仏教では、わたしたちが常日頃気をつけるべき有害な毒として三つをあげています。それは、貪(トン 貪り)、瞋(ジン 怒り)、痴(チ 愚かさ)であり、これを『三毒』と呼びます。このなかで、「瞋」すなわち怒りや恨みの毒が最も有害であるといわれています。
普段わたしたちは、たとえ顔に出さないにしても、些細なことにすら「怒り」の気持ちをしばしば抱きます。たとえば、複数の行列があり自分もその一つに並んでいる場合、隣の列は順調に進んでいるのに自分の行列だけ著しく滞っていれば、なぜそうならないように関係者は対応しないのか、という怒りをおぼえます。また、人に何か物事を依頼してあった場合、予想通りに(締め切りあるいは品質の面で)仕上がっていなければ苛立ちを感じます。その逆に、やらなくてもよいことをやってくれた場合にも腹立たしさを覚えます。さらに、自分が他人のために何かをおこなった場合に、それに対して何も返答や礼がないならば、苦々しい気分ちになりがちです。
怒りは、わたしたちにとって最も普遍的な、そして頻繁に経験する感情の一つです。事実、それを表わすことばは数多く存在します。怒り、憤り、立腹をはじめ、その程度が激しい場合には、激怒・激昂などの表現があります。また、怒りの現われ方や性質については憤慨、憤懣、憤激、義憤などが、そして怒りが長期継続的な場合には、恨み、遺恨といった言葉が与えられています。そういう意味で、「怒り」という感情をめぐる考察が、古今東西の哲学者や宗教家にとって大きな議論のテーマであったことも、頷けるところです。
怒りがわたしたちに事態改善の行動を促したり、あるいはそれを後押しする場合には、それは必要なものですが、通常は、特定の個人に向けられた陰湿な感情として現われることが多いものです。怒る(腹を立てる)ことは、実は自分自身の大きなエネルギーをそれに注ぎ込んでいることを意味します。また、怒りを露わにした場合、なぜ自分があの時そのような態度をとってしまったのかと、事後的には不可解に思って自己嫌悪に陥ることも一再ではありません。これらのことから考えると、怒るという現象は、感情的にも身体的にもいわばある種の心理的な袋小路に直面している状態である、とみなせます。とはいっても、現実の場で怒りの感情を直接コントロールするのは、「言うは易く、行うは難し」です。
では、そうした状態から抜け出すにはどうすればよいのか。それは、怒るのではなく、むしろ逆に「許す」という、まったく反対の態度(寛容)を取ればよい、という話はよく聞きます。しかしたいていの場合、許せないからこそ怒っているわけですから、論理的に考えると、それは一見矛盾しているようにみえます。ところが、多くの書物や宗教的教え(仏教やキリスト教)が示しているように、やはりそれが解答であると言わざるを得ません。特に、長い年月からの怒りを抱え続けているとき、すなわち「恨み」を抱いている場合には、恨みをもたらした原因が自分の落ち度によるものか相手の落ち度によるものかはもはや問題ではなく、何ら益するところのない抑圧された感情が自分に覆いかぶさっていることこそが問題と言えるからです。
ここで大事な点は、怒っている対象相手を許すこと、つまり寛容になることは、決して心の弱さを示すものではなく、むしろ強さを示すものであるという確信を抱くことです。そうすることによって、それまでの囚われた感情から開放され、より健康的な精神を取り戻すことができる第一歩につながります。そうすれば、自分の人生や周囲を見る目も変わり、自己のエネルギーや気持ちをより建設的な方面に振り向けることが可能になるわけです。つまり、相手を許すことは、逆説的ではありますが、当人にとって真の精神的健康をもたらしてくれる。その結果、わたしたちは怒りや恨みによる鬱屈状態から脱出できるのです。「寛容」には大きな力が秘められています。このことは、賢人たちが古来から説いてきたことです。たとえば「相手を許しなさい、そうすれば汝も許されるであろう」、「恨みの対象となっている人のために祈りなさい」などの教訓は、こうした大きなパラドックス(逆説的真理)を示すものといえます。怒りの感情を持っている場合、(たとえそれが心情的にきわめて抵抗がある場合でも)思い切って「許す」という気持ちに切り替えることには、心身の健康保全のためにきわめて積極的な意味があることだけは医学的にも心理学的にも確かでしょう。怒りは、多大なエネルギーの消費を伴います。怒るよりも、むしろ意図して許すように努める方が、エネルギーの使い方としても、また自分の精神上も断じて得策です。
