昔の日本には共同体での人間関係を断ずる「村八分」という処罰がありましたが、今の時代でも人から無視されることは耐えがたい苦痛です。人は、人とまったく交わらずに生きていくことは事実上できないからです。ところが、現代社会はますます人心が孤独になりつつあるようです。児童すら、知らない人が話しかけてきたら警戒して用心するようにと学校で指導されています。社会の隅々まで人間不信が渦巻き、対人関係についても損得で計る傾向が強くなっているといってもよいでしょう。その結果、人的交流の場を失った一部の人々は代償行為として、過剰なほどの愛情をペットに注いだり、ゲームやその他の仮想的な世界に身を投じています。他方、私たちの多くは日常、人前においてその場を壊さぬよう、空気を乱さぬようにと緊張した思いで演技をすることに疲れ果て、「こういう自分の姿は本当の自分ではない」と孤独感に苛まれる経験をしています。あるいは家族や友人がそばにいても、ふと孤独を感じる瞬間があります。それは、あたかも異次元に自分一人だけ足を踏み入れてしまったような感覚です。また、人に気を使い、笑顔を振りまいている人ほど、一人の時は言い知れぬ寂しさに身を捩っているということもあります。外見だけでは人の心はわからないものです。会社や組織の中で孤立している人、家族の中で居場所のない人、地域の中で疎外されている人、いじめに遭って孤独な子供など、現代社会において、人々の苦悩の最たる因子の一つはまさしく「孤独感」といえます。
最近は、自己の存在を社会に誇示するための理由なき殺人が頻発するようになりました。犯人は「誰でもいいから人を殺したかった」と公言してはばかりません。その動機の多くは、自分が社会から相手にされず、無視されてきたからだというものです。これは言い換えると、自分の孤独に耐えかねて、周囲の目を惹ひくために犯行に及んだことにほかなりません。しかも彼らは異口同音に、「人を殺せば死刑になれるから」と開き直っています。そういう点では、これらの事件は孤独の果ての間接的「自殺」であるという見方もできるでしょう。むろんこうした殺人は極端な例ですが、ほど左様さように現代は孤独の念に蝕まれる人の多い時代ではないでしょうか。そこには日本社会が抱える諸問題が象徴的に存在しています。まず、従来の家族的な結びつきが薄れ、「核家族」という言葉に代表されるような意思疎通の断絶という問題が横たわっている点。そして、近年の急速な都市と地方との経済格差や、富裕層と貧困層という二極化の進展により、戦後の経済復興によって形成されてきた「中流」階層の一部が崩壊しつつあるという経済的な背景。また、教育の問題――戦後日本の公教育において人間の心を培うという部分がともすれば置き去りにされがちであったということ。さらには、世界中でテロや戦争が蔓延しているという暴力の影響。残虐なテロ現場や戦場が放映されない日は皆無と言ってよいほどであり、このような暴力映像が幼少の頃から子供の脳裏に焼き付けられていくのですから、ある種の潜在意識効果を招いて、暴力行為に対する嫌悪感が薄れてきている可能性があります。
その一方で、昨今は文明の利器である携帯電話を四六時中手離せず、いつも誰かとつながっていないと落ち着かない人が増えています。こういった不安が昂じて自分が親密な関係性から切り捨てられたように感じる「孤独感」ということも、現代社会の病理的な特徴の一つであるといえます。即座に相手から返事が来ないとイライラするという「メール依存症」の状態になると、メールの内容よりも「反応」の事実そのものの方に重点が置かれることとなります。ではなぜ、他の人とつながっていない不安や、世間から取り残されたような孤独を感じる人が多いのか。その原因は、人間関係や出会いの場・頻度が高まって不特定多数の人と知り合える可能性に期待が向く半面、現実世界での共同体意識が失われ、人間関係の持続性や信頼感の低下が起こりやすくなってきたということにあるように思われます。通信ネット上での人間関係の限界は、文字での意思疎通に強く偏っていること、実名性に乏しいこと、関係をつなぎとめる制約の要素が極端に少ないこと、などにあります。ネット社会はたしかに他人から身体的に縛られない「自由な共同体」ですが、自分が相手から拘束を受けないのと同様に、自分も相手を拘束できないので、いわば出会いと別れの流動性(出会うことも、別れることも簡単)がきわめて高くなる結果、安定した人間関係を維持することは従来よりもはるかに難しくなったといえるでしょう。
