私たちは平生、本音と建前を使い分けて生活しています。本音だけ、あるいは建前だけでは、日々の社会生活に支障が生じることを経験的に知っているからです。本音とは、本心のことです。では、この本心というものの正体は何でしょうか? 実は多くの場合、人を裏切る心、人に嘘をつく心、人を罵る心、人を妬む心、人を謗る心、人を卑下する心等々、数え上げたら際限がないほど、本心では邪で悪いことも考えています。時として私たちを悩ませる善悪の問題への対応は、「何が私の本心なのか」を真摯に見つめることから出発します。
「信用していたのに、裏切られた」という話をよく聞きます。これは言うまでもなく、「この人だけは特別だ。絶対に裏切らない」という、相手を美化した考えが根底にあったことによります。しかし残念ながら、すべての人が、他者はおろか自分自身にも平気で「裏切り」をはたらいた経験を持っています。とはいえ、その現実をもって人を信用してはいけない、人を信頼してはいけない、ということを言っているわけではありません。人を少しも信用や信頼できないならば、社会生活を送ることなど不可能です。ここで述べたいのは、「人は、都合一つで裏切ることができる存在だ」という認識を持つ必要があるということです。「あの人だけは裏切らない」という固定観念に寄りかかって、仮に裏切られてしまうと、そのショックは計り知れないものになるでしょう。そうならないためにも、人間の実相を十分に理解しておく姿勢が大事です。相手を理想化するのはその人の自由ですが、理想と現実とのギャップが大きければ大きいほど、私たちはその懸隔に後で苦しむことになります。また、さらに言えば、他人の不幸や失敗を平然と受け止めることができ、場合によってはそれを願いさえするのが、私たち人間の性です。人間の本性とは、そういうものなのです。しかしながら、これを「悪」と呼ぶか否かは、そう簡単に割り切れる話ではありません。
そもそも、善悪とは何か。殺生や嘘などについては大抵の人に共通した基準があり、いわば単純な善悪の判断事項に属します。しかしそのほかに、人々が暮らしの中で獲得した善悪というものがあり、単純か複雑か俄かには判断できないことの方が大多数です。例えば、鯨やイルカは大変豊かな心をもっているから殺すのが悪いとしたら、牛や豚を殺すのはなぜ悪くないのかといったケースなどです。
善悪の概念と似たものに、「道徳」があります。しかし、道徳と善悪とは互いに密接な関係にあるものの、同じではありません。どの民族や国にもそれぞれ固有の文化があり、文化の違いに応じて道徳の違いがあることはよく知られています。また、昔と今とでも違います。世界中の国や地域には規則や法律になっている道徳があり、習慣のように守られている道徳があるなど、決して一筋縄ではいきません。普遍性、明快性、単純性をもった基本的な道徳とは何か。果たしてそういうものが存在するのか。世の中でいろいろな争いが絶えないのは、さまざまな文化に共通な、すべての人が納得するような統一的道徳がないからではないでしょうか。しかし、そもそも道徳に普遍性を求めること自体の是非を考える必要があります。
一応、多くの人が善と思うことが正しい道徳とされているとしても、善悪と道徳が厳密には別物である以上、道徳に反しなければ何をしてもよいわけでもありません。良い事をすればそれが正しい道徳に合っているということではないからです。善や悪を思うということは、ものごとを判断するレベルです。つまり心の動きであり、いわば言語に従った理解の世界です。ではその下にある本来の自分とは何か。善悪を考える前の自分の本質とは何かと問われた場合、それは自己の内側にあって思考を操り、判断し、行動している心そのものです。今の自分自身の心をもたらしているものは何か。善悪の判断思考をする自分の心とは、いつどこから、どのようにして産み出されたのでしょうか。自分自身の心とは、これまでの生涯を通じて蓄えられてきた膨大な数の情報に基づく判断基準の総体です。親から受け継いだ先天的な遺伝情報に加え、後天的な情報によって形づくられた現在の自分の心にはさまざまな段階があります。自分は何を取りこみ、何を学んで今の「私」という状態になったのでしょうか。もし善悪判断の基準としている今の情報をすべて捨て、別の情報に入れ替えたらどうなるのでしょう。そのときの自分の考えもやはり自分なのだろうか、あるいはそれらのすべての元となっている自分の考えとは何なのか---疑問は尽きません。