その一方で、「怒り」の感情は本来的な性格に起因するものではなく、主として何事かへの反応として生じるものであり、怒りは、今この場に存在する正当かつ客観的な理由によって引き起こされるものとみなす考え方があります。したがって、それは悪ではなく、意味のある感情であり、抑圧したり否認してはならないという意見があることも事実です。その場合、反応としての怒りを示す自由によって、より正直に振る舞うことができ、状況を改善に向かわせることもできるようになります。
人間の心は映写機のようなものです。人から責められているように感じるか、相手に苛立たされているとみるかは、自分が何を知覚し、何を投影しているかによって決まってきます。しかしその事実を、わたしたちの利己心が覆い隠そうとします。実は利己心が「投影」現象を利用して操作しているのだということがわかれば、自分の感情を多少なりとも制御することができるようになります。つまり、感情にこだわるのか、それとも手放すかを主体的に決定できるようになるのです。この論法によれば、怒りの本質を自覚すればするほど、自分を苦しめているのは自分自身だということがはっきりしてきます。許し難きを許すのが、本当の許しです。「自分を苦しめているのは自分自身の思念である」と気づくところから、仏教的「寛容精神」が発現します。
しかし、一時的な怒りはともかく、長く残るほどの憎しみや恨みとなれば、そういった気持ちを抱くだけの相応の原因があるはずです。その「原因」を看過して、そこから生じた結果である感情だけを消そうとしても、大抵は失敗します。では、どうすればよいのか? そのためには、自分が抱いている怒りや恨みはその「原因」となった出来事の中で具体的にどれが対象となっているのか、という点を冷静に見直す作業が効果的です。つまり、怒りや恨みとなる対象の実質が「相手自身」に存するのではなく、実は「憎しみや恨みの原因あるいは内容自体」であるという風にとらえた方が正確なのではないか?ということです。なぜならば、「人を憎んでいる」という心的情況と、「原因となる出来事を憎んでいる」ということは、一見似ていても本質的にまったく異なるからです。「罪を憎んで、人を憎まず」という倫理原則が、実は怒り・恨みの連鎖反応によって怒りの対象者だけでなく、最終的には自分自身にも壊滅的な打撃を与えかねない事態を回避するための、人類が長い試行錯誤の上に到達した一つの処世的な解決策であるということを、わたしたちは忘れてはならないでしょう。
自分に罵詈雑言や屈辱的な言を吐いた他人に対して怒りをおぼえたときにその感情を放置しておくと、相手に恨みや憎しみの心が芽生えて精神的に圧迫感を募らせ、心身の不調をきたして通常の言動が維持できなくなるのは自分の方です。「怒り」は強烈なストレスとなって、いわば体の中に「毒」の成分を分泌します。その結果、自分の心身が壊れるだけであり、相手にとっては何ということもないのです。ことによれば、相手は自分を傷つけた発言自体をすでに忘れ去っているかもしれません。自分の心の中に怒りが現れたら苦しいのは自分です。怒りがあると、まわりとの関係もうまくいかなくなり、さまざまな問題が湧き起こってきます。瞬時あるいは継続的の如何を問わず、怒りの感情は心身にとって決して良いことではないのです(とはいえ、それは誰しも経験的にわかっているのですが)。
通常、わたしたちは怒りをおぼえると、相手が悪い、ここが悪いなどとその矛先が外に向かいます。自分の中の問題を外にぶつけて何とかしようと取り繕います。それが人の常です。外にのみ怒りの対象を求める人々は、自分を変えようとはせずに、周囲を変えようと悪戦苦闘しているに等しい。相手が悪い、世の中が悪い、地域や国が悪い・・・と、自分自身に怒りの原因を求めなくてすむように、まわりを変えさせることにだけ腐心します。しかしそれは言うまでもなく、無益な所業です。所詮は無力な人間が、自分以外のすべてを自分に都合のいいように周囲を変えさせるようと願っても無理なことです。
