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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

日本文化の底流をかたちづくるもの---仏教・神道・儒教---

 日本民族は元来、他国の文化や思想に対して極めて寛容であったために、日本史の全体においてさまざまな書物や思想を受容し、現在のような独特な文化を造り上げてきました。その中でも特に影響を与えたものが、いうまでもなく仏教という、無常観を教義の中心に据えたインドの宗教です。「仏教なくしては日本文化の部分が失われる」といってもよいほどです。ところが、日本に伝わった仏教は、インドはもとより、中国、朝鮮半島において信奉されていた原型通りで受け入れられたわけでは決してありません。仏教は、古来の日本人の民間信仰や風習、特に神道と習合した形で受け継がれてきたのであり、その状況は現在に至っても変わりありません。このような吸収スタイルは、宗教だけでなく、実用的な外来技術についても当てはまります。まさにこの点が「雑種文化」(加藤周一)といわれる所以です。たとえば、「神仏」という単語に象徴されているように、日本神道におけるいわゆる「八百万の神々」と、仏教の「諸仏・諸菩薩」とが両者あわせて、違和感なく信仰され続けてきたのです。

 それに対して、仏教とほぼ同時期に日本に伝えられた儒教については、日本人の受け入れ方はまったく異なっていたといってもよいでしょう。すなわち、儒教を宗教として捉えたというよりも、生活上の規範、または社会道徳上の規範として受容したのでした。他方、16世紀に南蛮人(ポルトガル人など)から伝えられた耶蘇教(キリスト教)は、徳川時代に厳しく禁じられたこともあり、明治になるまでは一部の日本人を除いてほとんど普及しませんでした。

 結論からいうと、日本文化を支えている中心的要素は神道、仏教、儒教という三つの宗教です。私たちが意識するとしないとを問わず、日本人の大多数はこれら三つの宗教の教えに深く影響され、その精神の血肉となってきました。 「道」という文字によって表現される文化的営みの大半は、「仏道」に由来するといってもよいほどです。茶道、華道はいうにおよばず、弓道、剣道、柔道といった「武士道」に由来すると思われる諸々の「道」は、すべてその原点が仏教の教えから生まれてきています。その他、建築、美術、文学、造園といった主要な文化的活動においても、仏教が歴史上果たした役割は大きかったといえます。現在では、葬式、法事、墓参りといった葬送儀礼の際、もしくは観光や観賞にしか顔を出さないように見える仏教も、長い日本の歴史においては、精神的な支柱として日本人の生活や考え方に影響を与え続けてきました。

 6世紀半ばに、朝鮮半島から日本に伝わった仏教は、初期は単に「となりぐにの神」ということばに象徴されるように、日本における八百万の神々に模する存在として受け入れられていたに過ぎませんでした。すなわち、諸仏、諸菩薩といった仏教における崇拝の対象が、本来どういう意味を持ったものかを理解しないまま神々のグループに加えられ、疫病や飢饉に対する加護、さらに護国や氏族繁栄を祈るための対象として信仰されていました。このような日本人の仏教受容を利用して主張されたものが「本地垂迹」という考え方でした。すなわち、日本の神々は、本来は仏教における諸仏や諸菩薩の権現(仮の姿)であるから、元の仏や菩薩を拝んだほうが効果がある、という考えです。日本古来の宗教であった神道にのみ執着しようとした人々に対して、自然に仏教を受け入れるように誘導したと考えられます。少なくとも明治維新に入って神仏分離運動や廃仏毀釈運動が勃興するまでは、仏教は大部分の日本人に受容され続けてきました。

 日本で最初に仏教の真価を見いだした人物は聖徳太子であるといわれています。ただ、当時の日本は仏教の教義を深く理解できる精神的水準に達しておらず、ごく一部の人々を除いてはほとんど影響を与えなかったように考えられます。ところが奈良時代に入り、中国仏教の各宗派が伝えられるや、大寺院が陸続と建立され、日本文化に貢献をすることになりました。特に東大寺を総本山とする国分寺や国分尼寺が全国に建立されたことは、中央の文化を地方に伝える役割を果たしましたが、それはすなわち、仏教文化の伝播でもあったのです。この仏教伝播は政治的にも意味があり、それまでは大和地方のみに存在していた皇室の権力を日本全国に行きわたらせるという、中央集権の確立にも重要な貢献をしました。ただし、一般民衆を対象にどの程度浸透していたかは疑問です。同じようなことは、次の平安時代の仏教についてもいえます。深山幽谷の地に修行道場を建立した修行中心の平安時代の二大仏教宗派(天台・真言)も、あくまで一部のエリートを対象としたものでした。加えて、皇室を中心とした貴族たちのための加持祈祷によって成立していたのですから、一般庶民は仏教文化とは無縁なところで生きていたといってもよいでしょう。

