わたしたちは往々にして、些細な事に気をとられ、本質を見失うことがあります。これは、「木を見て森を見ず」という状態にほかなりません。部分ばかりに目が向いて、全体が見えない心理状況です。そうした事態をできるだけ避けるには、常日頃から「全体」と「部分」の関係について注意を払っておくことが肝要であり、その論点は社会や地球環境を考える上だけでなく、個人的な人生観にも影響を及ぼすものといえます。
インドには、「群盲象を評す(群盲評象)」という古い諺があります。複数の眼の不自由な人たちが象のそれぞれ一部だけを触って感想を述べた挙句、その「物体」の正体が「象」であるということを誰も見抜けなかったという寓話です。いみじくも、部分の集積が必ずしも全体像の把握につながらないことを示す好例でしょう。ちなみに、象の足をたまたま触った人は「柱のようだ」と答え、尾に触れた人は「綱だ」と答えます。鼻をなでた人は「太い木の枝だ」と答え、耳に指をすべらせた人は「巨大な扇に相違ない」と答えたそうです。さらに、腹部に手を当てた者は「何かの壁だろう」と答え、牙をつかんだ者は「大きなパイプに違いない」と答えます。たしかに、それぞれの印象は正しい。見解がみな食い違っているのは、各々が「象」一頭の異なる部分を触っているからです。いうまでもなく象は、各人が抱いた特徴をすべて備えています。この寓話のポイントは、いかに多くの人が集まり、銘々の観点だけから理解したことを論じたとしても、結果としては物事の本質が見失われてしまう場合があるということです。
これはわたしたち個人にも同じことがいえます。人がそれぞれの五感や知識に基づいて真理を語ろうとしても、言及できるのはその一端にしか過ぎないのです。自分の乏しい知識や経験だけで世界をとらえようとすると、狭い範囲でしか物事を考えられない人間になってしまいます。また、わずかな言動や外見、あるいは社会的な地位や肩書で、人を判断してしまうこともわたしたちには多い。しかし相手の本当の姿、なかんずくその長所は、すぐに理解できるものではないでしょう。豊かな人間関係を築くには、その人の「全体像」をとらえた上で長所短所を斟酌していくことが不可欠です。
さらに、全体と部分を考える際に留意すべき大事な点は、「合成の誤謬」です。これは、個々の単位で見たときには合理的な行動であっても、世の中の人々全員が同じような行動をとってしまうと、全体としてはさらに悪い状況がもたらされてしまうというものです。経済学の教科書でよく引き合いに出される例として、「国民の皆が自分の所得に対する貯蓄率を高めると、その国全体の貯蓄額が減る」ということがあります。要するに、人々が貯蓄を増やそうとして消費を控えると経済全体が縮小し、最終的には国レベルでの貯蓄額が減ってしまいます。個々人としては合理的な行動であっても、多くの人がその行動をとると、好ましくない結果が生じる場合があるのです。昨今では、まさにこうした「合成の誤謬」の可能性が世界規模で広がりつつあります。つまり一国で合成の誤謬を回避できたとしても、国際的には誤謬が起きてしまうのです。現状では国連を含め全世界的になんらかの強制力を働かせるのは極めて難しい(常任理事国の拒否権がその象徴)ことですから、結局、なし崩し的に個々が自国にとって最適の行動をとるようになり、地球規模で見た場合に望ましい結果とは反対に向かう、ということになりかねません。たとえば二酸化炭素の排出などに代表される環境問題などは、先進国と新興国の利害が一致しないことから、そうした問題がきわめて生じやすい領域といえます。
西欧の科学的思考法の基盤は、分析と統合にあります。これは、物事をまず最小単位にまで分解し、再び組み上げ直すことで全体の理解をはかる方法であり、そうした思考法が近代科学の発展の原動力であったことは否定できません。しかしながら、科学だけで世界のすべての物事が処理できるわけではなく、いわんや人間の心を科学で解明し尽くすことができるはずもない。ところが現代人は、この世のあらゆる現象はすべて科学で解明できると錯覚し、さらには経済活動や社会規範についてさえ科学的手段を使えばすべて管理できると曲解しました。そして科学だけでは到底制御できない事象さえも、科学的手法のみで処理しようとしました。その結果として生じたのが、アメリカの信用不安が引き金となって先年勃発した金融資本市場の崩壊と大不況であり、あるいは昨年の我が国の原発事故です。いずれも科学的な知見と手法だけでは御しきれないことは明白であったにもかかわらず、それを軽視無視したことによる大惨事でした。