冬の厳しい寒さに怒りをおぼえたからといって、さすがに冬を変えてしまおうと考える人は少ないでしょう。わたしたちは、その代わりに、厚着や暖房で冬に立ち向かいます。また、大河を前にしたとき、対岸に渡るには河の水量が多過ぎるからと、すべての水を汲み出して空にすることは不可能です。自分が渡れないのですから、船や橋をつくるなど、河を渡れるように工夫するしかありません。渡れない河に怒りを抱いて河の状態を変化させようと思うのでなく、自分の側で渡る方向に発想を切り替えることで、心の中に現れてくる怒りを消滅させるのです。そうした考え方は、仏教の因果説(原因と結果を論理的に峻別すること)から生じてくるものです。
また、何かを一瞬、耳にしただけで、1週間、ときには1ケ月、1年あるいは一生怒りや恨みを抱きつけるケースも決して珍しくありません。たった一言をもって永久の別れに至ることもあります。しかし、発した言葉は厳密には一瞬しか存在しないし、結果として怒りが生まれてもその怒りの衝動自体も生理的には一瞬しか存在し得ないはずなのです。その後に持続するであろう「不快な何か」は利己心あるいは執着心がかたちを変えて心中に発生したものです。仏教の教えによると、原因が無常であれば、結果も無常なのです。原因が無常なのに、結果が永久的に残存する道理はないのです。誰かに悪口を言われて、あるいは誰かから耳にしたくないことを聞かされてほんの一瞬怒ったとしても、その言葉自体はすべて一瞬しか存在していません。何かを見たとき、何か匂いを嗅いだとき、何か音を聞いたとき、いわゆる五感に生じた内実はそのいずれも無常なものであって一瞬にしか存在しない以上、心の中で現れた怒りも同様に、一瞬の実在に過ぎないものだと得心することが肝要です。
さて、怒りや恨みの奥底には、たいてい「自分は正しい」という思い込みがあります。「盗人にも三分の理」ということわざがあるように、悪いことをしたと自分でわかっていても、その悪いことをした「自分なりの理屈および正当性」があると信じたいのが万人に共通の性癖です。ところが、「どう考えても絶対に自分が正しい」と自己肯定だけに終始していれば、怒りや恨みは決して解消できないでしょう。「絶対」とは、「対・関連」を「絶した」、つまり完全に他と分離したような実体的な「何か」あるいは「自分」を想定したときに生じる概念です。しかし、この世に「絶対」というものなど存在しない、と諭すのが仏教であり、そういうことは無明錯覚であると指摘しています。その延長線上には、怒って恨んでいる自分も、恨まれている相手も、深いところでは一つにつながっていて、憤怒や遺恨の責任の所在を完璧に追究し尽くすこと自体がナンセンスであるという徹底した相対主義があります。
わたしたちにとっての大事な指針は、「怒っている状態は不愉快である。ということは、自分が損をしているのだ」ということへの気づきです。怒りの不利益を考える事は、精神衛生上、まさしく有益な方法です。怒りはその人自身の功徳を破壊します。それは現在の幸せを壊すだけに止まらず、もっと長い目で見た時の幸せを得る可能性までも破壊するのです。釈尊やキリストの卓言を俟つまでも無く、心の中の怒りさえ静めることができたら、すべての敵に打ち勝ったに等しいのです。腹が立ってむかむかするときに、その原因を外に求めるのではなく、「怒りの源泉となる利己心は、自我に対する誤った見解から来ているのだ」と考えて、怒りによる苦しみの原因を自分の心の内に求めるべきなのです(ただ、理想論と言われればそれまでですが)。
怒りは、理性の対極に位置する(動物的な)感情であるために、理性的な人ほど怒りを恐れる傾向があるようです。誰しも、精神状態が穏やかな時にはまわりを冷静に観察できても、怒り狂っている時にはまわりがまったく見えない状態に陥りやすくなるのは、周知の事実でしょう。そのため、人は自己制御が難しくなるという事実がわかっていればこそ、何とか自分が怒らないように自制するものです。(同時に、怒り狂って自分が取り返しのつかない行為をしでかしてしまうことを恐れているからでもあります)。しかし、怒りはそれほど「悪者」なのでしょうか? 怒りが人の理性を狂わせるだけの邪魔な感情ならば、「怒り」は何のために存在しているのでしょうか?
