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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

宗教の目的 ---己を知ること---

 「宗教とは何か」という問いに対しては、さまざまな答えが考えられますが、ひとつの回答としては、「自分自身という存在に意味を与えるもの」といえると思います。

ある意味において、この世の中で、自分自身ほどわからないものはありません。自分はなぜこのような姿形をしているのか、なぜこのような人を好き、嫌いになり、なぜこういう病気になるのか等々・・・。しかし、己に対する疑問の原点は、不安や苦しみです。それには大きく分けて三つほどあるでしょう。一つは、生きることにまつわる生理的な不安です。つまり、病気や自然災害などに対する不安です。二つ目は、一族や同族をめぐる不安です---他民族から侵略されたりする際に自民族間の結束をもたらす感情がベースとなった不安です。三つ目は、自分自身の心のこだわりや苦しみです。

 従って宗教のあり方も、これら不安の違いに応じて異なってきます。たとえば、宇宙の仕組みとか、宇宙のはじまりということは「私」の命のはじまりや「私」がこのようにあるのはなぜなのか、という仕組みの根源に答えを与えようとすることです。キリスト教では神の天地創造や人間の原罪という観点からこの点を説明します(日本の神話では天孫降臨や天照大御神の話などに代表されます)。これに対し、仏教では「縁起」の理が、宇宙と自己の根拠を説明する原理となっています。

 「生理的な不安」に対して、宗教は「自然の威力」の回復によってそのような不安の解消を提示します。つまり、病気や不運は何かの祟りであると考え、その原因となっている悪魔を追い払い、より強い生命力を回復することをめざします。これは民俗宗教という側面のなかに強くあらわれています。自然の威力を神として祀り、穢れをなくして自然が持つ本来の力を取り戻そうとします。

 第二の同族・民族の危機に対する不安から出発した宗教は、一族の祖先を祀り、祖先は太陽、山、天上など、いわば宇宙の根源から降臨してきたという伝説を強調して神格化し、民族の正統性を主張します。この神は同族が危機にさらされたときに強くなり、民族や同族に協力しない人を排除します。多くは民俗宗教と相当部分で重複します。その典型がユダヤ人の宗教にみられる選民思想です。

 第三の、心の苦しみに答えようとする宗教が、一般には「世界宗教」といわれ、普遍性を持って現代においても広く信じられている宗教です---仏教やキリスト教、イスラム教などです。これは個人の心の救済をめざしますから、民族や地域に関係なく世界中へ伝播します。世界宗教では、いずれも苦しみの根源を人間の心そのものに求めています。したがって基本的宗教観は、物事の真理性を悟り、それによって自己のとらわれから解放されることをめざすというものです。

 現代の各種民族や人々の精神文化は、以上の民俗宗教、民族宗教、世界宗教の三つが相互に複雑に交差しながら形成されているわけです---「私とは何か」という問題に答えを与え、この世の中(宇宙)を説明し、究極的に人間を救うことをめざしています。

 本稿では、「自己を知る手だて」である宗教の代表例として仏教をとりあげて、変転極まりない「現代」に生きる私たちに対する宗教の意義を考えます。



 仏教は、よく知られているように、病や死など生命の本質、あるいは宇宙に関する真理を悟り、それに基づいて、愚かさを繰り返す自己を観察し、心の解放を実践するというかたちで「自己とは?」という究極の問いに答えを与えようとするものです。

 一般に人は、自分自身や家族の誰かが難治性の病気にかかると、死への恐怖心から合理的な精神状態で対応できなくなり、やがて超合理的な何かの祟りではないかという不安に陥りやすくなります。平時は非常に冷静沈着で理性的であった人が、上記のような不幸に直面した結果、周囲の想像を越えた振る舞いや信仰活動に没入してしまう例は多くあります。身内の不幸について、水子の祟りではないかとか、樹木霊や山の神の怒りにふれたなどという説明を求めたくなるのは、「民俗宗教」的な感情によるものです。また、こうした民俗的な霊観念や先祖への気持ちを民俗の元祖や神の権威で体系化して、他民族や他国に対抗してゆくのは「民族宗教」の為せる技です。しかし、これらの宗教はあくまでも、不幸や苦しみの原因を自分以外の何か別なものに求めているに過きず、精神的、肉体的苦難が降りかかるたびに心を惑わせ、他の存在に責任原因を転嫁しているばかりです。

 こういう苦しみへの対処として釈迦は、「自己」の定義から出発しています。「自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか。自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。」