他方、近代以前の日本や東洋では分析統合を思考の基盤とはみなさず、物事の全体を把握することを考え方の基本に置いていました。すなわち全体とは、部分の組み合わせではなく、部分は全体の一断片であるという認識です。このような「全体」思考は先の西欧的な思考と対極に位置するものですが、それが論理性を阻害する思考法であるという誤解のもとに、東洋人の思考形式は非論理的であるという人種偏見的な意見が今も昔も西欧では絶えません。しかし東洋の全体重視の思考と西欧の分析統合重視の思考はそれぞれ別種のものであり、独自の世界観に依拠しています。冷静に見ればどちらにも長所と弱点があることは当然で、いずれかの側に偏りすぎても弊害が出るでしょう。近年、国際的に経済・環境・福祉等々さまざまな分野で人々の思考形態が閉塞状態に陥っているという現実を前にすると、果たして西欧的な部分思考だけでこれからも通用するのか、という疑念や不安を感じざるを得ません。
人類に恩恵をもたらした科学は、上述のごとく「部分」思考を基調としてきましたが、今やわたしたちはその限界に突き当たっていると見るほうが至当です。地球環境の悪化はもとより、欧州や日米など先進諸国の深刻な財政問題を含め、人間活動のあらゆる分野で出口の見えない大問題を抱えて混迷しているのが実状です。その背景には、「分析」重視の科学技術が過度に進歩し、「目先あるいは単一の効用(=部分)が満たされれば良し」といった風潮が社会を支配してきたことも要因の一つとして考えられます。その結果、世界中の人々から「全体を見る目」が奪われるようになりました。それゆえ、問題の糸口を見出すには、逆転の発想が必要です。すなわち「部分」思考を脱して、「全体」思考の目を養うことが求められます。つまり、個々の部分の中にすでにその全体をあらわす要素が含まれていることを踏まえた上で、全体の中にも個々の要素が生きるような工夫がわたしたちに要請されているのです。たとえば、人間の体にはおよそ60兆もの細胞があるといわれていますが、そのすべての細胞の中には人間の体全体をつくりあげる設計図(ゲノム)といわれるDNAがあります。原理的にはどの細胞も、人間のあらゆる部位の細胞に変化できる可能性を持っているということです。こうした自然界の仕組みの中に、「部分」と「全体」に関する理解を深める鍵が隠されています。
仏教には、「全体は部分を表し、部分は全体を表す」という概念があります。すなわち、部分が全体であり、なおかつ全体が部分であるという、一見すれば理解しがたい発想です。この考え方によると、事物はそれ自身の本質から生じるのではなく、すべてのものは相互依存的な関係の中で全体から生じ、再び全体へ回帰するのです。この世界、さらに宇宙は一つの連綿たるつながり、ということになります。仏教的には、極微な原子核内部の構造も、辺際なき宇宙空間に漂う巨大な天体も共に一種の入れ子構造となっており、一つの中に全体の類型があり、全体の中に一つの類型があると考えられます。わたしたち自身も、それを形作っている膨大な数の細胞の一つひとつがわたしたち自身の全体であり、逆にわたしたち全体も一つの細胞なのです。突き詰めれば、宇宙のどの部分もこの同じ原理が貫かれ、全体が一つにつながっています。仏教は常にこのような、個々に分離している存在も全体から切り離すことはできないという「全一性」あるいは「全体性」への視線を持ち続けてきました。
わたしたちは普段、自分がいて他人がいて、さまざまな物質や物体が存在し・・・というように物事を切り離して見ていますが、実は分離も分断もできない世界が「一つながり」にあるだけなのかもしれません。この自然界を形成している山河や風雨はもとより、眼前の机、鉛筆、書籍、そして当然ながら人間も、顕微鏡で観察すればすべては分子の結合によっています。あらゆる現象・事物が連結され、分けられないという「不二」の状況がわたしたちの世界のありようです。しかし、一つに融け合った世界というものを実感することは非常にむずかしい。どうしても、わたしはわたし、外界は外界、というふうに分けて見てしまいがちです。仏教はそういう「分断」的な思考方法にメスを入れ、この世界の実相は個別具体的な事物が相互に関係しあい、無限に重なりあっているととらえます。ともすれば動かしがたい常識のように思われる「一」と「多」、「個」と「全体」といった区別を取り払い、どれほど小さな存在にも他のすべてにかかわる大きなはたらきがあり、限りない力と価値が含まれているということに、わたしたちは新たに着目すべきでしょう。そうした認識のもとで、全体から部分を見る、部分から全体を見るという姿勢が求められます。
