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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

因果の道理

更新日:2020年6月25日

 日々わたしたちは、さまざまな人との出会いを繰り返しています。ふだんの生活の中で無意識にすれ違う人の数となれば、まさに限りないほどです。その中から大切な人間関係に発展する出会いが生まれることもあるでしょう。とはいえ、これらの出会いのすべてが必然であったとは、とても言い切れません。偶然の出会いもたしかにあるからです。むしろその方が圧倒的に多いはずです。自分にとってその出会いに意味があるかどうかを判断して、「意味がある」と考えれば必然であり、「意味がない」と考えれば偶然ということになるのかもしれません。  「偶然」とは、「ある他のものと因果関係が明白でなく、したがってその発生や状況をあらかじめ想定しなかった事柄」と、辞書に書かれています。あらかじめ想定できるか、できないかは、その人の持っている予測能力にもよるでしょう。概して予測能力の高い人は出来事や物事に対して偶然性を感じる範囲が狭く、必然性の範囲が広いといえます。予測能力の低い人は、その逆です。他方、「必然」は辞書の定義によれば、「そうあるより他にありようのないこと。一定の条件が与えられている場合、そうなるより、あるいはそう考えるより他に、そうなるか、あるいは考えようがないこと」とあります。つまり、一定の条件を与えられると必ず同じ結果になるということです。何かの物事が展開する際、原因が結果となり、その結果は次の原因となって順次交互に進んでいきますが、これを因果の道理といいます。世の中の出来事には必ず原因があると考えられ、原因があるから結果があります。しかし偶然とは、その因果が成り立たないもの、あるいは成り立っていても、それをわたしたちの側で理解・認識できなかったために、結果を予測できない場合を指します。  ところで、誰しも一度はこう思ったことがあるはずです---数ある生命体の中でなぜ自分はこの世に人間として生まれてきたのか、と。誰がどのような理由でほかならぬ「わたし」を選び、誕生させ、今の境遇に置いたのか。これは偶然なのか、それとも必然なのか。遺伝子的な因果律から考えてみると、それぞれ遠い先祖からのDNAを受け継いだ両親が「わたし」という存在の直接的な原因をつくった結果、「わたし」はここに存在します。そう考えれば、これは必然です。しかし一方で、この世に存在している「わたし」はその存在の原因づくりの企てに参加したこともなければ、それを観察していた事実もない。知らないうちにこの世に生まれてきて、気がついた時には、ある特定の両親のもとで育てられていたのです。したがって「わたし」にとっては、この出来事は偶然です。「わたし」の出生からさらに広げて考えると、諸々の現象は因果律だけで生じるものではなく、偶然によっても起きることは、わたしたちの誰もが経験しています。「因」と「果」の関係、すなわち因果関係の中には偶然の要素も入り込んでいるということになります。

 今を遡ること約40億年前、地球に生命が誕生しました。この生命発生の確率は天文学的に低いといわれています。それほど得がたいことであり、まさに奇跡的といってよいでしょう。そのような意味で、生命は偶然生まれた、といっても過言ではありません。以後、生命は何度も絶滅の危機(巨大隕石の落下や、氷河期を含む地球環境の大変動など)を乗り越えながら進化・多様化し、今日みられるような膨大複雑な生態系を現出するにいたりました。ではその間、必然の要素はまったく働かなかったのでしょうか。決してそのようなことはなく、必然と偶然の相乗効果によってわたしたちの生命が存在しているのです。卵子と精子が出会って子が生まれるという生殖の過程は全体としてみれば必然的なものですが、卵子の立場からすると、どの精子と出会うかは予測できない偶然です。にもかかわらず、そのことは生まれてくる生命の性質や形状を決定する重要なことなのです。わたしたち人間も卵子と精子の予知不能な偶然の出会いによってこの世に生まれてきましたが、やはりほかの生物と同様、生から死へと不可逆的に向かう絶対的「必然」の定めからは一歩も外に出ることはできません。

