「自らの運命は自ら開くべし」---釈尊の教説を極限まで突き進むと、ここに到ります。そして、自ら運命を開くためには行為、行動、実践あるのみです。人生についてどのように考えることがあっても、それを実行に移さない限り局面は変わりません。大切なのは、観念や理念ではなく実践だということです。しかしながら、現代の私たちは「自分が生きていくのだ」という自覚が起こりにくい状況にあります。
「生きる」とは、何かを行うことの連続した日々です。ともかく、何かを行わなければ始まりません。こういう明々白々のことが、今の世の中では茫洋としています。「生きる」とはどういうことなのか、しっかりと自分の手でつかめなくなっています。
「あなたは幸せですか」と聞かれれば「さあ、どうでしょう」と答え、では「不幸せなのですか」と問われれば、これもまた「・・・」としか答えられないのが私たちの平生の常です。つまり私たちは、「大地を踏みしめて自分が生きているのだ」といった実感が持ちにくい生活環境下にあります。
現代社会で「生きる」ためには、多岐に亙る分別あるいは選択が求められます。何をしていれば安全であり、どういうことが危険か。何をすれば得であり、何をしたら損か。成功の道はどこにあるのか、あるいは失敗に至る道は?・・・。さらには、どのように「生きる」ことが自分の幸福や満足に結びつくのか。こういった判断は実に難しいものです。何かを行おうとする場合、一つの判断の誤りがどういう結果を生むか予測がつかないからです。場合によっては致命的な結果を招くかもしれないことを覚悟しなければなりません。その結果、行動に対して逡巡するようになります。さもなければ、ある種の行動を諦めたほうが無難だと自分を納得させることにもなります。周囲の動きに身を任せて、波間を漂うが如く流されて生きている人が実に多いといえます。「ともかく日々安泰だからいいではないか。今さら気色ばむこともなかろう」。これが現代人、特に今の日本人の大方の考え方であり、生き方であるといっても過言ではありません。
しかし、そういう時代だからこそ、「生きる」ことの基本を忘れない努力と、「自分が行っているのだ」という自覚を失ってはならないのです。
ところが今日の社会の複雑な仕組みは、こうした自覚を生じにくくしています。その結果、現代人は、自らは行動をおこさずに他者の行動を批判することに終始したり、他者の行動や行為の産物に依存する性向に陥っています。畢竟、自分の人生の根底は自分自身に存在し、自分の意志決定に委ねられているという自明の理が見落とされがちです。
ところで、「自ら運命を開くべし」を信条とした人の「生き方」を前にすると、最大の敵は「自分以外の何かに人生の軸がある」とする考えにあるというところに行き着きます。その象徴が宿命論です。どうあがいても所詮自分の人生は決まっているという固定観念です。
宿命論は、自分の人生の軌跡や現状が満足なものでなく、しかもそれが自分の所為であるとはどうしても考えられない人が、自分を納得させるために取り入れる便法です。「仕方ない、これも運命だ」というわけです。人は、自分自身が宿命論に強く囚われていなくとも、概して「運命」や「宿命」というものに対して畏怖に近い概念を持っています。
仮に、ある「事」や「物」を「信じるか」と言われれば、「どうだろうか」と自問し、「信じないのか」と言われればまた迷う、そのあたりがごく普通の人の認識であろうと思われます。しかし、「私の運命は決まってしまっているのだろうか」と、自問自答して迷うようでは、将来に向けた行動の原動力が湧いてくるはずがありません。不完全燃焼な生活を送るようになることは必定です。
