現代の私たちは、科学技術の利用について社会全体として数多くの重要な決定をしていかなければなりません。下した決定は、環境や人間の健康、社会、あるいは国際的な政策に影響を与えます。また、科学技術の利用に関するさまざまな問題を解決していくためには、多方面の学問、特に社会学、生物学、医学、宗教学、心理学などを総動員する必要があるでしょう。また、世界全体のことを考えていく視点を育むためには、宗教や哲学に見られる価値観と、科学から得られるデータの科学的厳格さとの両方を必要とします。こうした中で誕生した「生命倫理」という思想体系は宗教と密接に結びついて人間生活のすべての側面を扱い、人間社会全体の幸せを左右する重要なものです。本稿では、この「生命倫理」が私たちとどうかかわるかについて考えてみます。
1.生命倫理という言葉は、生物学・医学と倫理学の結合という印象を与えます。その対象はまず、ここ数十年の間に新しく登場した生殖技術、生命維持技術、臓器移植、遺伝学など生命にかかわる問題です。他方、倫理的な問題は、世界全体を巻き込む問題や、個人だけを巻き込む問題など大小さまざまです。世界的な問題としては、すべての生物に影響を与えるような、例えば紫外線の増加をもたらすオゾン層の破壊が挙げられます。あるいはエネルギーの大量消費から生じる地球温暖化などです。これは、オゾン層破壊の例とは異なり、エネルギー消費を簡単に禁止できないために、その消費を減らすという個人個人の意識的な行動によってのみ解決の道筋が得られることになります。このような行動はすべて、私たちの地球のことを真剣に考えるならば、誰もが実行しなければならない簡単な行動です。しかし実際には必ずしも多くの人が実行していないのが現状です。
ところで、人は皆それぞれ違います。私たちの個人的な選択についても同じことがいえます。周りの人々によって特定の行動や振る舞いを強いられることもあるかもしれませんが、最終的には、ほとんどの場合これも私たち自身の選択です。私たちには、他の人がその人自身の選択をすることを認めるという義務があります。これは権利という言葉にも表わされています。つまり、個々の人が選択をする権利を認めるということです。確かに、新しい技術や知識について解決すべき問題は数多くあります。しかし、私たちにとって本当に重要なのは、それぞれの人がその人自身の価値観を持った上で、他の人を等しく尊重することでしょう。
プライバシーの尊重や信頼などいくつかの生命倫理における規範は、自主性という概念から派生したものと考えることができます。守秘とは、人々が個人的に与えた情報は秘密にしておくべきだという規範であり、医学やビシネスの倫理において広く行きわたっています。秘密を守るということはまた、人々の信頼を保つという点でも必要なことであり、ビジネスや医学の倫理において基本原則です。
私たち自身の自主性は、社会や世界の他の人々の自主性を尊重することによって制限を受けます。では、個人の自主性は社会の利益よりも大切だと主張する場合、社会を守る主な理由は何でしょうか。それは、社会が尊重されるべき多くの命から成り立っているからではないでしょうか。私たちは幸せになるべきであり、私たちそれぞれの価値観や選択は尊重されるべきです。しかし、同時に「みんなの幸せ」という点で、個人の自主性を追い求めることが制限されます。私たちは、この社会に住むどのような人々にも等しく公平な機会を与えるべきです。このことを、公正といいます。次世代の人々も社会の重要な一部分なのですから、「社会」には将来の社会も含まれます。
私たちがそれぞれの社会において、公正、つまり、その社会におけるすべての人に公平な機会を与えていくことを押し進めていく方法として、一般的な事例に法律やガイドラインを課すことが挙げられます。さらに、時として起こる難しい事例には、人間の「判断」により決定がなされます。