視点を変えて、「怒り」の積極的な側面を眺めると、怒りは最も原始的な「生きるための原動力」ともいえます。言い換えれば、人間は怒ることによって生き延びられてきたのだと考えられます。自己保存本能の歴史を省みれば、自らの生存を脅かす敵には怒りの感情を湧きあがらせて「戦う」以外になかったのです。怒りによって充分なエネルギーを湧き上がらせなかった動物は淘汰されていきました。これが、人間にとって良いことだったのか、悪いことだったのかはわかりません。ただし、興味深いのは、これだけ文明が発達した現代でさえ、怒れない者は、怒れる者よりも、社会的に不利な立場に置かれるケースが多いという厳然たる事実です。たとえば、人間関係において怒りの感情を抑えることのできる人ほど周囲からの尊敬は集めますが、実生活の面で相手の横暴を増長させたり、一方的に不利益を被る状況に追い込まれやすいものでしょう。むしろ、怒りを表に出す人ほど、たとえ社会的には(幼児的であるとして)軽蔑されても、周囲の顰蹙を何ら顧慮せずに自身の野心や欲望を実現する割合が高いといえます。また、犯罪の被害者は加害者を憎み、犯罪行為に怒り続けることで、悲しみの無気力状態から逃れられている側面があることも否定できません。対照的に、怒りの感情すら失った「鬱」状態の人ほど自閉症状に陥るか、最悪の場合には自死の道を選んでしまう傾向が往々にして見られます。
こうして考えてみると、わたしたちは、怒りを単純に「悪」と誤解してきた側面がありそうです。実は、怒りの本質とは、それ自体がエネルギーであるため、そこに悪も善もないのです。悪善の判断基準はあくまで具体的な行為そのものであって、エネルギー自身には何ら主導権はありません。たとえば、正義のヒーローが悪者を倒せるのは、そこに不正を憎む怒りがあるからです。仮に、これが愛のみならば、悪者のなすがままに蹂躙されかねません。もちろん、本質的にどちらが正しい解決方法かは別の議論をする必要がありますが、より短絡的な解決策は「怒りを持って戦う」ということに間違いないのです。
わたしたちは、社会において理性的かつ安全に暮らすためにも、怒りという牙をできるだけ出さないよう教育されて育ってきました。確かに、社会の秩序が守られ、愛だけでうまく回るようなシステムが構築されていれば問題なかったのですが、近年では特に競争が激化し、牙を持たない者は非常に苦しい状況へと追い込まれつつあります。怒りの本質がエネルギーであるならば、それを自分が向上するために使うか、他人を攻撃するために使うかでは、大きく意義が異なってきます。もちろん、自分が成長することで今の困難を乗り切る方が、他人を傷つけて今の困難から逃れるよりは建設的ですから、心理カウンセラーならずとも自分のために怒りを使うことを勧めることでしょう。(無分別に他人に怒りをぶつけることは、希少な自己エネルギーの浪費でもあります。人間以外の動物は、怒りのエネルギーを決して無駄に使わず、あくまで真の生存的危機に対してのみ用います)。
また、自己表現としての「怒り」を考えてみれば、その行為自体に意義があるともみなすことができます。誰かを責めるわけでもなく、自分を奮い立たせるのでもなく、そんな計算以前に、ただ怒っているという感情を表現する極めて原始的な(あるいは自然な)行為は、まさに自分という人間がそこに存在する証明となるからです。逆に、あらゆる怒りを飲み込んでしまう人は、本当に自分がいか現に生きているのだという実感が湧きにくくなる恐れがあります。ちなみに、日本人は概して「穏やかで、怒りの感情をあまりあらわさない民族」といわれていますが、それは、一個の人間対人間としての本音での交流接触が少ないためでもあります。肩書き社会の中で忠実に自分の役割を果たそうとすると、どうしても感情をセーブせざるを得ないからです。したがって、狭い社会の範囲では、役割に徹して我慢することが、いまだ日本では必要な処世術なのだと考えられています。しかし、それがより大きな舞台を前にした時、たとえば社会全体の目が許さないほどのレベルであるならば、公共利益という大義名分のもとに怒りを前面に出す必要もあながち否定されるべきではないでしょう。一定の会社や組織の中だけしか通用しない理不尽な規則も、自分が「この狭い枠だけのルールだから割り切って従おう」と思うことができるならば、その際には怒りを抑制する選択肢が推奨されます。他方、地域社会や国家から理不尽にそのルールを強制されるような局面では、断固とそうした横暴を拒絶すべきなのかもしれません。つまり、怒りが単なる一個人の恨みではなく義憤にまで発展すれば、それを抑え込むだけの道徳的な意義を失い、もはや個人倫理を離れた別次元の話となります(義憤や公憤に由来するテロや戦争など)。その是非は別として、自分が愚痴をこぼし、まわりから慰められることで怒りを昇華できるうちはまだ良いのですが、自分だけでなく社会にとっても害が及ぶような場合には、局面次第で正義のために敢えてその悪に立ち向かうという姿勢も容認されて然るべきなのでしょうか・・・。
「怒り」の損得勘定は個々人によって、また倫理観の基準によって千差万別ですが、ひとつの方向性として考慮に足ることは、他人を攻撃する怒りよりは自分を向上させる怒りを、衝動的な怒りの代わりに自己表現としての怒りを、そして私憤ではなく公憤(義憤)としての怒りを発揮していく姿勢です。しかしそこには、「公」の名のもとに「怒り」=「暴力」・「専横」が正当化されるという重大な矛盾も孕んでいます。したがって、「怒り」の感情を心から根絶することは不可能である以上、わたしたちは常にその扱いや使い方に慎重な配慮が求められるのです。
Comments