とはいえ、人の運命はもともと天与の如く決定されているかどうか、この疑問に明確に答えることは、どのような哲学者や科学者といえども恐らく不可能でしょう。タイムマシンが現実に存在し得ない以上、人間は過去のある時点に戻って人生をやりなおすことはできないからです。つまり、「あの時点で別の道を選んでいれば・・・」という仮説は論理的に実証できないのです。やってみた上で、という論法では証明できないわけです。人生というものは、所詮一つの道筋でしかなく、それが変化してきたか否かは別として、一人の人生の過去は一本の軌跡として存在するのみです。分かれ道は、あくまでその人自身の「人生」に対する認識の違いにあります。運命が決まっているかどうか考えてみても無駄だという人は、自分の全エネルギーを結集して何かの目的に全身全霊を捧げた経験に乏しい人ではないでしょうか。目的を持ち目標を定めて、それを実現しようと精励したことのある人にとっては、自分の運命は自分で切り開くものだという確信がどこかにあるはずです。しかし、反面、努力はしてみたけれど結局失敗に終わったという経験を持つ人も少なくありません。そして、失敗した原因は何処にありやと思案したとき、再びあの忌まわしい「宿命論」に戻ってきてしまうのです。ここに、宿命論が常に私たちの脳裡から離れない根本的な原因があるように思われます。
ところで、この世の中には実に多くの宗教があります。しかし、人々が宗教に期待するものには正反対な二つの意識が同居しています。一つは、自分や人間とは違う存在、超人間的、超自然的な何かにすがりたい気持ちです。もう一つは、何らかの自分の行為、たとえば修行といったものを通して自分自身の変化を期待する態度です。個人の尊厳が強調され、合理的な考えが行き渡っているはずの昨今でも、この二つの面は人間の心から消えることがないようです。宗教に対して、「何かにすがるという点が抵抗を感じる」という側面のあることも疑い得ない事実である反面、若い人たちが好んで読む雑誌にはホロスコープ(星占い)、方位方角、姓名判断などの欄が必ずといっていいほど載っています。少なくとも、人間の通常の思考や努力では及ばない力の存在を前提とした説明あるいは解釈が人の心を動かしている事例は、今日でも多いのです。
そもそも、仏教で説く存在論は「縁起観」で代表されます。「縁起観」とは、相対世界である私たちの世界の存在物は、すべて相関関係の中に成り立っているということです。これは論理的にきわめて基本的な捉え方です。ところが、従来の日本では「因縁論」に姿を変えてきました。つまり、日本化された仏教の「宿命観」とは、要するに「自業自得」ということにほかなりません。それは確かに、自分が前世で行ったことの報いがベースになっており、自分以外の存在が我が身に災いしているということではありません。しかし、それにしても「前世の業が災いしているから、あがいても無駄だ」ということでは、神や超自然的な力を背景にした「宿命論」と大同小異です---自分で改変することができないという点において何ら変わりません。
「宿命論」が展開する自分の意志以外の力---たとえば人知を超えた大きな力など---によって、自分の人生が左右されるという考え方には、確かにそれなりの存在理由があります。しかし、自分の人生は今生において我が身だけのものです。他者から分けてもらうことも、他者に与えることも不可能です。自分だけの貴重かつ一度限りの人生です。従って、それを他に委ねるような形で人生の幕を下ろすというのでは実に残念なことと言わざるをえません。
「死んでも死にきれない」という表現がありますが、現実には、死にきれないと思いつつも皆すべて死んでいくのです。私たちは、そういう厳然たる自然の摂理に支配されています。しかし、自分で切り開き自分で築いた人生であれば、それだけ悔恨の念も少ないといえます。人生を充実あるものに転ずるための要諦は、「自ら運命を開こう」とする生き方を選び取るか否かにかかっているといえるでしょう。
ここで求められるのは、自分を知る努力です。では、何故、何のために自分を知る必要があるのでしょうか。それは納得のいく人生を送るためです。結局、各人に残された最後の課題は、自分との闘いにどう打ち克つか、です。勝負の相手は常に自分です。自分との闘いに勝たなければ他者との勝負はできません。たとえ他者との勝負に勝ったつもりでも、自分自身との勝負を避けてきた場合には心の充足感がありません。自分自身を知ることの意義は、自分との闘いを闘わなければならないという現実を確固として自覚するためです。