人間の心は実に微妙で複雑です。生きた心はさまざまの動機や情動によってその調子や方向を自在に変えます。ですから、決して善・悪の二つの型をもってそうしたはたらきを測り切ることはできません。善と悪とは人の心の内で分ち難くもつれ合っています。嘘から出た誠があれば、誠から出た嘘もあります。怒りや憎みの裏にも愛情が流れており、争いや呪いの中にも純粋な善が潜んでいる場合がある。人はそうした内面の動揺を受けるたびに次第に徳を積み、善悪のそれぞれのありようを体得していきます。人生のさまざまの悲しみや運命に遭遇するごとに洞察力を深め、これまで内奥の心に封じられていた人間の実相が見えるようになってはじめて、裁いたものを赦し、呪う気持ちを葬り去って、善悪へのこだわりを捨てながら精神的な新境地を開いていくようになります。その限りにおいては、私たちは一人残らず人生の悲しみに触れ、煩悩の催しに苦しみ、この世の理不尽に嘆息しつつ生きていくことが宿命づけられているのでしょう。
「善因善果、悪因悪果」という仏教の言葉があります。「善い行いは善い結果をもたらし、悪い行いは悪い結果をもたらす」という意味です。しかしその後半部「悪因悪果」については、なかなか認めたがらないのが人の常です。なぜなら、もともと悪い行為とはっきりしていることは別として、悪い行為をしていないのにも拘わらず、悪い結果だけが自分に生じた場合には、どうしても納得がいかないからです。しかし善や悪は、時や場所によってその判断基準が違います。自分自身が過去において善いと思う気持ちから出た行為ですら、今考えれば悪い行為であったということが誰にもあるはずです。そのことを踏まえれば、「自分の行いは、その行いに対する結果を自分にもたらす」という真実に尽きます。
善悪とは、たしかにその時その場所においては判断する基準があったとしても、変わらないという保証はありません。すると、善悪を対立したものとしてとらえる見方だけでなく、善悪は実は表裏一体のものであるという見方もできます。そこをさらに推し進めて考えるならば、ものごとに善悪があるのではなく、善と悪とは互いに依存しあって存在しているものにすぎないということに気がつきます。たとえば「浄」という概念と「不浄」という概念の場合でも、それぞれの概念が一方を欠いて成り立つことはありません。「長と短」、「美と醜」、「大と小」など、そうした例は無数にあります。ですから、これらはあくまで相対的な関係であり、絶対的な「善」あるいは「悪」を考えるということに、そもそも無理があります。
多くの社会で、殺人はタブー(悪)とされていますが、戦時にあっては、敵をたくさん殺せば名誉(善)とされ、勲章を受けたり昇進します。このように、殺人自体も時と状況に応じて「善」にも、「悪」にもなるのです。善悪を定める規則のなかには、為政者や宗教によって権威づけられているものがあります。権威づけられた規則には、罰則を伴うものもあります。動物的闘争本能が強い人は実際に誰かを殺したいと考えるかもしれませんが、それを実行した結果罰せられるのが嫌なので思いとどまるかもしれない。この場合、殺人は「悪い」からおこなわないというより、罰を受けるのが嫌だから実行しないということになります。このような社会的慣習や世に言う「正義」の根拠は何か、という問は数学の問題を解くのと違って正解がありません。
また、善悪の判断はその人自身の直感によることも多く、権威づけられた規則を無批判に受け入れる場合もありますが、私たちは多かれ少なかれ自分自身の直感に照らした吟味をおこないます。しかし、善悪判断の中に「永久普遍の原理」という幻想を抱く者もおり、そのような人は「殺人は絶対にいけない」あるいは「嘘をつくのは絶対にいけない」などと、絶対性に執着します。ところが、どのような場合でも絶対に殺人はいけないと主張するのは、善悪の本質を十分に捉えていないと言えます。例えば医師が、見るに忍びない不治の患者に対し、本人の望みを受け入れて安楽死を施す場合、たしかに、宗教的立場からの反論があるかもしれないし、安楽死は間違っていると信じる自由は保証されるべきです。反面、世の普遍の倫理なるものがどうであれ、医師自身の誠実な判断に基づき、心に照らして正しいと感じられる通りに実行するという個人主義の方が社会通念よりも優位に立つ場合もあります。と同時にそれは、あくまで個人の直感、個人の心のありようですから、別の医師なら別の判断をするかもしれないし、同じ医師でも別の場合には別の判断をするかもしれない。つまり、「この場合は、こうするのが正しい」といった絶対的法則はないのです。ですから、善悪を判断する上で万古不易の法則はないと割り切ることも処世的な意味で必要です。
