以前、実験用ネズミの背中から人間の耳が生えている映像が発表され、世間の耳目を集めたことがありました。現代の生命科学は、このような自然界に存在しない、おぞましい生物もつくり出すことが可能になったのです。もちろんそれは、損傷を受けた人体をなおす再生医療の実験として公開されたものです。しかし、今日の生命科学や医療の急激な発展が、一歩間違えれば人類に恐ろしい結果をもたらすのではないかと予感させる上で十分な効果がありました。また今では、人の皮膚の大量生産、神経細胞の培養、人の遺伝子を利用した臓器移植用のブタの生産などを手がける企業が現れ始め、「臓器」産業すら生まれようとしています。死の床にあって臓器移植を待ち望んでいた人たちには、その臓器が自在に手に入り、しかも拒絶反応を起こさないとなれば大変な朗報でしょう。
今後、生命技術の進化は人間にとってどのような世界をつくり出していくのか、あるいは私たちはどこまで倫理的にこれを許していいのか。このことは、宗教的な観点からも非常に大きなテーマです。
背中に人間の耳が生えているネズミはたしかに不気味ですが、たとえば何らかの原因で耳を失った人が元の耳を回復できるなら、この実験は人類の幸せに役立つのだという理屈になるかもしれません。そうした意味で、21世紀は生命技術の本格的実用の時代でもあり、核兵器以上の影響力をもたらす可能性があります。とはいえ、日本でも行われている臓器移植に関し、人の死をいつの時点と判断するのかについて専門家の間でも議論がわかれています。生殖医療の発達は人工受精を可能にしましたが、「精子」銀行や代理母はどこまで許されるのでしょう。出生前診断で胎児に異常が見つかったらどうしたらよいのか。では、安楽死や尊厳死は? そもそも命とは誰のものであり、自己決定のおよぶ範囲はどこまでなのでしょう。こうした倫理テーマを含む問題はすべて、科学技術の発達とともに生じてきた深刻な問題です。そのこと自体が、科学は人間の生に対して、決して意味や意義までも無条件で与えてくれるものではないことを雄弁に物語っています。したがって、生命と倫理の問題を考えていく上で、それぞれの国の文化に根ざした宗教的視点がとても大切です。そもそも、「人間は死んだらどうなるのか?」という問いについて、科学は何ら答えを出してくれません。そして、自らの細胞や遺伝子すら操作できるようになった半面、私たちが漠然とした不安感を抱くようになっているのも否定できない現実です。その感覚の正体は、いわば根源的な安心感(人間が自分では決して動かせない「不動の大地」の上に立っているような安心感)が奪われる不安であると想像されます。ところが、遺伝子や生殖の仕組みなど生命活動の根源に触れることは「不動の大地」を崩すことになる。その点では、今まさしく人類の知恵が試されているといってよいでしょう。
有史以来、人類は自然の改変も含め、根源的な安心感を侵し続けてきました。このまま侵食を続けていけば、一気に破滅に陥る危険性があります。ですから、この安心感を守るために、人間は自らの意思で「ここから先へは立ち入らない」という境界をどこかに設けざるを得ません。核不拡散の合意と同じ意味で、国際社会全体において歯止めをかける段階に来ていると思われます。
ヒトの遺伝子を解析するヒトゲノム計画が先進各国でさかんに進められていますが、そうした研究によって、遺伝子の変異によってさまざまな病気が発生することがわかってきました。すでに原因遺伝子が特定された血友病や筋ジストロフィーの例はもとより、精神疾患や痴呆という心の病についても、脳内で発現するある種の遺伝子の変異が原因で起こる病気の存在が明らかになりつつあります。こうした研究の過程で、ことによると性格や行動といったものも、遺伝子の働きによるのではないかという考えが生まれてきても不思議ではありません。ただ、「人間の心を科学によって解明できるのか」という問いは人類にとって究極の命題であり、そもそも「心とは何か」を定義することすら非常にむずかしい問題です。そのためにはまず、心から生まれる性格や行動がどのくらい遺伝子で規定されているのかを調べてみる必要があるでしょう。
