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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

不安の心理---自己愛に苦しむ現代人

 人間は、美しい一面と同時に醜い面をもち、強さと同時に弱さをもつ存在です。そして宗教の目的は、こうした人間の醜さや弱さの原点を認め、そこに許しの気持ちをもつことです。これは「甘やかす」ということとは違います。自己の確立ができなければ許しに基づく人生観を得ることはできません。倫理的に自分に厳しく、他者には優しくなるのが「許し」です。

 このような「許し」の思想は、「あるがまま」と一脈通ずるものがあります。人の醜さ、弱さをあるがままに認めればこそ、その対極にある人間の美しさ、強さを新たに評価することができるからです。

 本来、「あるがまま」というのは、東洋の仏教的理念を包む言葉です。エジプトやギリシャのように乾燥した苛烈な自然環境の中で育まれた人にとっては、常に自然を人と対峙する現象として克服しなければならない運命に迫られていました。そうした自然現象を根底において発展してきた西欧文明は、常にまわりの現象に対して分析的、解明的であり、さらには闘争的でした。

 他方、東洋の文化、特に日本のようなモンスーン的風土を背景とした文化圏では、自然の恵みが比較的豊饒で、四季の違いが画然とし、その自然現象の中に包まれながら農耕を営みつつ人々は生きてきました。したがって、そのような自然を背景に形成されてきた諸現象は人間と敵対関係にあるのではなく、人々は自然の現象をそのままの形で受けとめる習慣を身につけてきました。

 また別な側面を見ると、西欧の考え方においては、人が何らかの形で心に内在させている不安や葛藤を分析して、それを異物として除去しようとする傾向があります。これに反して東洋の考え方は、ある意味で人の不安・葛藤がいわゆる正常な心性と一衣帯水であると考えます。結果として、その不安・葛藤をいくら除去しようとしても、異常でないものを除去しようとしているのですから、除去しようとすること自体が矛盾のある行為ということになります。つまり、基本となる西洋的心性とは「意思による克服」であり、東洋的心性は「現象の受入れ」であるといえます。

 私たちは完全なるものへの欲求が強いために、常に「かくあるべし」という自分の理想的な姿を想定しがちです。しかし、私たちが住む不条理の現実には、そのような都合のよい状態が決しておとずれることはありません。そのため「かくあるべし」という理想志向と、「かくある」という現実が真正面から衝突してしまうのです。そのときに理想と現実の区別がつかなくなって不安・葛藤が強くなり、最終的に現実から目をそむけてしまう結果となります。いわゆる精神的な「退却」現象です。これが昂じると、自分のすべてに対して否定的になって劣等感に陥り、「現実」世界の重圧に押しつぶされてしまいます。 さらに私たちは生まれながらにして、健康でよりよい人生を過ごしたいという本源的な欲望をもっています。それゆえに、不健康であったり、みじめな状態になるのを非常に恐れるわけです。極論すれば、人は誰でも生まれつき心配性あるいは神経症の素地をもっているのです。これは死の恐怖と相まって、生の欲求と対を成すものと考えられます。よりよく生きたいという生の欲求が強ければ強いほど、よりよく生きられなかったら困る、という反対観念に起因する不安が強くなってくるからです。しかし、誰の心にも存在する心理状態であるからこそ、それをことさらに取り払おうとしないであるがままにしようということが実は大事です。

 たとえば、大勢の前で何か話そうとするとき、心臓がドキドキして声が出なくなるのではないか、あるいは体が硬直して震え出すのではないかなどという不安体験を誰でも一度や二度もっているはずです。これは一種の予期不安といえます。たとえば公衆の面前で話すときに震える傾向のある人が、震えまいと意識した結果、かえって震えがひどくなり、会場で立ち往生してしまったとします。この場合、まだ話す前から、もし自分が震えたらどうしようという予期不安に怯えていたのです。上手に喋ろうとすればするほど、その「予期不安」は拡大され、実際に話す段になると、緊張ばかりして期待と反対の方向にいってしまうのです。これが俗に言う「あがる」という状態です。

 つまり、自分にとって不都合な心身の弱点を取り除こうと努力すればするほど、逆にそこに注意が集中し、結果としては自分に不都合な状態を引き出してしまうわけです。これは精神の交互作用が為せるわざです。

 私たちの社会生活には、人間関係を筆頭として「精神の交互作用」を痛感する局面が随所にあります。しかしそれを認めた上で、自分自身だけがもっている内実をあるがままに表出し、目的本位の行動を実現していくのか、それとも逆に、そうした事実を認めようとせず、自分を美化しようとして無駄な努力を重ね、結果的に逃避してしまうのか、それは各人の個人的な選択にかかっています。

