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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

人倫と十善

 そもそも文化には目に見える文化(芸術や建築など)と目に見えない文化があるが、目に見えない文化は心の部分、つまり精神的文化であり、それは知・情・意によって成り立っている。さらに詳しく言えば、知はものごとを分析する知(分析知)と、ものごとを総合する知(総合知)に分けられよう。

 一般に、文化(宗教を含む)と人間のかかわりを考える場合、分析知のようにものごとを細く分けていくあまり事象相互の関係がだんだん離れていってしまう知ではなく、総合知のように主体性をもってものごとを把握し、真実を知ろうとする知を主に考えることが重要である。なぜならば、総合知によって善と悪、正と不正の弁別が可能となるからである。この総合知のはたらきを通じて、「人間性」の核となっている「情」(感情、情緒、情操)がはじめてその役割を十分に機能させることができる。情が発露され、真・善・美に対してあこがれを持つことによって、人間は人間としての真価を示すようになる。

 では、人間をまさしく人間たらしめている本源要素は何であろうか。それは、人間的感受性であり、愛である。ところが現代では相手を蹴落とすような競争が激化し、ますます人間の尊厳が失われている。それは、分析知ばかりが極度に発達して、自分と周囲を包括的にとらえて見つめるという総合知による思考を停止した状態にほかならない。その原因はむろん、お互いを高め合う競争ではなく、経済原理を最優先した結果、己一人の利益の追及という社会をつくり出したところにある。

 人間は本来、他の人間の助けによって、真の人間となる。つまり教育のはたらきなくしては人間とはなり得ないのである。人間の子として生れても狼に教えられ、育てられれば人間とはなり得ず、言葉も、衣食住も、いわんや人間的文化を身につけることはできない。人間の手による、人間となることを前提とした学習があって初めて「ヒト」は人間となるのである。この点は重要である。家庭の役割、社会の役割がそこで問われるからである。

 ところで、人間にはもともと先天的に備わった「内なるもの」である自己(自我)と、成長につれて後天的に学習していく「外なるもの」である文化による生き方(生活)がある。そして、人間個人にとっては「外なるもの」が「内なるもの」よりもその人間形成に影響を強く与える。その反面、「内なるもの」は平常は表に出ず、人格の奥深い部分に沈潜し、感情の爆発や環境の激変などの特異な状況下でしか人間の行動や思想に影響をもたらさない。宗教は民族あるいは社会という人間の集合体の長年月にわたる経験と智恵を経て生じた「外なるもの」の典型であるが、同時に「内なるもの」に強く働きかけるひとつの精神的要素であり、従って生き方の根本にかかわってくるものである。つまり宗教は場合によって、個人の人間性自体を根底から変え得るものであるといってもよい。

 一般に、人間の行動は生物的行動、技術的行動、表現的行動の三つに大別される。言語や芸術や宗教の表現行動が、他の生物にみられないきわめて人間的な行動であることはいうまでもない。技術的行動は「外なるもの」の状態を変えようとする意思のあらわれである。表現的行動は自分自身、すなわち「内なるもの」になんらかの生きがいの意味や価値を認めようとする行動である。しかし人間はその表現的行動の動機において、物欲をもち、権力欲をもち、名誉欲をもっているため、絶えず人と争う結果となる。さらには、国と国、あるいは民族と民族との対立や抗争にまで拡大されていく。いわゆる仏教でいう、三毒による争いである(貪りという欲、怒りという争い、そして真実が見えない無知によるところの争い)。

 こうした状況をとらえて仏教の開祖釈尊は、「吾唯知足」という文句を発した。つまり少欲で満足するよう提唱し、欲望の苦悩をまぬがれるために瞑想沈思した。そこでは確かに争いがさけられる世界があり得るであろう。だが、人によってはこれを現実からの逃避に過ぎないという。宗教の世界への逃避だという。果たしてそうなのだろうか。これを逃避であると非難する人は、実は、宗教(特に仏教)が人間の無明(無知な状態)を明(知恵を得た状態)に導く本来すべての人間が備えている深い心のはたらきを重視している点を見落としているのではなかろうか。また表面的な礼教性、つまり儀礼の側面だけを見ていて、その深いところに存在する宗教性を見ていないともいえるのである。たとえば儒教の宗教性といえば祖先崇拝、親への孝、子孫繁栄という生命的な孝であり、それが死という根本的な不安を解決する宗教としての孝といわれるものである。それは人間の深部にもともと存在している宗教性なのである。従って宗教というものを表面的にみると、その消極的、逃避的な性格しか感じられないということになるのである。

 ちなみにキリスト教では自己愛・隣人愛を相対的な愛、そして神への愛を絶対的な愛と考えている。自己愛や隣人愛は従って、神の愛に対立する罪の自己愛になると説く。しかし、人間というものは、放置しておくと自己の幸福(自己愛)だけを求めてやまない動物である。これを偽りの自己愛という。これを正しい自己愛に変えるように、信仰を通じて心の中に注がれるものが「神」の愛(カリタス)であるとキリスト教は説く。あらゆる世俗の欲望(金や名誉や女性などに対する欲望)への執着を全身全霊で神に向ける愛に変えさせるのである。

