人は通常、この世に生まれてしばらくのあいだ(幼少年期)は親の保護のもとで生育しますが、青年期に入り自我が確立すると、次の段階である心身の自立を求めるようになります。しかし、成人としての社会生活では相互依存の関係が基本であり、さらに老年を迎えるにつれて再び身近な人や周囲への依存度を深めていきます。ある意味で、わたしたちは終生、何かに依存せずには生きられないことも事実です。「生きる」とは何かに依存し続けること、といっても過言ではないでしょう。人間の一生において、自立と依存の関係は決して背反はいはんするものではなく、表裏一体をなすものかもしれません。
そもそも「依存」とはどのような状態なのか。「依存」は原義的にいえば、「それ」がないと不快な精神的・身体的症状を生じ、「それ」があると、快を生じるという状態を指します。あれば快を生じ、なければ不快を生じさせるがために、その状態から抜け出せない依存症が生まれる。一方、依存の反対である自立は、「他からの従属・支配から離れて独り立ちする」ことです。しかし、ここでひとつの疑問が生じます。なぜ、わたしたちは楽な「依存」状態を捨ててまで「自立」へと向かわねばならないのか。それは、たしかに依存は楽であっても、自然界の生物のありようをながめると、「依存から自立に向かうこと」、すなわち自律分散が原則であるからです。この「自律分散」とは、いわば「それぞれの要素(たとえば人間の場合、わたしたち一人ひとり)が自律的に行動・運動する中で、それらのあいだの相互的なはたらきを通じて全体が具合よく機能する状態」のことです。社会で起こる問題の多くは、この全体と各要素とのバランスの大きな崩れ、全体との相互作用がない孤立状況--「依存」と「自立」のバランスの大きな不均衡--から来ているように思われます。
ちなみに、人の成長をめぐる文学や民話伝承の世界をみると、欧米では一貫して親からの巣立ちの物語に重点を置き、日本では「親元(故郷)に還る」物語に愛着をもってきました。これは文明圏の違いを端的にあらわしています。青年がある日、実家から旅立ち、さまざまな土地や人との出会いを経て成長しながら、社会人として一人前となる。欧米の人々は基本的にそういう物語を軸に「人生」を設計し、世界観を構築します。これはおそらく、厳しい自然風土や繰り返される領土紛争、さらにはキリスト教の思想や文化と無関係ではないでしょう。だからこそ常に「自立」が叫ばれ、「個人」の価値が尊重される。そこにおいては、「大人」とはすなわち「自立した人間」という意味で使われます。一方、日本人は古来、「親」は還るべき場所として原郷に在り続け、人は歳を経てもそこに自らの拠り所を求める、という生き方の道程を大事にしてきました。お盆の里帰りは宗教的な先祖供養の意味合いだけにとどまらず、そうした人生観が色濃く反映されたものと、とらえることができます。しかし、いうまでもなく現代の日本は「個人」の尊厳と独立を基調とした欧米流の近代諸制度を採用しており、その枠組みのなかで社会生活を送らざるを得ない以上、わたしたち一人ひとりにとって経済・精神的な自立は喫緊の課題です。それゆえに「自立」の対極を成すように思われる「依存」という心の現象が、無視できない個人的・社会的問題ともなっているのです。
わたしたちを取りまく世事や人間関係の悩みの相当部分は、「依存性」の問題に起因しています。依存性そのものは、多かれ少なかれ誰にも見い出されるものですが、この性向がとりわけ強い人の特徴として不平不満の多いことが挙げられ、自分の思いどおりにならない周囲の人や環境への苛立が相手や社会への罵声や暴力をまねいていく要因ともなります。そのような人は、自分が思い描くとおりの環境が満たされない限り心底から納得しないため、常に相手の言動の一々にこだわったり、わが身の不遇や不運の原因を自分以外の人間や環境に求める傾向にあります。また、その執着は対人関係だけでなく、自身にとっても根深い「嗜癖」(アルコールや賭け事など)を形成するようになる場合も多々あります。何かに依存している状態のとき、実はわたしたちは自ら問題に相対して責任を負うことを避けているのです。そうした生き方を続けていると、常に不本意な感覚がぬぐえず、自分の人生を我が足で歩んでいるという満足感や充実感を味わうことができません。依存の苦しみは、その根底に絶えざる希求願望があるために生じます。求める対象が人に向かえば当の相手への依存度を増していき、その結果、自分の心はその相手に振り回されてしまう。他方、求める思いが何らかの事物に向かえば、浪費や借金、ギャンブル、酒、麻薬など経済的・身体的に支障をきたす行動となってあらわれ、医師から「依存症」と診断されるようになります。依存性の問題の根幹が、際限なく何かを求め続け、その求めるものに深く執着する点にあることは明白です。ではなぜ際限がないのか。それは、求めるものより「求める思い」が先にあるからで、求めるものが得られても求める思いは充足することがないから、という点に尽きます。依存的心性は自分の外側に向かうだけでなく、自分の内側にも向かい、自身の被害者意識を拡大します。自閉行動、嫌人・離人、被害妄想、抑鬱よくうつなどがそうした意識の特徴です。その結果、自立性や主体性が失われ、特定の思考パターンから抜け出せなくなります。
