私たちの日々の行いは、ちょうど香りが衣服に移って残り香となるように、そうした行為の記憶が心の奥底(深層意識)に植え付けられ蓄積されていきます。これを仏教では「薫習」(くんじゅう)といいます。日常のあらゆる行為は意識の奥底に沈殿して、あたかも芽が出て成長していく植物の種子のように、再び新たな行為を生み出してゆく。やがてその種子は、のちの自分を形成する力となるのです。過去からの経験の積み重ねによって、さまざまな心の動きが生じます。このような仏教の考え方を「唯識」(ゆいしき)説と呼びます。
行いは、この世に生まれて以降、両親や周囲の人々から受けたさまざまな肉体的刺激、言葉などが漏れなく心に溜め込まれます。さらには、胎教などで代表されるように、母親の胎内にいる時に経験したことや、私たちの無数の先祖が経験したことなども心の奥底に情報として記録されていると、唯識説は考えます。したがって、両親から受け継いだ遺伝子のほかに、膨大な数の祖先が経験したものごとを背負って、私たちはこの世に生を受けているということになります。
しかしここで忘れてならないのは、自分が心の中で思ったことや想像したことまでも溜め込まれてゆくという点です。それゆえ、たとえ言動に出さなくとも、恨み心を積み重ねてゆけば、いずれは心がその重荷に堪えきれずに暴発してしまいかねないという状況も頭に入れておく必要があります。また、気付かないうちにストレスや葛藤を溜めていけば、思いもかけない時に心身的な病という形になって現れることも、私たちが日常よく経験するところです。
心の仕組みについて通常の心理学では、意識、つまり自我は氷山の一角であり、その下に大きく存在する無意識との二つの世界から形成されるという見方に立っています。いわば、海面上に浮かんでいる「意識」と海面下の「無意識」ですが、唯識説は以下に述べるように、その無意識をさらに二つに分けて分析します。「唯識」とは、私たちが目の当たりにしているあらゆるものごとは、私たちが心の中でそう認識しているから存在しているように見えるだけだ、と主張する考え方です。
過去の行いを洩れなく記録し、(種子として)溜め込んでいる心を、唯識説は阿頼耶識(アラヤ識)と名付けました。阿頼耶識の「アラヤ」は「蔵」あるいは「蓄える」という意味が語源です(ちなみに、「ヒマラヤ」は「雪」という意味の「ヒマ」と「アラヤ」が結び付いた名詞で、「雪の蔵」という意味です)。
阿頼耶識はあらゆる行為を種子として溜め込むだけではなく、現在の自分の個性を生み出す源でもあります。しかし人間の風格や品性というものは短時間に作られるものではありません。それは、地道に積み上げられた無数の行為が心の奥底に薫習されておのずから備わり、われ知らず表面に滲み出たものであるといえます。
自分の過去一切の記憶が何らかのかたちで脳に保存されているということは、現代科学の目から見てもある程度うなずけます。たとえば、局部麻酔による脳の手術中、露出した脳の一部に電気刺激を加えると、本人が長い間忘れていた出来事が細部までありありと、その時の音や匂いまでを含め、あたかも光景を目のあたりにしているかのように再現される場合などその好例です。加えて阿頼耶識は、一個人の生涯をはるかに超え、遠い過去から絶え間なく受け継がれて現在に至り、さらに未来に向けて流れ続けていく心の貯蔵庫のようなものとして捉えることができます。
一方、私たちの意識には、ひたすら自分のことを思うという働きもあります。自意識を生み出している母体(肉体)を無条件におのれ自身と思い込んで執着します。これは、意識下における「利己心」よりもっと根深い層にある「自己執着心」であり、末那識(マナ識)と呼びます。「マナ」は、古いインドの言葉で「思量する」という意味の「マナス」が元となっています。何を思量するかと言えば、自分の得になること、自分だけを大切に思うことなどです。
私たちの心は元来、認識する対象をあるがままに受け取っているのではなく、それらを好きなように選び取り、歪め、自分の都合にあわせて変形しています。私たちは、過去の経験の蓄積と、深層に存在する自己執着心とによって、自覚せずに歪められたものとしての現実と日々相対しているのです。それと同時に、日常生活において私たちは、蓄積された知識から現在の経験を解釈判断し、未来の予測をおこなっています。しかし唯識説によれば、私たちが見聞きし、体験していると思い込んでいるこの世のすべては、一切が各人の心の中だけで展開するものです。逆に、心の外には何も存在しないに等しいのです。
