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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

人工知能と人間

 いわゆる「人工知能」の進歩が、経済や社会を大きく変えはじめています。2010年にはアメリカのクイズ番組でコンピュータが人間に勝利し、話題となりました。また先ごろ、チェスや将棋に続き、囲碁の世界でも人工知能が世界最強級の棋士に勝ちました。人間の知的領域を次々に人工知能が蚕食していくと、やがて人間が機械に支配される日が来るのだろうかという懸念さえ高まっています。しかし振り返ってみれば、機械が人間の能力を上回るのは何も新しいことではなく、たとえば人間の筋力をはるかに超える機械は古代から数多く存在していました。したがって、技術の進展に伴い、人間の頭脳の知的なはたらきを人工知能が代替するようになるとしても驚くに当たらないのかもしれません。とはいえ、入力された情報の枠を超えて人工知能自身が新たに情報を生み出し、「賢い生きもの」と化して人間の知性を名実ともに追い越すとなると、話は別です。今後、人工知能が社会においてどのような役割を担っていくのか。逆に、人間は人工知能といかに共生していくべきなのかを真剣に考えなければならないことは必定です。結局、「人間対機械(人工知能)」という構図のすべてを自分自身の問題としても考える必要があるということです。

 人工知能の発達と普及による社会的な影響について、物やサービスの価格は今よりもさらに下がる可能性はありますが、それと並行して雇用の機会は逆に大幅に減るはずです。加えて、ほとんどの職業において人間より知的ロボットの方が効率的かつ正確で質の高い仕事ができるという状況になると、労働の対価として収入を得て生活する現在の人間のあり方が根底から覆り、人の心の問題が一層きわだってくるでしょう。社会の通念が大幅に書き換わるとき、人は多くの不安を抱くからです。しかし当然のことながら、わたしたちの心の整理がつかない間にも、技術は否応なく進歩していきます。わたしたちの身体自身にも人工知能の様々な要素が及ぶ時代がすぐそこまで来ており、健康で長生きできるならば人類は機械(人工臓器)を我が身の内外に取り入れることを躊躇しないでしょう。すなわち、「人機一体」の世界が現実化するのです。他方、科学技術そのものは中立ですが、人間がどう使うかよって、社会に福音をもたらし得るものにも、厄災を招来するものにもなります。これは人工知能にも当てはまり、邪心を持った人間が人工知能を悪用するということは十分あり得ます。想像することさえ戦慄すべき話ですが、人工知能が人類を滅亡させる危険性についても荒唐無稽とは言えません。

 わたしたちはすでに、インターネットを介してコンピュータの「知能」が深く広く浸透している現実をほとんど意識せずに日々の生活を送っています。それは、人間社会がすでにコンピュータによって「生かされている」あるいは「管理されている」といっても決して過言ではない状況に置かれていることを示します。これはすなわち、人間がコンピュータを制御し続けられるのかという問題と表裏一体です。最終的には人間の「価値」がコンピュータによって評価され、場合によっては迫害される世の中が来るのではないかという恐れすら考えられます。現在でも、生まれから育ち、経歴のすべてから好みに至る膨大な情報がコンピュータに掬い取られ、「人間」そのものがあらゆる面から測定される時代に入っています。いわば人間の存在意義そのものが揺らぎつつあり、人間の尊厳が脅かされる時代の足音が聞こえているのです。人工知能の進化が総体として生み出すこのような流れは、誰がどう阻害しようとしてもできるものではありません。むろん、人々の暮らしの利便性が上がるのは歓迎すべきですが、人工知能によって個人が評価判断される社会でよいのかという本質的な問題があります。況や人間自身が数値化の対象となる時、わたしたちはもはや従来の観念での「人間」でいられなくなるでしょう。