 今日の自然科学においては、必然と偶然は互いに補い合っているという考え方が通説になっています。ということは、偶然は必然だけでは達成できない何かを補っているにちがいない。それでは、偶然はいったい何を補完しているのか。それを理解するには、もし「偶然」というものがこの世に存在しなかったら、人間を含む動植物の生命の行方はどうなっていただろうと想像してみる必要があります。そういう状況におちいれば、地球上のあらゆる食物連鎖が崩れ去ってしまうでしょう。本来、生き物は予測できない出会いを利用しながら、他の生き物を補食して命をつないでいます。たとえば、小動物はそれより少し大きい動物に食べられる。その動物は、さらに大型の動物に食べられる。偶然がなければこうした食物連鎖はまちがいなく崩れ、おそらく大型の生き物から順に絶滅していくことになるでしょう。こうして生命全体の生態系が瓦解する方向に進み、さらには生殖作用も崩壊します。動物の雄と雌は偶然の出会いを利用して交合しますが、その際に何億という精子がマラソン競争を行い、一番強いものだけが卵子と結ばれる。卵子にとって、どの精子と結ばれるかはまったくの偶然ですが、しかしそのことは子孫のありようにとって重大な決定要素となります。また、種子植物の生殖は昆虫等の飛来という偶然性に頼っています。いつ来るかわからない来訪者を辛抱強く待ち続けるのです。種子は偶然に身をまかせ、不特定の場所に根を下ろすことになります。胞子による生殖も、風に乗って飛んで行き、湿潤地や水辺などで発芽します。どの地で胞子を落とすかという重大な決定は風・水まかせになっていて、そこにも「偶然」が大きくかかわっています。これらの偶然的な生殖は、いわば近親結婚を避けて強い種を子孫に残すための生命の巧みな知恵といえるものでしょう。さらには、生命の多様性も完全に失われていきます。進化は生命の多様化を押し進めますが、現代の科学によれば、どの生き物でもDNAの複製ミスが微小とはいえ、ある程度の確率で発生することがわかっています。その結果、変種が生まれます。その変種の例外的なごく一部が現実の環境の変化に対して「たまたま」具合良く適合し、自然選択に勝ち残って生き延びます。それが子孫にその遺伝因子を伝え、次世代へと継承されていくのです。これがいわば進化の基本原理です。進化を可能ならしめる要因のひとつとして、こうした変種あるいはミスが大きく影響しているのです。地球の環境が激しく変わった時、そうした適応能力の高い変種だけが絶滅を免れ、種全体にとってこの変種は結果として種族保存の救世主となります。つまり、偶然こそが生命の多様化を支えているといってよいでしょう。以上のことから、もし偶然が存在しなかったら、生命もまた存在していなかったであろうという推測が成り立ちます。したがって「偶然」の原理とは、変化を与え、多様性をつくりだすことにほかなりません。ただし、それはあくまでも契機(きっかけ)をもたらすものであって、「偶然」単独では物事を遂行していくことはできません。ある「事」を成すためには常に「必然」の原理を借りなければならない。予測できない遭遇やありえないミスという偶然、それに続く必然との補完関係により得られたおびただしい多様性や変化があって、生命の繁栄するこの地球が存在しているのです。わたしたちの人生についても、偶然と必然のありようが大きくかかわっています---この世における自分の一生は一切が必然の連鎖なのか、それとも偶然に大きく支配されているのか、と。

 人と人がふとしたはずみで知り合いになり、時には知り合いという以上の深い関わりに発展する。そういう場合わたしたちは、「これは何かの縁かもしれない」と考えることがあります。つまり、いかに不思議な偶然と思われようとも、人と人が知り合いになったという現実について、それまでなんの関わりもなかった人間同士が知り合いになるという現象がその偶然性においてではなく、必然性という枠組みにおいて了解されるのです。つまり、因果応報の観念と結びついて、「必然的」と「偶然的」という表現が人間の「運命」とのかかわりのなかで説明されるわけです。しかしここで注意すべき点は、わたしたちが何かの現象について、それを偶然的と考えるのは、あらゆる場合に人間の知識・認識能力に限界があることから生じているに過ぎず、それはあくまで主観的なものだということです。仏教では「縁起えんぎ」という言葉において、「縁」は偶然、「起」は必然を意味します。縁、つまり努力(原因)を自分の望む結果に近づけてくれる偶然は、常に無数にあります。しかし心の持ちようによっては、その「縁」はまったく異なる結果に自分を導く「起」ともなります。人生の有為転変を展望する際に、二通りの対極的な見方があります。その一つが運命論(あるいは宿命論)であり、もう一つは因果論と呼ばれるものです。運命・宿命論は、ある超越的な命令者を仮定して、人生はすべてその者の意思命令のままに生滅するものだと信じ、他のいかなる力をもってしても、これをどうすることもできないとする考え方です。これに対して因果論は、この世のあらゆる現象は因果必然の規律によるというもので、一切のものは必ずそうならしめた原因があって生じたものであり、固有の存在や偶然の出来事などで生じたのではないという立場をとります。この考えにおいては、いわゆる「蒔かぬ種は生えない」という原則が徹底されます。

