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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

いのちの本質---万有一元の法

 二十世紀後半の大きなテーマのひとつは、生命・環境でした。現在、世界的な規模で倫理の新たな枠組みづくりの必要性が叫ばれていることはご承知のとおりです。

 そうした中で、先端的医療科学の発展が、古い人間観を問い直さざるをえない状況をつくり出しています。新しい人間観をどう生みだしていくか、私たちは科学と宗教の融合を考える時期にきていると思います。

 以下、本稿ではそのための準備段階として、「いのち」の本質について科学と宗教の両面から考えてみたいと思います。



1 生命とはどういうものか


 生命とはどういうものかという問いに対しては、むずかしく言うと「自己増殖」性、すなわち自分で勝手に増えていく性質をもち、「正常な特異的構造を積極的に維持」する機能、すなわち独自のかたちや性質を一定期間保ち続ける機能をもった個体である、というのが一応の答えです。また同時に、科学の世界では、自然発生的につくられた力学体系を総称して「生命」と呼びます。この力学体系は分裂と統合の二つの方向に展開しますが、当然その逆の展開もあります。それぞれの個体とその環境との間の条件によって森羅万象が生成、存続、消滅の道を歩むのです。このような力学体系が「生命」の活動の本質です。

 生命の根源は、いうまでもなく、この世の中のあらゆるエネルギーの本体---宇宙であり、それがエネルギー現象としてあらわれ、大小無数の、しかも融通無碍にはたらく力として作用しています。それらのうちのあるものは求心力と遠心力として組み合い、相反する力が平衡している極めて小さな力の場が生まれます。仮に物質の極微なものを素粒子とすれば、その素粒子のあるものは結合して原子を構成し、他の素粒子は電気や光や熱のように流動するエネルギーとして共に現象界をつくっています。このような現象界の活動を、科学では「生命」活動として考えるのです。

 従って原子から分子、分子から各種の物質、無機物から有機物、有機物から植物、植物から動物、動物から人間へと順次発展する場合には、それぞれの段階特有の環境との共存条件があるとともに、逆転して万有は消滅する方向へも動いています。これを全体的に見れば、自然界はまさしく流動するエネルギー現象であるともいえるでしょう。その間、エネルギーは等価的に変換を繰り返し、相反する力が平衡しようとして動き、また力が平衡して物質を構成し、平衡を失って物質は消滅します。このことは一切の宇宙現象について「仏性あり」とする仏教世界観と一致しています。

 従って、「生命とは何か」という問題は、その研究の対象が自然現象である以上、人間をも含めた自然現象そのものが何であるか、またそれをどう意識するか、といった根本的な問題にまで立ち入らざるをえません。

 例えば、人間にとって「光」は七色の区別がありますが、その実体は赤外線から紫外線以内の光であり、それらは「光」の波長の相異によるものです。しかし、この自然界には、赤外線や紫外線のように見えない光もたくさんあります。七色の世界は実は人間だけの世界であり、七色の世界が人間から独立して存在しているのではないのです。すなわち、人間の住むこの七色の世界は客観的存在ではなく、人間の主観的存在です。顔色がよいとか悪いとか、新車のデザインが見事だとかいっても、それらは決して客観的実在ではありません。あくまで人間の目を通した主観的存在でしかないのです。

 また、音を考えてみれば、その波長に従って、人間に聞こえる音と聞こえない音があります。人間は聞こえる音の中に住んでいるので、聞こえない音は人間を素通りしていきます。お互いに話し合っていることも、楽しい音楽を聞くことも、この限られた音の世界の中のことだけであり、その限界を超えない人間だけの世界のことです。味わいや匂いの世界もまた、神経細胞に対するイオンの作用によるものであり、触感における寒熱の世界も、それは温度の差を人間が寒いとか熱いとか感ずる人間の五感、仏教でいえば五蘊の作用です。

