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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

環境問題への取り組み--仏教的視点と自然の権利--

 先端科学は、私たち人間の遺伝子が原始生物から遙かに生命を受け継ぎ、現存する地上のあらゆる微生物や動植物とも生命機能を共にしていることを明らかにしています。また、地球全体が太陽、水、空気などとの微妙なバランスを保ちながら、無数の生物が共生している壮大な生命体であることが確認されています。

 しかし現代において、人類が他の動植物と共にこの地球上で生きていくためには、地球環境や生態系を守ることが緊急の課題となりつつあります。地球温暖化、オゾン層破壊、海洋汚染、砂漠化、酸性雨、急激な森林の破壊から生じる土壌の流出や、自然災害の規模拡大、生物種の絶滅、有毒廃棄物の越境移動など現代の環境問題は、その領域も広くかつ多岐にわたります。これらは地球規模の問題であり、環境破壊の仕組みも複雑で原因の究明も難しく、全人類が被害者であると同時に加害者であるといった面も持っています。たとえ現在の私たちが自らの生存に関する危機感を感じていないにしても、次の世代、あるいはさらにその次の世代はどうかと問われれば、誰にも確実な返事はできないでしょう。

 有限の地球で環境を保ちつつ経済発展を維持するのはそもそも可能なのかという疑問や、人口と消費の爆発的増加で資源は枯れ、自然は荒れ果ててしまい、人間は生きていけなくなるのではないかという懸念は、環境問題を世代間の問題として捉える時に初めてその恐ろしさに気づくのです。しかも環境破壊は経済活動と分かち難く結びついているため、経済成長か環境保全かという二者択一の問題を考えるには、地球に対する見方を根本から変える必要があります。以前の人間が感じていた「地球は広大無辺」というような意識はもはや通用しません。

 環境問題を考える前提として、「環境を守らなければならない」ということがありますが、国民的な合意は必ずしも得られているとはいえないのが現状です。地球各地で起こっている大規模な環境問題の重要性を語ったとしても、それが個人レベルで環境を守らなければならないという直接の根拠にはならないからです。世界的な環境問題を主張するだけでは、「環境を守ることは大事かもしれないが、そのために自分の生活を犠牲にするのは嫌だ」と言う人を納得させるには到りません。

 合意を得るためには、環境問題に対してもっと人間の内面的な部分から接する必要があります。選択と競争の原理に基づく近代の社会システムでは、環境問題に対処しきれないことは明らかです。人間を含めたすべての生命体や有機体を相互連関的に捉え、自分が生き、他をも生かす「共生」的価値観に変えていくことが必要です。その際、西洋の自然観と東洋の自然観との違いを考えてみることも大事でしょう。神が人間をつくり、 その下に動物や自然を位置づける西欧の縦系列の自然観に対し、 東洋の自然観は自然と人間が横の関係で並んでいます。 その思想を端的に示すのが仏教の 「山川草木悉有仏性」 (自然界のあらゆるものが仏の性質を秘めている)です。仏教の思想が環境問題を考える上で新たな鍵となる可能性があります。



 釈尊は最初の説法で、「四聖諦」(4つの聖なる真実)という生活の実践に導く教えを説きました。この教えを「環境」というテーマに当てはめながら考えてみます。


(1)自分自身の心の現実に向き合い、移ろい悩み苦しむ心をありのままに知るべきであると教える(苦の真実)[苦諦]は、私たちを取り巻くさまざまな環境の真実の姿をはっきりと知ることの大切さを伝えます。今の私たちの生活を維持していくために地球上の環境が日に日に破壊されていく有様や、多くのヨーロッパの国々がその危険性と非採算性から国民投票を経て脱原発に向かい始めた現実を直視すべきです。そして私たちの行いの一つ一つが何によって成り立ち、どういう結果を招いていくのかも自問する必要があります。大量生産、大量消費される品物に囲まれて暮らす私たちは、末端で環境を破壊する担い手でもあります。私たちの行動がすべてに通じ、関わっています。私たち自身がそうした現実を知らねばなりません。