ある瞬間に花を美しいと感じ、花の何がそうした美を感じさせるのか思いをめぐらした経験は誰にもあります。しかし花を徹底的に部分や要素に分けて分析しても、当初に感じた美しさはどこにも見つからないでしょう。色素がどうであるとか、形状がどうなっているとか、水分が何パーセントであるとか、いろいろ数値にあらわしてみても、ではなぜ美しいのか?という根源的な問いに対する答えは出てきません。同様に、人体をいくら細かく解剖してみても、心や精神、あるいは魂を描出することは不可能です。「全体」は「部分」の総量以上の何かを持っているのです。したがって自分自身そして周囲のあらゆる物事について、統合された全体としてとらえ、評価することが重要です。統合された全体の中には不思議な何かが宿っている。それに気づくことも、ある意味で人生の醍醐味ともいえます。すなわち、「一つ」が「全体」そのものであり、何かを足していって集めたのが全体ではなく、「一つ」の中に「全体」があるのです。お互いが一つひとつという独自性を明確に備えながら、その一つひとつの中に全部をみな含んでいるということです。
最近、車関係の技術で「アラウンドビューモニター」というシステムが一部のあいだで注目を集めています。これは、自分が運転している車の上方の位置から車全体とその周囲の状況を俯瞰した映像として、目の前のモニターに映し出すものです。視点の変換を実現した技術であり、車全体およびその周囲環境と自分が動かしているハンドルとの連携状態が、一目瞭然で確認できるのです。いわば、自分の側から世界を見るという視点を逆転させて、世界の側から自分を見るということです。換言すれば、自分は世界の無限の関係性の中で成立している自分である、という新鮮な洞察の発見につながるものといえるでしょう。近年、社会や組織の構造的、機能的な細分化・断片化がますます激しくなり、全体的な視野から自分自身をとらえたり、見つめることが一層むずかしくなっています。そういう時代であるからこそ、世界あるいは社会の中の自分という感覚をもって世界のすべてに自分は不可分に関与しているという自覚が豁然と開かれたとき、おのずから関係する他者に配慮をせずにはいられない生き方が展開されてくることでしょう。自分が関わって生きている世界全体から自分を見つめる視点を得ることで、自分の心の中には自分を含めた世界全体が映し込まれるのです。その究極は、自分と世界とが同一、あるいは自分と他者とが同一という精神的な境地です。
仏教の認識では、この宇宙にあるすべての事物・事象は関わり合いにより物が集まって存在が成り立つと、さらにその存在にプラスアルファの関係性が生まれてきて、それがすべてに連鎖していると考えるのです。そしてこの世の中全体は網の目のようなものであり、その一つひとつの網目の交点にそれぞれの存在があり、それがすべてつながっていると見ます。広げられた漁網のどの網目(交点)一箇所をつまんで持ち上げても、全体が持ち上がるようなものです。いうまでもなく、中央の網目は端の網目につながっている(縁がある)ために持ち上がるのです。「わたし」という存在も世の中のすべての存在に多かれ少なかれ、なんらかの影響(縁)を与えているといえます。逆に、「わたし」はすべての存在の縁によって成立しています。この世の中のあらゆる事物現象は互いに交差しながら流動しており、「一」という極小の中に「多」すなわち無限大(一切)が含まれ、「多」の中に「一」が遍満している、ということです。この「一」に自分自身を置くことができます。すると、この自分の中に社会のみならず、全世界の一切、果ては大宇宙が含み込まれていることがわかります。そうであるならば、社会で生じるさまざまな犯罪や事件、あるいは善行や美談は決して他人事などではなくて、実はいろいろな意味で自分自身に関係することでもあるのです。
自然界が本来備えている秩序というものは、他者を排斥してやまない「閉鎖」的な世界などでは断じてありません。世界を構成するそれぞれに孤立した断片的な一点としてではなく、分かちがたい網の目の結節点としてとらえることによって、わたしたち人間をも含む一つの巨大な生命体をイメージしながら、他者との相互作用を通じて成長発展してゆく「開放」系なのです。これこそは、個々の存在と全体が一体的に構造化されている世界観であり、そこには全体性あるいは多様性がわたしたちの暮らすこの世を豊かにする思想があります。同時に、他者あるいは何かを傷つけることが自らを傷つけることであり、自らを傷つけることが他者あるいは何かを傷つけることになるという「つながりの思想」が生まれます。これを応用して、たとえば現代社会で深刻化する自死や疎外の問題についても何らかの示唆が得られるはずです。そうしたことを土台に部分と全体に関する発想や視野を広げていけば、おそらく今までとは一味違う人生観が現前してくるのではないでしょうか。
コメント