 このように、一見すれば客観的存在と思われる人間をとりまく環境も、実は人間の主観的な存在なのです。いわば人間が感じるものの幻影にすぎません。しかし、こうした官能による世界も、その実体を科学的に調べてゆくと、それは結局、数とエネルギーの世界に還元されてしまいます。ところがその究極の実体であると思われる数やエネルギーすらも人間の思惟が描く世界---科学者の作り出した世界像---にほかならないのです・・・。

他方、物質はエネルギーの「はたらき」によって誕生したものです。エネルギーは力として作用し、しかもプラスとマイナスに分かれて作用し、その相反する力が平衡して一定の力の場が生じ、それが原子であり、その原子が組み合されて様々な物質や個体ができています。その力の平衡が仏教でいう「涅槃寂静」です。


 現在、生命科学で問題になっているウイルスが生命体であるかないかということについても、「自己増殖」し、「正常な特異的構造を積極的に維持」するものとして研究が進められています。ウイルスがタンパク質を摂取する場合、タンパク質がウイルスをして自己増殖せしめるともいえます。また、普通の生物でも、生物である条件をもつ以前に、まず無生物としての存在条件があるため、まず無生物としての存在条件を有し、それに生物的条件が追加されたという風に考えられます。

 ウイルスはそれ自体では自己増殖できません。タンパク質の中に入りこんではじめて増殖を始めます。従って、ウイルスもタンパク質も、それぞれが単独であれば無生物ですが、ウイルスとタンパク質とが結合して自己増殖という生物活動が始まると、生物になります。そこには「生命」という何か別のものが参加したのではありません。それは両者が結合するという縁によって生じたのであり、仏教でいう「因縁所生」です。つまり、物質の存在条件が変わっただけであって、存在条件ということになれば無生物といえども、それぞれの環境との存在条件の下に存在しているのであり、「因縁所生」ということになるのです。


 万物の基本的な存在条件は、自律共存しているということです。ウイルスとタンパク質の場合も、両者の共存条件が、併存関係から結合関係に入ったという条件の変更だけであり、いわゆる万物流転の一過程です。生物と無生物との存在条件は、存在条件の相異、特に共存条件の相異だけであり、それによって生命の有無を決定すべきものではないのです。こうして見てくると、生物とは一般的生命のうちの特殊な条件を有する生命体であり、生命科学で扱う生命の起源それ自体は、あくまで生命の累積的な発展の一段階にしかすぎないということがわかってきます。

 物質の実体は、現代物理学がすでに明らかにしているように、ひとつのエネルギー現象であり、エネルギー活動が相反する力の平衡により一時的に固定した形態をつくっているものです。それは決して死物ではありません。活動体であるため、その意味でも生命体といえるでしょう。

 そもそも物質は原子や分子などが集まり、一定の法則の下につくられ、巨大なエネルギーを秘めています(原水爆の実現がその証左でしょう)。ですから、物質は決して、動きのない死物ではないのです。むしろ非常に大きな力を備えた活物であり、ある意味ではエネルギーの貯蔵庫のようなものです。ただそれは、一般の生物のように、生物としての諸条件を積み重ねたものではなく、むしろ根源的な活力の源泉であり生命体という点が、一般にわかりづらいのです。

 このような物質を備えた現象世界全体を総合的に感じとることによって、人間は、生物に加えて、普通の物質のすべてが、ひとつの大きな宇宙生命として実感されるのです。つまり、宇宙生命の発展過程として生物が生まれたという見方が生物に対する自然なとらえ方であり、これこそがまさに東洋哲学的な世界観であるといえます。


 人間に映る現実とは、人間の頭の中で情報を処理して総合された仮の現実に過ぎません。しかし、その目の前にある現実も、その現実の内容を分析してその実体を知ることによって、現実に対する見方が変わってきます。物質を死物として見る場合と、それを活物として見る場合とは、その現実に対する意識がまったく異ってくるのです。いのちの本質を捉える鍵はここにあります。

 昔の人は物理学などは知りませんでしたが、直観力によって、物質を活物であるとして看破しています。仏教ではこのことを「森羅万象に仏性あり」といっているのであり、そのような直観力を「正覚」といいます---京都の竜安寺の石庭に広がる小世界などはまさにその典型でしょう。