本質的に、依存性の強い人は常に「相手」という対象が自分の思考や行動の中心にありますが、自立心に富む人は徹頭徹尾「わたし」という対象の世界に生きています。そして、この両者の中間に「相互依存」という状態があり、この場合には「我々」が中心的位置を占めます。また、依存的な人は、自分の求める結果を得るために他人に頼らなければならない。自立が依存よりも成熟した精神状態であることは容易に理解できますが、残念ながらそれで事は解決するわけではありません。現代社会において自立が強調される主な原因は、深い依存状態(他人に利用され、操られること)に対する反発です。しかしそれが行き過ぎると、今度は自立を求めるあまり、わがままで自己本位な理由で学校を中退し、会社をやめ、育児を放棄したり、あるいは社会的責任を無視する人々が増えるようになります。「足かせを捨てたい」や「解放されたい」、あるいは「自己主張したい」などの言葉で表現されるこうした反応は、実は多くの場合、もっと根深い依存性、すなわち一種の甘えを暗示しているにすぎません。「自立」を願う気持ちの裏にはこうした「甘え」が潜んでいることが多いものです。したがって、自立それのみでは有意義な人生の最終目標となり得ないでしょう。自立的な考え方だけでは、相互依存的な社会の現実に対応できないからです。たとえ自立していても、相互依存的に思考・行動できるほどまで成熟しきれていない人は、独立した一個人として好業績を上げることはあっても、社会や組織における声望の高い人格者になることはむずかしい。人間関係の錯綜した現実社会の中で円満かつ充実した生き方を送るうえでは、自立か依存か、という二者択一の考え方ではなく、相互依存的な姿勢が必要不可欠です。これからの社会は、従来の画一的な経済拡張主義への反省から、あらゆる分野での多様化や省力化が進み、より洗練された自立的な個人が一人ひとり組織で活躍していくようなものになると予測されます。しかしその前提となるのは、互いが立っている(自立している)からこそ可能な、人が支え合う--相互依存--環境の確立です。
自然界を含むこの世の中の成り立ちそのものが、実は「相互依存」(共生)の関係を基盤としています。しかし依存状態にある者が一転して「相互依存」的な考え方を身につけることは容易でない。なぜなら、そのような人は自制心や配慮の念に欠けるからです。「文句や苦情を言えば誰かが何とかしてくれる」と考える人は往々にして、「自分の文句や苦情によって周囲にあたえる影響」にまで気を配ることがまれです。また、自分さえしっかりしていれば大丈夫と、自立して考える人がひとりだけでは、「相互依存」の状況が成立しません。自立した人が多く集まるからこそ「相互依存」になり得るのです。そこで仏教では、まず自己の確立(完全に自立した人格の形成)をめざします。自立とは「自分の足でしっかりと立つ」を意味し、その対義語が「自立できずに依存し合う関係」、つまり互いがひとりで立つことができず、互いに依存し合ってかろうじて立っている状況です。これを釈尊は、わたしたちの人生苦を生じさせる根本因と考え、他に依存していない、完全に自立した成熟した存在を人間の理想としました。しかし、これを現実の対人関係という角度から考えてみると、「自分」が成り立つには「わたし以外の他者」の存在や関係が必要です。相手もわたしも自分自身だけで、単独に存在できる実体ではないからです。わたしたちはそれぞれ独立「固定」的に存在しているのではなく、さまざまな「関係」の中で流動・変化する存在なのです。仏教で用いる「関係」とは、相互的な依存にほかなりません。この相互性を重視する仏教では、自己中心性、自己愛、我執などを総括的に「自己依存」と呼びます。仏教的には、過剰な自己中心性は自己への耽溺たんでき、執着、自己への依存とみなすのです。そして「自己依存(自己中心)」と「他者依存」とは表裏一体と考えます。自己依存あるいは他者依存からの脱却には単なる自立心や個人の意志の強さだけでは十分ではなく、「相互依存」への理解とその自覚が大事になります。
