和と一体感を育んでいく必要があります。この「自他一如」の生命観、すなわち、あらゆる生命の共生を願う姿勢を持つことによって、生命工学の成果がよりよい形で応用されるはずです。その前提として、あらゆるものを物質や数式に還元してとらえるのではなく、あらゆるものがそのままで独自の存在意義を持っていることに気づくということが大事でしょう。そのためには、「無常」の教えを生かすことです。この教えが私たちに与えてくれる知見とは、あらゆるものは因と縁によって生じ、移ろい変化して滅するということと、それと同時に、あらゆるものは時間の変化につれて変貌し、成長を遂げていくということです。つまり、科学技術やその応用をわけもなく罪悪視するのではなく、科学の進展も「無常の一つの姿」であると受けとめていくことが望まれます。私たちの生活は電気、ガス、水など衣食住からコンピューターや医療にいたるまで、科学技術の恩恵に計り知れないほど浴しています。科学技術をすべて罪悪視し、否定して自然の摂理に回帰すべしという主張は、本当の意味で科学技術の知見を理解したことにはなりません。そうではなく、無常の知見をもって、死すべき命の道理を受けとめつつ、新しい科学技術をよりよい方向に主導していくことが肝要です。
世情のあらゆる苦しみは、無分別によって引き起こされます。人は概して、幸福や満足を自己中心的に追求することで他の人に苦痛を与える原因をつくり出しています。今日私たちが直面する暴力、自然破壊、貧困、飢餓などの諸問題は、元をたどれば人間が自らつくり出したものです。それは、ある意味で「価値観の多様性」を求めて欲望をひたすら増大させてきた結果です。「他の人とは違う自分」という意識が過剰になると、逆に孤独感や切迫感が募って自我が強く出てしまうのです。
釈尊はかつて、「すべての存在が互いに結びつき、支え合っていること」を悟りました。縁起とは、因縁生起とも表現され、他との関係が縁となって生起することを原意とします。「これ有れば、かれあり。これ生ずるがゆえに、かれ生ず。これ無ければ、かれなし。これ滅するがゆえに、かれ滅す」。生命に対する仏教的視点は、一つの生命はあらゆる生命と物質を維持している相互関係の壮大なネットワークの中で生存しているということに尽きます。そこは多種多様な世界ですが、相互に関係し合い、究極的にはあらゆるものが一つ(つまり共通)です。したがって他の存在の意義を尊重しなければ、それはひるがえって自分の存在の意義を否定することにつながるでしょう。一つの生命はあらゆるものと相依相関し、相互に愛され、求められながらかけがえのない存在となっていきます。
仏教では、すべてが始めの因において結果まで定まっているという宿命論のような見方をとりません。すべての存在価値が運命によって定まっているとするならば、この世において善い行いをするのも悪い行いをするのも運命であり、幸・不幸も生まれながらに運命によって決まってしまい、運命の他に何ものも存在しないことになります。「これをおこなうべきである」あるいは「これをおこなってはならない」などという規律や指針も無益なものとなり、そうなれば世の中の協調や進歩を望むべくもありません。そうではなく、仏教では、すべてが因と縁とに基づいて絶えず変化するという自覚によって、自他両者が意識的により良い関係維持をはかっていくことをめざすのです。縁起の生命観は、人間個人の利益よりもむしろ、あらゆるいのちの関係性とその調和的な共生を重視します。あらゆる命の関係性を重視するとは、自分と他の人との相互に恩恵があるということです。
