わたしたちは日頃、いろいろな感情を経験します。芸術作品に感動し、人に悪口を言われて傷つき、試験に落ちたといっては落胆し、時には激しく怒って相手を罵ったり、悲しみのあまり涙を流すこともあるでしょう。反面、他人の挑発にも乗らず常に冷静沈着な人は、感情を完全に滅却しているようにすら見えます。しかしその冷静な判断の裏には確固たる目的があり、その目的には必ず感情が伴っています。冷徹に金を儲けたり、他人を蹴落として出世する人も、自尊心や功名心という感情を満足させているのです。ですからどんな行動にも必ず動機があり、感情のかかわっていない行為は無いといえます。感情はその実体が複雑であり、これを混乱なく整理するには、行為の観点から分類することが肝要です。対応する行為の複雑さが感情の複雑さにつながっているからです。ちなみに最も単純な生き物には接近と逃避の2種の行動しかなく、これがすべての感情の始まりです。アメーバは栄養源を発見すると近づき、毒物の存在に気づくと離れようとします。事実、生命の進化の流れを見ると、古い時代の生物ほど行動は単純で、これが人類ともなれば行動の様式や種類は複雑を極めていることはいうまでもありません。
「感情」を論じるに当たって重要な点はまず、分量の認識ができるということです。「多少嬉しい」とか、「非常に嬉しい」など、感情には必ず分量の多寡があります。その分量が小さすぎると自覚できず、大きすぎると感情の変化を自覚する以前になんらかの行動に出てしまいます。すなわち、感情には上限と下限があります。感情の上限が低い人は極めて喜怒哀楽の変化が激しく、逆に下限が高いといわゆる「鈍感」な人となります。ですから、豊かな感情を持つ人は下限が低く上限が高い、上下の幅の大きな人といえるでしょう。また、わたしたちはよく、興奮した人に向かって、「感情的になるな、理性的になれ」と言います。この言葉の裏には、「感情と理性は対立するもの」という共通認識があります。その一方で、感情など不要であり、理性があれば問題ないのではないか、という疑問も浮かびます。こうした考えは現在、脳の研究を通して否定されています。事故や病気で脳前頭葉の損傷によって感情を失った人たちは、平均レベルの知能を維持していながら、普通に生活していくことが困難だからです。つまり脳の傷害によって感情は崩壊し得るのです。こうした感情の崩壊した人たちは概して、行動の選択判断がむずかしく、好きな方を選ぶように指示しても決断することができません。感情が生まれないため、判断(理性)に基づいた行動に踏み出せないのです。そして感情の下限と上限の幅がなく、下限のラインを超えると直ちに上限域も超えて、無感情のまま行動へと一気に飛躍します。結局、感情が崩壊してしまうと、理性(あるいは知力)があってもその使い道がないわけです。さらに、感情の大きなマイナス面として、現実に対してまったく不適切な対応をわたしたちに強いるということがよくあります。たとえば、小学校時代に教師に恨みを抱くようになったという感情をそのまま引きずって、数十年後に小学校に乗り込み、当の教師ではなくそこにいる生徒たちを刺し殺すなどというのは、感情の暴走以外のなにものでもないでしょう。感情は現実の情勢と乖離する場合が多いのです。こういうことは、人間以外の動物ではまず考えられません。このように、現実とはほとんど無関係な、あるいは非常に適切でない感情に駆られて、犯罪を犯してしまったり、自殺してしまうといったことが人間には見られます。これは明らかに、記憶と感情が深く結びついている人間に固有な現象であり、そうした感情の暴走を制御するためにこそ、理性という機能が備わっているともいえます。つまり、理性とは自分がいま置かれている現実と深く結びついているわけです。
人間に本来そなわっている感情を理性の力で屈服させようとすると、どうしても感情と理性が心の中で戦うことになります。そして感情が勝つこともあれば、理性の力が勝つこともあります。理性的な人とは、理性の力で感情を説き伏せて、感情を理性に従わせることのできる人です。しかしここで注意すべきは、理性の力で感情を「納得」させているわけではないということです。感情は理性を納得しているのではなく、「仕方なく」従っているに過ぎません。理性が感情に「強制」しているのです。それこそが、心理的葛藤の原因です。ここで、感情が納得していれば問題はなにも起こらないし、その人が精神的に悩むこともないのです。