たとえば、ここに一個のコップがあるとします。「果たしてこのコップは本当に実在するのか」。唯識思想は、こんな当たり前の、馬鹿げた問いから出発します。その背景には、私たちはこのコップを実はただ頭で「認識」しているのに過ぎないのではないか、という疑問があります。つまり、たしかに眼で見ている、触ってもいる、その結果このコップはたしかにそこに有る(と、認識しています)。しかし、本当にそうなのかどうか。科学的に言えば、私たちは視神経から脳に伝達されたコップの映像と、手から伝わって脳に届いた信号とで、コップを認識しているに過ぎないのです。
私たちは日常、(新聞やテレビなどを通じて)眼に入ってきた情報、家族との会話、職場や街中での情報などを通じ自分で判断して行動しているつもりでいますが、実はこの「自分で判断して」という部分も曖昧なのです。どこからどこまでが自分の確かな意識によって物事を判断しているのか、それとも無意識(アラヤ識とマナ識)の力の方がはるかに優勢なのか、自分自身では決してわかりません。むろん、「私」という自覚した認識がなければ人間として機能しないわけですが、私たちはともすれば必要以上にこの「私」にこだわります。そこに自己愛から生じるさまざまな肉体的、精神的苦しみがあるのです。
薔薇の花を二人が同時に見ていても、その花がまったく同じように見えているかといえば、そうではないでしょう。もちろん、見る角度が違う、などという表面上の問題ではありません。お互いに、これは薔薇の花だと言葉の上では理解していますが、一方の人が見て認識している薔薇と、他方の人の認識した薔薇とは、その意識のありようから見てまったく違っているはずです。
私たちの心の中の世界のほかには何も無い、私たちは実は一人一人の閉ざされた心の世界に住んでいる、というこの唯識独特の考え方は、ある意味で「人の連帯」を壊しかねない危険な思想なのかも知れません。しかし、唯識説によって心の構造が非常にくわしく調べられ、その世界が露になってきました。この、「見方が異なる」という考え方は、私たちを取り巻くあらゆる物事や現象に対する接し方において同じことが言えるのだとするのが唯識の根本的な姿勢です。
心について、私たちはそれが胸の辺りの奥まった場所にあるような錯覚を覚えますが、いうまでもなく生理学的には脳の働きが「心」そのものです。そして、心そのものが「私」(あるいは自分)であるのだと私たちは何の抵抗も無く思います。たとえば花を見ている時に、花を認識している私、その花を美しいと考えている私、さらに、花を美しいと考えている私を見詰めているもう一人の私、等々と、ちょうど複数枚の鏡に囲まれて前にして立つと、あたかも自分が無限に存在するかのように、私たちの中には意識の階層に応じて複数の「私」がいるようなものです。その際に、どの「私」が真の私なのか、まったくわからなくなってしまいます。「意識」の正体を探ろうとしても、その茂みに分け入っていけば行くほど迷路に入り込んでいきます。そのとき、ある一定の肉体と精神を備えた「私」という存在に対する私たちの確信は、もろくも崩れ去るのです。
映画や芝居の俳優たちはみごとなまでに各々の役を演じ分けていますが、これは、花を美しいと考えている「私」を観察するもう一人の「私」がいなければできません。もちろん、私たち自身も、日常生活ではさまざまな場面で演技をしています。父親や母親として、子供として、あるいは社長や社員として、場面ごとに使い分けながら、知らず知らずのうちに俳優も顔負けの演技をしているわけです。これも、その俳優としての「私」を見つめるもう一人の「私」がいなければ、到底為しえない芸当です。
「私を見つめるもう一人の私」という点について、もう一人の「私」とは、私たちが常々には意識できていない「私」です。それは、意識していない私、あるいは無意識の私と言い換えられるでしょう。
私たちは、自分以外の一切の人や事物は、自分の心とは関係無く存在し得るものと考えていますが、それでさえ「考えている」わけです。したがって、私たちの考えている心の働きと関わりの無いところで、物あるいは世界が在るとか無いなどということはまったく言えないのです。仏教のこの唯識思想は、そういう事実にしっかりと目を向けていき、すべては自分の心と関わりのあるもの、つながりのあるもの、そういう「縁起的なもの」だと見て、私と他者、私と世界というふうに分離してばらばらに見る錯覚姿勢を正す、そのための一種の実践的な人生の処方箋です。
この世の真実の一つは、私たちがやがて必ず死を迎えるという冷厳な事実を含め、あらゆる存在がいずれは無くなるということです。しかし実は、「無くなる」という考え方もまちがいであり、形を変える、変化するという表現が正しいというのが唯識の説くところです。