そもそも、私たちが生きていくということは、さまざまな人と終生なんらかの交わりを続けることにほかなりません。社会生活において人間関係を排除することがどれほど自身を不利な立場に追い込むかは、自明の理です。しかし、仏教のある経典には、釈尊が次のように述べたと記されています。
「今の人々は自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得難い。自分の利益のみを知る人間は、汚らしい。犀の角のようにただ独り歩め」
(スッタニパータ・75)
これは、「人々はお互いに仲良くしているようだが、自分の都合を考えずに純粋な気持ちで接してくれる真の友というのは、ほとんどこの世間にはいない」という意味にもとれます。犀は、群をつくらずに孤独に生きる動物の象徴として古代インドで考えられていました。精神の高潔で清明な人は独りでも生きていられるという真理を示すために、犀が喩えに用いられたのです。そして釈尊の言によると、「人間というものは利己的だ」ということになります。利己主義者というのは、言うまでもなく自分中心的で「自分さえよければいい」としか考えない人です。私たちは誰でも、自己中心的で我の強い人とは付き合いたくありません。しかし釈尊の言ったことが事実であるならば、「私は利己主義者が嫌いだ」と他人事のように言っていられないはずです――私たち自身も利己主義者で、人から嫌われかねない可能性があるからです。
実は、「生きている」ということは外の世界を認識することでもありますが、その認識自体が極端に自己中心的な世界を作りあげてしまうのです。私たちは所詮、自分の目、耳、鼻、舌などを使って、自分の身体全体で感じながら外の世界を把握するしかなく、それ以外に外の世界を知る術はありません。しかし、たとえば「見る」という行為ひとつとっても、目から入った光の変化による物理的情報と、頭の中で描き出した像は必ずしも厳密には一致しません。したがって、誰かほかの人と一緒に同じ絵を見ていても、それぞれが頭の中で作りあげる映像はまったく同じものというわけではないのです。同じ絵を見ても、人それぞれに感じるものは違うはずです。ですから私たちは各々、自分のことしか知らない世界で単独に生きている以上、他の人が頭の中で何を見ているか、何を聞いているか、何を味わっているか、それを知ることは不可能なのです。その結果、人は皆、自分のことしか知らないのですから、自分中心的にならざるをえません。相手と気持ちが通じたと思っても、それは言葉だけの上で理解したつもりになっているに過ぎないことが圧倒的に多い。思春期の子供はよく、「全然私の気持ちをわかってくれない」と言って親を詰ります。これはまさに人間の本音を吐露した叫びです。年齢に関係なく人は誰しも心の底では、「この私の気持ちを理解して欲しい」と願い、自分を本当に理解してくれる相手、自分をそのまま受け止めてくれる人を求めています。しかし、完全に自分を理解してくれる人は残念ながらこの世において誰ひとり見つかりません。なぜならば、自分自身も相手の心の奥底まではわかってあげられないからであり、当然、その逆もまた望みえないでしょう。「人が自分のことをわかってくれない」の裏返しは、「自分は人の気持ちをわかってあげることができない」ということなのです。これが「人間の孤独」の本質であるといえます。
人は、親兄弟や夫婦といった血・肉体のつながりはあっても、心底からわかりあえる心のつながりは持ちえないのが現実です。何でも言える仲とはいいながら、その実、言えることまでしか言えないのは、お互い様のことです。そういう意味で、人生というものは、始めから終わりまで孤独な旅路なのかもしれません。人は皆、心の奥に厳重に鍵のかかった秘密の箱を持っています。それと同時に、その中身を自分でもすべては知らず、また知らせようともせず、当の自分自身でさえ自分を理解することはできません。したがって、自分にすらわからぬ真の「自分」を誰かに完全にわかってもらいたいというのは、そもそも願っても叶わないことなのです。人それぞれ、物の見え方、感じ方が違うものです。そういう意味で人は皆、違う世界に生きています。「一人の人間が死ぬたびに、一つの世界が滅んでゆく」(ドイツ人哲学者 ショーペンハウアー)のです。
