平成9年は、後世の史家から、日本の国運、国力が衰亡を辿り始めた重要な転換として記録されるのか否か、未だ即断すべきではなく、悲観も楽観もできませんが、ともかくも国全体のあらゆる枠組み(私たち日本人自身の精神生活も含め)に軋みと疲労がはしなくも大きく露呈した年でありました。価値観の激変や転倒が否応なく、さらにこれから数年の間、日本国内を襲うことは必至と思われます。そのような「大変な時代」に生きている状況下で、ひとりひとりの生き方の指針と展望を根底から支える「幸福」に対する立脚転をさぐり、あわせて仏教的観点からも若干の考察をすすめてみました。
幸福とは?
「幸福論」という名の書物は、古今東西を問わずたくさん出版され、いつの時代でも多く読まれてきました。それだけ人々にとって「幸福」は関心の深い問題だったということであり、どのような職業、地位、年齢にあっても、その求めるものは幸福の成就であるということに他ならないのでしょう。それと同時に言えることは、いつも人間は幸福を求め続けなければならないものであり、いわば満ち足りない、不幸な境遇にある---あるいは、少なくとも、現状には満足していない---ということを物語っています。
幸福とは何か、ということを考えますと、さまざまな定義・解釈が成り立ちますが、「常に人に教わるものではなく、またそれぞれの人がそれぞれの立場の中で、これが幸福であると名付け得るようなものを独りで思うもの」であるという風に導きだされます。幸福というものは、人の心の中で、いわば最も主観的なところに存在する概念なのです。
幸福のありようを見てみますと、地位・金銭の豊かさをもって幸福であると思う人々がいる反面、精神的な充足感をもって幸福であると思う人々もいます。百人いれば百通りの幸福観があるわけです(乱暴な言い方をすれば、アメリカ人のような物質主義者とインド人のような精神主義者の違い)。
「価値観の相違」ということは、すなわち幸福観の相違、といえなくもありません。したがって、幸・不幸は他から見て安直に批判したり、論じたりすることのできないものです。このことをしっかりと押さえていれば、自分自身の人生に対する態度というものも、自ずと確立されるわけですが、人間は残念ながら非常に嫉妬深く、猜疑心の強い動物であるため、老若男女を問わず、また教養の多寡を問わず、一生他者との比較に明け暮れ、羨望と蔑視の間を行き来して終わることが多いものです。そこが、逆に人間の不幸の最大の源泉であるともいえます。
たしかに幸・不幸の区別は非常に主観的、個体的なものであり、他者の判断を許さないように思えますが(理屈の上では、誰もがそのことをわかっていると思います)、当人は疑いなく主体的に幸福であり、あるいは不幸であると信じ切っているのか、と深く問いを追求していくと、誰もが自分の幸福観、不幸観が実は非常に曖昧模糊としているのに気づくはずです。ひとりとして、何の不安も感ぜずに幸・不幸と言い切れないところに問題の厄介さがあるのです。自分を心底幸福であると思っている者もいない代わりに、自分をほんとうに不幸であると思い続けている者もいないでしょう。このように自らに問うとき、果たして自分にとって幸福とは何であるのか、何であったのか、という問いが再び始まるわけです。このようにして問題は果てしない堂々めぐりをくりかえしてしまいます。幸福とは実は、ある日、あることを、ある仕方で得たときに存在し、そのときの心が心地よい状態にあったというだけのものかもしれません。これが存外、言われるところの幸福感というものです。しかし、それは「快楽」であって幸福というものではありません。希望をかなえた瞬間、一時的に不安を忘れることが幸福ではありません。
このように日常経験的に現れている幸福は感覚的であり、生理的な快楽に過ぎません。ところが、世俗の快楽の外に、「宗教的哲学的安らかさ」というものがあります。神仏の絶対愛につつまれた自己の分身を自覚するという神秘的経験は「浄福」と呼ばれますが、これは感覚的次元を超越した人間だけが持ち得る真の意味の「幸福」とされます。つまり、世俗的幸福---一時的---も、超世俗的幸福---持続的---もともに「幸福」という名で呼ぶことができるわけです。幸福を考える場合は、この両者の違いを把握しておくことが肝要になります。