 現代人は科学的知識によって物質が活物であることを知りました。このことを実感として受け止めることができれば、そこに真正な世界観と人生観が展開され、生死得脱の道も開かれることになります。

 人間は死ぬと、再び物質に還っていきます。しかしそれは人間が人間としての生物としての条件を失うことに過ぎず、一般的な物質条件はまだ続いているのです。人間の生命とは、人間としての生物条件を維持している間のことであると考えるのが普通ですが、人間の生命や生物条件といえども、それは無生物をも含めた宇宙生命の活動であり、生命活動の中の一つの段階なのです。従って、もし物質が活物としての生命が現に存在しているにもかかわらず、物質を死物と錯覚し、活物として意識していないとすれば、人が亡くなる場合に---すなわち人間としての生物条件を失うとき---、そこに認識の断絶が生じ、死は絶望的な暗黒の世界であるということになってしまいます。

しかし、人間の側において、無生物をも含めた宇宙生命全体が我が生命の根源であるという自意識があれば、そこには生命に対する断絶した意識はないはずです。のみならず生命の根源への回帰であると感ずるはずです。この認識を得ることによって、「永久(とわ)のいのち」を感じる道が開かれるのです。人間は、類い希な知性を備えた一生物であると同時に、その生命の由来は他の生き物と同様に宇宙生命の発露でもあります。その宇宙生命を自覚し体得すれば、そこに生死得脱の境地があらわれることでしょう。


 この自然界は、現代科学が示すとおり、力学的に調和した世界です。事物の大小にかかわらず、小は原子・分子、大は天体の運行に至るまで、またその中間に位置する地球上の鉱物・植物・動物までも、その一つ一つが相反する力が平衡して形成され、しかも小から大へと整然と重層的に積み上げられた、いわば無辺際の一つの大きな力学体系です---実に、巧みで見事なものです。しかもその力の平衡関係は固定した平衡だけでなく、平衡しようとして波動し、限りなく変動する世界でもあります。そこには自然界の厳然たる法あるいは掟があります。これが仏教で教えるところの「法」、すなわち「ダルマ」なのです。



2 意識はどこにあるのか


 人体の構造を調べると、その精妙複雑でいながら実によくできていることに驚嘆します。神経系統のはたらきの下に、身体各部の機能は自律的に管理されていますが、これらのすべては人間の意志とは関係なくでき上がっているものです。

 人間は自分の身体を自分のものだと思いがちですが、実は自分より先に身体の方ができ上がっていて自主的にはたらいているのが実状です。「自分」というものは、後から身体の中へ、ことに脳機能の中へ入りこんできた居候のようなものであり、それが普通言うところの自己意識です。その自己意識がだんだん増長し定着してきて、自分の身体は自分のものだと思いこんでしまっているに過ぎません。自分の身体は自分の意志の通りに従い得るものと勝手に決めこんでいるのです。

 その結果、自分の身体の主人公は自分だと勝手に決めて何らの不審を感じないだけではなく、他からも何人も文句をつけるものはないため、自分の身体だけは自分のものだと思いこみ、自分の身体に対して勝手千万な振る舞いにおよぶわけです。まさに主客転倒です。ところが実は、身体の生理機能を自律的に管理している神経系統によって、身体は本来、客観的に自主的な存在なのです。おおかたの身体的、精神的な疾病の原因はこの機能の失調にあります。

 仏教で言う「悟り」の第一歩は、まずこの身体の事実上の主人公を発見し、誤った自己意識を解消することです。

 では、我と思うその心はどこにあるのでしょうか。「我が心安からず」と思わせるその心はどこにあるのでしょうか。実は、「我」という問題を考えるには、自分はこの身体の主人公だと思いこんでいた、その妄念を解消することが肝要です。