(2)苦しみの原因は自らの貪りの心であり、それを根絶すべきであると教える(苦の原因の真実)[集諦]は、今の状況に至った原因が私たち一人一人の行いを生じさせる欲の心、貪る心にあると知り、改めるべきであると伝えます。振り返ると、手軽さ、便利さ、快適さのために経済至上主義を許してきたのは私たち自身ではなかったか。そのためには資源やエネルギーの大量消費と環境の劣化を敢えて顧みずにきたのではなかったか。開発という名の自然破壊の陰に、利権を貪る構造が存在し、それを学歴、地位、権威を求める私たちの欲の心が支えてきたのではないか。私たちはこの欲こそを拭い去り、単に利便性のみを求める安易な生活を改めていく必要があります。


(3)苦しみを滅した心の平安を実現すべきであると教える(苦の滅の真実)[滅諦]は、私たちの進むべき方向をはっきりと設定すべきであることを伝えます。ごみとして捨てられ、この地球上に害を与え続けるような、使い捨てされる物に囲まれて暮らすことが私たちの理想ではありません。有限な資源やエネルギーを湯水のように使い、なおかつ一瞬の事故によって計り知れない被害を人類や環境に与えるような危険と隣あわせの社会が理想でもありません。この地球に暮らす一つの種として、人間らしく将来にわたって安心して暮らすことのできる生活環境を子供たちに残すにはどうあるべきか、が私たちにとっての火急の課題です。太陽や風力による自然エネルギーや共同発電などの実用化も期待されますが、大切なことは、今の増え続ける消費量に合わせて供給を膨らませていくのではなく、供給量に合わせて自然を育む生活習慣に切り替えていく冷静なる認識が求められているという点です。


(4)苦しみを滅する方法として偏らない清浄な生き方を実践すべきであると教える(苦の滅への道)[道諦]は、その理想を実現するために私たち一人一人の日々の生活自体の改善を伝えます。自分一人が気をつけてもどうなるものではないと、物を無駄使いし、電気や水を浪費する生活。逆に、このままでは地球の自然が崩壊してしまうためこの世に未来はないと嘆慨して、今の社会生活を放棄してしまうこと。そのどちらも極端な生き方だといえます。これまでの日々の積み重ねが今の状況をつくり出してきたように、自分自身の行いの一つ一つについて自ら判断し改善していく必要があります。私たちの生活環境を守るという観点からさまざまな問題を理解するときにはじめて、どう物事をとらえ、考え行うか、またどのように生活し、生業に努めるべきかを知ることができます。互いに関係し、それらが在ることによって自分が今あることを実感するとき、地球上のさまざまな事象、現象が自分と決して無関係ではないと知ることができます。



 しかし、上記のことを踏まえた上で、現実的な側面で考えるべき点があります。それは、自動車や発電所からの有害排出ガス、二酸化炭素やフロンの放出、汚水やゴミによる汚染、大量の空調設備による温暖化などの問題を論じる場合、被害を与える者と受ける者の区別が難しいことです。この種の公害は、それを根幹から押さえるために元を絶つと、文化的生活も脅かされるのです。文化的生活を完全に放擲して発展途上国の段階に戻れば、今度は膨大な人口増加とそれに伴う環境破壊にみまわれる。それではといって、火力発電所の排ガスを防ぐために原子力発電にすれば、排ガスの問題は回避できたとしても、今度は別の問題が起きます。これらの環境汚染の防止はなかなか困難であり、それを防ぐことは今後の人類の最重要課題のひとつとなりますが、一筋縄では行かないのは自明です。

 つまり、環境保護運動の進展にともなって生じる行き過ぎの問題をどうしたらいいかということです。1970年代以降、公害・環境問題への批判が社会的ブームとなりました。原発反対を唱えれば正義、それを推進するのは悪であるかのごとき様相を呈していました。その主張の一部においては、進化、進歩、特に科学技術の進歩は悪であり、できるだけ自然に生活することが望ましい、あるいは極端には「昔に戻れ」といった声すら聞かれるようになりました。このような一連の考えは、突き詰めれば未来に希望を託するのではなく、過去に夢を求めるものです。つまり一言でいえば「昔はよかった」ということにつきます。