 アメリカのライト兄弟による初の人力飛行が成功したのは1903年でした。それまでは、「物が空に浮かぶはずはない」と言われていました。しかし人類が月に降り立ったのは、そのわずか66年後です。同様に、ロボットの進化は想像を超える速度で限りなく人間に近づいていくに相違ありません。外見が人間と遜色ない人工皮膚で覆われたロボットも、いずれは登場してくるはずです。見た目には人間と変わりないロボットが各所で活動している様が日常化するようになるでしょう。そうなれば、人間は自らの人生をどう主体的に創造していくのかが、わたしたち自身の大きな課題となります。これに対処するには、差し当たり人間の「個性」を発揮するしかありません。個性は人それぞれであり、多様な個性が共存しあってこそ、豊かな社会も実現できます。知能の優劣を示す学力試験ならば解答の速さと正解率で客観的に評価できますが、個性には正解などというものがありません。人それぞれの人生においては、一つの基準で点数をつけることなどできないのです。「個性」の意味は、人工知能の時代だからこそ、ますます重要になるはずです。正確無比に動く機械と異なり、法則化や規律化されることに抵抗するだけでなく、そこから敢えてはみ出そうとするのが人間なのかもしれません。試験での正答率もさることながら、むしろ他人と対話し、相手の立場に合わせて思いやるといった能力がこれまで以上に求められるようになってきます。

 人工知能の普及により、義務的労働から解放されて人間としての自由度が飛躍的に高まる一方で、職業や社会貢献に自己実現の道を見いだすことは、もはや選択肢のひとつに過ぎなくなる可能性があります。そうなると、人々が生きる意味を見いだし、自分の存在に自信をもって生きていけるようになるための原動力として、「人間力」をどう位置付けるかが問われます。人間力とは、自分自身と社会とのあいだで競合する様々な制約との折り合いをつけ、他者と協調していく力にほかなりません。人工知能が隆盛する近未来は、改めて人間が「人間」に回帰する時代なのです。さらに、人工知能との共生が避けられないとなれば、わたしたち自身が「人間らしさ」とはいったいどういうことかを再考する必要があります。従来の「優秀な人」の「よくできる」能力ほど、人工知能に代替されやすい能力です。人工知能に代替されない「最も人間らしい能力は何か」を各人が真剣に考えなければならない状況が遠からず訪れます。人間は常になんらかの動機と目的を持って生きていますが、表面的には同じような動機であっても、掘り下げていくと誰にも真似しえない自分自身の存在価値の鉱脈に突き当たるものです。人間に「人間らしさ」を取り戻させるために開発された人工知能が、逆に人間らしさを失わせてしまうという皮肉な事態は断じて避けなければなりません。

 人類の技術の歴史は、自動車や計算機などのように、人間が行ってきた作業を肩代わりしてくれる道具づくりの歴史でもありました。しかし、人工知能の技術は暮らしを楽にするだけではなく、人間がそういった便利さを前提としてしか生きられない状態に退化する遠因ともなる可能性を秘めています。進化の原理からすると、常に快適で居心地の良い環境をつくる技術の恩恵が多ければ多いほど、変化に適応するための進化は必要なくなるからです。動かなくてよい、考えなくてよい、となれば、自ずと筋力は衰え、脳のはたらきも劣化していくでしょう。では、ほとんどの能力を機械に置き換えた後に、人間に何が残るのか。人間には、意味探求、自由意志、責任感、創造性、感受性、洞察力、信仰心などはもとより、総合理解や価値判断といった多岐にわたる「心」のはたらきがあります。これらこそが人間をして人間たらしめている要素です。したがって、ロボットの「心」を創る試みを通じて、「心」の新たな理解を深めることができれば、それは人間にとってきわめて意義深いものとなります。また、人間の知能は自分自身だけでなく、自らの思考や行為を対象化し、それらの意味や価値を検討することができます。では、自己を振り返ることにどんな意義があるのでしょうか。人工知能は「知能」を持つとはいえ、自己のあり方に疑問を抱くことはありません。だからこそ人間の側が、人工知能を進歩させようとする自分たちの「行為」それ自体を疑い、その行き過ぎや危険性などを慎重に判断していく必要があります。ただ残念ながら、多くの情報が溢れ、時間的にもゆとりを持ち難い現代社会において、人々は自らの知性をそうした判断に十分に適用できているとは言い難いのです。

 これまでコンピュータの技術開発は人間の知的レベルを目指して進歩してきましたが、人間が自己自身の生き方や価値観に無頓着のままでいると、次第に人間の方がいわばコンピュータに隷属してしまいます。人間の機械化が進むと、与えられた裁量の範囲を越えてまで自分で意思決定しようという意欲の放棄につながります。与えられた範囲での自由は得ている反面、与えられた範囲外にある事項の意思決定を行う権利がコンピュータに奪われてしまうということは、本末転倒です。コンピュータへの従属的な地位に甘んじることによって、仮に人間が無気力な状態に陥ってしまうとすれば、それは義務からの解放による自由度が高すぎるからでしょう。わたしたちの日常において、小さいところでは例えば買い物での靴の選択から、大は進学や進路、あるいは投資先の選定に至るまで、さまざまな事柄についての意思決定は、誰にとっても一定の精神的苦痛を伴うものです。しかし、それを放棄して人工知能に任せた方が楽であると思う人が多数を占めるようになる社会は、どう見ても異常です。人工知能に管理されて安直に生きるうちに人々がいつしか気概を喪失し、自分を養ってくれる人工知能の下僕に成り下がってしまうなどという事態は万一にも想定したくありません。