 仏教の考え方では、人間の苦しみの源泉とその解決策は、あくまで「自分」自身にあるとみるのです。それは人間が苦しむのは財宝や欲望、他人の目などという外側のもの(他人)を拠り所にするために本当の自分を見失い、ふりまわされているからです。惑わされない自己に落ち着けることができれば、おのずと心は解放されるのだと説かれています(ちなみに、他宗派でも、曹洞宗をひらいた我が国の道元禅師(1200–1253)が、「佛道をならふというは自己をならふ也。自己をならふというは自己をわするるなり」と説いています)。自分にとっての宇宙の出発点は、まさに自分自身なのです。


 釈迦の悟りの基本をなす哲学は、いうまでもなく「縁起」という教えです。「縁」というのは、条件の縁り集まりということであり、「起」は「起こる」ですから「存在」という意味になります。すべての存在は、条件の集合体だということになります。つまり、銀河系、地球はもとより、季節の移り変わりなどこの宇宙における一切の現象は条件の集合によって成り立っているのです。私たちの命も、疾病、老化、空腹も、あるいはホルモン分泌の増減で体調が変わるのも、すべて縁起の仕業です。さらにいえば、私たちを取りまく人間関係も縁起です。夫婦であり、親子であり、同僚であり、友人でもあるのも条件の調和によるものです。ですから、条件が少しでも狂うと体調を崩したり、人間関係がたちどころに歪みを生じることになります。また、私たちの心自体も縁起によって動いています。身体の調子や、習慣、欲望、コンプレックス、信念、好みなど多くの条件が集まって、その時々の心は変化してゆきます。

 人間はどうしても自分を中心にして物事を見ますから、対象となる物事は変化してほしくないものです。今の状態がいつまでも続いてほしいものです。この「いつまでも同じ状態」だという思いこみを「常」といいますが、縁起なる真理によってこの世の中が成り立っている以上、すべては人間の都合に関係なく、否応なく変転します。これを「無常」といいます。命も、心も、人間関係も、ビジネスも、すべては条件の調和「縁起」である以上、条件の変化転変に伴って老化が進んだり病気にかかるというように無常、つまり諸行無常なのです。

 ところで、普段、私たちは「自分」という確かな何かがあると思っています(フランスの哲学者デカルトの「我思う。故に我有り」)。しかし、仏教によれば、自分というのは、「命」という側面からみても、「心」からみても、単に条件がより集まったものに過ぎず、絶対に変化しない確かな「私」などというようなものは元々ありません。若いときの「私」と、今の「私」では明らかに違います。健康なときの「私」と、病気をしているときの「私」もまた然り。「私」という「もの」自体も、常に変化しつつあるのです。従って変化しない「私」や、自分に都合のいいような「私」というものは存在しません。自分が、「私」というこの命を授かったことは、少なくとも自分の都合以前のものです。変化しない「私」の実体などというものはありません。これを「無我」、あるいは「諸法無我」といいます。

 釈迦は、「縁起」なるものは「無常」であり、「無常」なるものは「無我」である、といいました。縁起、無常、無我なる存在の「私」は、したがってどのようにしても捉えようがありません。有るようで無いものであり、無いようで有るものであって、こだわりようがないのです。これが「空」です(色即是空、空即是色)。

 釈迦は、「縁起とはなんぞや。これあるときにかれあり、これ生ずるがゆえにかれ生ず。これなきときにかれなし、これ滅するときかれも滅するなり。生によりて老死あり。すなわち縁起は、たがいに相い依るの性をいえり。」と述べています。つまり、ものごとは縁の集合体であるといっているのです。また、 こうもいいました。「身も心も、因縁によってできているものであるから、この身には実体がない。この身は因縁の集まりであり、だから、無条件なものである。もしも、この身に実体があるならば、わが身はかくあれ、かくあることなかれと思って、その思いのままになし得るはずである。」

 「命」そのものは他人の「命」と比べようもないし、自分の都合でどうすることもできない事実であり、「かくあれ、かくあることなかれ」とは思い通りにならないもので、そういう私たちの命の根本原理を、釈迦は「縁起・無常・無我」であると喝破したのです---「一切の形成されたものは無常である。明らかな智慧をもって観るたびに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である」。

 釈迦のめざした境地は、人間が心のよごれから解放された、静かな心の実現の果てに展開する世界---涅槃寂静---であり、このことが人間存在すべての悩みを解消する究極の鍵といえるものでした。