しかし、孤独が私たちにとってマイナスの影響を与えるのは、物理的に独りでいるという事実そのものではなく、孤独であることを責める自分の中の内なる他者の声に惑わされる場合です。それが私たちの心を責め、安らかな心を破壊してしまう。その結果、ある人たちは登校拒否や引き籠りになり、また人によっては終始だれかと一緒にいなければ不安になるといった両極端の行動に走ることになります。さらに加えて、日本の社会は本質的に、孤独を白眼視し、非常に同調的で画一的、かつ群れや集団に属さないことを忌避する、個人の自立性に乏しい性質を持った社会であるといわれています。しかし、孤独をい避けることによって個人の独創性や創造性が損なわれる傾向が強まるだけでなく、自我の確立が未熟となり、個性、独自性、心や行動の自由が制約を受けるようになります。釈尊は、孤独を前向きに捉える心を自分の中に養い、自らを責める心を滅ぼしていったときに、心の自由、人生の自由を手に入れることができるのだと、諭さとしています。つまり、この「私」から自由を奪っていたのは、孤独を許さない自分自身の心だったのです。私たちは、孤独を特別視する現代の風潮や、孤独に対する自身の強迫観念の方に問題があるのではないか、という逆の視点を持つことも大事です。自分を周囲の人間や環境に合わせるのが善で、それができない者を協調性がないとして排除するような雰囲気が、今の社会を覆っていることも否めません。
私たちは社会の中で互いに助け合いながら生きる一方、異なる時空で生を受け、そしていずれ異なる時空で死していく存在です。同じ人間であっても、まったく違う身を私たちは現実に生きています。自分自身の生老病死について、そのすべてをこの身ひとつで引き受けていかねばなりません。それゆえにこそ私たちは、自らを知ること、自分とは一体何なのかを知る必要性が強く求められます。そして自分を知るということは、自分を支えている、そして一個の自分をこの世に在らしめている大きなものを知ることでもあります。私たちは、森羅万象のあらゆるものと係わり、支えられて存在しているという状態を実感することで、自分自身の独存性と有限性にも気づくことができます。孤独な人間存在の現実を見据えた上で、釈尊は、たとえ私たちはそれぞれに独りの「自」であっても「他」との有形無形の関係性においてしか生存しえない、という大原則(これを「縁起」といいます)を私たちに提示したのです。そういう意味で、自分だけではなく皆が孤独であると同時に、「孤独ではあっても、あらゆるものに支えられ生きている」という仏教的なとらえ方が希薄になってきたところに、自殺や犯罪の多発といった問題が生まれているのかもしれません。
自分は一人でも生きていける――そう思ったことのある人、あるいは、いざとなればそのつもりだと思っている人の数も、今の社会には決して少なくないでしょう。しかし、ヒトという生き物はもともと一人だけで生活するようにはできていません。独居が可能になったのは、あくまで文明のおかげです。原始時代には、仲間たちから完全に隔離されることがあれば、それは死刑を言い渡されたのに等しいことでした。生身の人間は、他の動物と比べて身体的に弱すぎるからです。したがって原始時代には集団生活を送ることが唯一の生き延びる方法だったであろうと思われます。他方、現代文明の中で生きている限り、集団生活は生存の必須条件となりません。しかし、物理的に孤立した暮らしを送っているとしても、人はどこかで社会とのつながりを求めるものです。ゆえに、自分が社会から隔離されていて孤独だと感じた時はじめて、大いなる絶望感に襲われます。そのつらさを味わい続けている人は、やがて身も心も病魔にされていきます。ここで、社会的に孤立した状態とは、精神的に孤立した状態と言い換えてもいいでしょう。人間は一人暮らしをしていなくても、精神的に孤立することがあります。現代社会においては、独居がすなわち孤独ではないのです。親と一緒に暮らしている若者であっても、心の中は孤独感で満ちているかもしれません。会社勤めをしていて他人との接触が多くても、心のどこかに孤独感を抱えている人は珍しくありません。その反面、種々のストレスに満ちた現代社会にあっては、人間関係など煩わしいだけだ、と思う人が多いかもしれません。しかし、「実際の人間関係」は鬱陶しくても、一般の人々が共有する世間の風潮から自分が疎外されたくない、という願望は誰にもあるはずです。携帯電話やインターネットが世界的に普及したのも、できるだけたくさんの人と常につながっていたいという欲求がその根底にあることが一つの要因であると思われます。天涯孤独ならぬ(携帯電話の)「圏外孤独」への不安も現代の特徴なのでしょう。
