仏教は人間の奥深くに潜む不安と苦悩をまっすぐに前から見据え、その解決を外なる神々や諸霊に求めず、あくまで人間の内側の悟りに求めます。釈尊によってこのような基本的な方向が定められて以来、それに従う多くの人たちの求道の成果が多彩な経典を生み出しました。また、存在の理法についての思索、人間をとりまく現状や心理についての分析、修業鍛錬の方法などについての議論は時とともに精緻をきわめていきました。しかし、その多様性の底に共通する仏教としての基本的性格は、神を立てずに人間の内面の認識や智慧で人間存在の根源的な不安と苦悩を克服しようとする姿勢です。
人生の主たる目的とは何かと言えば、心を磨き、人格を高めることでしょう。そして世のため、人のために何かを行うべく、わたしたちはこの世に生を受けたのです。「死」という魂の新たなる旅立ちの時までに、もって生まれて来た心を少しでも美しいものに磨き上げることができれば、その人生は成功だったといえます。
自分が何を目的に生きているのかを知った人は覚者です。わたしたちはそれを知るために生きているようなものです。そのためには、他人に惑わされるのではなく、すべてが自分自身の内にあることを知って己を振り返る必要があります。そうすればまったく違った人生が開けてくるはずです。人の幸、不幸は客観的に決まるのではなく、あくまでその人の感じ方で決まります。ですから、満足することのできる人、感謝することのできる人は幸せな人で、そうでない人は不幸な人であるという考え方も成り立ちます。また幸運とは、他人の幸せに尽くし、社会全体の調和のために尽くした善行が、いつしか自分に還ってくることです。それは、短い期間の損得は利己で決まり、長い期間の損得は利他で決まるという自然の法則なのです。
若い頃の夢や目標は他人と比較した相対的なものです----ちょうど、少年少女が有名なスポーツ選手やタレントになりたいように。ところが人生も半ばになってくると、それが真の目標でなかったことに気付き始め、表面的な夢は崩れ去ります。ですから人生の後半は、真の自分の目標を探すべき時期と考えねばなりません。生きることの意味を真剣に追い求め、自分の価値を高めることが生きがいにつながっていきます。その際、辛さ苦しさは心が成長してゆく原動力であり、どんな人生においても大切な意味があります。楽ばかり求めている人にはやがて苦しい境遇が待っているでしょう。人間は最後まで要領よく生き続けることは決してできないのです。自ら求めるものはなかなか得られませんが、人に与えたものは回りまわって、知らないうちに自分に還ってきます。それが幸運ということの本質かもしれません。
人間社会は、ある意味で極楽から地獄までが渾然とした迷いの世界です。その迷いは人間の欲望と、誰も知らなければ何をしても良いという狡猾な心理が交錯して起こります。人間は須らくこの迷いの渦に飲み込まれていますから、残念ながら手本といえるような人はほとんどいないのが現実です。ですから、自分を拠り所として、正しい生き方を探すほかに道はありません。
そもそも、身体と、その身体の内側(主観)で起こっている欲求や感情、思念や気分といった心的現象の総体を、わたしたちは「自分」だと思って生活しています。さまざまな思いが活発に起こっていることが生きている証拠であり、その思いを実現することが生きがいだと考え、そして、頭に浮かんだ思いを実現する場が社会や世間であり、自分の人生だという捉え方をしています。思いを実現するには人に劣らぬ実力と努力が必要ですから、そういう実力の証である金や地位・名誉を備えた人を世間では「成功者」と評価するのです。また、どれだけの思いがどれだけの規模で実現できたかによって、自分の人生への満足感(自己評価)が定まるようになっていますから、自身に対する期待度の高い人(野心家)は、自分の人生を豊かにすべく狂ったようにはたらき続けることになります。
