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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

入滅の意味---死を乗り越えるということ---

 かつてインドを一人旅した折、斎戒沐浴の聖地として名高いヴァーラーナシー(別名ベナレス)のガンジス河で目にしたものは、インド全土から引っきりなしに運びこまれる夥しい数の遺体に対する荼毘(火葬)の光景でした。有縁無縁のたくさんの人々が見守る中、白布にくるまれた遺体が川岸のいたるところで焼かれ、暮れなずむ空を背に幾筋もの煙が高く舞い上がっていきます。また川面には、荼毘に付されなかった胎児の亡骸や牛の死骸が浮かんでいます。そこからは、日本の火葬場で展開するものとはあまりに違う何かが感じられ、まさに諸行無常の念に強く胸を打たれたものでした。と同時に、インドでは死が日常的であるということも・・・。

現代は、ヒトゲノムの解読成功など遺伝子工学のめざましい発達によって、生命の神秘が少しずつ明らかになりつつあります。その一方で、先進国においては、長寿社会の出現によって健康願望がかつてないほど強くなっています。しかし、このことは私たちの中で病や死への恐れもますます増すという事態を生みました。死が避けられないものであることは誰もが承知していますが、私たちはまだその恐れを克服するには至っていません。

こうした問題について、仏教の立場から考えてみたいと思います。


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 宗教や仏教は何のために必要なのでしょうか。それはもちろん、人々を救うためであり、具体的に言えば、死の恐怖から救うと同時に、現在の生を価値あるものに変えるためにあります。

 では、現代人が求める宗教とはどういうものでしょうか。それは、既成の宗教から一歩越えて、しかも科学的事実に反することなく、さらには日常の常識とかけ離れた神秘的な感覚を伴わずに死の恐怖をなくすことができる世界であるといえます。私たちは、科学万能主義の中で物質的に豊かな世界を求めています。しかしそれだけでは死に対する恐怖心を霧消させることができないために、さまざまな新しい宗教をつくり出しました。その結果、物質的な豊かさだけでは決して解消できない死への恐怖を、神秘体験や超能力などによって和らげようとする傾向がいっそう強くなりつつあります。


 「死」という現象について、仏教はどのように考えているでしょうか。これを理解するためには、まず仏教の基本的な教えについて知っておく必要があります。その第一が縁起の理法です。

 私たちは無限といっていいほどの多くの因縁によって成り立っています。それでいて、私たちは一秒過去の自分に触ることもできないし、一秒未来の自分に触ることもできず、ただ今の一瞬として存在しているこの瞬間の自分にしか触ることはできません。簡単にいえば、この瞬間の存在は数限りない条件によって存在しているということが縁起の意味です。誰でも、現在の自分を自分たらしめている因縁の十や二十を数え上げることはできますが、そのすべてを数え上げることは不可能です。仏教で不可思議というのはそういうことです。神秘体験とか超能力という、人間の知性を無視した訳のわからないことを不可思議というのではありません。

 例えば、ガンジス河の砂が一粒一粒の砂から成り立っていることは、科学の常識ですが、その砂のすべてを数え上げることはとてもできません。もちろん、その数には限りがあるわけですから、理屈の上では必ず数えきれるはずですが、人間の認識・分別ではとても間に合わない。人間の認識・分別の限界を越えている---そういうことを不可思議というのです。これは人間の知性を頭から否定するものではなく、それを前提としながらもなお及ばない事物に対する状況を指します。そのような不可思議な因縁によって、ただ今自分は生かされており、不可思議な命を生きているわけです。あるいは、それゆえに自分の存在自体を感動をもって自覚することができるのです。

 もう少し付け加えると、私という存在がまず存在していて、その私がもろもろの因縁と係わりあい、その関係性の中でいまの私が存在していることではなく、もろもろの因縁によって私という存在がかりそめに私としてあり得ていることを縁起といいます。つまり、もろもろの因縁の外に私が存在しているということではなく、私は本来ゼロであるということです。これを仏教の教えによれば「空」といいます。本来的にはゼロであるのに、もろもろの因縁によってただ今存在している、しかもゼロなのに今ここに存在しているために不可思議であるということです。