 そのあたりの人間心理を考えていくと、「囚われ」という精神状態に突き当たります。一般に自己愛的傾向の強い人はこの囚われから脱することができず、囚われの奴隷になってしまいます。もがけばもがくほど、囚われの観念が蜘蛛の糸のようにまつわりついてきて、自由を奪い、拘束してしまうのです。 また、囚われがひどくなるにつれ、自分にとって都合のよい理由ばかりをつくって合理化し、その裏で逃避するという「はからい」の行動をとるようになります。その結果、現実に背を向け、心身のマイナス点のみを気づかうようになります。さらには同じような確認行動をくり返し、いよいよ生活の幅を狭めて日常的な現実から遠ざかっていこうとするのです。こうなると囚われの悪循環といえます。「自己愛」者とは囚われの牢獄に自分を追い込み、「他者」という視点が完全に欠落し、我が身、我が心しか愛することのできない人です。現代人の間に増えつつある「自己中心的」な人間は、「自己」と「他者」のバランス感覚を失調しており、人と会話をするときは専ら自分に関する話題に終始し、相手の発言に耳を傾けることはまずありません。また、自分の心身の変調に異常なほど敏感で、体温、脈拍、顔色を気にせずに朝目ざめ、夜床につくことはありません。自己愛に囚われている人は、不都合な状態があるから思考を前へ進めることができないとか、あるいは、身体のことが不安で仕方がないから日常生活ができないとか、何らかの理由を付して現実から逃避をしてしまう傾向があります。

 この世で生活する限り、不安のない人はいません。人と人との出会いの中で軋轢のまったくない人間関係は存在しません。また、人は不条理の世界に生きている以上、いくら「こうあって欲しい」と願ってもそうはいきません。このようなことを先回りして慮り、不安の牢獄を作り上げてしまうのが、自己愛に溺れた人です。

 それでは、自己愛から脱却するには何を心がけていったらよいのでしょうか。

 まず第一に大切な点は、自分自身が精神交互作用の矛盾を引き受け、その状態から「はからい」によって現実逃避をしようとしている自分の現状をつぶさに認めることです。しかし、真実が見えなくなり、現実から背を向けようとする人にとっては、正しく客観的な自己判断ができるものではありません。状態と自己と現実の間における三者関係が充分に把握されておらず、自己の洞察ができていないからです。

 そこでまず、精神交互作用の悪循環を打破することです。ものごとには「注意の法則」と呼べるようなものがあります。人は、一方に注意を向けるならば、必ず一方の注意は疎かになっていきます。心臓の調子に注意が向いている場合、精神相互作用に振り回されて注意の対象が「心臓の状態」だけに偏ってしまいます。ほかの事物にはまったく関心を示していません。この精神交互作用から脱しようとするならば、その観念を取り去ろうと努力したり、気になる事物をくり返して確かめようとせず、不安・葛藤を頭に残したまま、強いて現実における日常目的に行為を移していくべきです。自分の真の欲求が生かせるような現実目的を果たしていけるならば、そちらの方向にいつしか注意の焦点が移り、日常生活の流れが脅迫観念に中断されることなくスムーズになっていくでしょう。

 世の中にあって、不安や疑念をまったく伴わずに確実な結論が出るなどということは、よほどの楽天家でない限り存在しません。私たちの日常行動の中では、絶えず実際に行動に移してみなければ、甲の目が出るか乙の目が出るかわからないような事態が眼前に次々たちはだかっています。私たちは、とにかくも行動を通してそうした状況で毎回賭けをしていかなければならないのです。「自己愛」はまさに、そのような不安で不条理な事態に自分を賭けていくのが恐いために、「はからい」の行動をとり、自分に都合のよい言い訳をつくって現実から逃げ出そうとすることにほかなりません。

 他方、自己愛とは対照的に、「あるがまま」とは文字どおり、物事のありようや移り変わりを、自分の固定観念をまったく加えずにそのままにしておくということです。たとえば夜道を一人で歩くときに、漠然とした根拠のない恐怖心を感じることは誰にもあります。それは見通しのきかない暗闇で何が起こり、自分がどうされるかわからないから怖いのです。つまりここで「怖い」という気持ちは、人間の根源的な感情としてあるのであって、その感情を否定したり、無きものにしようと思うのはむしろ不自然です。また学校や会社の面接試験などの際に緊張して息苦しくなることがありますが、それも極度の精神的ストレスによる自律神経の変調から引き起こされるのですから、身体のサインが出るのは当たり前のことです。「あるがまま」というのは、当然起こり得る現象を素直にそのままに受け止めておこうということです。