 人間の脳においては、まずものごとを直観的に捉え、答えが先に出て、後から論理的に裏付けするという思考の傾向が非常に強いとされています。現在のコンピュータには、このような「直観力」はありません。さらに加えるならば、人間の脳は「自分」を「他者」と違う存在として認識できます。これは、「他者」のことを考え、推測することを可能にする能力であり、そこから他者を理解しようとする人間特有の心の動きが生まれます。いわゆる「共感」です。これも、コンピュータでは容易に実現できない能力です。ただ一方では、これらは脳の「機能」である以上、情報の入出力が滞りなく遂行されるのであれば、それが人間の脳であろうと、機械的な装置であろうと関係ないという議論も成り立ちます。その根底には、「心」が何か実体を備えたものではないという考え方があります。高度な精神のはたらきが備わっているおかげで、多彩な生活を営んでいるわたしたち人類といえども、本質的には機械と大差ないのではないか。わたしたちには自由意志が備わっており、自分が好きなように決められるというのが、普通に考えれば感覚的には疑いの余地がないことのように思われます。たしかに、ものごとを決めている主体は一人ひとりこの「わたし」です。しかし、わたしたちの身体の材料は原子レベルまで分解すると、構成要素は炭素、酸素、水素、窒素、カルシウム、鉄など、紛れもない「物質」ばかりです。物質の挙動はすべて物理法則に従います。物理的な立場によれば自由意志の生じる余地がなく、わたしたちが「精神」(あるいは「意識」)と称する領域のはたらきが一体どこから生じるものなのか、人類は何千年にもわたってこの謎を抱え続け、現在に至るまでこの問題は解明されていません。ある意味で人工知能の存在は、そうした難問になんらかの光明を与えてくれる可能性があり、さらにはこれまでの「人間観」に新たな視点が加わるようになるかもしれません。

 2010年6月、小惑星調査の無人探査機「はやぶさ」が総距離60億kmの旅を終え、地球の大気圏に再突入しました。地球重力の圏外にある天体の表面に人類史上初めて着陸し、そして多くの困難を経て奇跡的な帰還を果たしたことは、未だ耳目に残る偉業です。しかしその裏側で意外な関心を集めたのは、この探査機が強烈に「擬人化」されたことです。その最大の要因は、「はやぶさ」という人工知能を備えた「機械」の作動がこちら側の思うままにはならないにも拘らず、あたかも人間と「はやぶさ」相互の必死の願いが通じたが如く、最後まで繋がりは断たれなかった、という事実にあるようです。仮に「はやぶさ」が遠隔操作で完全にわたしたちの意の通りに作動し、そこに予想外のことは何も起こらなかったのであれば、それはしょせん無機質な機械の一つに過ぎなかったはずです。他方、人間からの要求や指令に対して不測の突発行動が展開された場合、それはいわば機械の側での「抵抗」や「主張」を想定させる、人間的な「意思表示」の印象をもたらします。こうした状況は、人工知能ロボットが単なる産業機械や補助器具の枠を超えて、わたしたちの生活の中に溶け込み、親しみやすさと相棒的性格を備えるための壁を乗り越える上で重要な示唆となるものです。では、人工の製造物がわたしたちにとって親密な感情の絡み合いの中に組み込まれて存在するようになった時、そこに生じるのは一体いかなる関係なのか。それは、擬人化された人工知能という対象物に対するわたしたちの感覚の惑乱であり、その情動の中核にはロボットに対して強い思い入れを抱く日本人の特異な「ロボット観」があるのかもしれません。その最も馴染みある象徴は、漫画「鉄腕アトム」の世界でしょう。