ヒトの能力や行動なども含めてすべてが遺伝子によって決定されているという考え方を「遺伝子決定論」と呼びますが、本当に心の分野までも遺伝子だけで説明ができるのかという点に関しては、まだ研究の緒についたばかりです。遺伝子というのは機械のハードウェアのようなものであり、それをどう動かすのかというのは、教育や経験といった環境因子で決まります。遺伝によるものか、環境によるものかをはっきりと分けることはできないのです。遺伝子がすべてを決定しているという考えの行き着くところは、はなはだしい差別や偏見でしかありません。したがって、「すべての人に理解できるのが科学である」という考え方は、まさにその時点で限界に突き当たるでしょう。そういう段階に入ると、科学はもはや実験の再現が不可能な領域に初めて足を踏み込むのではないかと予想されます。
心の遺伝子を探る目的は、むろん心の病気の診断治療が第一にあげられます。その一方で、心の異常と正常に関する線引きを誰が判断するのか、という問題が今まで以上にクローズアップされてくるでしょう。心の遺伝子に関しては、社会的な観点から良い・悪いという問題が必ず出てきます。しかしこの研究でまず忘れてならないのは、性格にしろ、精神疾患にしろ、何が良くて何が悪いかを決めるものではないということです。あくまで、どの遺伝子が何に関係し、どうしてある種の精神機能が生ずるのかに焦点を置くべきです。たとえば、暴力遺伝子と呼ばれる遺伝子が見つかったからといって、それが当人の人格発現に必ずしも直結するものではないのです。
「遺伝子」が現代のキーワードのひとつであることは、まちがいありません。人間の細胞中にある遺伝子の総体のことを「ゲノム」と呼び、身体の特徴の相当部分がゲノムによって支配されていると考えられています。しかしもっと正確に言えば、このゲノムと、その人が置かれている環境との相互作用によって、身体の生物的な機能が発現するのです。今までは成人病と言われていた数々の病気も、実は遺伝子に関連した病気である可能性が出てきました。もしそうならば、遺伝子をぜんぶ調べたらその人が将来どういう病気にかかる可能性があるのかがわかるのではないか、さらには治療にも役立てることができるのではないか、という発想が出ても当然です。そこで、人間のゲノムをコンピュータによってすべて解読し、そこに隠された遺伝子のはたらきを解明しようという取組みが始まりました。現在では、ヒトゲノムの99%が解読されたと言われています(もっとも、今の段階で解読されたのは物理的な地図だけであり、遺伝子の機能の解明はこれからの作業ですが)。
こうして遺伝子のはたらきが解明されていくと、医療が大きく変貌することは疑いありません。たとえば、個々人の体質に合った医療が可能になるでしょう。一般に、病気になると私たちは薬を飲みますが、同じ薬を飲んでも、よく効く人と効かない人がいます。これは薬に対する感受性が人によって異なるためです。ところが、この感受性は私たちの遺伝子によって決定されている可能性が高いのです。そうであるとすれば、遺伝子の地図を参考にしながら、個々人のゲノムを詳しく調べ、その人の薬への感受性をあらかじめ把握しておけば、本人にもっとも適した医療が施せることになるわけです。
しかし、問題はここからです。そうした医療は、たしかに副作用の少ない画期的な治療方法を私たちにもたらすことでしょう。ところが、ヒトゲノムの機能が解明されるということは、同時に、それが人間の選別にいくらでも転用できるということを意味しています。体外受精で得られた受精卵にクローン技術を応用すれば、受精卵と同じゲノムをもった細胞をたくさん作り出すことができます。それらの細胞の遺伝子をヒトゲノム地図で調べ尽くすことができます。そうすると、受精卵の段階でいろいろ検査することができるのです。それらの検査をパスした受精卵のみを母親の子宮に戻して出産することも可能です。これはまさに、人間改良を目指す「優生思想」にほかなりません。そして、その技術に特許が与えられ、一大産業となって社会に浸透し、開発に成功した企業は巨万の富を手に入れることになります。米国では現にそうした動きが進行中であり、日本も遅れてはならじと懸命です。最近、日本政府もゲノムに関する特許への積極的な姿勢を表明しました。これが、ヒトゲノム計画の裏面に見えてくる医療の近未来の姿です。ヒトゲノム研究は国際的なマネーゲームの渦に飲み込まれ、私たちの「身体改造」幻想の餌食となる危険性をはらんでいます。