 しかし、この世は所詮、諸行無常です。良きにつけ悪しきにつけ、ともかく変化は避けることはできない。変化を嫌い、昔は良かったというだけでは、問題の解決が先に進みません。変化を嫌うのでなく、どのようにしたらよりよい方向に変化を導くかを考える方が建設的でしょう。

 何よりも、果たして昔は良かったのでしょうか。時代を大幅にさかのぼって、古代文明が栄えた地域、例えばエジプト、メソポタミア、インダス、黄河、ギリシャなどの文明を見ると、大規模な農耕、森林の伐採などで農業生産力を失い、その後、衰退していきました。例えばイギリスを見ても、昔は森林で覆われていた山が過剰な農耕や牧畜のために、現在では禿山となっています。このように、いわゆる環境破壊は人類文明の発生とともに起ってきたのであり、いわば人間の原罪とでもいうべきものなのです。また、欧米の一部の環境主義者は、鯨を殺すのは許せない、と捕鯨国を非難します。しかし、そもそも19世紀まで盛んに捕鯨をしていたのは欧米人でした。ペリー提督が黒船を率いて日本に開国を迫ったのも、ひとつにはアメリカの捕鯨船の補給基地を求めてのことです。

 欧米の論理では、アマゾンの樹木を伐採しては地球環境に良くないとも言います。もちろんこれには当然の根拠があります。しかし、それをつきつめればブラジル人の経済発展は、欧米人の生活に不都合だからやめなさいということになります。発展途上国の人間が先進国的生活を望むのは地球環境に良くないから、という理由です。これは公正な態度といえるのでしょうか。また英・仏の著名な博物館は、エジプトから略奪してきた発掘物であふれています。にもかかわらず、エジプトの返還要求には断じて応じようとはしない。ですから環境問題ひとつとっても、欧米の正義だけが必ずしも国際社会の基準とみなすべきではありません。

 欧米の環境主義者は捕鯨には反対しますが、牛や豚を大量に殺すことには痛痒を感じないようです。牛を神聖なものとして扱うインド人はこの点についてどう考えるか。もし仮に欧米ではなく、インドが世界の覇権を握っていたら、欧米人が牛を食べる習慣を、「国際牛保護会議」などというものを開いて糾弾していたでしょう。イスラム圏が世界の盟主であれば、間違いなく豚の摂取を非難するでしょう。捕鯨反対運動や、一部の極端な環境主義運動には偽善と独善、欧米至上主義と人種偏見の気配が漂っているのも事実です。

 つまり、環境に対する各民族(宗教)の対応は相対的なものであり、どれが絶対的な正義ということはないということです。要するに、正義とは時代と場所による相対的なものであり、現代の欧米人が主張する正義が、別の文化では正義にならない場合も十分あります。ですから捕鯨問題に象徴されるさまざまな環境問題は文化相対主義の立場から考えるべきです。

 現代人が陥っている重大な問題の一つは、自分の命が他の命、多くの命によって生かされているという実感が持てないという点です。私たちの生命維持に欠かせない「呼吸」という行為ひとつとっても、私たちは酸素を吸い、それをエネルギー化して体内で燃やし、最後には二酸化炭素として排出しながら生きています。地球の空気成分は、窒素が重量比78.1%、酸素が20.9%です(次いで、アルゴンが0.93%、二酸化炭素が0.03%、その他)。地球の大気中に含まれる酸素濃度は、オゾン層が形成された4億5千年前からこの約21%を保ち続け、地球上の生命もこの酸素濃度に適応するべく進化を続けてきたわけです。21%に酸素が保たれているということ自体が大変微妙なことです。私たちはそんなことを考えもしないで生きていますが、では誰がそのような操作---微妙なバランス---をしてくれているのか、それはいうまでもなくこの自然界です。私たちは酸素を吸って、二酸化炭素を出しているわけですから、本来ならば二酸化炭素が増えてしまい、酸素の比率が下がりそうなものです。人類誕生以来一定に保たれているということは、私たちの消費した酸素を補う存在がこの地球上にあるからです。それが、周知のとおり、基本的には植物---山川草木です。植物が光合成をして酸素を排出し、その酸素を人間がまた吸う。しかもこれは、植物と人間の関係だけで行われているわけではありません。あらゆる微生物の類、海水、風など自然界のすべてがこの営みに関係しながら21%という割合を保ってくれているおかげで、私たちは当たり前のように酸素を吸って生きているのです。この21%の酸素が何かの具合で15%に下がれば、生きている私たちは全員死んでしまいます。しかし近年、そのバランスが崩れ始め、植物の光合成が二酸化炭素の増加に追いつかなくなっています。大気中の酸素減少の原因は、いうまでもなく化石燃料の大量消費による二酸化炭素の増加であり、加えて、急激に進む都市化が酸素不足を起こしやすい環境をつくっています。最新の研究によれば、このままでいくと10万年後には地球の酸素は0%になってしまうそうです。


