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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

欲望の限界

 動物と違い、人間の欲望には果てがありません。欲望に限りがない以上、不満も同様です。たとえば大病を患ったときには、健康が何にもまして一番だと思いますが、病気が治って元気になり、日常生活に慣れた頃には、再びさまざまな欲望が湧き起こり、その一方で些細なことに不満が募りはじめます。欲望から要求が生まれ、欲求から不満が芽生えるからです。したがって、根本的に不満を解消する方法は、きわめて単純なことですが、欲望を抑えるしかないという結論にいたります。そうはいっても、俗世で生きる人々にとって、完全に欲望を断ち切るというのは不可能に近いことです。適度な欲望は向上心には欠かせず、決して否定されるべきものではありません。まったく欲がないのは、無気力と等しいでしょう。欲望の範囲に自ら限度を設けることは強固な意志を必要としますが、それが心豊かに人生を送るための秘訣である、とは古今東西の至言です。仏教の開祖である釈尊は、この世について「一切が苦である」と説示しました。ではどうゆうことを「苦」と見るかといえば、物事がうまくいかない、望みどおりにならない、期待に反する、などと思うことが該当します。つまり、なんらかの欲がありながら、それを自ら達成できなかったことが苦しみの大きな原因ということになります。「苦」の問題は、「欲」との裏返しの関係にあります。生きることへのさまざまな不満や疑問というのは、結局、欲望の問題に帰着できるのかもしれません。


 満ち足りることはなく、欲望に振り回される生とは、あたかも穴のあいた水瓶に、穴のあいた柄杓で水を注ぎ続けているようなものです。快楽(充足感)を感じ続けるためには、同時に「欠乏感」が無ければならず、その欠乏感が止むと同時に、充足感も失われてしまいます。古代ローマ帝国の貴族たちは、飲食の快楽を延々と楽しむために、腹一杯食べては吐き、胃の中を空にして再び食べては吐き、を繰り返したそうです。強い快楽は、常に強烈な欠乏感を伴っており、先立つ欠乏が無いところに、快楽は生じません。快楽と充足を追い求めて刹那享楽的に生きる人の姿は、このローマの貴族たちの無節操な饗宴のようなもので、欠乏と充足の両極の間で行ったり来たりを際限なく繰り返すだけなのです。そこには真の精神的満足などとうてい存在しません。それゆえ、欲望に振り回されずに「足るを知る」という倫理指針がどうしても望まれるわけです。仏教では、これを「小欲知足」と呼びます。自分にとって必要以上のもの、あるいは相応以上のものを欲しいと思わないという態度です。欲望は、満たせば必ず次の欲望を連鎖的に生む。釈尊は、これが人間の変わることなき迷いの在り方だと指摘しました。この果てしない欲望をどのようにうまく決着をつけ、納得につなげてゆくか。これは科学や技術で解決できる問題ではありません。自分自身でしか為し得ない究極の自己管理の範疇だからです。他方で釈尊は、欲望を満たすのがいけないとは述べていません。欲望というものは、絶えず危険性を伴うものであることをしり、その抑制の仕方を学ぶべし、と言っているのです。そして、欲深い人間性のありように憂い、人生の真実を求めずに欲望に流されて傷つけ合う人間のありさまを悲しみ、生涯をかけて「欲望を正しく活かせ」と説きました。お互いが他人を害することのないよう欲望を抑制する場にしか、信頼の保たれた社会は成り立ちません。無軌道な欲望を理性の深い場所に押しとどめ、その代わりに人倫の正しい道に沿って適度に抑制された意欲、欲求を各自の能力や環境に応じて展開させることができれば、一人ひとりの人生が味わい深いものとなり、ひいては社会全体に落ち着きのある清涼な趣が加わるようになるでしょう。