 人が苦しむのは、欲望の心で考え、理想を立てるために、事実と欲望の間に大きな落差が生じてくるからです。「ものごとが思うようにならない」というのはそういう状態です。これを「苦」というのです。苦は、時として自分の命さえ苦になることがあります。たとえば、誰でも自分の顔やスタイルや才能などについて、自分の願望と現実のギャップで悩んだことが思春期には一度や二度あるものです。すると、自己の存在自体が自己の意思に反していることになります。これを「一切皆苦」といいます。このように、自分の思うようにならないことを「苦」というわけですが、すると、私のまわりにあるものはたいてい私の思いどおりにならないから、「一切皆苦」になるわけです。

 以上をまとめてみると、諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静という四つの項目になります。これを「四法印」といい、仏教の旗印となっています。


 釈迦が翻然と出家したのは、29歳の時でした。彼は青年期に人間の苦悩について目覚め、インド大陸南部の新興国マガダに赴き、多くの宗教家、哲学者から学びますが、いずれも満足な解答を得るに至らず、やがて精神の完全な解放をもとめて悶々たる苦行の日々を送ります。しかし、それら苦行も心を完全に安らかにして解放してくれることにはならないと気づき、決然と山を下ります。ある日、河で沐浴して疲れ果てた体を休めている時、スジャータという村娘から乳粥を供養してもらいます。さらに、牛飼の少年からは草の供養を受け、これを大樹の下に敷いて座禅瞑想に入ります。朝は村で托鉢を行い、午後は瞑想という、端然とした生活を始めた釈迦は、その八日目の朝(太陽暦では12月8日)、明けの明星を見たとき遂に完全な心の解放「涅槃」に至ったのです---35歳でした。釈迦は、その後、自分の悟りを確かめ、整理体系づけをします。そして、この教えを誰かに話そうと思いめぐらし、昔の修行の仲間だった五人に話してみようと決心します。西方のべナレスの地にいる五人を訪ねていきました。この五人の修行者に対して行った最初の説法が後生、「四諦八正道」といわれるものです。これは、四つの真理「諦」を説いたものです。すなわち、

  苦の真理(苦諦)---世間は忍耐すべき場である。

  集の真理(集諦)---煩悩が苦しみのもとである。

  滅の真理(滅諦)---涅槃こそ安らぎである。

  道の真理(道諦)---八つの正しい実践こそが安楽への道程である。


 まず第一は、この世間に存在することは、苦しみを伴うものであるという真理です。人間の苦を総称して「四苦八苦」といいます。生・老・病・死の四つの根源苦です。ここで、老・病・死が苦であることは誰でも理解できますが、なぜ「生」が苦しみなのでしょうか。前にも述べたように、苦というのは自分の思い通りにならないということであり、忍耐しなくてはならないということです。すると、この人間世界というものは、色々な考え方や、性格、文化、主義主張の違う人々が集まっている場、いわゆる「娑婆世界」ですから、自分勝手に活動できる範囲はほとんど無きに等しいものです。社会の約束ごとや他人の考えを尊重して、自分の考えは制限しなくてはなりません。その意味で、人間世界に生まれ出ることは不自由な世界へ生まれ出ることなのです。それを「生は苦である」といっているのです。

 この四苦に、次の四苦を加えて八苦といいます---愛別離苦(愛するものと別れる苦しみ)、怨憎会苦(嫌な人とも一緒にいなくてはならない苦しみ)、求不得苦(欲しいものが手に入らない苦しみ)、五蘊盛苦(命と心---「五蘊」---が盛んなために苦しむこと。食欲、色欲、名誉欲、あるいは自尊心が強すぎるためかえって苦しんでしまうこと)。

 四聖諦の第三は「滅諦」です。滅というのは、炎が消えた状態ということで、涅槃ともいい、心が燃えていない安らぎの状態を指します。釈迦は、この静けさの達成こそ人間の心の解放であると結論づけました。が自分の意思に逆らってひどい苦しみの原因となります。したがって、自我と真理が見えない(無明)愚かさから多くの煩悩が生起して、命の事実を受容できなくなるのです。きません。それ故に、苦しみを「苦しみ」として認めることが、まずなによりも必要であるというのです。

第二は「集の真理(集諦)」です。苦しみというものは、自分の思いと、自分を取り巻く環境の現実とのギャップが苦しみの仕組みです。特に自分の観念が自我中心にこだわっていると、命や環境の存在自体が自分の意思に逆らってひどい苦しみの原因となります。したがって、自我と真理が見えない(無明)愚かさから多くの煩悩が生起して、命の事実を受容できなくなるのです。