では、どうしたら自分自身を知ることができるのでしょうか。結局、その手立ては現実の生活の中で自ら一歩一歩見極めていく以外にはないのです。人生を生きつつ、体験や経験を通じて自分を見いだしていくということです。
往古、釈尊は「縁起」を説きました。縁起とはこの世の中の存在はすべてそれのみでは存在し得ないということです(ただし、それでいながら、それぞれのものは、そのものとして存在していますが)。この理法は、当然ながら人間自身にもあてはまります。釈尊が仏の教えを私たちに残した意図を参酌すれば、「縁起」の理法はまさに人間のあり方を教えるために説かれたということが得心されます。
今を「生きる」ためには、変化して止まない現代社会を無視することはできません。社会が変化すれば、それに応じて個人の価値観や問題も影響を受けます。有為転変の社会に身を委ね、その変化に応じたものの考え方で個人の身に降りかかる諸問題を解決しようとしたら、わずか五年前の解決法ですら役に立たないといった事態があり得えます。ところが、一人一人についていえば、社会が変わっても人間そのもの---本質---は、太古の昔から変わりません。独り生まれ、いつの日か独りで死ぬ運命にあります。仏教は縁起の理法を通じて、私たち個人の問題に関し、人間としての普遍性を備えつつ主体的な生き方を確立するための指針を与えようとします。
社会がこれほど巨大化した今日であるが故に、人間の生き方について個々人の真剣な考察が必要となってきます。社会の変化や変容に押し流されない、世間の外圧に潰されない自分を確保する必要があるのです。こういう世の中なればこそ、私たちは主体的に生きなければならず、その主体性を育てるためには何らかの方策が求められるということです。 「因縁因果」という概念も、「袖すり合うも他生の縁」のように良かれ悪しかれ、遠い過去からの宿命という風に理解されがちです。しかし、より身近なところで「因縁因果」は生きています。私たちの日々の営為は、何らかの形で、自分自身や自分の子孫そして係わりを持つ人たちの将来を左右します。例えば、親の行いは子の人格形成や人生に大きく影響を与えます(過保護に育てられれば、なかなか自立のできない人間に堕するといった例や、逆に、幼少の頃に親から耳にした一言が励みになって後年大成する例など)。このことは、過去の行いが現在に、そして現在の行いが将来に関わっているという「因縁因果」の理法の中で私たちが生きているという状況の証左です。ところが、従来の「因縁因果」論には、こういった現実的な認識が欠如しており、単に遠い過去の行為が今に災いしているといった否定的な考え方に過ぎませんでした。しかし、この捉え方では「因縁因果」の理法も無意味です。なぜなら、こういう発想には、生きているのは自分だという実感が伴わないからです。「因縁だからやむを得ない」という次元にとどまっています。ところが、現実生活の中で因縁因果を考えると、「過去の行いが現在に関わる」という面ばかりが決して因縁因果ではないことが感得されます。現在という時の流れの中で、人間は互いに影響し合っているからです。
日常において私たちは常に、自分では意志や理性で自分の心を操っているつもりでいます。喜びも悲しみも怒りも自分の心が決めているものと思いこんでいます。しかし、実は正体不明の内なる、自身では制御できない「何ものか」によって発動されている場合の方が多いのです。しかも当人はそのこと気がついていません。そこで、個人の生き方の基本として「因縁因果」の問題を捉えなおすべき必要性が生じます。そのことによって、「生きる」ことの責任が問われるほか、「生きる」ことの重みも認識できるでしょう。人間は「因縁因果」の理法の中で互いに影響し、影響されつつ生きています。これは疑いのない事実です。
さて、仏教の生命観は、親から子へ生命の流れを大切に、というものです。他方、これとは違った生命観も世の中には存在します。たとえばキリスト教では、生命は創造主---神---によって創造されたものと考えます。その他、絶対神を仰ぐ宗教は同じような考え方に立つと言っていいでしょう。