人々がある種の行動に対して理由づけをする際にとる基本的な方法は、善悪のバランスを考えることです。また、社会の根底に流れる哲学的な考え方の一つとして、発展を押し進めるという考え方があります。発展を推進する理由として最もよく引きあいに出されるものは、医療や健康の向上を求めることは善である、という考えです。この「善---よい行いをする」という考え方を、善行の原理と呼びます。また、善行の原理では、よいことをしようとしたけれどうまくいかなかったとき、それは、害を与えることと同じだと考えます。つまり為すべきことをしっかりやらなかった罪(不作為の罪)があると考えるのです。この善行の原理は、生命倫理の問題を考える上で重要なポイントです。というのも、自然や医学の介入の結果がどうなるかは、いつも明らかなわけではないからです。この不確実さが、失敗の危険性あるいは成功の可能性だということができるでしょう。影響がわからないということは、新しい技術の利用や私たちの行動について注意を要します。そして、このような注意深い行動により、私たちは害をなす行動を避けていくのです。
2. これまで述べてきたいくつかの規範は、主に人間と人間の関係について触れたものですが、私たちの生活の中で、私たちは動物や環境との関係も築いています。動物や環境との関係において、人間中心の倫理だけではなく他の倫理的な要因も考えなければなりません。
哲学者は、動物と植物の最も一般的な道徳上の違いは、痛みを感じることができるかどうかだと言います。実際、動物を実験に使う判断における重要な基準は、苦痛を与えないようにするということです。動物の自主性については、例えば、「動物は考えることができるのか?」といった議論があります。人間には特別な道徳的意志があるいう考え方は、一般に人々に受け入れられており、そしてこのことが自主性という考え方の基本となっています。動物もまた、道徳的な判断をすることができるのでしょうか?
「動物の権利」のような例は、価値という概念について考えを深めさせてくれます。人間は何百年にもわたって、チンパンジーの心は人間の心とどう違うのか議論してきました。そして、このような問いは宗教の中にも見ることができますが、いまだ納得のいく形での解答は得られていません。これは神、あるいは生命を生み出した何か不思議な力だけが答えることのできる問いであり、人間には答えることができないものなのかもしれません。また、このような問いは、生命倫理における他の多くの大切な問い、例えば命の価値、愛の価値、存在の意義などと同じように、厳密には「科学」的とはいえない問いです。科学的な問いとは、実験によりその誤りを立証することができるものですが、世の中には立証できない問いもたくさんあるのです。例えば、ヒトとチンパンジーのDNAがどのくらい似ているのかという問いは、科学的な問いです。一方、ヒトとチンパンシーのDNAが「なぜ」違うのかという問いは、ある種の「価値」に関する問いということができるでしょう。ヒトとチンパンジーの心の違いなど心理学的、進化論的な問いに対して、今日では、相当科学的な評価も試みられています。ここ1〜2年、少なくとも1 0年以内には必ずや、人間の生命に関わるあらゆる遺伝子の解読表が手に入ることでしょう。この中には、私たちの行動決定に関係していると思われる遺伝子も含まれるはずです。行動は、遺伝子と環境の両方から影響を受けるものです。他の動物との遺伝的な類似点と相違点を比較することは、いろいろな意味を持ちます。そして、私たちの考え方を変え、生物学の発展を支える原動力となるでしょう。すべての動物にはそれなりの行動様式があり、より複雑な行動様式をもつ種類は、いわゆる高等な動物です。私たちの、利己的な行動と利他(与えること)的な行動の起源は、私たちがとどう振る舞うかということの基本ともいえるものです。
3. 自然そのものに「権利」があろうとなかろうと、私たちには確かに自然に対して多くの義務があります。言うまでもなく、人間の欲望を満たすためだけに、自然に手を加えるべきではありません。人間のほかに他の生物をも愛することは、自然に対する私たちの「管理責任」であるとみなすことができるでしょう。たいていの場合、人々は地球に対して、少しの価値もないと思わせるような扱い方をし、私たちの義務を無視し、人間による支配を考えがちです。しかし、このような考え方がどういった問題を引き起こしたかということはすでに明らかです。どこにでも見られる多くの汚染間題。しかしこれらの汚染は結局、人間に、そして他の種に甚大な影響を与えます。