 そもそも、人は生まれながらにして、人生上のさまざまな出来事がすでにあらかじめ決まっているものなのでしょうか。仮に人知を超えたお告げや占いで最初から自分の運命がわかっているならば、いくら努力してもその運命を変えることはできないということになってしまいます。ちなみに、「運命の出会い」という表現を世間ではよく耳にしますが、これは厳格に言うならば、出会った場所までお互いが足を運んだ結果(または運ばれた結果)として、偶然出会ったということにほかなりません。その場所に行くまでには、少なからず当人たちの(もしくは誰かの)自由な意思が働いていたはずです。自身の選択や周囲の意思などが偶然的に交錯して、知らず知らずそこに行くという行動を選んだのです。つまり、さまざまな意思がひとつに重なったタイミングこそがまさに「偶然」なのであり、これをわたしたちは「運命」と呼んでいるのです。また、「宿命のライバル」あるいは「宿命の対決」などという言い方がありますが、これも結局、それは当の本人たちが自ら選んだ状況なのです。「ライバル同士でいること」や「対決すること」を当人同士が意思の力で選択した結果といえます。逆に、ライバル関係を解消したり、対決しないという選択肢の道もあったはずです。したがって最終的には、自分の意思次第ということになります。自由な意思の働きは、いうまでもなく「必然」とはちがいます。人はみな多かれ少なかれ、「こうありたい」という理想の自分に一歩でも近づけるよう常々努力を重ねています。しかし、その努力が裏目に出て自分の期待に反することも往々にしてあります。そのようなとき、結果を自分の努力・力量の不足だけに帰するべきなのでしょうか。また、自分の身に偶然が重なってふりかかったとしか思えないような状況に遭遇した場合、これはむしろ、必然が重なって偶然が生じた、と考える方が実は当を得ている可能性があります。