 自己洞察を進めていき、誤った自己意識が無くなると、この身体の客観性が明瞭になります。そうなると身体のまわりにある一切の存在、さまざまな見るもの聞くものの客観性と自分の身体の客観性とが一体となっていきます。その結果、自他の境界が無くなり、客観は主観に転じ、主観と客観が一致するようになります。これが「無我」の境地であり、「真我」の実現です。

 従って、「我こそは、自分こそは」と考えている自己は、本当の自己ではないといえます。身体の主人公面をして威張っている自己という化物が跋扈していると、そのために心が不安となり、神経系統が正常にはたらきません。心配事があると胃袋の中に内容物がなくても食欲が出ません。人間特有の知恵才覚が災いして欲求不満や喜怒哀楽の虜となり、その結果、身体にストレスが加わり、神経系統のはたらきが歪められるからです。これらは皆すべて自己意識という化物の為す業です。従って、精神の安定を得るための第一は、自己とは何か、ということを根本的に考えることです。


 では次に、誤った自己意識がどうして人の心に定着するかを省みてみましょう。

 人間は小児の頃にようやく自己意識---自我---が生まれてきますが、はじめはまだ身体の自動機械としての自律的機能、すなわち本能のままに反射的に行動するだけで、自分の意志で行動するまでに至りません。それが、やや長ずると、生活経験の中で漸次知恵がついてきて自他の区別を知るようになり、自己意識が固まってきます。人間が生まれてから成年期に達する間の生活経験の底では、常に自己意識が育ち続け、それがだんだん強固となり、知識を積み重ねるに従って思惟と意志によって多方面に行動するようになります。

 その過程で、自分の行動は自分の意志によって行なわれるものと思いこむようになるのです。つまり、身体自身の主体的生理機能があることを見失ってしまうのです。事実上は身体の生理的要因によって本能的に行動させられていることが多いにもかかわらず、それを独立した自分の意志によって行動していると考えてしまい、そこに誤った自己意識が醸成される結果となります。

 人間生活の中ではこのような自己意識が毎日積み重なってくるため、自分の身体は自分の意志通りに動くものだと思い込んでしまい、この身体の真の主人公は、実はこの身体を生存させている大自然の法則であるということに気づかないのです。身体を生存させている法と自己意識との間に断絶が生じ、自己意識が宙空に浮かんだ化物のような主人公になってしまいます。人間の自己意識も自然法の中にあり、身体とその機能はあくまで自然法のひとつであることを見失ってしまうために、誤った自己意識を生じ、自然法を無視した考え方や行動をとるようになります。

 人間は過剰な自己意識によって、天地自然や衆生の恩恵に気がつかないために、さまざまな世俗的な困難に遭遇すると、怒り、憎しみ、恨み、嫉み、妬み、疑い、恐れ、悩みなどの虜になり、心の休まる暇がありません。心を安らかにするためには、誤った自己意識を解消しなければなりませんが、これはなかなかむずかしいことです。


 ところで、意識とは何でしょうか。ここでは、意識を自己意識と他己意識に分けて考えることにします。他己意識とは他を己と意識することをいうので、自己意識と対立する意識です。例えば、親は子供を赤の他人と同様には思えません。親子の関係以外に、恋愛関係にある男女の間柄も明らかに赤の他人同士の関係とは異なります。親子の間、恋人同士の間とは、相手を己と意識することなのです。親愛の情ということは、他を己と感ずることであり、これを他己意識と呼びます。

 他を我と感じ、意識することは人間同士以外にも例があります。美に対する情緒や大自然の壮美に対する感銘も、対象を己と感ずることの意識です。また、絵を描く人、歌をうたう人の行為は、絵や歌を我と意識しての行為です。絵を描き歌をうたう人は、その間、日常の自己意識が消え、絵や歌に意識が移っています---これも他己意識であるといえるでしょう。他を己と意識している間はそのまま「無我」の状態なのです。

 一方、人生の悩みや不幸はほとんど、誤った自己意識に原因があります。人間が成年期に達するまでは、親兄弟という自分の意識が成長する以前からの人々に囲まれて生活します。家庭という愛情に包まれた小さな特殊な社会の中で育っていきます。その育つ過程で自己意識も成長してきたのです。従って、そこで育ってきた自己意識をもって、家庭とは全く違った冷たい社会の中へ入ると突然変異が起こります。