生命をひとつの連綿たる流れとして捉えるか、神が創ったものとして捉えるか、両者の立脚点はまったく異なっています。どう考えるかは個人の自由ですが、少なくとも、私たちの生に関わる原点を見失ってはなりません。仏教的な立場をとれば、繰り返しになりますが、親から子へ伝わる生命、悠久の時間の流れの中で受け継いで生き続ける「生命」だということにほかならないのです。ただし、そういった生命観を自分の一族や家族の範囲、あるいは日本人としてのレベルだけで論じることは、国際社会における一員としての個人の存在という点に鑑みて、いかにも不足であるといわざるを得ません。すなわち、現代は人種や民族の問題を避けて通れないからです。米国のような多民族国家で暮らす人にとっては、肌や出身国の違いを前提として人間同士を意識し、互いを容認し合います。同時に人種差別も厳然と存在し、深刻な社会問題として米国の隠しようのない恥部となっています。
しかし、いうまでもなく、肌の色や出自に違いはあっても、私たち一人一人はそれぞれの親から生まれ、それぞれの親の個性を引き継いでいるのです。両親から受け継ぐものは、何も経済的な基盤とか「親の七光」的な恩恵また不利益といったものだけではありません。要するに「人間性」といったものも親から受け継いでいます。良い面も悪い面も含め、私たちの内面の相当部分は、両親、さらにその先の多くの祖先から受け継いだものなのです。ですから、親そして先祖は私たちの中に無姿ながら生きているということになるわけです。
人間にとって出生は、ともかくも人生の起点です。と同時に私たちは、この起点を自分で決めることができません。私たちは、自分の内面の基礎を自分の意志で築くことはできないのです。端的に言って、それは親や先祖によってつくられるのです。それが気に入るか否かは別として、親や先祖の存在を無視することのできない現実があります。
人生を自分の意志と行動で開拓していくとき、その内実は自分の存在を超えて子孫にまで繋がっていくものである一方、自分自身はまず親や先祖によってこの世に生まれ育てられてきたのだという事実を決して忘れるべきではありません。ちなみに米国では、初診の際、医者が患者に必ず両親の病歴を訊ねるそうです。それは、体質/形質遺伝など、現実的に私たちの身体が親から直接的に受け継いだものであるという生物学的な根拠に基づいているからです。そして心も、肉体と同様に親や先祖から受け継いできたものです。つまり、私たちは本当に自分を知ろうと思うならば、先祖の存在にまで意識を遡らせなければならないのです。
親や先祖があって私たちの現在があるということに心を向けることは、当然ながら大事なことです。それは、人間としての生き方、姿勢に大きく関わってくるからです。
「生命」の本質について、先述のように、キリスト教徒は、人間は神によって造られたと考えます。神を信じる、信じないは、なるほど、個々人の宗教的信条の問題です。しかし、神を信じる人も信じない人も親から生まれてきたことに変わりはありません。一方で、「人は神によって創られた存在である」ことを標榜して、いわゆる「進化論」を全面否定する人々も現にいます。いずれにせよ、私たち仏教徒としては、当たり前の人間の真実の、当たり前のあり方を念頭に置いて「生きる」べきです。
たとえば、我が子の不幸を前にして両者の違いはどう表れるでしょうか。「人間を神による創造物」と捉える人は「やむを得ないが、これも神のおぼしめし」と自らを納得させるかもしれません。他方、後者は、最終的に親である自分の責任の問題に帰結せしめるでしょう。前者に属する人は、ある意味で純粋な「宿命論」者です。しかし、生命の流れの中で自分自身の存在や子孫の存在を捉えるという態度は、神が人間を創造したという宗教観念に基づいて自分や周囲の存在を意識することとはまったく次元を異にします---どちらを選ぶかは、むろん個人の自由ですが。
生命の流れを現実に意識した瞬間、自然にわき上がる感情が親や先祖に対する「恩」あるいは「感謝」の念です。これは、生かされて生きている我が生命に感謝し、残された日々を充実して「生きる」ことが、親や先祖の「恩」に報いる道であるという感慨です。恩あるいは感謝の念というものは、人間生存の最も本質的な部分に係わる、きわめて崇高かつ尊い属性です。
