「彼岸」(彼岸会)は、春分と秋分の日それぞれを「中日」として前後各3日、計7日間にわたり展開する仏教行事です。彼岸とは、インドの言葉(サンスクリット) 「パーラミター」(音写「波羅密多」)の訳語「到彼岸」の意です。ちなみに、語学的構造は下記のとおり:
さて、「到彼岸」とは、「此の岸」すなわち、人間の苦しみ、恨み、悲しみ、喜びなどが混在している迷い多いこの世界から、「彼岸」すなわち、仏の世界、迷いのない理想の世界へと自己を高め、永遠の「安楽」世界へ到達しようと努力することです。
彼岸会の「中日」として春分、秋分の日は、御存知の通り、昼夜の長さが等しく、太陽は真東から昇って真西に沈んでいきますが、仏教は、この昼と夜とが等しくどちらにも偏らない天文現象に着目して、仏教の根本原理のひとつ「中道」思想に適用したのです。ここで、「中道」とは、私たちを取りまく事象を単に「足して二で割る」ようないい加減なことではなく、我執を離れた「不偏中正」の正しい決断、行動をなすことを意味し、いわば仏の悟りを実践することです。
そして、この仏の世界へ至るための具体的実践徳目(菩薩の修行徳目)として、大乗仏教では6種の実行(六波羅密、または六度) を説いています。すなわち、
布施 (精神的、物質的に差し上げること、心に安らぎを与えること)
持戒 (身を慎み、常に反省すること)
忍辱 (平静にして耐え忍び、怒らない、怨まない、悪心を抱かないこと)
精進 (善を為し、悪を為さぬように常に努力し続けること)
禅定 (感情を鎮め、心を安定させること)
智恵 (全てのものを生かしている「大いなるもの」の本質を把握すること、あるいは従前の五波羅蜜を成就することによって得られる心の作用)
この6項目は、迷いの「此岸」から、仏の悟りの世界「彼岸」に渡る方法なので、六度( =渡)とも呼んでいます。この六度を中日の前後3日間ずつに配して、私たちの最上の倫理規範とするのです。
したがって、彼岸の一週間は、換言すると、墓参や先祖供養をするだけの行事であるのみならず、本来ならば自身が心して過ごすべき自己反省の期間と言えます。ともすると怠惰に陥りがちな私たち凡夫に、人倫のあるべき姿に対する自覚と反省を促すために設けられた、私たち自身の修養のための行事なのです。
歴史的には、 『日本後記』巻十三、大同元年(806年)三月辛巳の条にある「祟道天皇の奉為に諸国分寺の僧をして春秋二仲月別七日、金剛般若経を読ましむ」いう記述をもって、日本における最初の彼岸会としているようです。また、彼岸会は、「宇津保物語」「源氏物語」「蜻蛉日記」などにもその実施例か見いだされます。彼岸会は、太陽が真西に沈む春分、秋分の日に、太陽が沈む彼方に極楽浄土が存在するとみなして欣慕するもので、藤原道長の平等院鳳凰堂に見事に体現されたごとく、「浄土教」が国内で隆盛化するにつれ、この行事も全土に普及するようになりました。ですから、彼岸の概念は、浄土宗の理想世界「阿弥陀の西方極楽浄土」観に包括されるべきものと言えます。
一年を通じ比較的気候に恵まれたこの時節に、自らの行いを反省し、今後の処世への展望を開くと共に、無論、今日このように自分を生存せしめている根因としての先祖への謝意をあらわす行事が、この「彼岸会」なのです。そして、この行事は、日本古来の「祖霊崇拝」思想との混交を経て日本独自の宗教儀礼へと変容した点において、外来文化の摂取・吸収に長じた私たち日本民族の思想的・宗教的柔軟性を如実に示す好例としても注目されます
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