 まるで勝手の違った環境へ入ると、始めのうちは自分の立場がどういうものかがわからないため、とまどうのです。そのとまどいの中で改めて自己というものを反省する機会が与えられるのですが、このようなときに、自己の本質を明らかにするような教育をすることが肝要であるにかかわらず、そのようなことをせずに今まで家庭内で育ってきた自己意識そのままで押そうとすると、それが思うようにならないため、かえって誤った自己意識が強まり、そこに新しく悩みが起こりがちになります。

 しかし人が対象に共鳴を感ずるということは、対象の生命と人の生命とが共鳴するということです。その共鳴作用が人にとって他己意識となるのです。この共鳴作用は、認識作用とは明らかに異なる営みです。ある対象に対する認識は知識として吸収されますが、愛情や美を感ずる場合にはその内容は他己意識であり、憎悪や嫌悪を感ずる場合は対象に対する自己意識であり、他に対抗した自己意識の強化となります。このように、誤った自己意識は、人間を不幸にし、健康を害し、他己意識は人間に幸福感を与え、健康を増進するものといえます。



3 「我」とはどういうものか


 「我」とは一体どういうものでしょうか。この問題はある意味で、人間にとって最も重要な問題です。「我とはどういうものか」を考える第二の「我」があるのか否か---それは自分の眼を我が眼で見ようとするようなものではないでしょうか。

 フランスの哲学者デカルトは「我思う、故に我あり」と言いましたが、実は「我あり」だけでは困るわけです。その「我」がどんなものであるかを確めることが問題なのです。「思う」という行為はこの身体の行為なのか、それとも心の仕わざでしょうか。あるいはまた、「思う」という行為の主体があるはずであるため、その主体を「我」と呼ぶのでしょうか。そうならば、その主体はこの身体なのか、それとも心であるのか、その主体がわからなければ「我とは何か」という問題は解決しません。

 「万有は一元であり、諸行は無常であり、諸法は無我である」とは仏教の教えるところです。すなわち、大海の水を一元とすれば、万有はその千波万波のようなものであり、動揺と変化が絶えませんが、波と波との間にはなんらの境界もなく、力学的に見て完全に相互に依存しています。従ってその波の一つ一つに主体性などはありえません。すなわち「無常」であり、「無我」であるといえます。一般に個体は一見すると波のように急激に変化はしませんが、それも悠久な時間の流れの中で見れば瞬間的存在でしかないことも事実であり、本質的には波と変わりません。

 人間が「我」と思うその「我」という主体は、この人間という個体にはありません。真実の主体は各人の個体には無く、万有一元であるそのエネルギーこそが真の主体であるということになります。しかしそのエネルギーも、人間に認識されるものは、物質、光、熱などの物理現象であり、それらのエネルギー現象に共通するエネルギーの本体そのものではありません。人間の認識の対象になるものはエネルギー現象であり、様々な形相を持つ差別相であり、エネルギーの本体ではありません。

 人間はエネルギーの現象を認識することはできても、その本体を知ることは不可能です。しかしその本体の存在は認めざるを得ないでしょう。


 釈尊は永い間の瞑想の後、ある日、暁の明星を見て釈然としてこの大宇宙、ひいては人間の本体を覚証しました。知能のはたらきの外に人間特有の素質があるということを悟ったのです。これが真心とか仏性というものです。真心や仏性は平生あまり目立ちませんが、時と場合によって愛他の行動となって発露するものです。これは真心や仏性は、万有一元であるという普遍意識に外ならないからです。太陽や空気のように平生は意識していませんが、人間の心の深層にあります。その潜在する万有一元に対する普遍意識は時に応じて発露され、また修行によって育成されるものです。