他面、この世に存在するすべての現象は、磁石のプラスとマイナスのように対極を持ちます。光と影、生と死、豊饒と飢餓、包含と排除、さらには人間の心にある合理性と情緒性など、常に対立しているのです。時として「両極端は相似通う」ということがありますが、両者は各々その存在基盤を失うことなく、ただそれらが回転し、入れ替わるだけなのです。その描く軌跡は、いわば遺伝子の「二重螺旋」と同じようなものです。まさに「あざなえる縄」です。仏教表現を借りれば、この世界は二重螺旋の構造が「遍満」しています。たとえば地面の上に白紙をおいて、直線を描いてみるとします。何枚も紙を継ぎ足して直線をつないでいけば、やがて地球を一回りして元の場所に戻って来ます。直線がいつしか曲線になっているのです。ここで、直線と曲線という対極にあるものが関係において共通性を持っています。あるいは人工衛星の動きを考えてみると、これは引力と無関係ではありません。厳密には絶えず落下し続けているのです。ですから、飛ぶことと落ちることは互いに関係し合う共通性を持ちます。このように、この世の現象はすべて多様性と共通性の関係の中に含まれます。そして、直線と曲線あるいは飛行と落下は互いに尻尾をくわえながら走り回る黒と白の二匹のネズミのように、絶えず連続的に位置を変え、回転します。ところがあまりにも二匹のネズミの回転スピードが速いと、まるで一個の灰色の物体のように見え出します。しかしそれは、誰でもわかるとおり、見かけの姿なのです。実は連続回転する対立物、すなわち二匹のネズミに過ぎません。対極にある物は独立に存在し、決して無くなることはないため、その回転は対称的な二重回転となります。しかもこの回転は、時間の変化につれてその有り様を変化させます。これがいわゆる「進化」ということの本質なのかもしれません。しかし「進化」の基本軸はあくまで「時間」であって、価値判断という「評価」の軸ではありません。進化そのものには優劣も、また高低もないのです。この世のあらゆる生物、あらゆる存在は時間の流れに沿って、「進化」の軌跡として二重螺旋を描くのです。つまり、生物全般の営みは、多様性と共通性という二重構造によって支えられています。生物の集団、個体、細胞、分子など、どのレベルでも生命の維持と種の保存のために示すさまざまな機能と構造の多様性が見られます。しかし一方、遺伝子の暗号ルールや基本的な代謝経路における共通性も見られるのです。
「現象は多様、根源は共通」あるいは「一から多が生ず」というのは古代インドの考え方です。世界は、根源的な一つのものが多様なものとして展開した姿であるという考え方です。約150億年前のいわゆるビッグ・バンからこの宇宙が始まったというのが現代科学の立場ですが、最初は一点だったこの大宇宙が無限の多様性の中に展開するようになり、現在もその多様性の中で地球上の創造過程が進行中であるという状況は世界最古の哲学の「一即多」という視点とまさしく同じ、ということは驚嘆すべき合致です。原子や分子のひとつひとつにいたるまで同じのものは何一つない無限の多様性こそこの宇宙の姿ですが、「多の根源は一」なるものです。表面的には多様であっても、私たちの体も含めて同一のものが多様に表現されたものです。多様性の根源を見つめれば、自他の境がない「一つ」であることが見えてきます。
では、「多様性」の原点を私たちの心性に求めると、どういうことになるのでしょうか。円錐をある角度から見れば、それは三角形であり、また、円でもあります。少し斜めから見たときには、円錐という立体として見えますが、その円錐も、視点の高さによってずんぐりした底面の広い円錐にも、またそびえるような背の高い円錐にも見える。つまり、「視点」ごとに異なった「見え方」があって、それは同じ人が次々に視点の位置を変えるだけでも無数に存在します。しかし、実体のある物質としての円錐は一つしか存在しません。「見え方」がいろいろ存在する、という言い方は奇妙ですが、誰が見てもまったく変化異同のない「実体」でなければ「存在」しないのだと主張すれば、世の中に「存在する」と言われる事物の大半は「無い」ということになってしまうでしょう。一人の人間の中でも無数の視点があるだけでなく、人が違えば視点がさらに無限に異なることはいうまでもありません。ある実体のどの方向に自分が位置するかによって、「見え方」が異なるだけでなく、「見え方」の修正や、どうすれば他の「見え方」が得られるかということも決まってきます。こうした現象について、心理学の世界では「多義図形」(ロールシャッハ法など)という二次元の絵を使ってよく説明されます。例えば、ある特殊な図形が人によってはアヒルに見えたり、若い女性に見えたりします。しかも、この場合は視点の相違というよりは、見る人自身の特徴的ちがい、例えば若い男性には若い女性に見える確率が高いといった、もっと人間的な要因がはたらいてくるので、それを利用して心理テストがおこなわれるわけです。つまり、多様性を考えるときに大事な点は、異なった人ごとに、あるいは同じ人の中でも、見る位置(視点)や性質についての印象のちがいによってさまざまな意味が付け加えられるということです。