たとえば、「水」という存在があります。水は温度の変化にしたがって、氷という固体にもなり、水蒸気という気体にもなります。川の水は、海水にもなり、雲にもなり、雨にもなります。私たちが死んだ後にすべてのものが存在し続けることはあり得ないわけであり、そういう意味で、「私」が今の一瞬認識できているものだけが確実に存在していると言えるのです。水だけではなく、短期間では変化が認められないコンクリートや岩石も目には見えませんが、風化(化学的には酸化)が進んでいます。あらゆる存在は、変化の速度は千差万別ですが、変化し続けていることは疑いようのない事実であり、かつ真実です。
私たちは、自身の言動だけでなく、思考や意思のすべてが心の奥底に記録されると共に、言動・思考・意思は阿頼耶識と末那識からの情報にも影響を受けています。これは、ものの見方を変えるには心の奥底に蓄えられている内容を変えない限り無理であるということを示唆しています。またこれは、たとえば善き心の種を限りなく植え込んで行けば、私たちの心はやがて仏の心に転じ、行為も思考も仏のものに転ずるという考え方につながっていきます。
自分以外の外界一切は自分とは別に存在しているのではなく、実は阿頼耶識がそれを作り出しているのだという解釈は、自分の感性や知性を信じ切っている私たち現代人にはなかなか理解できないことです。
私たちの眼は、通常は空気中の小さな埃や細菌を識別することができません。もし、私たちの眼が顕微鏡のように高感度のものでしたら、おそらくは、細菌と埃だらけの世界が眼に映り、とても耐えられないかも知れません。音についても、私たちの聞こえる音の周波数とイルカやコウモリの場合とはかなり異なります。こう考えていけば、世界は、私たちが思っている通りの世界ではないということになります。私たちが「世界」と思っている世界は、あくまで「私」が自分の能力・感覚でとらえている世界であり、普遍的な真実の世界ではない、すなわち、世界は唯(ただ)自分の識(こころ)が作り出しているものだということになります。これが唯識という言葉の由来です。
同じ仏像を前にしても、その慈悲心に溢れた眼差しに打たれる人もいれば、まったく無関心で一瞥も与えない人もいます。また、私たちが見ている世界と、昆虫が見ている世界とでは目線や色彩がまるで違うはずです。私たち人間は、各人の心の奥底に溜めこまれた種子を通じ、一人一人異なる価値観に基づいて個別の世界を人間の数だけ作り出している、そう唯識説は考えるのです。
私たちにとっての価値観とは、人生で何が一番大切かということが基準となっています。しかしこれは厳密に言うと、本来は無意識の領域に属するものなのです。私たちは、人生で何が一番大切かを絶えず自問自答しながら生きているのではありません。一瞬一瞬現れる言動は、無意識のうちに形成された価値観によって支えられているからです。そして、その一瞬ごとの言動が蓄積されて人生を作ってゆきます。
唯識では、溜め込む種子を変えれば、煩悩欲望の生活から脱却して明鏡止水の境地に自己変革できるのだ、と説きます。心が変われば態度が変わり、態度が変われば行動が変わっていきます。そして、行動が変われば習慣が変わり、習慣が変われば人格が変わっていきます。人格が変われば人生も変わるのです。
人間には生れつきの素質や性格があると言われていますが、この素質や性格と阿頼耶識との関係はどうなるでしょうか。人間の性格を見た場合、素質が千差万別であることは誰しも否定できない。しかし、「生れつき」という考え方を唯識説は採用しません。唯識では、心の奥底に蓄えられている種子そのものは善でも悪でもないと考えています。人間は、良い性格か悪い性格か、いずれかの属性を備えて生まれてくるのではない。そのどちらとも言えない未明分な状態で誕生してきます。素質・性質というものは、良い悪いではなく、いろいろな能力が種子として心の奥底に溜めこまれており、それが縁によって、すなわち、生まれ育った環境、両親の育て方、友人や教師との出会いや、その他無数の邂逅によって、素質や性格として芽吹くものだという風に捉えられます。
私たちはみな誰しも、膨大な人数の祖先を持っています。その中には、世間から尊敬を集めた素晴らしい人物もいれば、極悪非道の人物もいたことでしょう。運動能力に長けた人や歌の上手な先祖もいたかもしれません。そう考えると、私たちはあらゆる可能性を秘めた阿頼耶識(遺伝子)を受け継いで、この世に生を受けたはずです。
しかし、たとえば運動能力についていえば、優れた運動能力を備えて生まれて来た人はたくさんいますが、育った環境や指導者の教えなど複数の縁をどう自覚し、具体的な行動に反映させるかというその積み重ねによって、素質が開花したと見るべきです。そういう縁と認識を欠けば、運動とはまったく関係のない生活の中で自分の運動能力を知らないまま人生を終える人も多いのです。人間は個々に、その人独自の素晴らしい能力が受け継がれて可能性に満ちているにもかかわらず、無数の縁の中から自己にふさわしい縁を逃さず掬い上げるか否かによって、人生の明暗がわかれるのです。つまり、自分の意志で---人を選び、機会を逃さず、向上心を持続させながら---善き縁を選び取り、仏となる種子を心の奥底に薫習させるよう努力して、最終的には生まれ持っている仏性を「悟り」という花に育て咲かせようというのが、唯識的人生論の主旨であるといえます。