 知性すなわち「心」を持つ生き物は唯一、人間だけであると宣明してきたのは、キリスト教的な枠組みの中で生まれた西欧の思想でした。その対極にあるのが、「山川草木、悉有仏性」という、自然界のあらゆるものに仏の心の存在を感じる仏教の思想です。この世に存在するすべてのものが、わたしたちを人間としての本来のあり得べき姿に立ち返らせようとして、間断なくはたらきかけてくれているという意味です。これを言い換えれば、地球上に存在するすべての物質は、有機物あるいは無機物の別を問わず、等しく「仏」とみなせる性質を宿しているという考え方でもあります。特に日本では、「放生会」(仏教の「不殺生」の精神に基づいて万物の生命を慈しみ、あらゆる生き物の霊を慰めて感謝の気持ちを捧げる行事)に象徴されるように、生き物は言うに及ばず、職人が使う各種の道具、さらには人形や針などすべてのものに命が宿っていると考え、実に様々な物品の供養を年中行事として現代でも営んでいます。こうしたことはキリスト教などの一神教国においては、とうてい理解できないところです。動植物は人間に奉仕するために神が創ったもの、という基本的な思想に立っているからです。しかしわたしたち日本人とすれば、動植物はもとより、人工的な無機物においても、それらはいずれも人間の日常生活と共生し、わたしたちの生活に大きく寄与している有り難い存在です。この伝統を今でも残している日本が、実は同時に世界に冠たる技術立国として揺るぎない地位を築いています。これこそがまさしく「物心一如」の顕現でもあり、その延長線上に「人工知能」も含まれるのでしょうか。ロボットも人間と対等であるという認識が成り立つならば、「無機物」に対して人間と同様に、親しみや愛着、尊さなどの念を抱くことすら不思議ではありません。その点では、人もロボットも、況や動物も植物にも「境界線」を引く必要はないのです。それはあたかも、宇宙空間から地球を俯瞰すれば、青い海、白い雲、茶色の大地が渾然一体となって見えるのみで、人間が勝手に引いた国境線など、この地球という惑星の何処にも存在しないことと合い通じるものです。

 仏教における「有情」の存在であるわたしたち人間は、その対極に位置する「非情」なる「物」との付き合い方次第で、物からも多くを学ぶことができます。物に対する接し方を整えることは、その物を扱う人間の心を整えることにもつながります。物は人に学びを与えてくれる「師」にもなり得るということです。これこそが「物にも仏性有り」という仏教の大原則にほかなりません。そのような意味で、「人工知能」は人間以上でもなければ、それ以下の存在でもありません。むしろ、人間がロボットとの関係の中で、わたしたち自身について学べることが見えてくるような付き合い方を整えていく必要があるのではないか。この先、人工知能の進化が加速するとしたならば、「人間にしかできないことは何か」ではなく、「人間が為すべきことは何か」を問わなければならなくなります。事実、世界を見渡すと不遇な環境にいる人々の数は相変わらず増え続けています。その反面、先進国のように人口減少を危機的状況だと大騒ぎする世界があります。人間社会の根本的なところで、歯車の噛み合わせが狂っているのです。そうした状況下、人工知能の「利便」と「効率」にどう向き合うかが現代社会に問われています。

 「知能」とは、単に知識を蓄える能力だけではなく、自分のまわりの世界に対して的確に情報判断し、臨機応変に対応する力のことです。これはある意味で、「創造性」の育成と不可分なものです。創造性は、一見すると異なった領域に属するとみられる雑多な事柄を一つに結びつけて、新たな価値を生む能力から生まれます。この力なくして、人間はこれからの激変する時代を生き延びることはできません。人工知能の驚異的な発達を目の当たりにしつつある現代、「学力試験」の結果だけで人の能力を判定する傾向が強かった従来の偏狭な知能主義が社会や個人の意識にどのような功罪をもたらしたかを、徹底的に再検討すべき段階に来ていると言えます。仏教では、人間社会のあらゆる出来事を含め、ものごとはすべてそれを受け取る側の感じ方あるいは考え方ひとつで当人にとって負にも正にも転じ得る、という立場を貫いています。つまり、自分にとって相反する対象についての捉え方をあえて反転させることで、まったく新しい視点に気付かされながら心の転換をはかるということです。わたしたちは人工知能の発展動向についても、無定見に脅威としてではなく、むしろ人間を精神的に鍛え直す機会と捉えるべきかもしれません。その際、ポケットに携帯電話やスマートフォンなどの超小型「人工知能」を入れて街を歩く今のわたしたちの「日常」が、わずか十数年前には想像すらできなかった現実を忘れてはならないでしょう。

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