次に考えるべきことは、そもそも人間は善なのか悪なのかという問題です。昔からこれについては、「性善説」と「性悪説」がありました。両説とも中国の思想から来ています。「性善説」を唱えたのは孟子です。人間は生まれながらにして他人を慈しむ心を持っており、善は普遍的に存在するとみなし、善い部分を伸ばして理想の社会を建設しようという考え方のことです。それに対して「性悪説」というのは、荀子という人が提唱した考え方です。人間の本性は欲望的存在(=悪)に過ぎず、後天的な努力によってのみ公共的な善を知り、礼儀を正すことができるとし、善意は意志の力で獲得するものである、という考え方です。
両者はまったく相反する思想のように思えますが、その共通して目指すところは理想的な社会づくりです。ただその方法が、人間の持つ善性を信じて伸ばしていくのか、あるいは、人間は欲望的存在であるから、努力によって善性を身につけるか、それができないならば法によって規制していくか、という違いになって示されます。
たしかに、人間には情というものがあり、困っている人を助けたいと思う気持ちを誰しも持っているはずです。その反面、自己、あるいは自分を中心とした社会や組織(家族を含む)以外のことには無関心であり、ほかはどうなっても構わないと考えたり、ひどい場合には他を攻撃するという冷淡さや残忍性も同時に持ち合わせています。ということは、どちらの説が正しい答えだとは一刀両断には決められません。
では仏教ではどういう立場に立つのか。仏教の基本は、「仏性」という観念です。仏教においては、人は誰でも仏になれると考えます。そして因果の理屈で物事をとらえますから、仏になるという結果には必ず因となるものがあるはずだ、と話を進めます。花が咲くのに種が必要なのと同じ原理です。その種に該当するのが「仏性」あるいは仏の本質であり、それは「善」なるものです。しかし現実には、その「善」という種のまわりに煩悩がこびりついているので、それをさまざまな正しい行を実践していくことによって削ぎ落とし、純粋に「善」の種、つまり仏性だけを成長させていくことで、仏としての目覚めが起こってくる、そういう考え方の流れです。その意味において、「性善説」ではまったく無視されている「煩悩」の存在を認めているという点で、「性悪説」の要素もいくぶんあります。いわば、元々「仏性」はあるが、何もしなければ種は眠ったまま芽を出さない、ということです。こう考えると、努力や規制もやはり必要ということになります。人間という存在は「善」でもなければ、「悪」でもないのかもしれません。
このように私たちを悩ます善悪の問題に関しては、さらに「偽善」という厄介な現象もあります。偽善とは、読んで字の如く、善であると偽ることを意味し、これを行なう者は偽善者と呼ばれます。外面的には善い行為に見えても、それが本心や良心からではなく、虚栄心や利己心などからおこなわれることを指しています。
自分のことを「偽善者」だと思う人は、外面的には自分を善と見せかけていても、実は内面的に悪であると知っています。したがって「偽善」とは本来、自分の悪の自覚を含むきわめて主観的なことがらであり、それがやがて自己の善性に対する懐疑から深い思索を生み出すこともあります。一方、自分ではなく他者を「偽善者」と非難する人もいます。外面的には善と見せかけているが、その人の内面の悪を見抜いてしまったと主張するような場合です。しかし、他者の内面というのは外から簡単に分かるものではありません。ただ単にその他者の中に悪を推定するだけで、善行に対して猜疑心を向けているに過ぎないことも多い。ただし、内面的なことがらを度外視しても「偽善」が指摘できるような場合もあります。つまり、目立つところでは善いことを言ったり行ったりしていても、目立たないところでは悪事をはたらき、表面上の善を無にして余りあるような害毒を撒き散らしているようなケースです。こうした状況では、表面上の善はいわゆる「きれいごと」に過ぎず、悪事が隠蔽されて問題の本質を見えにくくしてしまいます。