しかし通常の場合、感情が理性を納得することはきわめてむずかしい。感情が理性(原理や原則)の力で屈服させられる度合いが強いほど、精神は抑圧を感じるようになります。そうした事実への反省に立った一例として、福祉介護の世界では、医師や看護士など介護側、および患者側のなすべき、また守るべき権利義務や原理原則を確定し、順守するだけでは不十分と考えられるようになってきました。双方ともに一応定められた原理原則に従っていても、しばしば、意思の疎通がうまくいかない、対応が冷たい、不親切だなどという不満がもとになって、医療・介護が円滑に進まない事態が生じるからです。現在、介護や看護する側は、医療面だけでは解決できない患者の心理、感情を受け止めると同時に、自らもまた患者に対して人間的な感情を積極的に表現することが求められているのです。このように、原理原則だけでは処理できない人間生活を補っているのが、人間の感情的なはたらきです。
そもそも感情は、これまで一般に誤解されてきたように、決して本能的、原始的なものではありません。たとえば怒りは、「それは不当だ」、「許せない」というように、必ずある価値判断や意味づけに基づいて生じてきます。悲しみ、喜び、希望なども同じです。感情は、社会や文化がもつ価値観、物事の意味づけとの対応関係のなかで経験されてくるのです。怒りと同様、悲しみや喜び、希望、後ろめたさなどの感情は、背後に多少とも道徳的判断を伴っていると考えられます。ですから感情は、わたしたちの文化、およびそれに対する自分の態度という、大きく複雑な文脈のなかで生じるものです。また、「心がこもっていない」、「誠意が見られない」などという表現がわたしたちの口からよく発せられますが、これは、その行為を行おうとする意思、決意が感じられないということであると同時に、「感情移入していない」ということを意味しています。積極的な行動には、必ず積極的な意思と感情が伴っています。「やる気がない」とは、「積極的な感情が欠如している」ことの別表現です。そして感情というものは、理性によってコントロールされてはじめて「人間らしい」感情となります。たとえば愛情も、理性に裏打ちされてこそ人間らしい愛情であり、理性に基づかない感情は本能的な相貌が露となります。一般に、理性は社会や共同体の中での規範的・画一的なものごとに作用し、感情は人の個性や多様性に作用します。たとえば法律は前者の産物であり、統一的であることによって初めて平等性が確保されるのです。一方、ある種の野菜が好きか嫌いか、ある映画のラストシーンで涙腺が刺激されるか否かなどは後者に属します。そのように見てくると、人は常にこの感情と理性との間で葛藤し、揺れ動きながらどこかに折り合いを付けて生きていく存在だということ、あるいは逆に、生きていくということはこの折り合いを積み重ねていくことなのだ、と理解されるのです。人間はたしかに、感情を動かすことから喜怒哀楽が生まれ、それが人間らしさだという考えもあります。しかし同時に、喜怒哀楽がストレス反応を引き起こし、人生苦の源泉になっていることも否定できません。理性によって判断して行う行動は、根本的には感情を基準にして決定されています。たとえば、甲と乙のどちらかの行動をするか選ぶ時に、プラスの感情が最大となる(あるいは期待値が最大になる)ように判断をして、行動を選択する。これがわたしたちの普通の行動原理です。ただ、感情は主観的な基準でしか測定できないので、個々人によって基準が変わってしまう。それゆえに、人間同士の衝突が起こるのではないでしょうか。
現代は、科学的精神を過大評価してきた合理性一辺倒の生き方に対する疑念から、己の感情に素直に生きる喜びや張り合い、生きがい、自分らしさを強く求め、楽しさ、喜び、嬉しさといった感情経験を非常に大切にする時代です。しかしそのような傾向は皮肉なことに、それらが得られない場合に強烈な苦悩や疎外感、自責感をもたらします。その結果、「わたしはほかの人のように楽しくない毎日を送っている」といって嘆く人々の群れを生み出しました。感情経験を自分の大切な目標や生きがいとするのならば、それは感情の荒波に飲み込まれてしまうだけでしょう。感情を中心にした人生は、感情のコントロール能力を失うことでもあり、操られることになってしまう。感情を経験することが唯一の楽しみになるということは、感情の生成に手をつけないということです。昨今は、些細なことで感傷的になる人たちで溢れかえっています。