 では、万有一元を体験覚証した場合に「我とは何か」の問題はどうなるのでしょうか。

 万有の本体は一元であり、この我が身もまたその一元の一端であるため、我もその一元を当体として体験自覚できるとして、その体験によってどのようなことが起こるでしょうか---万有の真の姿が顕現してくるのです。万物万象の一つ一つはそれぞれが独立した「差別相」としての個々ですが、万物同根一体であるその一元を感得した暁には、その差別相としての個々は、単に外面的に差別相を呈しているだけに止まりません。さらには同根一体であるその一元を顕現していることが明らかになります。従ってその差別相は、同じ差別相であってもその実体である万有の本体を顕現しているのであり、一木一草といえどもそれは万有一元のその一元を顕現しているのです。「我」においてもまた同様です。我が身も一つの差別相としての個体ですが、同時に万有一元のその一元を顕現している個体であり、万有の本体を体験し、自覚自証したこの身「我」こそ真の「我」なのです。これを真我といい、「我」とは何かという課題に対する回答のひとつとなります。

 従って、この真我は単にこの我が身にとどまるものではありません。広く万有の一元を自我の本体とするものであるため、真我は至るところに顕現します。

 例えば、会社員にとっては、その会社が「我」であり、研究者にあっては研究それ自体が「我」、絵を描けば絵が「我」となります。しかし、それらに成りきってしまうのではありません。その時々において、それなりに成りきるのであり、個我の妄執から解放されて自由自在であり、天地の間をほしいままに遊行できるのです。これこそが真の自由自在ともいうべきものです。真我を体得すれば、この境地がおのずから日常生活の行為として現われることでしょう。



4 個性と主体性のあいだがら


 仏教では「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」を三法印といい、万物流転の実相を指摘していますが、その中の「諸法無我」について自然科学的に解釈してみましょう。

 個体には個性と主体性がありますが、主体性は必ずしも常に個体にあるとはいえず、主体性は転換するものです。例えば、水素と酸素が化合して水となる場合を考えると、水素も酸素もともに主体性を失い、それらの主体は水に転換しています。水を見ると、もはや水素も酸素も存在しないように感じられますが、むろん水素も酸素も死んでいません。その証拠に、水を電解すれば元の水素と酸素になります。水素と酸素が化合して水となっているときでも、それぞれの個性は生きているのです。水素や酸素の個性が生きていればこそ、水が水たり得るからです。水素や酸素は生きてはいますが、その主体はすでに水に転換し、その結果、本来の主体は無くなっているのです。

 これを人間の場合に当てはめると、意識の問題になります。人が企業などの組織の一員としてはたらいているときは、その人の主体は企業にあって、一社員として無我のはたらきをしているのです。本人は気がつかなくとも実態はそうであるため、この個性(自分)と主体との関係を意識することが望ましいわけです。ところが、このことをはっきり意識していないと、組織における一要素としてのその人の考え方や行動が一貫しないことになります。

 現代人は自己意識が強く、自己本位であることがあたかも個人の解放---個性の発揮---であるなどと錯覚し、封建的身分制度や資本主義体制などの束縛から解放されることのみ考えて、個性と主体性にかかわる問題の本質的解釈を忘れています。

個性と主体性は必ずしも同処同時にあるものではありませんが、主体の所在をはっきり意識することが必要です。主体性の所在を曖昧にしているために行動に一貫性を欠き、かえって個性が萎縮してしまう結果となるのです。

 人が企業の一員として働く場合や、団体競技でチームの一員として戦うとき、その人の主体性は企業やチームにあって、個人にはありません。しかし個性はあくまで個人の側にあり、企業やチームを主体としてはじめて、おのおのの個性がはたらくのです。それは、チームの一員として競技するとき、自分個人のスタンドプレー意識が少しでもあると、チームの主体性が崩れて敗北することになるようなものであり、企業においても同じことがいえるでしょう。そのような場合には個性が充分発揮できていません。ところが、チームや企業の主体性をはっきり意識し、個人としては無我の境地に立つと、個性が自由自在に発揮できるようになります。これが個性の自由というものであり、いつまでも個人の主体性にしがみついていては、団体自体は実質的に成立しません。