 四聖諦の第三は「滅諦」です。滅というのは、炎が消えた状態ということで、涅槃ともいい、心が燃えていない安らぎの状態を指します。釈迦は、この静けさの達成こそ人間の心の解放であると結論づけました。

 第四は「道諦」です。心の静けさを実現するためには、それを支える人間としての行動原則が必要です。これを「八つの正しい道(八正道)」といいます。「正しい」というのは「中」という意味でもあります。「正」とか「中」というのは両極端にとらわれないことです。我執我欲、煩悩、あるいはその逆に厳格峻厳な道徳主義にもとらわれず、心が自由でいられることです。その「八正道」とは、

 ・正見(とらわれないものの見方)

 ・正思(とらわれない心のはたらき)

 ・正語(とらわれないことばの生活)

 ・正業(正しいおこない)

 ・正命(正しい生活) 

 ・正精進(正しい努力)

 ・正念(正しい心の方向づけ)

 ・正定(正しい心の落ちつき)

の八項目です。


 人間は、外界に刺激されて内なる煩悩にふりまわされる生き物です。しかし、そういう外の刺激にふりまわされることのないよう、落ち着いた静かな心で、ものごとに対処していけば自己を見失うことはないはずです。「滅諦」と「道諦」はこの心を指しています。


 また、人間の仕組みについて、釈迦は五薀縁起というものを説いています。

 ・色薀---物質および肉体、あるいは感覚器官自体

 ・受薀---外界の刺激を感受する能力 

 ・想薀---記憶と照合して意味を判定する能力

 ・行薀---欲求によって損得を判定する能力

 ・識薀---自分の意見や意志として自覚する能力


 人間の意識活動は、この五つの条件が調和したときにはじめて機能します。このうち一つでも機能しなければ、意識活動は成り立ちません。従って、人の心というものは、「もの」を見て、それに対してなんらかの判断をしなければ怒りや嫉妬も起こりません。つまり、諸条件の因縁和合によって煩悩・嫉妬は起こるわけです。つまり、「想」が、物の意味や名前などを経験して貯えていなければ心ははたらきません。「行」の欲求や、危険や喜びという過去の経験がなければ、外界を積極的、自覚的に理解す

ることはできないのです。こうした欲求や恐怖などがいわば色眼鏡になって、私達は外界と触れあっているわけですから、心が燃えていれば外界にふりまわされて迷いとなり、心が静かで落ち着いていれば、外界にもこだわらないでいられるわけです。

 釈迦の説く、こだわりからの解脱や煩悩の消滅といった問題解決の方法は、一にも二にも、自分の心をよく観察するところから始まります。

 釈迦の教えはまさしく、「心の解放」というところにあります。私たちの日々の現実生活は、誘惑やしがらみが多く、病や死という命の事実からは逃れようもありません。そうした中で、心の解放を実現してゆくということは、実に至難なことでしよう。釈迦はこの状況に照らして、仏教徒らしく生きるための理念を次のとおり示しました。これがいわゆる「三学」というものです---戒(慎みをもって暮らす)、定(静けさの喜びを保ちつづける)、慧(解脱・涅槃の意義を知っている智慧)。

 戒は、実生活の中での行動規範です(基本は、殺すな、盗むな、犯すな、嘘をいうな、酒におぼれるな、の五つ)。その他、二枚舌を使うな、他人の過ちを挙げつらうな、うぬぼれて他人をばかにするな、ものおしみするな、人の悪口をいうな、などまさに人間の行動の多様性に応じて無数といってよいほど種類があります。言わずとも、殺しや盗みをすれば、心がよごれ、そうした悪癖が習慣づいてしまうために、解脱が阻害されるからです。


 仏教の立脚点を一言でまとめるならば、昔から「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」(法句経183)---いわゆる過去七仏が共通して人生規範としたといわれる偈で、仏教の根本思想を集約した句---を挙げるのが通例となっています。意味は、「もろもろの悪をなさず、すべての善をおこない、自らの心を浄めよ、これが諸仏の教えである」というものです。悪を「悪」として認識し、知ることは、心が強くなければできません。善を「善」と知ることは、善を喜ぶことです。そして、こだわりのない浄らかな心こそ、自分自身の救いであるとはっきりと信じ、迷うことがなければ、私たちは煩悩の縁の中にあって、煩悩にふりまわされることなく、安住していられるでしょう。これこそ、「己を知るという」という人間にとって最も根源的な問いに対して、釈迦が私たち後世の「弟子」たちに残した教えといえます。

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