一方、こうした「きれいごと」を非難する声の中には、実質的な悪への関心以外の動機が存在することも稀ではありません。たとえば邪推から、自分が直接には被ってもいない「迷惑」を言い立てる場合などです。人に先駆けて善事をおこなうことを臆するあまり、結局は何もできないでいる人が、目立った行いをする者を「偽善者」だと嘲笑します。ボランティア活動などは常にこうした困難に直面しがちです。
「偽善」という言葉には、常に悪意が籠められています。この二文字を発した人間を優位に立たせる魔力があり、反対に、言われた側には深い精神的打撃を与えます。それほど、この「偽善」という言葉には強い攻撃力があります。例えば、空腹で瀕死の子供にパンを与えるという行為について考えると、与えた方は、真心の善意かもしれないし、売名行為かもしれない。しかし、そのパンが子供の命を救い、その子が与えてくれた人に感謝するなら、偽善であろうとなかろうと関係ないはずです。その行為を、傍から見ている人間が「偽善的だ」と叫んだところで、パンを与えた人がその子の命を救ったという事実は変わりません。「偽善」とは、当事者自身が発したことで初めて意味が生まれる言葉である一方、第三者が発する場合、そこには屈折した思いがあります。自分が何もできなかったことへの罪悪感、その人だけを英雄にするものかという嫉妬心、善意を行動に表せなかった自分は意気地なしなのかという自己呵責、そういう感情から沸き起こる苛立ちを払拭するために、善意に対し「偽善」という言葉で攻撃してしまう場合が少なくないのです。
どのような悪行でも、しなければよかったのにと後で悔やんだり、自責の念に苛まれたり、露見の恐怖に苦しんだりするものです。ところが善行はどのような些細なことでも心楽しく、気は清々とするものです。たとえその時、その善行が苦しみをともなうものであっても、後には必ず喜びがあるはずです。しかしここで問題となるのは、道徳に絶対的な価値基準がない以上、どういうものが完全な「善」であるかは判断が難しいという点です。もし「計算された善行」という判断基準を使えば、この世の善行はほとんど偽善と言っていいのかもしれません。「その人が救われるのが自分の望むところ」という理由でおこなわれる善でさえ、「自己満足させるためだけの善行」と考えるなら、完全な「善」などあり得ないという理屈も十分に成り立ちます。正義感の強い人は、「自分は偽善を行いたくない、だからそういう白々しい善行はしない」と、動機の面でも結果の面でも「完璧な善」を求める傾向にあります。そして自分の行動が偽善にしか思えず、矛盾に悩むわけです。理想論を言えば、「動機が悪だったら、どのような結果であれその行為も悪である。だから動機は善でなければならない。そうであれば、例えその結果が実らなくても、行為自体は尊いものである」ということになります。しかしこの考え方は、ただの自己満足のための方便でしかありません。なぜなら、「動機が善なら結果が実らなくても自分は満足だ。他人の行く末など自分には関係ない」ということなるのですから。
諸々の悪をなすことなく 衆々の善を奉行し
自らのこころを浄める これ諸仏の教えなり
これは「七仏通戒偈」という仏教の根本的な処世の教えです。仏教は仏の教えであるとともに、仏となるための教えです。それでは、仏となるためにはどうすればよいのかと問われれば、「悪いことをしてはいけない、善いことをしなさい、そして自分の心を浄めなさい、これが諸仏の教えである」ということに尽きます。その意味は簡単明瞭であり、その教えるところに対して誰も異存はありません。しかしそれを実践するとなると、これは何とまた難しいことか。結局、善悪や偽善をめぐる議論は出口のない迷路を進むようなものなのかもしれません。
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