逆に不幸についていえば、感覚的、生理的次元での不幸は感覚的苦しみであり、一時的です。では「永続的な不幸」というものがあるのでしようか。この点を考えていくと、おぼろげながらわかってくることは、幸・不幸がきわめて刹那的なものであり、人間の一生が感覚的な幸・不幸の繰り返しに過ぎないという現実です。純然たる幸福もないかわりに、完全な不幸というものもこの世には存在しないのです。病にある人でも、つかの間の幸福感は得られますし、得意の絶頂にある人でも、身内の不祥事、身体の不調などいくらでも「不幸」と感じる現象が常に背後に控えているのです。「絶対永続」なるものは、はじめから存在しないということがわかれば、仏教の「無常」観の本質が多少理解されると思います。
「人間苦」という言葉から連想されるものは、何か持続的な、本質的な「原罪」と相通じる気がしますが、「人間楽」という言葉がないところを見ると、古来から人間は、人間自身を「苦」に満ちた存在であるという認識をしていたものと推察されます。しかし、幸福を見いだす糸口は無限にあることも事実です。「苦」という前提のもとに人生全体を眺めるとき、粛然たる想いがいたします。その一方で、日常のなにげない刹那に至福を味わうことも紛れもない現実です。幸・不幸の判断は冒頭述べたように、非常に主観的色彩の濃いものですが、ある任意の現象についての判断は人それぞれによって無数であるため、自己の境遇、他者の置かれた状況に関する短絡的な評価は厳に慎まねばなりません。
幸福はたとえ、その感覚が瞬間的にしか訪れないものであってもこれを否定すべきではありません。幸福は幸福として、その限りにおいて生き甲斐の理由となるからです。またその一方で、「幸福は一時的快楽に過ぎないものであるから、やがてまた不幸が来るだろう」というように、不幸への意味深い予兆を感じとることも軽視すべきではありません。つまり、このような心持ちのバランスの上に、人間の一生は立っているのです。そのバランスが崩れたときに、人間は転落の一歩を踏み出します。悲しみだけが人の世の深さを教えるわけではなく、幸福にあるときでも人の世の深さを学ぶ姿勢がまず何より求められる所以です。幸福と不幸を対立するものと考えず、コインの両面のように、まったく無秩序に、前兆もなく表がでるか裏がでるかわからない、という態度こそが人生の実相を理解する上で重要でありましょう。
真の幸福は、たとえそれが一時的感覚的快楽であっても、常に不幸に裏付けられています。裏は不幸なのです。やがて到来するであろうところの不幸の影を宿しています。幸・不幸は一直線上にはないのです。あたかもメリー・ゴー・ラウンドのように円を描きつつ、私たちが乗った馬は他の人の馬の上になり、下になりながら一生を送っていきます。永続するものはこの世に何一つありません。幸・不幸もまた然り。ところが、そうした現実に目を背け、逃避する者はやがて「自裁」の道に進まざるを得ないのです。ただし、メリー・ゴー・ラウンドと違い、人生はあらかじめ機械的にプログラムされたものではないため、下から上に昇るためには意志的な努力を必要とします。これが精進であり、研鑽であります。この努力なしには上に昇ることはできません。その意志力は人間として生まれたその時点ですでに備わっているものです。すなわち「胎蔵」しているのです。この胎蔵された力をどのように発揮するかは、自己への洞察と人生観の確立にまつことになるでしょう。向上への意志力を人間は生まれた時にすでに自らに蔵しているのであれば、苦しみ・不幸を幸福に転ずる道は、その意志力を人生の早い段階で覚知する以外にないともいえます。結局、現に苦しみに喘いでいる人にまず必要なことは、この生得的な「意志力」、いわば「生のエネルギー」を覚知することです。