 主体とは客体に対した場合の主体であって、その場限りの主体です。個体といえども絶えざる変化をつづけているわけであり、本来、不動の主体性というものはありません。このことを「諸法無我」というのです。個性もまた、その個体の形質の変化に応じて変化しつつありますが、変化してもその変化に応じた個性はあるのです。個性があるからといって、そこに主体性があるということにはなりません。



5 物と心のあいだがら


 物と心とは、各々が別々に存在しているのではなく、物と心に共通する実体があります。その実体が生命(いのち)であると考えられます。その生命の「はたらき」に二つの面があって、それが物と心であるというようにとらえればよいでしょう。あくまで実体は生命であり、物と心は生命の両面の「はたらき」であり、物は外面的形而下での「はたらき」、心は内面的形而上の「はたらき」ということができます。物と心はそれぞれ、それ自体の「はたらき」ではなく生命の二つの面の「はたらき」なのです。

 これを自分の身体で考えて見ると、我が身には、物としての「はたらき」と心として「はたらき」があり、それが我が生命の「はたらき」であることは誰しも理解できるところです。


 しかし人間の行動を決定するものは結局、心です。そして、その心を決定するためには物に関する知識が必要であり、その両者を統一して機能する、その「はたらき」の主体が生命です。私たちはまず「物心一如」または「心身一如」である自己生命への自覚が重要であり、またその生命が単に自己の身体だけでなく、大きくは宇宙生命の分身であること、従って自然や人間社会がことごとく同じ生命共同体の一員であることを覚証することが望ましいといえます。


 そこで問題は、万有は一元であるというその一元を、人間がどう把握するかということです。

 万有がエネルギー一元であるとすれば、人間もまた一種のエネルギー現象であることは客観的な事実ということになります。その人間の身体が外界とともに一元であるということになれば、このことを人間自身がどう感得するかということが問題の焦点となってきます。これは知能の問題でなく、それを直観的に感得できるかどうかということであり、万法一如という東洋哲学の根本になっています。

 物質の根源自体がすでに「はたらき」であり、決して死物ではないことを考えると、人間は、自分の身体が物質からできているため、それを主観的に自覚することができても不思議ではないはずです。

 しかしその自覚とは知能によるものではなく、宇宙エネルギー自身の自覚です。そうなると、この我が身と、我が身をとりまく人間社会や自然など一切の環境もまたエネルギーの世界であるため、その間に境界がなくなります――あたかも大海の波と波との間に境界がないようなものです。自分自身のエネルギー本体への自覚は、当然ながら、環境であるすべての社会、自然宇宙のエネルギー現象とつながり、その本体すなわち宇宙生命の自覚となります。その宇宙のエネルギー本体の自覚によって、自他一体や無我の体験が得られ、そこから自我とは何かという問いに対する根本的な答につながっていくのです。


 以上述べたような万有一元の実相は、一般に人の心の深層で意識されています。それが、時と場合によって愛他の精神として発揮されるのです。また、学問や修行・徳行によってそれが培養されると、家族や友人その他の環境に対する社会連帯意識を強めるということになります。人を愛し、自然を愛する心情も、それは自他の間に存在する基本的連帯意識の発露です。万有一元の意識とは、まさしく人間特有の天性であり、「衆生本来仏なり」と仏教が教える通りのものなのです。


 現代の私たちは、生命倫理の分野で生じつつあるさまざまな問題---脳死判定、臓器移植、遺伝子治療、代理母、末期治療など(こういう状況は私たちひとりひとりにとっても決して無縁なことはでありません)---について社会的な合意を迫られています。しかし、これは非常に困難で、私たちの間での妥協と寛容と相互理解を必要とする課題です。そういう作業を進める上で、物と心の問題を含め個人の「意識」や「我」に対する洞察を深めながら、科学的な「生命」観と宗教的な「生命」観をひとつにして、いのちの本質とは何かということを検討することがまず求められると思います。本稿がそのための一助となれば幸いです。

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