論ずるまでもないことですが、所詮人間は独りでは生き続けることはできません。過去、現在に至る多くの人たちとの関わりの中で、私たちは生きています。つまり、生かされて生きているといえます。この事実を真に実感しているか否かで、恩や感謝が意味を与えられたり、あるいは無意味となるのです。現在、自分がこうして生きている、生きていられるということに対して、自分の努力以外の要因を感じているかどうかが、恩義を感じるか否かの分かれ道です。いかなる人でも、自分以外の人との関わりなしの人生などあり得ません。いかなる人の人生にも必ず他者との、また親や先祖との関わりがあるはずです。そういう諸々の素因があって現在の自分が有るということです。これこそが「縁起」の理法の根本原理といえます。
たとえば「情けは人の為ならず」という格言があります。今日、この解釈には二通りあります。一つは、「情けをかけることはその人を堕落させるから、考えたほうがいい」というものです。今一つは「人に情けをかけることを、決してその相手のためであると思うべきでない。人に尽くした親切は、いつかは巡り巡って自分にかえってくるから」というものです。正解は後者です。しかし、近年は前者の解釈を採用する人---特に若い世代---が多いようです。前者のように解釈する点に、現代の人心のありようが浮き彫りにされているように思われます。これはひとつに、個人主義的な社会風潮が蔓延する一方、「他人様のおかげで生きていける」といった発想を、親が子に植え付けなくなったためであろうと考えます。
戦後教育を受けた世代には個人主義の考え方が染みついています。彼らは「個人の尊厳」といった言葉から連想される諸々の価値観を最重要視します。しかし、「人間は一人では生きられない」ということを忘れた今日の利己的な世相に同調することは、仏法の道から外れています。「個」の尊重は非常に大事なことですが、その「個」はあくまで、常に衆人との関わりの中で生かされ生きているのです。
戦後日本に普及した個人主義は、決して内発的に日本人が自分たちで構築したものではなく、米国の為政者(あるいは西洋的な価値観)から与えられたものです。「自分の運命は自分で開く」という原則に照らせば、自分の責任で物事を処すべきことは確かですが、といって他者の存在を無視した処世のありかたは誤りです。「利己主義」と「個人の尊厳」を混同し、老若男女を問わず自我の発露の赴くままに行動する傾向の強い点が、現代日本社会の特徴であり、欠点であるといえます。
個人が個人として本当に責任ある生き方を全うすることの可能な状態、それは周囲を否定する自己主張から生まれるのではなく、周囲と自分との関係を現実的に直視する態度から生まれます。また、それは過去を否定することからではなく、今日までの積み重ねの上に現在の自分のエネルギーを燃焼させ、さらに新たなものに磨きあげるバイタリティから生まれます。個人が主体的、意志的に生きようと思うなら、他者に生かされて生きているのだということを見失わない姿勢が必要です。しかも、その姿勢を実生活の中に定着させなければなりません。「恩」を忘れない生活、「感謝」の心が保てる精神状態---報恩謝徳の念---こそが「運命」論的なものに覆われた人生を「自己変革」可能な人生に転じる原点となります。
人間も、この世の一切の現象と同じく、「変わる」あるいは「変わり得る」存在です。「変わる」ことを恐れず、なおかつ通俗的な宿命論に徒に翻弄されることなく、主体的に「自らの運命を切り開く」ことが、人間にとっての「無常」の要諦です。そして、この理法を自覚して自分を意識的に変えていく営為が仏教的「懺悔」---「自己を省みる」---の本質です。懺悔は、変えようとする自分の意思と、実際に変えるための行為とが相俟って初めて成り立ちます。その実現の背後には、当然のことながら、我が心身を形成してくれた親や先祖による有形無形の力が鬱勃と控えているのです。
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