 仏教が、大衆仏教として日本人の間に浸透するようになったのは、平安時代の終わり頃から鎌倉時代のはじめ、すなわち西暦12世紀から13世紀にかけてでした。この時代に、二つの主要な仏教の流れが日本において確立されます。つまり、浄土教と禅です。

 これら二つの仏教思潮の特徴は、「一行選択」という概念に集約できます。つまり、仏教の修行をわずか一つの行に絞るという点にありました。一行とは、浄土教においては「念仏」、禅の流れにおいては「座禅」でした。この浄土教と禅宗が、日本人の思想や日常生活に与えたインパクトは強く、以後の日本文化の多くの側面に反映されることになります。

 仏教の目的は元来、戒・定・慧の三種の実践として示される様々な修行を通して、個人の「さとりの境地」に到達することです。そのためには、この世のあらゆる俗的な絆を断ち切った出家生活が必然的条件であり、さらに出家した後も、一生を通した厳しい節制と強い意志とが要求されました。しかし、これでは一般の在家生活を送る大部分の人間にとって、ほとんど成就できない教えとなってしまいます。ところが日本の場合は、聖徳太子の仏教受容に象徴されるように、最初から在家者を主体とした宗教としてみなされていました。

 日本人は、自分の先祖をきわめて大切にする民族です。そしてこのような心性が、浄土教によって説かれる「往生成仏」の思想と密に結びついたのです。直接の先祖である亡き父母をはじめとする先祖代々は彼らの子孫の供養によって無事「成仏」できるといった考え方が、一般民衆への仏教の浸透とともに普及していったと思われます。

 鎌倉時代以後は、新しい仏教宗派が創立されることはなく、それまでの既成宗派内での離合集散が繰り返されて現代に至っています。ここで一つ、日本人の宗教意識を考える上で省くことのできない点は、江戸時代初期に幕府によって制定された「檀家制度」です。それまでは、日本人は自らの意思によって自己の所属する宗教を決定できたのですが、檀家制度が確立されてからは、事実上、江戸時代において信教の自由はなくなったといっても過言ではありません(一度檀那寺が決まると、その後は勝手に所属する寺院を変更するわけにはいかなくなります)。そのような状態が明治維新になるまで継続したのですから、二百数十年という歳月のうちに信教の内実は完全に形式化し(習慣や風俗としてはさまざまな儀式、行事の形で残ったものの)、真剣に信仰について考える環境が失われたと思われます。ここが、欧米の個人的な色彩の濃い宗教観と大きく異なる点であり、海外から日本人の「個」としての主体性が乏しく思われる原因のひとつでしょう。

 明治維新における神仏分離運動の結果、日本の歴史上、神道と仏教は初めて二つの異なる宗教として峻別されました。しかし、その後の軍国主義的風潮が蔓延していく過程で、再び両宗教における崇拝の対象が同一化して結びつけられ、蛮国仇敵勝利を祈念する対象として信仰されるようになっていきます。その影響が現在にも及び、一般日本人にとって神仏は依然として同じ範疇の信仰存在となっています(家庭に、神棚と仏壇の両者を安置するいわゆる「神仏混淆」の現象がその典型例)。

 また、日本人の思惟方法が欧米人とどう異なるか、という問題も重要です。まず第一に日本人の大部分は、縁起という思想の中で生活しているために、欧米におけるような「絶対者による万物の創造」といった考え方には馴染めません。すなわち、この世の中に存在するあらゆる物質と現象とは、すべて「因縁」によって生起するのであり、決して特定の「第一原因」(これを「創造主」と欧米の宗教では呼ぶ)によって創造されたのではない、といった考え方が徹底しているために、「因縁」あるいは「縁起」ということばが日常生活のなかで頻繁に用いられるのです。

 特に、日本人は「縁」という考え方を重視しています。これこそが、「不思議なご縁で」という表現に象徴されるように、実に仏教的な思惟方法といってよいでしょう。このような、因縁生起(略して縁起)という考え方の中で生きている日本人は、当然ながら、人間の存在を「万物の霊長」とみなさないため、人間以外の一切の生き物に対する思いやりを抱き、従って、「万物平等」という考え方が社会全体の暗黙の了解事項になっているのです。