 人の性格には一般的に、物事を「かくあるべし」というように自分勝手にゆがめて、理想的に決めてしまおうとする傾向があります。たとえば、緊張せずに面接を受けたい、というようなものです。しかしそう考えることは、人としてのあるべき本来の姿に逆らう状態であるため必然的に無理が生じ、精神交互作用のメカニズムが原因となって、理想とは反対の不都合な状態が逆に強くなります。この不都合な状態が積み重なっていくほど矛盾が増し、ついには自己愛の状態が恒常的に形成されると考えられます。結局、自己愛を治すには、「あるがまま」の本質を正しく理解するところから出発しなければなりません。生の欲求を正しく維持しようとするのなら、逃避したいという一方の欲求をそのままにしておき、もう一方のよりよき自己実現をしたいという欲求に則った行動をとっていくことです。これが「あるがまま」の本質です。

 現代人の不安の所在はどこあるのか。「自己愛」と「囚われ」、「あるがまま」といった言葉がこの問いに対するキーワードであるような気がします。そもそも自己愛の状態は、誰の心の中にも存在する普遍的な苦悩です。それと同時に、人と人は苦悩という点で連帯しています。私たちは生きている限り、自己愛に苦しみ、あるがままの境地を求めつづけなければなりません。そういう意味で人生をよく生きるということは、その代償として、囚われから脱してより広い世界に開眼していくという努力を終生繰り返すことが宿命づけられているともいえます。

 自己愛の苦しみのさなかでは人を避け、自己の身体的不調に自分を逃避させ、他者に対する配慮や社会意識を無視してしまいがちです。ところが、自己愛の囚われから脱して自己を新しく確立できるようになると、他者や社会に対する目が大きく見開かれるようになります。つまり、隣人や見知らぬ無数の人が自分の存在意義を自覚させ、そして自分自身がこんどは逆に他の人にとって同じ役割を果たす立場となっていることに思い至るのです。このようにして自己愛の囚われから自由になった人は、それまで背負ってきた体面、面子、自意識、虚栄などの荷を肩から降ろし、あるがままの自然な自分を発見しているはずです(ちなみに、鎌倉時代の僧である明恵上人の「あるべきやうわ」---人の分限をこの世の定めと受けとめ、おのがはからいを捨て、身のほどに応じて全力を尽くす---の描く世界でもあります)。

 釈尊の教えの根底にあるものは、老いることに抗えず、病むことに抗えず、生きることの苦しみに抗えず、死ぬことの恐怖に抗えないということ。つまり生老病死には抗えないということです。生老病死という、どうしようもない現実の中で生きざるを得ない限り、人間の浅知恵でそれを恣意的に変えようとするることはばかげた所業です。この点を真に把握するため、自分の生きてきた時間と自分が置かれている空間を見定めながら自分という存在を再認識し、自分の苦悩が囚われの罠に陥っていないかどうかを今一度確かめてみることが、畢竟、人生を虚心坦懐にとらえる上での要諦といえましょう。


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 ポーランドの文学者シェンキェヴィッチの「クォ・ヴァディス」という作品には、紀元1世紀のローマ時代におけるキリスト教徒受難の様子が描かれています。

 皇帝ネロの迫害をのがれようとして峠までやってきたペテロは、ローマの町を最後にもう一度見ようと後ろを振り返ったとき、(すでに磔になった)キリストの姿を認めます。ペテロは「クォ・ヴァディス(主よいずこへ行き給う)」とたずねます。これに対してキリストは、「おまえたちがローマを捨てるなら、私はもう一度十字架に架けられよう」と答えます。

 その言葉を聞いたペテロは翻然とローマへ引き返して行きました。迫害を受けて殺されることへの恐怖と、背徳者として生き延びることへの自責の念との狭間で苦しみながらローマを後にしようとしていたペテロは、「かくあるべし」といった強迫観念も「自己愛」の囚われもないキリストの表情から大悟し、真の殉教者としての生き方が自分にとって自然な生き方、すなわち「あるがまま」の行為であることに気がついたのです。ペテロの逡巡と最終決断は、人間の普遍的な本質を示しています。

 つまずいたり転んだりしながらも、自分の求める道をひたすら歩むのが「あるがまま」の人間ということになるのかもしれません。

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