 有史以来このかた人類は、個人あるいは集団による欲の追求をおこなう過程で、よりいっそう便利かつ合理的、効率的に、という動機を原動力にして、技術や経済の進歩・発展、社会制度の仕組みの改善などを次々と実現してきました。一方で、身の回りの便利な物がほとんど手に入り、居ながらにして世界中のあらゆる知見や体験が味わえるようになった現在、わたしたちの欲の追求が飽和状態に近づきつつあることも否定しがたい事実です。そうした状況における望ましい心の立脚点は、「今のまま、ありのままで十分」という自覚を得る、の一言に尽きます。さらにその延長線としては、精神的に充足感が高まるにつれ、物質的な欲求が自然に少なくなっていくことを目指します。「奪い合えば足りず、分け合えば余る」という自然界の摂理を念頭に、足るを知る心を持つことが「苦」の煩悶を減らす要諦です。ただし、「小欲知足」とは、単に欲を少なくするという消極的な生き方を指しているものではありません。物質的な欲望の成就に過度に偏ることなく、余裕をもった精神の向上発展をはかるという、むしろ積極的な生き方なのです。しかも「足るを知る」ことは同時に、自分をより深く知ることでもあります。概して人は、自らが思っているほど自分という人間がどういうものか、よくわかっていません。自分がどのような個性の持ち主で、いかなる性格なのかが従前以上に把握できれば、自分にとって何があれば充分で、何が足りないかを新たな視点で得心することができるはずです。いうならば「足るを知る」というのは、人の物差しで自分を測らずに、自身の物差しで自分を測ることです。そのうえ「願い事が叶うこと」を求めるのではなく、「願い事がひとつでも減ること」を処世の訓戒とするようでありたいものです。結局、こうした自己抑制の力は、人間の欲望は尽きることがないという、わたしたちが常に直面している現実を知ればこそ生まれます。


 現代は利潤欲求と成長拡大の経済原理が何よりも優先される、いわば「欲望の時代」であるといえます。振り返れば、特に20世紀はあらゆる意味で「貪欲」に象徴される世紀でした。そうした反省に立って、今世紀は「知足」の世紀とならなければなりません。しかし現状では、欲望が充足された豊かな生活のなかにこそ幸せがある、という一種の幸福願望がいまだに世界中で蔓延しています。日本もその例外ではなく、欧米に伍して物質的に恵まれた社会をつくりあげるために戦後以降、世界に例を見ないほどの速度と規模で邁進してきました。その反面、今日では、欲望の充足が必ずしも満ち足りて幸せな生活を約束するわけではないということに、わたしたちは薄々気づきはじめています。それと歩調を合わせるかのように、地球規模の環境破壊を引き起こした直接の原因が、現在この地球上で生活しているわたしたちの考え方や生き方にあるという指摘も各界で広く喧伝されるようになってきました。これまで人類が何の疑問も挟まずに求めてきた理想社会は、人間だけの利益に目が向けられたものでした。その根幹には、人間以外の自然は人間のために用意されたもので、人間が都合の良いように支配できるものとする自然環境観があります。これを本来あるべき方向に転回させる中心軸となり得るのが「持続可能な発展」という概念です。すなわち、持続が「不可能な」地球とならないように環境保全と経済活動を両立させようという考え方です。そこには、いみじくも仏教の教えの根幹である「知足」の精神が色濃く反映されています。持続可能な発展の範囲内に収まっていれば「知足」であり、それを超えて浪費に走れば「貪欲」といえます。つまり、自然や環境が元来そなえている再生、浄化、処理能力の持続可能な水準内に生産、消費、廃棄を抑えることが「知足」であり、その範囲を逸脱して地球環境の汚染、破壊に進めば「貪欲」です。それは、地球温暖化、天然資源の枯渇、表土・森林の喪失、水や食糧の不足などの恒常的かつ危機的状況がわたしたちを間断なく苦しめることにつながります。現状を展望すれば、わたしたちは物質的な充足を無制限に求め、科学技術を高度に発達させてきましたが、そうして到達したこの世界には皮肉なことに、絶えず「不知足」の欲望が渦巻いているのです。