 それ故に、現実には動物や魚などを殺して食しても、できるだけ生き物の命をむだに奪わない努力をするための代替手段として、精進料理、精進揚げといった習慣を生み出してきましたし、さらには、殺してしまった動物その他の生き物のために供養を行ったり、供養塔を建立したりしているのですが、これらも、すべてこういった考え方に由来しています。この「因縁」の考え方の中から生じる概念が一種の「団体」主義であり、日本の社会においては、「個」としての存在は、常に「全体」の中での他の存在との係わりの中でこそ、はじめて意味をもっているのです。第二次大戦後、アメリカから民主主義が招来され、いわゆる「個人主義」の立場が受け入れられたかのように見えますが、実際間題としては、依然として「個」の存在は、あくまでも「全体」との関係の中で評価されているのです。そういった意味では、日本のような「縁起」思想の中で伝統を培ってきた社会において、欧米型の個人主義が十分に定着することは非常に困難であるといわざるを得ません(必ずしもこのような主義が無条件に優れているということではありませんが)。以上のような、「因縁生起」、「万物平等」、「団体主義」といった考え方は、すべて仏教的思惟によって生じてきたものですが、ここから導き出される理念が万物同化あるいは身心同一の「一元論」的思惟方法です。従って、日本人にとっては、欧米の宗教におけるような身心「二元論」的思惟方法には生理的に抵抗があり、また理解できないのです。

 キリスト教等の欧米の宗教においては、人間は万物の霊長であり、個人は完全に独立した存在であると主張しながらも、創造主としての神と非創造者としての人間の間には、絶対に超えることのできない厳然とした区別が存在すると考えます。人間が神によって救われ、神の国に生まれることはあっても、人間が神そのものになることは絶対にあり得ません。これに対して、日本人の考え方の中には、それが現世か来世かの違いはあるにせよ、人間が仏になることが最終目標になっているのですから、人間と仏との懸隔は凌駕不可能ではありません。その結果、日本人の思惟方法や日常生活についてその内奥を考えてみると、長い間の伝統的文化、すなわち、神道・仏教・儒教という三つの宗教が混淆した文化の上に成り立っているということが首肯されるのです。

 日本文化の底流には、常に神道、仏教、儒教の三宗教が微妙に混淆して存在しており、明治以後に流入した欧米文化でさえこれらの影響を受けないで受容されたものは非常に少ないのです。

 ちなみに、因縁、縁起、供養、精進といったことば以外にも、日常生活において仏教用語はきわめて多く取り入れられています---たとえば、息災、方便、往生、油断、四苦八苦、有頂天、甘露、普請、金輪際、開帳、玄関、微塵、一蓮托生等々---。

 さらには、涅槃、般若、奈落、盂蘭盆、伽藍、護摩、娑婆、旦那、荼毘、舎利、阿鼻(叫喚)、(断)末魔、(浄)瑠璃、頭陀(袋)、などの用語は梵語(サンスクリットというインド古代の言語)をそのまま音写したもので、日本語として数多く定着しています。

 また、統計によれば、日本全国に存在する寺院の数は旧仏教宗派だけでも七万五千カ寺前後で、信者数は、新興仏教諾宗派も含めると八千五百万人以上にもなるといわれます。一方、神道の神社、神宮の数は八万に及び、信者数も、教派神道(神社神道に対するもので、天理教など成立年度の新しい神道)を含めると、七千五百万以上に達します。両者を単純に合計すれば、信者数は日本の総人口をはるかに突破することになります。このことは、いかに多くの日本人が(表面上は)仏教と神道の両方に対する信者として登録されているか、ということを意味しています。と同時に、日本における信者数が、個人ではなく家を対象として平均家族数を乗じたものである、ということがわかるのです。事実、日本人の大部分は依然として、神仏の相違を観念的に区別しておらず、したがって複数の信仰の対象をもつことにさほどの抵抗を感じていないようです。それ故にこそ、キリスト教における創造主としての神が唯一絶対の存在者であることに着目することなく、多数の神々の中の一神として受け入れ、非キリスト教徒でありながらクリスマスを祝うのです(単なるイベントとして)。おそらく、将来においてもこういった傾向が急変することはないと思われます。初参り、七五三、結婚式といった儀式においては神道が登場し、葬式、法事、墓参り、盆、彼岸といった行事において仏教が主役となる風習は、ある意味で日本社会に完全に定着しています。反面、儒教の場合は、宗教としてそれほど影響を与えなかったようにみえますが、日本人の考え方、特に道徳的観念や倫理に対しては深い痕跡(特に戦前の皇国思想)を残していることはいうまでもありません。

 日本文化の今後を的確に展望することは困難ですが、やはり少なくともその底流の中で、神道、仏教、儒教という三宗教の要素が堅固に残存されていくことでしょう。ただしひとつの問題は、昨今の物質至上主義や長幼の序の崩壊といった社会風潮(第二次大戦後及び高度経済成長後の顕著な傾向)に対して、これらの宗教をどのように運用または機能させていくか、ということであろうといえます。

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