総じて言うと「多様性」は、さまざまな要因が脈絡なく無秩序に集積散乱した私たちの「現実」の生活に根ざしています。そうした現実から遠ざかれば、「多様」な経験の数は減少せざるを得ません。しかしそのような世界に生きる私たちであるからこそ、一つの視点、一つの文脈、一つの立場だけで生き通すことができないのは明らかなはずです。ですから、「多様性」を否定した生き方は非現実的であり、また逆に「多様性」を無定見に追求することは必ずしも幸福や安楽さにつながらず、時には争いや葛藤の原因になるという点も忘れるべきではないでしょう。
この世の中はある意味で部分が全体を代表し、全体は部分で表現されています。繰り返して言えば、「一即多、多即一」とは、宇宙全体がお互いに交じり合いながら流動しており、「一」という極小の中に「多」すなわち極大が含まれ、極大である「多」の中に「一」という極小が遍満しているということです。「一」に自分自身を置いてみると、この自分の中に社会のみならず、全世界の一切、果ては大宇宙が含み込まれていることが了解されます。そうであるならば、大宇宙とまではいかなくても、たとえば昨今次から次へと起こる忌まわしい事件は、決して他人事などではなくて、実は自分自身の事件でもあるのです。自分の持って生まれた業が良いか悪いかなどと分別することは人間の側の分別であって、仏の世界から見れば善悪は一つのものの両面であり、一即多の原理から言えば、どのような業であれ全体世界を支えている貴重な要素の一つであり、それを分別・分割することは世界全体の歪みにつながるわけです。
一方だけを見て他方を拒絶するような価値観では真の世界が見えてきません。たとえば「自分」と「他者」の関係を考えてみると、多様な他者の存在があってこそ、自分を知ることができます。しかし多様性とは、バラバラということではありません。人間社会でいえば、人間にはひとりひとり個性がありますから、実際の行動や表現は異なってきます。その上でそれぞれに懸命で真摯な行動や表現が寄り集まれば、やがてごく自然に調和のある多様性が体現されてくるはずです。
遺伝子は親から子へ、子から孫へ、人の生命の基本的な情報を受け継ぎ、人としての基本的構造と機能を形づくりますが、同時に人は環境によってさまざまな影響を受けます。各々の遺伝的特徴は個人の独自性と唯一性を示すとともに、人類全体が多様であることをあらわすものです。それゆえ、何人も遺伝的特徴の如何を問わず、むしろ「共通性」を重視しながら互いに平等であるという意識を保ち続けることが現代において特に望まれます。いわゆる「ゲノム」の研究やその成果の応用は、今後さらに人間の生命や生存についての考え方をまちがいなく大きく変化させ、社会に影響をあたえる可能性があります。しかしそこから見いだされることは、万物の意外なほどの「共通性」です。物質や細胞、宇宙の構造は「部分が全体を包摂し、全体が部分に集約」された世界です。一つの細胞からクローン人間の創造が可能であるというのも、この理論の合理性を証明しているものと思われます。この考え方をさらに発展させて、私たちが直面しているいろいろな問題に対しても、従来のようにそれを部分として個別に分けて考える立場から一歩進んで、全体像を把握しつつその全体現象が象徴的にあらわれた部分として各々の問題をとらえるという観点が必要でしょう。あわせて、ある一つの瑣末な問題の中に、全体の「病理」が意外と隠されているのではないだろうかと疑ってみる視点も、今後ますます大事になってくるにちがいありません。
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