盆
「盆」は先祖供養の中で最大の行事である。また日本の年中行事としても正月と並ぶ大きな行事である(実際、盆と正月の年二回のこの期間、日本全体が休日となったかのような観がある)。これだけ大きな仏教行事であるが、なせ「盆」と呼ふのだろうか。実は、この「盆」という言棄は、日本語ではなく、中国語でもない。盆の正式な名称は「盂蘭盆」である。「盂蘭盆」の語源は梵語(サンスクリット:古代インドの言葉)の「ウランバナ」である。「盂蘭盆」はウランバナを音写したものである。
ウランバナとは、普通「倒懸」(さかさまに吊り下げられる苦しみ)のことである。亡き人が受けている、そうした苦しみを救うための供養が「盂蘭盆会」なのである。「盆」(おぼん)には「器」という意味もある。その器はもともと「盆」にむかえる先祖の霊に供える器であり、それが「盂蘭盆」の「盆」と混ざりあったという説もある。
盆は「彼岸」と並び、最も伝統のある古い仏教行事でもある。盆の行事が日本で最初に営まれたのは飛鳥時代だとされている。斎明天皇二年(657)に飛鳥寺で「孟蘭盆会」が修され、天平五年(732)には公式の年中行事となった。仏生会(灌仏会、花まつり)とともに日本最古の仏教行事として、今日まで絶えることなく続いている行事である。
盆の期間、先祖の霊を迎えるためにしつられるのが「精霊棚」である。この精霊棚で先祖は休息をするといわれる。そして、さまざまな新鮮な野菜を供えて先祖をもてなす。「精霊棚」は「盆棚」とも言う。仏壇を各家に備えるようになったのは江戸時代に入ってからのことである。それ以前は先祖を迎えるために棚をつくる必要があった。精霊棚はその名残りともいえる。精霊棚に飾るナスやキュウリは先祖の乗りものである。昔は乗りものといえばもっぱら馬や牛だったことの名残であろう。牛や馬は、盆の前には内へ向け、盆の終りの16日は家の外へ向けておく。馬は先祖が乗り、牛に荷物を持たせる、と言われている。
盆月13日の夕方に家の門口などで焚く火を「迎え火」という。「迎え火」は盆に訪れる先祖のための道しるべである。昔の町々は暗くて、先祖を迎えるには灯火が必要だったのである。先祖が道に迷わないように山の上で火をともすこともあった。16日に焚く火が「送り火」である。先祖が帰る時に、足もとが暗くならないよう照してやる。「精霊流し」や京都の「大文字焼」も、それぞれの風土に根ざした「送り火」である。
また、肉親が亡くなってはじめて迎える「盆」を「新盆」(初盆)という。だが、まだ「四十九日」の済んでいない新仏の場合は、霊がまだあの世につかないとされているので、翌年に新盆(初盆)を行なう。「新盆」(初盆)は、肉親が亡くなって、まだ日も浅いこともあり故人に対する追慕の念も強い。そこで「新盆」(初盆)は、とりわけ手厚く供養するのがならわしとなっているのである。新盆には親族が提灯を送るのがしきたりとされている。
施餓鬼(施食)
毎年、盆の時期には、各寺院で施餓鬼会が営まれる。この行事は、その言葉が示すとおり餓鬼に飲食を施すことである。餓鬼とは六道のひとつ餓鬼世界で苦しんでいる者を指す。餓鬼世界は食物が極端に不足している飢えの苦しみに満ちた世界である。食物があっても、餓鬼が口にしようとすると炎となって口にすることができない。現在、人間としてこの世に暮らす我々も、いつなんどき餓鬼世界に落ちるかもしれない。さらに、仮に自分の先祖が餓鬼世界で苦しんでいるとしたら、なんとしても救ってあげたいと思うのが人情であろう。餓鬼は本来、自分の力ではその境地から抜け出すことができないとされる。
施餓鬼には、各寺院に檀家や信徒が集まり、先祖の霊を供養するが、施餓鬼会そのものは元来、特定の霊を供養するものではなく、先祖の霊はもとより、供養してくれる者のいない無縁の諸霊をも供養するものであった。無縁とは、子孫の途絶えた仏といってもよい。
わが国の場合、欧州の家々のように家系図というようなものが整備されていないため、自家の先祖をたどったとしても、(一般的に)どれほど古いといってもせいぜい六乃至七代程度まで遡れるにすぎない。つまり、それ以前の先祖は「無縁仏」として扱わざるを得ないということになる。逆に言えば、我々も今後六〜七世代の後には「無縁」扱いになる可能性が非常に高いのである。こうした状況を背景に、施餓鬼は、自分自身に与えられた生命に感謝し、長命を祈願するという目的もこめられている。そして、総括的には、すべての生命を尊ぶことを教訓として我々に説き示す行事となっている。いうまでもないが、我々の生命は、様々な生命を食することによって成り立っている。ありとあらゆる動植物には生命がある。施餓鬼には先祖の供養をし、その冥福を祈るとともに、これらすべての生命への感謝の念を捧げねばならないのである。
輪廻
ところで、施餓鬼供養は、「人は死ぬとどこへ行くのか」という、古来から人間の最も重大な関心事のひとつであった疑問と不可分に結びついている。