「相互依存」の現象については、誰もが日常生活の中でさまざまに経験をしています。相互依存なしには個人の生活も社会も成り立っていかず、人は支えあって生きていることを、わたしたちは理解しています。しかし、人が支えあうことと、人に依存することは、その意味合いが違います。人間はひとりで生まれ、ひとりで死んでいかなければなりません。この世に生を享けて人間として生きる限り、ひとりで生き抜く強さがなければならないのです。すなわち、人間は他の生物と同様、常に自立していることが求められているのです。それと同時に、自然の大いなる摂理によって、この世界における「人間としての生」を互いに助け合って生きることができるようになっています。わたしたちは、この地上での生において人々と互いに助け合いながら、今生で為すべきことを完遂していくのです。一個の人間として自立し、自分自身で生計を立てている人は、当然のことながら他者に依存する気持ちは持っていないでしょう。しかし同時にそのような意志堅固な人間であるからこそ、世の中で生きていく上で大切な相互依存の精神が自然に身にそなわっているはずです。人と支えあう、あるいは助けあうということは、まず自分が自己の生を導くのであり、その上で人と支えあって生きていくという意味であり、自己の自立なくして、他者と助けあって生きることはできないということを理解すべきです。そこには自己の生に対して責任を負う自覚があります。
自立には、身体的自立、精神的自立、経済的自立などさまざまな側面があり、それによって達成される年齢段階が異なります。しかし肝要な点は、安定した依存関係を基礎にしてはじめて自立が成し遂げられるということです。たとえば、依存が必要な時期に十分な依存的関係を経験できない場合に、その後の対人関係が不安定になる傾向が比較的多く観察されます。わたしたちは、親子、夫婦、友人など最も身近な人々との間に相互依存の関係が過不足なく保たれていることによって、社会的に安定した行動がとれるようになるのです。したがって、依存から脱することで自立するのではなく、周囲との間に適度な相互依存関係を維持することで自身の自立がかなうという意識が、現代において特に求められます。青年期に、「他者とは異なる自分」に気づくことは貴重な体験です。それが自立へと向かうきっかけになるからです。依存状態にあるとき、わが人生の主役は自分ではありません。依存対象が自分の人生の主役になっており、自分の人生を支配しているのです。自立とは、わが人生の主役に自分がなることであり、そのための道筋として、まず自分がどういう対象に依存状態に陥っているのか根底から疑問を抱くことが肝要です。自分を犠牲にして依存対象に合わせるのではなく、自分の人生は誰が主役なのかを深く認識し直すのです。
仏教は、人生を自分にふさわしく生きていくための実践方法を教えるものです。その究極の方法論が、「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得るのだ」(法句経 160)であり、あるいは自灯明の原理です。「自灯明」とは、釈尊が最後の教えとして弟子たちに残した言葉とされています。他者に一方的に頼らず、あくまで自分の心の灯火を拠りどころとし、その灯火によってのみわが人生の道が明るく照らされるという意です。盲目的に他人の力を当てにしたり依存することは、仏教では「他律」と呼びます。すなわち「自ら律する」ことの反意語であり、自らの在り方を問わない隷属的な生存状態です。したがって、自立心を中核として相互依存の精神を失わずにいることが、「自分らしさ」を発揮して充実した生涯を貫徹するための枢要な心構えであるといえます。
仏教は、人が依存の状態において生きており、その本質がどういうものであるかを自覚させた上で、人に自立する力を与えるための教えです。依存できるからこそ、自立できるのです。たとえば、親に十分甘える時期を享受してきた子供は、総じて精神的な自立が早いものです。人は、自分が周囲の自然や人々(生きている者とは限らず、亡くなった肉親や先祖も含む)と共に生き、生かされていると心から実感できる場合に、安心して「ひとり」になれるものです。わたしたちは、そうした絶対的な信頼のおける存在がそばにあって、その眼差を背後に感じているときに、安んじて自分の行動に没頭できる--すなわち、ひとりになれます。そしてこの「ひとりになれる」というのは、相互依存環境において自立的に自分の人生を送れるということにほかなりません。
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