 現在の社会構造を見ていると、経済発展・開発と環境問題が対立関係にあるように思われます。山を切り開き、都市をつくり、防災工事を施す、というようなことを行った場合には自然への影響が少なからずありますが、どこに自然との均衡点を見つけるかという問題が生じます。環境保護を訴える団体や住民の意見と行政や企業の意見が平行線をたどるのも、環境という漠然とした考え方だけが先走るからでしょう。従って、環境をなぜ守るべきなのか、そしてどの程度人間が譲歩するのかという観点からも、「環境倫理」の必要性を感じます。つまり、環境問題は単に技術、政治、科学、あるいは産業といった問題だけではなく、究極的には個人の考え方の問題です。天然自然に対する乱開発の弊害は、私たちと自然界との関係を間違って認識することから生まれてきたからです。

 では、仏教が教えてくれる私たちと自然界の関係の正しい認識は何か。簡単に言うと、それは「無我」という概念です。「無我」というのは、環境保護の観点に即して解釈すると、本来、自分が自然の中の単なる一構成分子に過ぎないという思想です。一枚の紙を例とした場合、紙は字を書いたり、ものを包んだりする機能的なものとして扱われているのが普通です。しかし「無我」の見方からすれば、私たちはこの紙の中に森から生産された木が見え、あるいは紙の中に雲を見ることもできるはずです。雲がなければ雨も降らず、雨も降らなければ木が育たない、木が育たないと紙も作ることができないからです。このように、一枚の紙が他のあらゆるものから切り離せない存在であるように、私たち人間も私たち以外のあらゆるものなしでは存在できません。

 仏教と環境保護の接点は、この新しい関係から生まれる倫理観にあります。今までの倫理観は自然破壊の上に成り立つ社会経済活動を受け入れるものでしたが、これからの社会においては、自然とのかかわり合いを無視して生きることは新しい倫理観にそぐわないということが言えます。

 例えば「不殺生」という仏教の第一戒律を「できる限り生命を保護すること」というような言葉に置き換えれば、私たちは観念的な倫理と実生活における必要性の双方両立できるわけです。すなわちそれは、可能な限りリサイクルを実行し、エネルギーの効率化を促したりすることです。

 ちなみに仏教国のタイでは、このような「可能な限り生命を保護する倫理」をもとにして、森に木を植えると同時に、さらに特殊な活動を行っています。一部のタイ人僧侶は伐採(破戒)直前の森で木に戒律を授け、木の回りに黄色のリボン(衣)を巻き付けています。これをシンボルとして木に対して出家得度式を行い、その木が擬人的に出家僧としての魂を持つことを表すということです。木の上部にタイ語で「森を守ることは生命を守ること」と書かれたステッカーが貼られます。そうすると、信心深いタイの人々は、リボン(衣)を纏って、いわば「僧侶」になった木に斧を振るうことに抵抗を感じるのです。この運動が一つの自然を守る新しい仏教的倫理観の表れであることは言うまでもないでしょう。

 環境倫理の中心的なテーマは、従って、権利の体系を「人間」以外にも拡張することに他なりません。具体的には、動物や樹木、自然環境、あるいは将来世代の人々にも限定的な生存権や、快適な生活を送る権利を認めるということです。これは人間中心主義の克服ということができます。「山川草木悉皆仏性」という仏教観は、人間と動物の区別を行わないし、また、輪廻転生をする魂が人間に固有のものである、とも考えません。ですから、仏教的な環境理解の本質は、心が身体を支配するという欧米的な考えとは大いに異なっています。仏教は個人的な救済を目的とする宗教ですが、その前提には人間という「内なる自然」の追求が、外なる生態系についての新しい倫理観と合致することが必要なのです。