仏教は、「人生というものは、幸福の中にすでに不幸の影がさしている。また、たとえ不幸がおそってきても、その中にすでに幸福の予兆も秘めている」という立場をとります。「無常」なるものが、どちらか一方の固定をのぞまず、ちょうど漆黒の夜の闇が、来るべき夜明けの前奏であるかのごとく、定めなき変転を繰り返していくのです。幸福も不幸も共にまぎれもない「事実」であり、このことをまずしっかりと認める必要があります。この事実以外に、この世を統べる何ものもありません。つまり、この現実を和解させる神仏も存在しなければ、これを意図的に変える絶対者も存在しません。しかし、幸福という事実のなかにもすでに来るべき不幸への気配を常に感じとりつつ、刹那の至福を味わいつつ、逆に不幸という事実の中にすでに幸福への兆しを見いだせるような人こそが、幸・不幸を超越した人間ということができます。すなわち、「人生を見る眼ができた人」といえます。
幸福は固定したものでなく、また、不幸も固定したものではありません。そのような現実にもかかわらず、人々は幸福の境地に向かって突き進まざるを得ないように生まれついています。それは人間に生得的に備わっている「意志の根元的作用」によるものです。この作用から、人間は道徳・倫理、さらには良心をはぐくみ、「人はいかに生きるべきか」という問題に取り組んできました。しかし、決して普遍的で、万人に共通した幸福が存在しないということを教えるのもこの作用であります。
幸・不幸を越え、それに動じない具眼の士は、まさしく宗教的境地の極致ですが、その精神的状況の確立は必ずしも賢者のみに許されるものではなく、私たち凡夫にも可能なものです。つまり、幸・不幸という矛盾した概念のいずれにもとらわれない精神的境位は原理的に言えば、仏教の「中道」精神です。幸福とは、単に心の状態でもなければ、ひとつの感情でもなく、それは、人間を完成させる方向へ向かって進んでいく場合の全人的な共鳴の証です。インド哲学でいうところの「創造」の原理に基づいた幸福の追求です。不幸はその対局にあって、完成へと進む全人的な共鳴の破壊です。しかし、創造を創造として保ち、破壊を破壊として維持する原理が両極の底に厳に存在しており、それが両極の支えとなっています。したがって、創造(幸福)と破壊(不幸)は矛盾するものではなくなります。保持を原理として、相互に対立する構造が、この人生の実相です。そして、「中道」とは、一切のもの---人間的関係も外的存在もすべて含む---は相互に依存しあって、独存的なものが何一つない(縁起生)を体得することが「具眼の士」となる第一歩でありましょう。これを体得した暁には、おのずと、両極端のいずれにも傾かない宗教的心情がめばえてきます。ただし、傾かないということは決して中途半端であることを意味しません。対立する両極端を活かすということは決して容易なことではないからです。幸福な状態だけを望むのではなく、その永続を願う気持ちのなかに不幸な状態、失意の姿を見いだす心性は相当に透徹した人生哲学を要します。
インドの古代思想は、「人間性のなかにある可能性、力、特性を人間自身が気づくこと、そして、いかなる人間にもより高く生きる可能性が宿っていること(そこには生まれの貴賎、能力の多寡、寿命の長短は関係ない)」を強く訴えるものです。人間の中に秘められた可能性は、一時的成功や失敗、幸福や不幸という「幻」を突き破り、絶えず両極の底に流れているものです。それを覚知するということは、幸・不幸という主観的評価を根底から支え、維持する原理を自覚することに他なりません。この覚知は、幸・不幸があくまで「時間」的な存在であり、「主観的」、 「相対的」であることを知ることによって得られます。
この世に生きる人々すべてに、平衡の原理、すなわち、どのような変化(幸・不幸の繰り返し)の中にあっても人間の根元的な意志力があることを忘れずにいること、そして幸福・不幸を測る絶対的な基準や指針がないということを自覚する姿勢が、「幸福」の本質をつかみとり、充実した生(煩悩、執着、惑乱を離れた生き方)を送るための出発点であるといえます。
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