生命倫理における生物の多様性の価値は、特に注目に値します。すべての生物が相互に関係し合っているということは明らかな「科学的」事実です。すべての生物は水を必要とし、すべての生物は同じ様式の遺伝暗号を持ち、同じような遺伝子をわけあっているのです。少なくとも大ざっぱに見ると、すべての生物は束の間の生を受け、生き、そして死ぬのです。この相互関係は、「みんな生きている」という考えによって表されます。私たちは生物の多様性がもたらす、人間にとっての利益について論じることができますが、生物の多様性を維持すること自体に、倫理的な価値があるのです。
一個の人間の自主性を守ることと、すべての人の自主性を守る公正の原理との間で、私たちはどのようにバランスをとっていくべきでしょうか。功利主義(できるだけ多くの人にできるだけ大きな幸せを)は、いつでもこの「バランスの取り方」の手がかりとはなり得ますが、それぞれ異なる興味や好みに応じて価値を与えることは非常な難問です。人々のそれぞれに異なる興味は対立を生み、それゆえプライバシーや守秘保護といった例外が設けられているのです。医学や環境における技術は、利益と危険性の両方が関係しており、そしてこれからもずっと双方が関係していくので、これらの技術の利用は非常に扱いが難しいのです。人間は倫理的な決定を下すことを常に求められており、これを避けて通るわけにいきません。さまざまな技術から期待できる利益は莫大ですが、多くの危険性も孕んでいます。技術の利用に対して何の反応や警戒心を示さないことも、その危険性の一つだといえるでしょう。また、時として私たちは、何かしようとして、それとは別のことを行ってしまうことがあります。ちょうど滑り坂のように、一度坂を下り始めれば、どうあがいても上がれない、つまり、初めの段階では充分に働いていた制御装置は圧力の増加にともなって機能しなくなる、というものです。何かを適用する際に、私たちは直接に害を与えなくても、それを超えれば害を与えるだろうという線に向かって、基準をどんどん下げるという結果に陥ってしまうのです。何かに対して一線を引くことができないということは、その問題が重要でないということではありません。むしろ、生命倫理や生命における最も基本的な問いのいくつかはこのような性質を備えているといってよいでしょう。人はそれぞれに目的を持ち、さまざまな価値を持っています。この多様性は人間であるということの一つの証です。すべての人が同時に同じように、同じ価値のバランスを取ることは決してありません。個々の人間の姿勢や性格のあらゆる多様性が、どの社会の中にも現われているということは、調査や経験から明らかです。例えば、中絶はいけないことだ、あるいは中絶は女性の権利であるといった意見を、あらゆる社会の中で同じような比率でみることができます。人間の考え方の一つの失敗は、一般性や普遍性を見つけ出そうとはせず、自分たちの社会は他の社会とは違うのだと思うところにあります。このような考え方は、しばしば差別意識と結びついています。
生命倫理で前提とされていることの一つは、すべての人間は等しい権利を持つというものです。この世には、守らなければならない、認めなければならない普遍的な人権というものがあるのです。このことは、誰でもこの世界にとって同じように有益だという意味ではありません。人権の考え方は、その人がどのくらい役に立つ人間かといった考え方とは別のところにあるべきものです。
今まで見てきた間題について、パランスの取り方には、ある2つの文化の間でよりも、ある一つの文化の中でより多くの違いがみられます。おそらく、成熟した人間、成熟した社会とは、これらの生命倫理の原理についてバランスを図るための社会的かつ行動的な方法を発展させ、技術が生み出す新しい状況に適用できる人や社会を指すのです。
また、持続可能な社会の実現をはかるために私たちは生命倫理の成熟化を図らなければなりません。生命倫理の成熟とは、生物学的、医学的技術の適用において利益と危険性のバランスを保つ能力だということができるでしょう。また、ひとりひとりのインフォームド・コンセント(説明による納得、同意)を保証するという社会の義務を尊重しながら、人々の声を政策に反映させるという点でも、ある社会での生命倫理に関する成熟度がわかります。技術の誤った利用の可能性を減らすためにも、私たちは常に生命倫理に係わる問題点や危険性を認識し、話し合うべきです。特に、次に示す具体的な生命倫理の問題---臓器移植と安楽死---はこうした点について有益な示唆を与えてくれるものです。