感情的に深く没入することがより深く意味のある人生を送れるかのようです。そのために、人はますます感情の制御不能状態に陥っています。しかし仏教的な視点に立つと、わたしたちの最終目標は感情を無くすことでも減らすことでもありません。感情を理解し、適切に自分の管理下におくことなのです。つまり、感情の支配から自由になることです。では、感情から自由になるにはどうすればよいのか。それは言うまでもなく、感情的になったところでなんの問題の解決にも解消にもならないと知ることです。わたしたちが感情的に激昂するのは、気づかぬところでそれがなんらかの解決をもたらすと期待しているからです。感情の本来的な役割は実のところ、乳児が母親に注意を向けさせるメッセージのようなものであり、わたしたちは大人になっても同じかたちで他人へのメッセージとして使用しています。感情というのは自分の怒りや悲しみの激昂手段として用いて、相手になんらかの行動の変化を迫るものです。人が感情的になるのは、無意識にその効果を信じているからということになるのでしょう。しかし残念ながら、あまり解決も解消にもつながらないことの方が実は多いようです。
人間関係には、ある感情を相手から受けたら、応分のお返しをすべきというのが暗黙のルールとしてあります。これは貨幣と同じようなものです。この貨幣関係をベースにして人間関係は基本的に成り立っています。たとえば、ある人から心を傷つけられたり、心ない仕打ちを受ければ、報復や復讐をしたい衝動にどうしても駆られます。その反面、ある人から世話や恩義を受ければ、それになんとか報いたいと思うものです。さまざまな感情が貨幣のように人々のあいだを流通しているのです。さまざまな感情、特に苦痛、被害意識、恩義といったものは、どこかにそれを相殺させるだけの等価物が必ずあるはずだという考え方が人間社会の基本的な了解事項になっています。反面、この「感情」という名の貨幣が人間関係の混乱をさらに増幅している事実も否定できません。人と人の関係は金銭のように数字で割り切れるものではないし、一方的な取引き成立の思い込みだけで成り立っている「売り手」もいれば、主観的な思い込みや尺度によって非常に雑多で多様な売買関係が交錯している場合もあるからです。こうした交換関係の失敗や「読み」のミス、勘違い、一方的な思いこみ、無知といったものがさまざまな人間関係のトラブルを引き起こしている主因であるという見方もできます。平素から他人への配慮を怠らない人は、自分にも当然それと同等のお返しや待遇が与えられるべきだと、どうしても期待しがちです。この前提があるために、わたしたちの心は傷ついたり、悲しんだり、怒ったり、腹を立てたりするわけです。その基準や要求が高ければ高いほど、わたしたちの心は感情の乱高下を味わうことになる。そもそも感情の交換関係というのは、高い代償を払っても期待通りの見返りが少ないものです。買い物のように金銭を払えば自動的に物やサービスが手に入るのとは訳が違うという点に気づくことが、「感情的」にならないための要諦です。
たしかに、人間を他の動物と大きく隔てている資質は理性の存在ですから、人を褒めるにも貶すにも相手を人間として認めることが前提である以上、わたしたちは常に相手の理性に呼びかけようと心がけています。とはいえ、なにかの交渉ごとにおいて、理性では拒むことでも感情の面から飛びこめば思いのほか受け入れられたり、理性では苦い顔をしながら、感情の方では喜んでいるということがあります。人を理性の面でだけとらえ、感情の面で交わることを知らなかったら、その人から得られるものも得られず、心から打ち解けることもできないでしょう。哲学者のカントが、理性の何たるかを解明するのに苦労したのも、理性というものは人間が生きる上でやむをえず身につけた属性だからです。感情生活の方がもともとは自然であり、とかく感情に流されるおそれがあるところから理性によって武装するので、強く見える理性は本当は弱く、弱く見える感情の方が強い力で人間の中にはたらいています。理性は無理に肩を張っている姿勢ですから、人と親しむにはもちろん感情の面から交わるようにしなくてはうまくいかない。人間関係のいろいろな点において人を理性の面でだけ見て、感情の生活が支配的であることに気づかず、相手の感情に寄り添うことをしないために、人を相手に生きる自分の立場を不利にしていることがあります。人の感情の面に心を払うことは、人間だけでなく、企業間のビジネス交渉や国家間の外交でもきわめて大切です。