 ただし、ここに重要な矛盾点がひとつあります。つまり、仏教では、動物の肉を食べるときにも自然に対する感謝の気持ちを忘れるなといいます。しかしながら、一木一草に仏性があるとすれば、植物ですらも食べてはならないという実践的な指針がでてくるはずです。一木一草に仏性があるという感謝の念をもって動植物を食べることが大事であるというなら、どのような自然破壊でも自然に対する感謝の念をもってすればいいという限度のない自然破壊につながりかねません。

 ですから、感謝の気持ちを持たずに魚を食べる人と、感謝の気持ちを持って牛肉を食べる人との間には、どこかに違いがあると信じる一種の観念論よりも、どちらも食べることには変わりないのだと考える冷静な「唯物論」に立った考え方の方が、現実的な解決策としての自然保護に役立つともいえるのです。重要なのは、一面的な自然との一体感情を口先だけで吐露することではなく、自然保護と自然利用の限界を合理的に設定することであり、また、自然保護のために何を犠牲にしてよいかを見極めて実践することです。

 仏教における「共生」とは、自然と人間を別個のものではなく一体としてとらえるものです。そこには、万物は永遠に生死を繰り返し、絶えず移り変わるという循環的な考え方があり、自然の生態系を尊重する視点が見出されます。そして、環境倫理で言うところの自然のすべてに生存権があるという考え方につながるものがあります。このように、仏教思想と西洋思想を融合した価値観によって私たちが「地球市民」として生活のあり方を変えていくためには、その基本理念となる新たな環境倫理の創造が求められます。それにはいろいろありますが、集約すると次の3つにまとめることができます。

1.自然界のすべてのものに生存権がある---自然の生存権

2.現在に生きる人は次の世代に対して責任を負う---世代間の倫理

3.資源は有限であり、地球は劣化する---地球の有限性

20世紀は、人類の道徳が後退した世紀でした。前例のない規模で虐殺が行われ、文化は極度に衰退し、人間の精神は荒廃しました。環境破壊が進み、地球の人口は爆発的に増加しています。そうした状況下にあって、肝要な認識は、すべてのものは相互に関係しながら存在しているということです。例えば、一枚の葉に付着した無数の雫それぞれに周囲の景色が等しく映っているように、この自然界は密接不可分に結びつき、少しの変化もただちにそれらの雫に反映されるのです。理論的には全宇宙にその影響が及んでいる。 そして一つ一つのものと全体との関わりがあり、宇宙世界があって初めて私共の存在があり得るということです。 しかも、人間、 動物、 その他のものが単に集まって全体になっているのかというと、 そうではない。 世界全体、 あるいは社会、 生態系は、単に個々のものが集まって存在しているのではなくて、 網の目のようにお互いが関わり合って存在している。 「全体」は単に「個」の集合ではありません。 個の複雑な関わり合いの総体が全体なのです。

 全体があるから、 私という個があります。 と同時に、 個というものがなくなったら全体もなくなる。 これが周知の、縁起的自然観・宇宙観です。人間と動物・自然との関わり方を考えるとき、 支配と被支配の関係ではなくて、 すべてが関わり合いの中にしか成り立たないと考える。 こうした縁起の自然観が、 人間と自然や動物たちと共に生きる 「共生」 ということを考えるときの理論的な根拠です。

 西洋の宗教倫理は一般に、超越者(神)と人間の契約、あるいは超越者を介して人間と人間の約束として構成されています。他方、現代の仏教的環境倫理は、超越者を含むと否とに係わらず、人間が他の生物との関係において自らを規制するところが要点です。そのことは、言い換えれば人間が他の生物と向き合い、彼らの地球上での生存を保障するために、人間がどれだけ譲るかということです。どれだけ、そしてどのように他の生物の生存を保証するのか---それを具体的に示すことが環境倫理の使命です。

 しかし、動物保護を強調するあまりに極端な施策を取り入れることの無理は、歴史上もちろん存在しました。徳川綱吉の「生類憐れみの令」は、その極端な例です。とはいえ、人間の生活保護と動物保護の関係が逆転したケースとして現代においても考えさせられる有益な示唆を含んでいます。