人が羨むほどの財力や名誉を手に入れ、豪奢な生活を送っている人でも、孤独の魔手から逃れることはできません。貴賎貧富を問わず、皆等しく孤独な心をかかえているのです。人間は社会的な成功の有無にかかわらず、基本的に孤独であることに変わりはないのです。では、私たちに執拗につきまとうこの「孤独」は一体どこからやって来るのか。それについて釈尊は、「人間の孤独は無明の闇より生起する」と教えています。無明の闇とは、現実理解を欠いた心を指します。人間が真に孤独から解放されるには、その根源である無明の闇を晴らす以外にありません。つまり、自分の命がこの世に生じるのも、生きていることも、そして死ぬことも、ある意味ですべて「不条理」なものであり、人間の都合に一切関係ないという現実から目を逸らさないでいること。――それが、仏教の基本的な視点です。自分で計算して計画どおりに生まれてきた人など、この世に一人もいません。私たちは皆、気がついたらこの世に生まれており、たまたま「人間」だったのです。それは誰も選べません。まさに「無条件」の極みです。無条件の身で生かされているにもかかわらず、私たちは利己的な条件(「本来の自分の人生は・・・であるべきだ」、などという根拠なき自己規定)を勝手に設けて一人苦しんでいるのです。釈尊は、「独生独死、独去独来」の中に人間の本質的な姿を凝視しました。つまり、人間は一人ひとりが何物にも替えがたい尊厳ある存在であると同時に、誰も自分の人生に代わってくれるわけではなく、この自分の命をどのように受け止め、生きていくかという責任は、それぞれが背負っていくしかないのです。むしろ、孤独な人生と向き合う勇気を持つことのほうが大切であり、本当に生き生きとした光彩ある人生を発見し、孤独感から解放される道は、独りになることを恐れず、自らの孤独と向き合うことから始まるのではないのか。孤独を感じたことのない人はおそらく一人もいないはずです。そういう意味で、孤独感は人間に与えられた正常な心理の一つだと考えられます。孤独は自己をよりよく見つめさせ、人生をより深めさせるという役割も担っているのです。
今夏、さる有名な米黒人歌手が突然死しました(彼と同等の衝撃を世界中に与えた著名人の死と言えば、英国のダイアナ妃があげられるでしょう――両人とも最後まで家族の愛に飢えていた生涯でした)。報道によれば、彼は少年時代、父親の虐待に怯え、ステージからステージへと渡り歩く忙しい生活の中で何一つ子供らしい楽しい思い出がなかったという由です。その失われた子供時代を取り戻すために彼が巨費を投じて作った豪邸が一大遊園地のようなものであったと聞くと、その幼稚ともいえる願望に深い哀切の念を抱かざるをえません。死の間際まで手離さなかったと伝えられるモルヒネの成分に近い鎮痛剤にせよ、麻酔薬にせよ、それらが孤独からの逃避を仮想体験させる一種の「多幸感」を伴う薬であったであろうことは想像に難くありません。稀代のエンターテイナーとして世界の頂点にまで上り詰めた彼が、薬に頼らなければ普通の幸せひとつ手に入れることができなかった、という現実は私たちの感じる孤独とはあまりにも桁はずれで、壮絶なまでの「孤独」を感じさせます。彼以外にも多くの世界的な著名人や成功者が華やかな舞台の裏で孤独に打ちひしがれ、酒や薬物に溺れてきたことは周知の事実です。なぜ彼らの心の中には、何物によっても癒すことのできない「孤独」という名の闇が広がっていったのか。――かつて彼らにしても、この世の「幸せ」を独り占めしたと得意満面の笑みを湛えたことがおそらくは一度ならずあったであろうに・・・。
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