しかし、そうはいっても表向きは人間はどこまでも理性に生きているため、人を理性の面で立てることをせず、感情の面からばかり扱ったりすると、人を甘く見ているとか、軽く踏んでいるなどと、その自尊心をひどく傷つけることがあるため、感情と理性の両立の問題は厄介です。人間をつくるのが理性であるとすれば、人間を導くのは感情なのです。人間を理解する上で、感情の存在は不可欠です。どんなに理性的に振舞っていても、わたしたちは感情に簡単に左右されやすいからです。人間が大人になるとは、一時の感情に振り回されない強い心を持つということなのかもしれません。朝目が覚めてから床につくまで、わたしたちの心に常に湧いてくる感情は空を流れる雲のようなものです。浮かんでは、消えていきます。しかしどのような感情であっても、それらは過去の事象や現実の出来事に対して、心が反応した「結果」です。結果である以上、わたしたちはそれを支配することはできないし、する必要もありません。もしもマイナスの感情をコントロールしようとしたら、湧き上がってくる感情と、それを抑え込もうとする自分との間で葛藤が生まれ、さらに心の苦しみは増幅していくはずです。逆に、プラスの感情をもっと味わいたいと思う気持ちが強くなれば・・・そこには執着が生まれてきます。執着も苦しみの原因です。これがまさに仏教の「苦」観なのです。
よく人生は自分自身との闘いであるといいます。これは、暴走しがちな感情をどれだけ自分の力でコントロールできるか、という意味でもあります。世の中は決して自分の思う通りにはなりません。成功を夢見ていくら努力を続けても、うまくいかないことばかりです。苦しい時に自分の内なる感情の総攻撃に耐え続けるのは辛いものです。大声を張り上げて、何かを思いきり投げつけたくなることが、誰しも一再ならずあります。地道な努力を続けるより諦める方がどれだけ楽でしょうか。日々の不満、不安が限界まで溜まってくると自尊心が揺らいできます。そんな時に何かのきっかけで感情が爆発するのが「キレる」状態なのです。最近 「キレる」人が増え、世の中が殺気立っているように感じられる原因は、社会全体に期待感が喪失しているからです。経済が挫折したこの十数年のあいだに「キレる」人が増え、過去に前例のない異常で残忍な事件が続発しているのは決して偶然ではありません。人間は、明るい未来像が描けなくては誇りを持って充実した人生を送ることはできません。今の社会は総じて、これまでの「物質的繁栄」に代わる将来の新しいビジョンを描けないでいます。かつてのような経済発展がもはや望めないならば、それに代わる何かを見つけなければなりません。個人がライフワークとして取り組める対象を見つけだし、その追求を人生で優先させる生き方はそうした可能性のひとつでしょう。もはや国、組織、他人に無条件で頼る時代ではなく、自分の意志の力で人生を切り開いて行く必要があるのです。たとえ苦しくとも自分の目標に意味があることへの確信があれば、感情の有為転変に翻弄されずにすみます。これこそが人生で自分自身との闘いに勝利することであるといえます。
人の心に、二つ以上の感情は同時に住むことができません。したがって、一心不乱に何かに取り組んでいれば、不安が住み着く場所がないはずです。夏目漱石が『草枕』の冒頭に、「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を張れば窮屈だ。」と記したように、心には「知・情・意」の三つの機能があることは誰しも認めています。そしてこの三つがうまく調和しているなら、その人は申し分のない人格者といえるでしょう。他方、知識があっても、情が薄く実行力のない者は人の上に立つことができない。逆に、情にもろいタイプの人は一般に好かれますが、得てして人目を気にし過ぎて決断ができず、意志薄弱であることが多い。また意志強固な人は実行力があっても、往々にして頑迷固陋であるため大局の判断を誤り、他人に迷惑をかける。すなわち知が勝っても、情が勝っても、意が勝っても、人として不完全である点には変わりないのです。この三つはどのように調和共存すべきか。そのためには、自分のみならず周囲の人を行為に向かわせる原動力となる「感情」の役割についてよりよく知ることが、その第一歩であるように思われます。
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