仏教には「輪廻転生」という考え方がある。この「輪廻」の世界というのは、「六道輪廻」のことである。仏教の死生観によると、人は、この六道、すなわち「地獄」、「餓鬼」、「畜生」、「修羅」、「人間」、「天」の6つの世界を生まれ変わり、死に変わりしている、とされる。従って、現在は人問としてこの世に存在していても、次の段階では地獄に堕ちるかもしれない。あるいはその逆に、地獄の境涯から人間に生まれ変わる可能性もある、ということである。六道の「道」とは、我々が進む道である。その道に6種あるから、「六道」と呼ばれる。
一般に、餓鬼という言葉から連想されるイメージは、腹が極度に膨れ、手足が針金のように痩せ細った姿であるが、その餓鬼にもいろいろな種類がある。「無財餓鬼」、「小財餓鬼」、「多財餓鬼」などである。例えば、「無財餓鬼」とは、全く食べることのできない、飢えの極致にある餓鬼である。食べ物が目の前にあっても、いざ食べようとすると食物に炎が舞い上がり、口にすることができず、飢えを全く癒せない。また、「小財餓鬼」は、多少は食べることができるが、その対象は嘔吐物や糞尿といった見ただけで胸の悪くなる不浄なものだけである。・・・ともかく、いずれの餓鬼の状態も酸鼻をきわめ、凄惨そのものなのである。一方、「多財餓鬼」は財のある富める餓鬼であり、食べたいものを何不自由なく食べられる。では、それがなぜ餓鬼なのか。 ここで重要なことは、「餓鬼」というものの定義である。それは、「飢え」にほかならない。あるいは「欲望」である。欲しくても得られない苦しみはもちろんのこと、どれほど欲しいものが得られる境遇にあっても、一向にその欲望が満たされない状態も、やはり苦しいのではなかろうか。
ところで、仏教では、地獄、餓鬼、畜生の世界を特に、三悪道(趣)と呼んでいる。本来人間には、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(おろかさ)の三毒という根本的な煩悩がある。そうした煩悩の赴く先がこの三悪道であり、地獄道は瞋恚、餓鬼道は貪欲、畜生道は愚痴、という構造になっている。
先に「輪廻転生」は、六道を生まれ変わり、死に変わりすることだと述べたが、そこで今の世に生きる人として、地獄や餓鬼の世界に堕ちないようにするための方策が求められるわけである。これについて、仏教では、輪廻の世界そのものから脱却しなければならない、と説く。これを「解脱」という。そして、果てしなき円環を巡るがごとき六道輪廻の世界から抜け出て、金輪際輪廻のない状況に渡りきった暁に展開する世界が「悟り」の世界、つまり「涅槃」の世界であり、まさしく仏教における理想郷である。釈迦は唯一この理想郷に達した存在(「成仏」)なのである。では、我々凡夫はどのようにすれば「解脱」の境地を得ることができるのか。
仏教では、「解脱」とは、欲望そのものを無くすか、少なくとも極力減らすことである、と教える。むろん、食欲や性欲といった生き物としての根元本能を捨て去ってしまえば、やがて人間そのものが滅んでしまうのだが、ここで仏教が言わんとしていることは、短絡的に欲望そのものを否定するのではなく、欲望に翻弄されるな、ということなのである。ものごとにとらわれず、思い悩まないことが肝要なのである。恨みや怒りの感情、執着心や固執の気持ちを「速やかに」に取り払い、そうした精神状態の源泉となっている状況を冷静に分析して、理解得心の境地をめざすことである。
さて、施餓鬼の目的は、「あの世」で苦しむ餓鬼に飲食を施すことであった。だが、果たして「あの世」などというものが現実に存在するのか、という科学的な疑問も当然わいてくるであろう。その実在の当否はさておき、仏教では常に、「餓鬼世界」をこの世、すなわち「娑婆世界」の比喩としてみているのである。「極楽」と「地獄」も、しかりである。釈迦は、人間の精神世界のありようを、一般人にわかりやすいように、さまざまな世界になぞらえて説き示し、そこから仏教の考え方を展開したのである。
「盆」が一家の先祖の霊を迎え、感謝の念を新たにすることを目的とするのに対し、繰り返しになるが、「施餓鬼」は人間はもとより、すべての生き物に対する感謝の法会である。
人間は、現代に限らず、悲しいかな、自意識過剰で、自己中心的な生物である。我々人間は、18世紀の産業革命以降、この地球上において君臨するがごとく振る舞ってきたが、そうした尊大な姿勢が、科学技術の進歩に伴う環境破壊、精神荒廃、あるいは人種、国家間の諍い、殺戮などを生みだし、今日の世界的な閉塞状況につながっていることは論をまたない。もはや中世の宗教裁判、魔女狩りの時代にも、いわんや古代の呪術、竪穴生活の時代に戻れない以上、いったい何を指針にして人間は生きていくべきなのか、あるいは何を最も強く反省し、改善すべきなのか、「盆」ならびに、特に「施餓鬼」供養の意義を今一度考えてみる必要があるだろう。
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