4. いま世間の注目を集めている現代医学の技術の一つは、重篤な病気を治すために人から人に臓器を移植交換するものです。「交換」の最も一般的な例は輸血です。エホバの証人のような少数の人々は、輸血を拒否しますが、このような人々の輸血拒否という選択は、たいていの場合、自主性の原理を用いることによって尊重されます。しかし、時には、赤ちゃんの命を守るために両親の(輸血拒否という)選択が却下されることもあるでしょう。また、骨髄移植は新しい技術であり、白血病や免疫系の病気治療のために使われます。人間を作る可能性をもつ精子や卵子の提供の問題はむろん特殊なケースです。将来的には人工臓器を期待できますが、 ここしばらくは、ほとんどの臓器は生物体からのものでなければならないでしょう。他の臓器源としては動物が挙げられますが、たいてい、人間の臓器を使った場合よりも免疫拒絶反応が多く起こります。将来の臓器源として、人間の臓器に近い構造のブタが研究対象となっています。動物を臓器提供者として用いることと、食のために用いることには違いがあるのでしようか? あるいは、臓器移植を受ける機会と金銭を払う能力の板ばさみという問題は、発展途上国の人々を不当に利用する可能性を秘めているのです。
ほとんどの人にとって、生命や生活の質はいのちの長さよりも大切です。生命や生活の質が劣悪であるものならば、生きていることにはあまり価値がありません。安楽死の間題が議論を呼んでいますが、安楽死の文字本来の意味は「よい死」というものです。私たちは自らの命を絶つ権利を持つべきかどうか、また、いつ自らの命を絶つべきなのかという問題は、私たち自身の価値観が問われる意思決定の間題です。神の存在を信じるならば、私たちの命は神のものだと思うでしょう。しかし仮に神の存在を信じなくても、自然死の方を望む人が圧倒的なのではないでしょうか。
安楽死には、基本的に2つの種類があります。消極的安楽死と積極的安楽死です。積極的安楽死とは、医師の援助のもと、あるいは医師の援助なしに薬や自殺などの積極的な方法をとることを意味します。例えばオランダでは、当人の同意を確実に得るという条件のもとで、安楽死が望まれれば、積極的安楽死を法的に認めています。他方、消極的安楽死では、過度の医療処置を停止します。他にも病院で医療手当を必要としている人が大勢いる中で、回復の望みがほとんどない人に対して集中医療を続けることの是非は結局、個人の尊厳と家族縁者の情動心理の間を揺れ動く生命倫理の問題につながるものです。一面、集中治療をやめることは公正の原理とも関連しています。公正の原理について考えるということは、限りある医療資源を分配するという点を考慮した上で生命や生活の質を考えるということです。実際、公正の原理について考えないとしたら、私たちは他の人のいのちを無視することになります。限りのある医療予算のもとでは、私たちは難しい選択をしなければなりません---臓器だけが限りのあるものなのではなく、あらゆる有形無形サービスや資金には限りがあるのですから。
畢竟、生命と生活の質はそれぞれの人によって決まり、そしてその考え方は年齢や状況によって変化します。人には、それぞれ余人には窺い知れない願いや望みがあります。最後に、最近、話題になっているもうひとつの生命倫理に関わる事例として、「生前作成遺書(リビング・ウィル)」を紹介して本稿を閉じます。
リビング・ウィルとは、患者本人の生命や生活の質がとても悲惨で、回復への望みが絶たれる状況に陥る前に、あらかじめ書面で自分の死に方について選択をしておくというものです。これはまた、家族が患者本人のために行う意思決定の重荷を減らします。さらに、集中治療を自発的に停止する際に、法的にもリビング・ウィルが必要とされる時代が遠からず来るでしょう。命の質はさておき、ただやみくもに命の長さを延ばすことが患者の一番の望みとは必ずしもいえないのだから、すべての代償を払って命を維持する必要はない、という考え方には、科学(特に医学)が人間の生命の延長をひたすら求めて邁進してきた人類の英知の営みが、「生命倫理」という新しい思想によって一挙に否定されかねない重要な意味を含んでいるといえます。
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