私たちが自ら認識できる意識は、阿頼耶識から直接支配を受けているのではなく、自分の得になること、有利になることだけを考える「末那識」というフィルターを通して無意識のうちに心の奥底に溜め込まれた種子が形を変えて出てくるものです。そしてこの末那識そのものも、心の奥底に溜め込まれた種子のありようによって変化します。しかしながら無意識層の心である末那識は、他の動物には無い「煩悩」を生み出す源でもあります。
人間はどのように存在しているかという点を掘り下げたのが阿頼耶識であったのに対し、阿頼耶識よりも上層で働く末那識は、心の奥底に潜む歪んで倒錯した精神の動きを掘り下げたものです。末那識は、ただひたすら自分を愛着し耽着して、他の存在を認めたがらぬ我執の「心」です。
すべての煩悩は、常に自分の都合ばかりを優先しようとする末那識が土台となっています。しかし無意識層であるだけに、私たちの意識によってコントロールできず、傷を受けた経験の数々が心の奥底に堆積し、いよいよ悩み多き人生の深みへと入り込んでいきます。この煩悩具足の私たちが仏へと変身するための第一歩は、自らの心の動きから目を背けるのを止め、その実相をはっきりと直視して認識することからであると唯識説は考えます。
私たちにとって大切なことは、日常生活を送る中での自分の心の動き、しかも瞬間的な心の動きをも偽らずに自身の中で描き出して、自己を見つめる第二の「私」を強く意識することです。ある程度自己を見つめる心が育っていけば、勃興する煩悩を少しずつ抑制できるようになります。たとえば瞬間的に湧き上がった「怒り」をすぐに言動・表情に現わさないという一種の「習慣」も身につけることができるのです。しかしながらその場合でも、決して煩悩が消えたわけではありません。その煩悩感情は心の奥底に蓄積されて、地下のマグマのように噴出する可能性を常に秘めています。世の中のありようは所詮、自分自身の心のありようによって千変万化するのだという意識が肝要です。
煩悩の「悩」は、いうまでもなく「悩む」ということです。悩む行為はたいていの場合、一人相撲です。相手のいないところで一人腹を立て、一人で悶々としています。「悩」は、自分が抱く不満を相手にぶつけられない胸苦しさの現れです。この精神的地獄から脱け出るには、やはり、根本煩悩である我痴、我見、我慢、我愛の実体を凝視していくしかありません。これは、多くの人が抱えている問題であり、日常生活を不快にしている最大原因の一つといってもよいものです。
私たちは、すべての事物や現象を自分の利害関心というレンズを通して歪曲して見ており、あるがままの真実の相がなかなか見えません。人は誰しも自分について抜きがたい固定観念を持っており、自分の性格や特質について言葉を通じさまざまに規定しています。そのようにして意識された自己に関する概念が整理統合されて、自分はだいたいこんな人間だという全体像が各自の脳裏に漠然とできあがっています。しかし、そのような自分の全体像は周囲の人が見ている私の全体像と合致しているのか、冷静に見つめなおすことも時には必要です。私たちは普通、実体があるからこそ、そこに物や人が存在しているのだと何の疑問も抱かずに思いがちですが、仏教では、その存在はたんに現象にすぎないのだと見る。仏教で言うところの「空」とは決して「存在が無い」を意味するのではなく、私たちがまぎれもない現実だと思い込み、見たりしているものは、実は外界から来たものではなく、阿頼耶識に由来するものだと考えるのです。現実に存在しているかのように見える表面的な姿は、阿頼耶識が行動や行為を縁として意識の上にあたかも陽炎のように立ちのぼったものに過ぎません。
唯識説に立てば、極論すると、私たちが生きているこの世の出来事の一切が夢か幻であるということになります。ところが、私たちは断じてそうは思わない。見えているもの、体験していることは自分の心の深層から出てきたものだとは決して思いません。自己の存在を疑うことすらしない。しかし、そのようにして自己こそまぎれもない実体だと考えた瞬間から、自己への執着、すなわち我執が生じ、そこからあらゆる迷いと煩悩が生じてくる、ということを忘れてはならないでしょう。
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