 自然保護の考えを発展させ、地球環境を守るには、人間が他の生物との共生をどれだけ賢明に行えるかにかかっています。そのために考えるべき出発点は、「人間は他のあらゆる存在よりも優れているのか」、そして「他の存在は人間のためにあるのか」です。これらの問いに対して、人間は特別な生き物である、人間と他の生物には本質的な違いがある、と答えるとすれば、それは大きな誤りでしょう。小学生でも知っているように、明らかに人間も動物なのであり、しかも生物であるという点では、他のあらゆる生き物と何らの違いはないからです。

 進化論を持ち出し、人間が特別なのは一番進化した生物だからであると主張したとしても、「一番進化した」という意味がきわめて曖昧です。進化論を、人間がすべての生物の頂点に立っていることを証明する科学理論だと理解しているとすれば、それは重大な誤解です。仮に最も賢い動物が最も進化しているのだとしたところで、それによって他の生物との違いは説明できても、人間だけがこの地球で特権をもつことの根拠とはなりえません。というのも、知能が高いというのは程度上のことであって、しかも「頭が良い」というのは、「足が最も速い」や「最も視力が良い」などと並んで、多様な生物の示す多くの性質のうちのひとつにしかすぎないからです。つまり、知能を進化の基準にする必然性など存在しないのです。

 人間は高等動物だとしばしば言われますが、高等・下等の定義もかなり曖昧です。何をもって高等・下等と呼ぶかは、実のところ非常に恣意的なものといえます。その前提としてあるのは、人間が最も高等な動物であるという思い込みであって、そこから、人間に近い動物は高等で、人間に遠い動物は下等だと考えられているに過ぎません(「近い」、「遠い」という表現自体も著しく漠然としている)。すなわち、基準となるのは常に人間との距離であって、それは人間の側の独断と偏見でしかない。「進化」とは種の系統上に起こるあらゆる方向への変化なのですから、結局のところ何が最も進化しているかと問うこと自体が無意味なのです。このように、あらゆる生物は、生き物である点では何らの優劣はない。それぞれが一生懸命生きているのです。そして、すべての生物は、人間のために生きているのでもありません。


 環境問題が論じられる際、よく「人と自然との共存が大事である」と耳にします。「人」と「自然」とは対等な立場で、前者が後者の存在を尊重しゆくというものです。もちろん種の保存や生態系の保護の観点から荒廃や絶滅に向かう自然を守る事は必要です。しかし、自然の聖域をまったく侵す事なしに人類の科学技術文明を止めることは、もはや不可能です。また、南北問題の解決策の例に見られるように、社会や経済の発展が貧困を救済することも現実として認めなければなりません。「人と自然との共存が大事」との理念を主張するだけでは、環境問題の巨大さには太刀打ちできないのです。

 すなわち、外的・物質的なものの拡大から、より内的・精神的なものの充実へと文明の軸心を移してゆくことが大事であり、現代の環境問題は最終的には、人間の生きる意味を問い直す人間自身の変革が必要となってきます。環境問題は、ともすれば、その規模・影響の大きさからそれ自身が一人歩きしている感がありますが、実は人間自身の内面の変革から出発すべき問題です。しかし私たちは「十分に足るを知る」どころか、近代文明が手放しで肯定してきた「欲望」の根深さに容易に打ち勝てないでいます。ここから脱却するには、「一人一人の内的・精神的な変革」へ働きかける強靱な「哲理」のようなものを見い出さなければなりません。


 先年(2001年)、日本国内で絶滅の危機にある動物を原告にした訴訟の判決が下されました。鹿児島県奄美大島・住用村のゴルフ場建設をめぐって、「環境ネットワーク奄美」が県知事と開発業者を訴えていた「奄美・自然の権利訴訟」です。動物の生存権について「動物」が原告となって訴えたものでした。これは、おとぎ話に出てくる物語ではありません。ゴルフ場予定地に生息する希少野生動物、絶滅危惧種のアマミノクロウサギ、アマミヤマシギ、オオトラツグミ、ルリカケスを原告として訴訟を起こした、日本ではじめての「自然の権利」訴訟です。しかし、鹿児島地裁はこれらの動物が原告となることを認めなかったので、「アマミノクロウサギこと○○(人名)」という動物たちの代理人という形で再提出し、弁論を展開してきたものです。  山や川、動植物など自然自身が有している生存の権利、つまり「自然の権利」は、米国で1970年代にある特定の「河」が原告として訴訟が行われたことを契機に、以降、自然界のいろいろなものが原告となった訴訟が行われています。「奄美・自然の権利訴訟」の原告団もこれを根拠に「人間はその権利を代弁し行使する責務がある」と主張してきました。