わたしたちが生きる動機、目標、意義、価値としているところの欲望や野心に執着することを「自我執着」と言います。しかし、この自我執着が心の悩みや人生の問題を次々と再生産している根本原因なのだと、仏教は教えています。ですから、そうした思いは真の自分ではないと知る無我の境地を得ること、これが仏教の伝えようとしているすべてだといっても過言ではありません。心の悩みをつくっているのは対象に対する執着であり、その執着を捨て去れば、心静かに生活できるのではないかということです。いま少し詳しく言うと、①人生の問題に苦しむ中から、②心の悩みの原因は執着にあると気づき、③その認識によって執着の心が徐々に変容し、④やがて執着する気持ちが薄れていく。⑤その結果として心に悩みの少ない静かな生活に入ることができるようになる。これが仏道を学ぶ(執着を超える)過程です。したがって仏教とは、執着を超えるための「技術」(ノウハウ)であるといってよいかもしれません。そこには神秘的な要素など何もありません。
わたしたちは物と心の両方に執着していますが、物への執着は比較的断ちやすいものです。しかし、心の現象に対する執着(我執)はなかなか断ちがたい。わたしたちには自我や我執があるため、無常の事実をそのままに受けとめることはむずかしいからです。すると、ここに「苦」が生じる。苦とは思いどおりにならないことによる葛藤の謂いです。釈尊が自ら悩み、乗り越え、確信し、そして教えとして説いたのは、この我執を無くすべしということでした。
現代人は科学的な知性と技術、物の豊かさを誇ってはいても、欲望にこき使われ、野心に追い立てられ、緊張と焦燥、不安と恐怖に苛まれ、ストレスを発散するために物を消費し、放恣な欲望生活を送っています。しかしわたしたちがこの世の中に生まれた目的は、決して本能的な欲望を満足させるためではありません。心の奥底にある仏心を自覚するためです。釈尊と同じ悟りの眼を開くためです。人間は、我があるから苦悩するのであり、自ら迷うのはこの我によるものです。
一般にわたしたちは自分の心を反省する習慣に乏しく、自分の心に問題の原因があるのだと考えることにすら抵抗を持つ傾向があります。自分の心を直視するということは、なかなかできそうでむずかしい、意外に勇気のいることなのです。しかし大切なのは、自分の心を常に観察する態度を身につけることです。心を観察するとはどういうことか。それは、自分の心を眺めて、仮にどんな心が湧き起こってきても、その思いに引きずられることなく、窓から風景を眺めるように自身を客観視できるということです。なぜ、自分の心を観察するかというと、これが「自分の心を離れる」、すなわち迷いの心(自意識)を超越する出発点となるからです。自分の心を離れる体験を「悟り」というのです。過剰な自意識を離れた境地を「浄土」といい、それによって得られる見方が悟りの智慧ということになります。
現代社会は幸福追求を人生の最高価値とみなし、わたしたちは自己の欲求を実現する場が人生であると教えられて育ってきました。自分の欲求や願いを無条件に肯定し、それを実現することが価値のある人生であり、その実現の度合いや社会への貢献度によって、社会は人を評価するからです。そして、そのような価値観を持つ人たちで組織、運営されている社会もまた、人間の欲望、野心、貪欲を後押ししてその努力を賞賛します----ただしそれが反社会的な行為でなければ。
したがって、自分の心の外にある、そういった社会的な価値を追い求める人は、努力によって問題を解決することができるという信念をもった人であり、自分の判断力や見識を深く信頼しています。このような人は自分の心にメスを入れることを拒み、その結果逆に、絶えず外界の評価に翻弄されて心休まることがありません。これに対して、貪欲を抑えて(少欲知足)、心が無軌道にならないようにと心の統制をめざす資質の人は、自分の心を直視する習慣のできている人だと言えます。
仏教の「悟り」は、執着するものがなくなった心的状態を表す言葉でもあります。しかしながら、執着するものがこの世に多数あるという前提に立った場合、執着する心をどうしても捨て去るのだと決心して奮闘するとすれば、それは非常に苦しい修行となることでしょう。仏教の教えは、その点でまったく違います。もともと、執着する対象そのものがなかったのだ、執着する心があったから執着する対象があたかも実在するように思ってしまったのだ、と了解することが肝要です。喩えるならば、悪夢にうなされていた子どもが母親に体を揺すられて目を醒まし、「今のは夢だったのか」と安堵するようなものです。人生の問題をつくっている自分の心を内に向かって深く尋ね入ることが、人としての真摯な姿勢です。そのとき試されるのが、自己の心を直視する勇気であるといえます。