遺伝子レベルでの「優良性」が徹底的に追求されていくと、胎児の遺伝子を操作することすら試みるようになるかもしれません。ですからヒトゲノム研究は、その光の部分だけによって語られるべきではありません。「生命とは何か」というテーマは、もはや伝統的な宗教や哲学の視点から論じるだけでなく、具体的な生命操作や臓器移植など先端技術の展開に即して考えなければならない時代に入りました。それをひとことで言えば、現代社会の基礎となっている思想・慣習・制度・技術などを常に念頭におきながら、それらとの関わりにおいて「生命」をめぐる諸問題を理解し、解明していく姿勢です。
たとえば、体外受精の技術は人間に何をもたらすのでしょうか。それを可能にした技術は、人間の生命へとさらに奥深く介入する技術を次々と生み出してゆくに違いありません。現在、体外受精技術は人為的な再生産という概念と結びつけて考えられるようになっています。その中には、受精卵の質をチェックして遺伝病や染色体異常のあるものを選択的に廃棄する「受精卵診断」の技術や、胎児の段階で奇形や障害が見つかった場合に、それを胎内で治療しようとする「胎児治療」などもむろん組み込まれてくるはずです。しかしそこには数多くの問題が含まれていることに気付きます。
まず、人間の「生命」をどこまで操作対象にしていいのかという、生命の「不可侵」という古典的な難題があります。いま世界では、受精後二週間以内(原始線条が現れて脳神経系ができ始める時期)をひとつの目安とみなして、それ以降の成長に介入することを自粛しています。しかしこれは、あくまで政治的決定の色彩が強く、どうして「二週間」なのかをめぐっては依然としていわば哲学的・神学的な議論が続いています。その背後には、ヒトはいつ「人間」となるのかという深遠な問題が横たわっています。ここには私たちの宗教的伝統にまでさかのぼる「人間観」の問題があるのです。もし、脳神経系ができ始めた時が「人間」なのだとすれば、それはどのような人間観に支えられているのか、またそれは私たちすべてが受け入れるべき人間観なのでしょうか。
もうひとつの例として、「権利」の問題があげられます。「権利」は、現代社会を支える根本概念のひとつです。いやしくも私たちはすべて、基本的人権という名の権利を保障されなければならないという前提で社会が営まれています。ところが「生命」の問題におよぶと、「権利」の境界線が曖昧となってきます。たとえば、人工妊娠中絶をどのように考えればよいかという問題です。いつの時代でも「権利」の中心となる考え方はいうまでもなく「所有権」です。とすれば、「中絶の権利」という言い方に違和感を抱く人が出てきてもおかしくはありません。そこに生じる違和感とは、「はたして生命は人間の所有権の対象になるのか」という感覚に近いものです。つまり、「生命と権利」あるいは「生命と所有」という、現代社会の根幹を揺るがしかねない重大な問題が潜んでいるのです。現代社会の構成原理のひとつである「権利」と、私たち自身の「生命」というものは、なにか互いに排斥しあうような部分をはらんでいるのではないかという疑いすら出てきます。
このように、「生命」を正面から論じることは、必然的に社会を新たな眼差しで問いなおすことにつながります。私たちは、自分の身体がどのようにはたらいているかについて、実はまだほんの少ししか知りません。したがって、患者の細胞の遺伝子情報を操作することは、今の段階では予見ができないような副作用を将来もたらす懸念があります。遺伝子組み替えによって欠陥遺伝子そのものを正常化できるような時代が来ない限り、特定の遺伝子が導入されたときに発生段階で突然変異が起きる危険性は常に残されているのです。過去、人間は技術を駆使して自然環境や動植物を徹底的に改造利用してきました。しかし、今や人間自体がその標的になりつつあります。その結果、人間を物理的に改変するのみならず、最終的には、「人間」というものの概念に変更や修正を迫る状況が訪れるであろうと考えられます。