 左様に、従来の経済活動の拡張路線は生態系の安定的循環から大きく外れており、決して持続可能なものではありません。利用可能な物質とエネルギーの総量は有限ですから、それらの分配に問題が常に生じ、地球資源と環境の利用について新たな選択の基準が強く求められることになります。資源の浪費だけでなく、核廃棄物の蓄積、有毒な化学物質の大量廃棄、冷蔵庫・エアコンや各種工業製品などに使われるフロンガスによるオゾン層の破壊などもすべて、わたしたちの世代が欲望を満たし、便利で快適な生活をひたすら維持しようとしてきた結果です。それは、いま生活している自分たちの利益だけを優先して、それに伴う代償や弊害を未来世代に残すことにほかならず、未来世代が一方的な犠牲者になることを意味します。加えて西暦2050年ごろには世界の総人口が百億人を突破すると予測されています。増加し続ける人口に対し、地球という一つしかない台所でこの膨大な数を一体どう賄っていけばよいのでしょうか。そして現在でも、世界人口のわずか十数パーセントに過ぎない先進国が世界のエネルギー消費量の圧倒的な割合を占め、絶対的貧困層が十億人以上にものぼると推測されています。こうした不均衡は、人類全体が喫緊に対処すべき問題であることは論ずるまでもありません。


 では、この時代に「小欲知足」を説くことはどういう意味をもっているのか。つまり、果たして物質的に恵まれた先進国も貧しい発展途上国も一様に知足の精神が求められるのか、ということです。発展途上国のすべての人々が先進国の人々と同様に自動車、冷蔵庫など消費財を所有することは、地球の負荷を考えればむろん不可能です。しかし人類の公平を期するならば、西側世界の大量消費を維持し、一方で貧しい人々の生活水準の向上を阻む消費の差別・隔離政策による解決手法は、先進国のあまりにも独善的で身勝手な考え方であると言わざるを得ません。むしろ豊かな人々の方こそ、肥大化した物欲を抑制しなくてはならない。環境の保護と社会的な公正の両方を同時に実現するには、今後十数年間で豊かな国々の物質消費を大幅に削減しなければならないことは当然です。要するに、先進国の富裕な人々に対してこそ、貪欲を抑えて知足の姿勢が強く要求されているのです。消費による環境負荷を軽減する方法を見出すことは非常に重要ですが、その際には特に、発展途上国における消費水準の向上と持続可能性との完全な両立を目指すべきです。このような先進国と途上国との間に見られる貧富の格差は、実は先進国自身の内部においても厳然として存在しています。皮肉なことに、世界で最も物質的に豊かとされるアメリカは特にその状況が深刻です。結局は、途上国の人々の豊かな生活への希求心情にも配慮しつつ、際限のない物的欲望の拡大ではなく、自然環境などの持続可能性の範囲内に消費水準の向上をとどめていく方策を見いだすべく、国際的な機関の場で人類の英知を結集する必要があるのでしょう。


 こうした諸々の点を踏まえて改めて留意しなければならないことは、この世の森羅万象は相互依存の関係、すなわち「共生」という条件下におかれているという現実です。わたしたち自身の人生を考えてみても、自分ひとりで生きているのではないことはきわめて自明です。大は宇宙、地球、自然、小は社会、地域、家庭そして周りの人々のはたらきによって生かされ、生きているのです。言い換えれば、他の存在、他者との共存を無視閑却しては、そもそも生も命も成り立ち得ません。さらにここで見逃せないのは、知足と共生とは相補う関係にあるということです。知足という智慧は共生の原理を認識することから生まれてきます。これを理解することで、他者への感謝の心につながっていく。この心こそが、「さらに欲しい」という独りよがりな貪欲に対する自己制御として機能します。つまり「もうこれで十分」という知足の智慧へとおもむくのです。一方、共生は知足をうながすと同時に、知足の助けを借りて成り立っています。逆に言えば、貪欲が蔓延しているところには共生は不可能です。なぜならば、自然を汚染・破壊し、私利私欲をひたすら追い求め、他者をないがしろにするところに共生が成り立つはずもないからです。そこに見出されるのは、もはや共生と生命の破壊でしかありません。これまで人間にとって最大の生存的脅威は人間同士による残虐な暴力、すなわち戦争でした。しかるに今世紀の新たな脅威は、一人ひとりの無制限な欲望と言えるかもしれません。しかし、こうした欲望を一日でも長く満たし続けるために、遺伝子操作や万能細胞の培養など生命現象の根源に介入する一方で、そこから生じてくるであろう未知の逆効果や影響に対し、どう向き合っていけば良いのかについて、人類はまだその解答を持ち得ていません。このまま人々が物欲を恣にしていけば、「自由」の権利という名の下に際限なき人間の欲望が各国の政治経済までも突き動かし、やがては相克と衝突の深刻な拡大が懸念されてくるに相違ないでしょう。