焦燥に追い回されて生きる人生---こうした人生はもともとわたしたちが望んだものではなく、そのように生きざるをえない「心の仕組み」、しかもその現実に人が気づかないように周到に準備された心の仕組みがあるからです。この心の仕組みによってわたしたちは振り回されているのです。すなわち、人は「憂え、不安に怯え、追い回されて苦しむ」人生を自ら好んで送っているのではなく、本能・欲望に支配された精神的レベルに留まるよう心がいわばプログラムされているということです。その心の仕組み(プログラム)を、仏教では「三毒」と呼んでいます。
三毒とは「貪欲(むさぼり)」、「瞋恚(いかり)」、「愚痴(おろかさ)」の三つを指し、それが迷いをつくり、悟りを妨げる根本原因であると仏教は言います。これは、ストレスの多い現代社会に生きるわたしたちに、ある種のヒントを与えています。つまりわたしたちは、三毒、とりわけ「貪欲」に支配され、好むと好まざるにかかわらずこの心に使役されて疲弊しきっているのです。また、わたしたちに「瞋恚」の衝動があるのは欲があるからであり、貪欲は自らの姿を隠してわたしたちを利用、支配しています。この現実を覆い隠している正体が「愚痴」、すなわち無明であり、わたしたちを智慧なき本能の充足だけに満足する状態に留めさせているというわけです。わたしたちを執着の酒に酔わせ、人間としての自覚に目覚めることを妨げているのは三毒である、だから早く目覚めよと、仏教は教えているのです。
結局、「自分とは何か?」と問うことそれ自体が迷いの根本であり、自分を証明しようとする心、その闘争心が自我執着です。求める心がある限り、求める心は幻影をつかみ続ける。しかし、しょせんそれは幻影ですから生涯にわたって求め確かめ続けなくてはならない。求める心がなくなったときに初めて自我執着がなくなり、「わたしは誰か?」という問い自体が雲散霧消するのです。これが心の安らぎ--安心立命--への道です。
生まれ、生まれ、生まれ、生まれて生の始めに暗く、
死に、死に、死に、死んで死の終わりに冥し。
空海(弘法大師)(『秘蔵宝鑰』)
人間は生まれては死に、死んでは生まれ、何度も何度も輪廻転生をくり返すものだが、いったい幾度生まれ変わったら、この生と死の真理が理解できるようになるのだろうという、空海の嘆きが伝わってくるようなことばです。わたしたちにとっては、見える世界だけがすべてで、見えない世界のことについてはなかなか関心や思慮が及びません。自分の目で見えるものは信じられますが、見えないものは信じようとはしないものです。生の始めも、死の終わりも、実は「目に見えないもの」を心の目で見ることがでなければ理解できないことを空海は教えようとしていたのでしょう。
わたしたちが経験する試練、苦難、喪失など、「もしあらかじめこれほどの苦しみだと知っていたら、とても生き続ける気にはなれなかっただろう」というようなことはすべて、たしかにそれを経験した時点では耐え難い困苦であったとしても、その状態が終生持続することはありません。必ずそれに対する肯定的、受容的な意識が芽生える時期、すなわち精神的転換点が訪れます。その機を逃した人が困苦の残滓に引きずられて生涯を無為に送る結果となるのです。
仏教では、すべての人間は「無明」の中にいると説きます。キリスト教では、人間はすべて「罪人」と説く。いずれにしても、人間は真理から遠ざけられた存在として、暗雲の立ち込める中で人生という道をさ迷い歩く存在とみなされています。人間はこの世に生まれ出てきて、何ゆえに苦しい人生を生きなければならないのでしょうか。それでも多くの人は自らの命を絶つことなく生きている。そこには、人生が崇高なものであるとわたしたちに了知ならしめる何かがなくてはなりません。人が真の人間として生きていく上で欠かせない処方箋の一つを、釈尊はこう示しました。
世の中には、ひとつとしてわがものというものはなし。
すべてただ因縁によって、われに集まりたるものにすぎず、ただ預かるのみ。
『法句譬喩経』
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