 判決では「原告適格はない」、つまり、人間以外のものは原告になることはできないとして訴えは却下されましたが、裁判長が「現行法はこれでよいのか」と疑問を投げかけ、国民的議論の高まりを期待する旨の意見を付け加えたことは画期的であるといえます。


 「自然の権利」が、21世紀における重要な概念のひとつになることは間違いありません。現段階でも環境問題や自然保護が注目され、自然と人間の共生が模索されるまでになりましたが、「人間のための自然」という今までの発想から「自然と人間が共に」という発想へ変わるには、おそらく長い時間が必要なのかもしれません。しかし、自然破壊と環境汚染は待ったなしで進んでいます。長い時間をかける暇はないのです。「人間のための自然」から「人間と自然が共に生きる世界」を探していくために突破口となるのが、この「自然の権利」という概念なのです。

 「自然の権利」は人類社会を大きく変えていく力を持っています。それは、自然が人間に対してもの言わぬ(言えぬ)弱い立場にありますが、翻って考えると、世界中には人間としての最低の権利さえ認められていない弱い立場の人々が大勢いることも事実であるからです。民族紛争や内乱、クーデターで命を落とし、難民となっている人々、人種差別で不当の扱いを受けている人々、食糧不足、医薬品不足から命が奪われていく多くの子供たち。この世界にはまだまだ不正や不平等、貧困や飢餓が渦巻いています。もし、人類が小さな弱い生き物に対して生きる権利を認め、共に生きる道を探していくならば、人間社会においても弱者に対する意識や認識がいっそう深くなり、慈悲の行動につながっていくはずです。そして、この自然界の生き物たちによって逆に、人間の世界が救われていく場面が必ず招来されるでしょう。

 「自然の権利を認める」とは、人間と自然が対等の立場にあるということであり、そのためには「自然」にも心や魂、意志がなければならないという考え方があります。むしろ、自然に魂があるからこそ、人間と対等、あるいは神に近い存在なのだとする考え方であり、これまでの環境保護運動派たちに大きな影響を与えてきました。それは人間と自然との心の交流・交感の世界を通して、現代人が見失しないつつある、あるいは見失ってしまった人と人の心の通い合いを取り戻そうとする動きでもあります。加えて、近年、動植物に関する研究や生態系の研究が進むにつれ、人間と自然との原初的な関わりに対しても新しい世界が広がってきました。

 例えば、精神医学や老人介護の分野では動物や植物を用いた心理療法が盛んに行われたり、乳牛や、栽培ハウス内の野菜・果物に音楽を聴かせたりすることが実用的に行われるようになってきました。今まで人間の衣食住を満たすものとして見られてきた自然は、人間の心や精神を癒す存在としてその価値と重要性が新たに再発見されつつあります。そういった意味で、先の「自然の権利訴訟」は、人間社会という、狭く窮屈な世界の中で窒息しそうになっている私たちに、自然と共に生きることによって本来の心の豊かさを取り戻す道への第一歩といえます。



 釈尊は、若き日に栴檀の香りたつ王宮にあって、瀟洒な衣をまといつつも、人の老い衰え、病み苦しみ、死にゆく現実を他人事とすることなく、それらの現実を自分の身に引き寄せ、自らの壮健や恵まれた境遇に対する慢心を捨てて出家しました。私たちも、「環境」という身の回りの現実をありのままに見つめると同時に、我が身に引き当てながら己の所業がもたらす影響について目覚めなければなりません。そしてその目覚めの過程は、自然環境と人間のあり方に関する望ましい姿を探る中での仏教的な態度や行いに通じていくことでもあるのです。


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