 過去の原因があり、それに影響された結果がある---これを必然といいます。逆に過去とは関係がなく、現在の結果がある---これを偶然といいます。いうまでもなく、この世は多くの必然から成り立っていると同時に、多くの偶然から成り立っています。必然とは何か、ということを詳しく学び、次の行動にその結果を生かすことで人類は発展してきました(星の動きから次に河川が氾濫する時期を正確に予測することなど)。しかし、必然の要素を完璧に掘り下げることは不可能です。わたしたち生物の体をはじめ、あらゆる物質の根源となっている原子や分子のひとつひとつの動きといった極小のレベルでの状態にまで必然の要素を拾い上げていくと、もはや「必然」という言葉が意味を持ちません。それを補うために、確率や統計の概念があるのです。それでも人間は世界や人生における「必然」の意義を探求してきました。必然の存在を受け入れない人は、自分や周囲に生じるあらゆる現象の背後に偶然性しか認めようとせず、自己責任の原則に立った向上心を失いがちになります。原因と結果の連鎖を見定めて、自身の考え方や行動の一々に対して「必然」の道理を意識する理性的な姿勢が、着実な人生を全うする上で求められます。しかしそれと同時に、人は「偶然」によって人生をさまざまに彩ります。「ここで~~に出会うとは、何という偶然だ」、あるいは「「もしあの時~~であったら、今頃自分はどうなっていただろう?」等々。時として「偶然」のおかげで人は慰めや癒しを得るだけでなく、偶然の要素が人の気持ちを豊かにし、新たな出会いを大切にさせます。むしろ、「偶然」の織りなす予期せぬ人生模様こそが生きる醍醐味だいごみであるともいえるでしょう。そういう意味では、ひとりひとりの人生はまさに「必然」と「偶然」の糸が縦横無尽に交差して仕上がった織物になぞらえることができます。  しかし忘れてならないことは、必然と偶然とのバランス感覚です。「必然」に過度に囚われてしまうと、必然の意味ばかりを考えるようになってしまい、自身の自在な発想・行動を縛しばる結果につながりかねません。自分なりに自己解釈した必然の意味を通してのみ、自分自身や身の回りに起こった物事をとらえるとどうなるか。たとえば、仕事が長続きせず転職を繰り返している人は、「この展開は必然だ」ととらえ、その意味を「まだ自分の天職に出会っていないから」と自己弁護する傾向があります。新しい職場になかなか馴染なじめず仕事が面白くない場合、本人にとってはその仕事が「天職」とはとうてい思えないため、「まだ天職に出会えていないから、この展開は必然なのだ」と、新たに別の仕事を探すようになるでしょう。また、対人関係が苦手で他人とうまく接することができない人が、自分にとって「この展開は必然だ」と思い込んで、その意味を「自分は人から認めてもらえない運命の持ち主なのだ」と解釈したらどうでしょうか。人から認めてもらえないのは誰でも耐えがたくつらいことですから、そういう思いをしたくないがために、人との交わりをあらかじめ避けるようになっていきます。その結果、他人との接触を自ら遠ざけ、自分に対する他人からの疎遠で冷たい態度を前にして、いっそう自暴自棄に陥るかもしれません。自分自身で招いた出来事をこのように考えてしまうと、自己解釈した「必然の意味」が強まり、その考え方が深く根付いてしまいます。するとなにごとも「必然の意味」を通してしか見ることができなくなるため、起きた出来事のすべてが、偶然の入る余地のない必然に貫かれたもののように感じられるのです。こうして、意識しなくとも自然とその考えに沿って行動してしまうため、ますます「必然の意味」を自ら引き寄せる結果になります。自分なりに解釈した「必然の意味」とは、別の言葉で言えば「思い込み」です。このように、思い込みに囚われ過ぎると物事をさまざまな角度(偶然の可能性も含め)から考える柔軟な思考態度も奪われてしまい、問題や悩みの自己解決がいっそう困難になっていくのです。  この世には、個々の力量ではどのようにしても避け難い悲惨な状況に遭遇することが多々あります。先年のインド洋大津波でも瞬時に膨大な数の人命が失われましたが、人知を超えた大いなるものの前には、人がいかに奮闘しても及ぶことのできない現実を思い知らされます。それでもわたしたちは、各々の力量の許す限り人事を尽して生きようとしています。仏教では、「運命は変えられる」という考え方に立ち、自分が「何を求めるか」のちがいによって世界の在り方そのものが違ってくることを説きます。たしかに、己の計らいではどうすることもできないことはたくさんあります。しかし、この現実をどう受け入れ、自分の意思でどのように新たな展望を開いていくかという点において、運命は変えられるだけでなく、運命を自ら生み出してゆくことができるのです。いわゆる諸行無常の道理を、「しょせん無常の世なのだから」あるいは「これが運命であって、逃れることができない定めなのだ」と、わが身や世界の行く末を運命にゆだねれば、その段階でその人の心に「必然」の枠がはめられてしまうのです。したがって仏教では、運命を論ずるときに、「よりよく生きる」という主観的な視点を中心にして必然と偶然の関係構造に分け入っていきます。「すべては必然の結果である」と見たり、あるいはその正反対に「すべては偶然によって起こる」と見れば、よりよく生きようとする努力は無駄になり、生き甲斐が消え去ってしまいます。片や、運命論に頼りきれば災難を「仕方ない」とあきらめることはできますが、その逆境から立ち上がるための力を発揮することはできません。仏教によれば、運命とはもともと自由に変更可能なものですが、最初から定まっていると思う人にとっては、それを変えられない宿命のようにとらえてしまうからです。

 これまで述べてきたように、因果の道理に基づく偶然と必然は、この世の成り立ちや現象にとって分かちがたく結びついています。そうした現実を踏まえ、その両者の本質をよく見極めながら自己の向上につなげていくことが大事です。人生の浮き沈みにおいて、一般にわたしたちは自分にとって都合のよい「偶然」の成果を「必然」的な結果であると考える傾向が強いものです。多くの場合、人は自分が得た勝利や成功を偶然の産物であるとは認めたがりません。あくまで自分の実力による勝利や成功であると胸を張り、「それは必然だった」とうぬぼれるものです。その一方で、敗北や失敗を「あれは偶然だったのだ」と勝手に運のせいにして、自己の責任から逃げようとします。しかし、敗北・失敗を自身の短慮や軽率が招いた必然の結果であると反省し、勝利・成功を偶然の賜物によるものであると謙虚に振り返り、次への新たな一歩に備えることができる人こそ、運命を自ら切り開いていく意思力を持った非凡な人間の証であるといえます。


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