 この縁起ということから「空」の考え方が生じ、「無我」という新たな仏教的認識につながります。

 無我の「我」は、仏教以前は、過去・現在・未来という三世に流転する輪廻転生のための霊的な主体を意味していました。亡くなって身体が一見消滅したようにみえても、実は消滅することなく前生の業(行為)の果報を次の世に継続させる業報輪廻の主体が我であり、その我の存在を当然のこととして輪廻転生を説くのがインドにおける古くからの宗教の基本でした。ところが、それを無我(我が無い)として根底から否定したのが仏教です。

 輪廻転生にとって不可欠な我の存在を無我として否定することによって、仏教は輪廻転生からの解脱を説きます。その際、縁起によって無我を説き、我の存在そのものを否定します。縁起を説いた釈尊は、生は一回限りのものであり、再び迷いの生存(有・輪廻)に生まれ変わることはない、と断言しました。仏教の縁起・無我・空という基本思想に立てばこれは当然なことです。もともと存在していないものが輪廻転生するはずはありません。

 例えば、ある古い仏教経典(『法句経』)の中では、

 身体(名色)について、我がものという思いがまったくなく、また、何ものも存在しないからといって悲嘆することのない人、実にその人は世の中にあっても老いることはない。

 と説かれています。


 私たちは身体について、それは自分のものであると思いこんでいます。ですから、無我の考え方に基づいて、実は自分というものは本来存在しないのだといわれれば、私たちは寂しい思いがして悲嘆にくれてしまいます。それゆえに、老死が苦悩の原因となるのです。しかし私の存在が縁起に基づき、それはもともと空であり、本来的には存在していないものであると考えれば、存在しないものが老いるはずも、また死ぬはずもないということになります。

 従って、仏教では仏陀(釈尊)の死を「入滅」と呼ぶのです。すなわち、かりそめに釈尊として縁起していた存在が「滅」したのです。本来的にはゼロであり空である、その本来的な在り方に戻ったということが、入滅の意味です。

 このように考えてくると、仏教における救いの原理は、輪廻転生からの解脱を入滅によってどのように実現するか、ということが出発点となります。結論的には、入滅によってすべてのこの世における束縛から解放されると考えるのです。しかし、入滅という原理は、現にいま生きているという自覚しか持たず、我が身に執着している私たちにはなかなか受け入れ難く、自らの存在を縁起・空・無我の産物であるというようには到底納得できません。自らの存在は確かな存在であるという思いから離れることのできないことが、私たち人間の本性であり、また最大の弱さだからです。ですから、理屈の上ではありえないとわかっていても、私たちは死後の再生(この世への生まれ変わり)を願うのです。つまり、死は再生を用意するのだということにして自らを安心させるわけです。ちなみにこの再生という発想は、古代の人々において一般的でした。たしかに、自然界を見ていますと、草木が芽を出し、花が開き、実を結び、やがて朽ちてゆきます。春になると再び実から芽が生えるという自然の営みを前にすると、そこに生命の再生ということが誰にでも生活実感として迫ってきます。自然と共に生活することの多かった古代人には、自らの死を生命の再生と考えることによって、死が意味を持ち、死が自然なものとして受け入れられていたのでしょう。そうした死に対する姿勢は、近代機械文明が発達する前まで広く世界の人々の間で共通して見出されたものです。

 一方で現代人は、どのような意味での再生であろうともそのような死生観はなく、死を生の終わりとして虚無的に受け取る傾向が強くなっています。しかしそれはもはや諦めでしかなく、また恐怖の中での暗い死でしかなく、何らの救いも見出しえないということになってしまいます。

この状況から抜け出るために、私たちは仏教の考えに耳を傾ける必要があります。仏教は輪廻転生を否定し、この世の人生は一度限りであるという厳粛な真理を根本原理としています。一度しかない人生であるがゆえに、刹那、すなわち一瞬一瞬の尊さが叫ばれ、死への不安に苛まれながら無為に限られた時間を空費することを強く戒めているわけです。


 仏教では生・老・病・死の四苦が基本的な苦とされています。私たちにとって死が苦であるということは、現在という時間を永遠に失うことへの絶望的な恐怖感や現世への強いこだわりがあるからです。ところが、死を苦とみなす元となっているものは、私たち自身が持っている現在から未来にまたがる際限のない欲と煩悩です。仏教は、死を含む四苦という観念を超克することをめざすものであり、生きとし生けるものすべてが直面するこの四つの現象を否定的にとらえているものではありません。それとはまったく逆に、これらを直視し、受け入れることによって生死を越えた境地に近づけるのであると説いています。ただし、その前提として、輪廻転生に象徴される再生願望をきっぱりと捨て去り、今生一度限りの生としての自分の一生をどう総括するか、が強く求められるのです。