生はどうあるべきか、死とは何か、そして一体どこから生命がやって来るのかなどという、従来は倫理や宗教の分野でおこなわれていた論議が、科学技術の問題とからみあって、私たちの日常における意思決定の対象になってきました。
他方、いつかは誰でも命の終わりを迎えます。その現実は常に私たちの人生観や日常行動の背景に横たわっています。現在、死に関する最も大きな問題は、命の終わり方が昔とは違った時代に突入したということでしょう。すなわち、これまでは自然に心臓が止まったところで命の終わりとされてきました。ところが今では、心臓が止まらなくても脳の機能が停止した段階で命が終わるという、脳を基準として考えた新しい死の定義が生まれています。
しかし同時に、誰でも自分の命はむろんのこと、他の人の命も大切だという感覚を本来持っているはずです。それが生命について論じるときに基準としなければならない価値観です。ところが、科学者を筆頭に私たちは自分なりに頭ではわかっていても、それを明瞭なかたちでルールにするということを普通やっていません。この問題を従来から深く掘り下げてきたのは宗教です。私たち一人一人が毎日生きる上で、どのような人生観、ひいては生命観を持つべきかについて、各宗教はそれぞれの立場から提案をしてきました。本来、宗教の基礎になる部分というのは、命への感受性、すなわち畏れの念、慎みの感情、命に対する共感の情といった、あらゆる生命と感じ合うことのできる人間が本来備えている心の高度なはたらきです。宗教は、人間として尊厳をもって生きる上で不可欠な価値観と感受性をその存立基盤にしています。この精神作用が愛、感謝、畏敬などの形態をとって私たちの行動に深く影響を与えるのです。ところが、科学の中にはそういうことをあえて無視する傾向も残念ながらあります。したがって、加速度的に進展する生命技術を制限する論理は、いわゆる効率を第一とするような「近代科学主義」からは生じにくく、どちらかといえば旧態依然とした宗教や伝統に求められるということになります。このような時代だからこそ改めて「宗教」の力が試されているといっても過言ではありません。
では、命の物質化が進む現代社会から命の尊厳を守る社会に軌道修正していくにはどうしたらいいのでしょうか。科学のもたらした知識や可能性が、私たちのものの考え方、感じ方をずいぶん変えたことはたしかです。しかし将来、人が自由に生命の質を決められるような時代が、果たして無条件に幸せな社会であるかは疑問です。人間はこれまで自分がコントロールできる領域を地理的、物理的に増やし続けてきましたが、拡大してきたことでかえって生きる意味を失い、大きな不安にとりつかれているようにも思われます。それゆえ、何を選択すべきかの判断基準となるような知識や情報が容易に手に入るシステムと、その情報をすべての人が理解・共有できるような成熟した社会をつくらなければなりません。
遺伝子の研究は生命の仕組みを知りたいということがその原動力になっています。病気のメカニズムを明らかにしたり、治療法を見つけるなど、社会的に貢献していきたいという願いがそこにはあるわけですが、反面、このまま科学が進んでいくと、「人間とは何か」という問題を分子生物学者が哲学者や宗教者に代わって答え、それを私たちが盲目的に受け入れる時代に突入してしまうかもしれません。
現代の生命科学が突きつけているさまざまな問題に対して、人類は健全で普遍的に認められた価値観を必要としています。生命とは何か、人間とは何か、人の道とは何かという問いについて、科学と宗教を幅広く融合した新世紀にふさわしい対処こそが人類の真の叡智を証明する試金石といえるでしょう。
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