 日本の文化では古来から、「侘」あるいは「寂」の境地が世界に例をみない独自の個性とされてきました。その本質は、足る状況にあって足らざるを味わう、ということです。すなわち、充分に足る状況にありながら贅沢三昧を尽くすのは下劣の極みとみなされ、足らざる状況を受け入れて慎ましく生きるならば清貧としてむしろ称揚されてきたことが、かつての日本人の品位ある価値観でした。人の心の移ろい易さを考えれば、いま欲しているものを得て喜びを感じたとしても、それはあまりに儚いというほかありません。まばたきするほどの刹那的な快楽に多大な精力を消耗しつつ、その快は次第に色褪せ、次なる欲望の前ではもう何の魅力にもならない。あたかも次々と玩具を欲しがる幼児のように、人は快に突き動かされ、振り回されて人生をむなしく終えるのでしょうか。そうならないためにも、足ること、あるいは多くを望まない、という自制心が大事です。「吾、唯、足るを知る」という、淡々とした生き方をつらぬき、今の自分をあるがままに感謝できれば、どれほど心安らぐことができるか。自分にまつわるすべての事柄に条件をつけずにありがたいと真に思えることこそ、本当の幸せと言えるのかもしれません。物質的な富は決して人に永続的な満足を与えません。欲望になりふりかまわず身をまかせていくのではなく、現に与えられているものの価値を見出していくことが生涯にわたる心の安定につながります。考えてみれば、わたしたちにはすでにずいぶん多くのものが与えられています。しかし、それに気づくことなく、やみくもに欲望を満たすためのものを求めて生きている状態が、わたしたちの多くの実情です。したがって、得がたくして得ている自分の命は言うまでもなく、自然から受けている数限りない恩恵、人々からの厚意や好意に気づき、欲望を抑えていくことが、現代人にとりわけ求められる自覚の第一歩でしよう。欲望に縛られて自己を見失うことのないよう、そして真に自分を生かしてくれるものを見過ごすことのないよう、まず身を慎むことが大切であると言えます。現代人はまさに「欲望という名の電車」の乗客です。今わたしたちが切に自問すべきは、近代化とは何であったのか、経済の発展が何をもたらしたのか、人間の豊かさとは、あるいは人間が生きていく上での自然とは何か、ということです。


 鳥のように自分の背中に翼が生えていないからといって、よほどの変人でもない限り、我が身の行動範囲の不自由さを嘆く人はおそらくいません。たしかに、もし人間に翼があって空を飛ぶことができたなら、たいへん愉快で便利には違いないでしょう。しかし、もともと自分に備わっていないものは、わたしたちはそれが当たり前のこととして疑念なく受け入れ、格別の不満を抱きません。ところが時として、自分に当然備わっているがごとくの錯覚をおぼえて悪戦苦闘することがあります。その典型的な例が、欲望の不完全燃焼によって生じた不満、絶望、劣等感など、肯定的で前向きな思考・行動を阻む負の感情です。これは、「自分は本来こうあるべき」という、根拠なき一方的な思い込みが引き起こすものだといってよいでしょう。そのような点においても、知足の心持ちが欲望の制御にきわめて有効です。体操競技に使われる平均台の上を落下せずに歩き通すには、優れた平衡感覚と高い集中力が要求されます。同様に、自身の欲望にあえて限界を設けてバランスよく生きるということが、人生において実はもっとも難しく、そして挑むべき価値のあることなのです。

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