 その点で、釈尊の死を「死」といわずに「入滅」と言ったのは、釈尊には輪廻転生による再生の苦をもたらす死苦はないということであり、釈尊が初転法輪において不死の法を得たと宣言したのも、同じ意味と考えてよいでしょう。そして、釈尊の考え方に従う者は同じ境地に達することができるとみなされるのです。


 現代人にとっては、いかなる意味においてもいわゆる再生論による新たな自分の存在は受け入れられません。科学的な考え方になじんだ現代人は、死という「現象」を生命の「完全な停止」として受け取っているからです。21世紀に生きる私たちにとっての常識は、死は絶対的な存在の停止であり、その瞬間から当人にとって時の流れというものはあり得ないということです。

しかし仏教の「入滅」という考え方は、すでに述べたように、この現世を「より本質的に生きる」ための自覚をもたらすものであり、その自覚の喚起を通じて死に対する恐怖心の無益なことを説くものです(ただ、その考え方がともすれば、仏教経典の[表面的な]極楽浄土の物語に引きずられて、他界としての仏国土への再生に重点を置きすぎたために、仏教本来の目的が歪曲され、変成して一般の間に伝えられ、解釈されたという点は否めませんが)。

 ですから、今一度私たちは入滅の意味合いを通じて、死の問題をとらえなおす努力が求められるのです---現世からわが身を引き離すだけのものとしてではなく。


 古代ギリシャの哲学者エピクロスは、「われわれが生きているかぎり私たちに死は存在しない。死が現にあるときわれわれはもはや存在しない。即ち生きているものには、死は現に存在せず、死んだものはもはや存在しないから,死は元々われわれにとって何ものでもない」と語ったそうです。つまり、死が「生」の完全消滅であるならば、それについて考えるのはばかげていて、時間の無駄であるというのです。しかし、仏教の開祖釈尊は、入滅の原理によって死を物理的な側面だけから考える態度を戒め、それと同時に来世での再生・転生を否定することによって、縁起という「関係性」の中に死を乗り越えるための解決を求めました。それはあたかも、宇宙においては、生滅を繰り返す星々の質量の総和が全体としてみればまったく変わらないことになぞらえられます。そして宇宙の根本を構成するいくつかの力(重力、電磁力など)にあらゆる存在が支配され、私たちの命もその一要素に過ぎないということです。

 人(および他のあらゆる生き物)は死ねばやがて灰になるだけである、ということは科学的な現象として否定できませんが、もし人がそれだけの存在ならば、人は何のために生きているのでしょうか。死んで自分の行ったことすべてが無に帰するのならば、 苦労したり、つらい思いをしてまで何かをやり遂げ、自分を成長させようとしても無駄となり、そこに残るのは灰のほかに、無力感しかありません。それならば、人に迷惑をかけようと、誰かあるいは何かが傷つこうとも自分さえよければいいという、身勝手なことを放縦にした者が勝ち、という世界になってしまいます。さらに加えていえば、一体、死によって自分の行動のすべてが無に帰するのか否かは自分ではなく所詮残された人々が決めることだと単純に割り切れるのか、ということです。

 もちろん、答えは否です。それはつまり、釈尊が終生考え抜いた輪廻転生からの解脱とは、一回限りの生においてその人自身が主体的に感じ取ることのできる他の存在との無限の関係性を説いたものなのであるということがまずあげられます。次に、人の一生は、存命中はもとより、その生前および死後についても連綿と不可分なかたちでその個人だけが持つ唯一独自の価値・意義として他の存在と結びついているからです。


 人間の存在は、それが無我であり縁起的存在であるということを自覚したときにはじめて、私たちは自分を自分たらしめているすべての存在との関係性の中に生きていることが実感されるのです。そのことを端的にいえば、自然の中に生かされているということです。自然によって生かされて存在している人間、それは自然による理由なき自己表現としての人間です。私たちは、人間としてのこのような存在を自ら感じとったとき、そこに「人身受けがたし」「唯我独尊」(ただ我れ独りにして尊し)という仏教の基本的な立場が見えてくるはずです。



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