 さて、この現実の世界にのみ目を向け、それにとらわれている者は宗教的にいえば「悪」人であり、神に目を向けているものは「善」人とされるのであるが、これは仏教にとって(キリスト教にとっても)、つまり宗教は人間の現実的な欲にのみ走ることによる悪を止めて、善に向わせようとするはたらきを基本としている。そこに、理想としての絶対善、神、あるいは仏がある。争いのない、絶対善の世界は、まさしく平和の世界であるが、そこに至る善の道において、人間にはどうしても一定の戒が求められる。その内容は、宗教の種類を問わず普遍的である。

 たとえばキリスト教では、個人の死後に赴く天国に天上の平和を求め、その平和を求めることに関係した行為を善とみる。一方、正しい見解、正しい思惟、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい心の安定、正しい精神統一、といういわゆる仏教の「八正道」は、苦や悪を離れて、楽や善に向かう実践行為である。

 たとえば、現実に生きる人間が持っている邪悪なものの一つに性愛がある。キリスト教では愛の乱れは神との正しい関係が失われたことによるとしているが、現実的には自己を愛する愛、快楽を求める情欲が横行している。悪の声は大きく強く、人々を日夜誘惑して止まない。それに対して神の愛の声は小さく、か細い。それは仏教にとっても同じである。

 この悲惨な状態からの脱却をめざすために、仏教では、以下のように十善業として善をすすめるのである。


*不殺生:他を殺さないということは、他を生かすことであり、生かし合うことは共存の原理原理である。理由なくむやみに他を殺さない、お互いに生かし合う努力が、この善の第一原則である。

*不偸盗:いうまでもなく、他人の持ち物を盗むことは、社会的な秩序の崩壊につながる。人の生活の和を乱す結果となるものである。

* 不邪淫:淫らな性愛におぼれないということは、人倫の秩序を乱さない、和を保つ上で非常に重要な条件である。

*不妄語:嘘をつかないということである。所詮、人は言葉によって傷つけられたり、励まされたりする。

*不悪口:悪口をいわないことは、人とのつき合いの基本である。

*不両舌:二枚舌を使うことは、やがてその対象の両者からの信頼を失う結果となる。正義、誠実を保つことが人の和の大きな要素である。

*不綺語:かざり言葉、お世辞は真実の気持ちをあらわしているものではない。真実を語ることによってのみ、人の信頼を勝ち得る。

*不慳貪:貪らないということである。仏教における根本悪である貪り、怒り、愚痴のひとつ。欲を出すことによってさまざまな争いごとがおこり、不和の原因となる。欲は諸悪の根源である。

*不瞋恚:瞋(露な怒り)をおこさないことである。怒りは和を乱し、秩序を破戒し、共存を不可能にする。

*不邪見:邪見を抱かない(正しい見解)ということ。正しい見解は、正しい思惟、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい心の落ちつき、正しい心の統一、という先述の「八正道」を導く。

 戒の本義は、己に誓って守ることであるが、仏教の説く十善戒は善の行いである。十善を行うことが人の道であるならば、仏教は人の道、すなわち人倫を説いた宗教であるといえる。同時に、人だけでなく、この世のあらゆる生命の共存の根本原理を説くということになるのである。

 文化(宗教)と人間の関わりを考える上で、この「十善」の持つ意味は現代でも意味を失っていないといえる。各項目はいずれも至極当たり前のことを述べているに過ぎないが、それを今でも強調しなければならないほど、往古から人間は本質的に変わっていない。このように、釈尊、あるいはソクラテスやアリストテレスなどの時代から人間が一体どれほど精神的に進歩してきたかということを考えあわせると、人倫の向上と科学技術文明の発展をどのように調和させるかが、21世紀における人類全体にとっていよいよ避けて通れぬ至上命題となるであろう。

 また、現代日本を通観してみても、自己中心的な生き方が蔓延しているかにみえる。かつて1960年代から70年代にかけて欧米を席巻した精神文明への憧憬(インド的生き方)という現象はその後、技術文明に対する冷めた見方や社会生活に対する謙虚さを特に今日の欧米の青少年層にもたらした(各種世論調査でも、日本の青少年よりも欧米の青少年の方が、家族重視や社会奉仕参加の面で高ポイントをあげている)。こうした欧米のかつての「禅・ヨガブーム」に飛びついたり、短絡的にインドや釈尊への回帰を訴えることは問題の解決法として拙劣であるが、少なくとも精神性重視(あるいは絶対善の希求)の面、すなわち人倫の基としての戒という側面から、日本の道徳的風潮をとらえなおし、糾してみることもあながち無意味であるとはいえないであろう。

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