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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

目的と手段

 「生きる」とは、ある意味で、昨日から今日、今日から明日へと、見えざる「時間」の道に沿いつつ「死」に向かって休みなく進んで行くということに等しいようなものです。では、たとえば現実の道を歩く人にとって最も大事な要素は何か。それはむろん、「どこへ行こうとしているのか」ということです。同様に、わたしたちが生きていく上で大切なことは、「生きてどこに向かうのか」、つまり「生きるのは何のためなのか」という、生きる「目的」です。次に、「どのように生きるか」という、「生き方」についてはどうでしょう。人それぞれに生き方がありますが、一般にわたしたちは、どういう生き方をすれば長く快適に過ごし続けていくことができるか思案しながら、自分にとって好ましい生き方を選んでいきます。これは生きる「目的」ではなく、生きるための「手段」と言えるものです。手段とは、目的を果たすために必要な諸要件を指します。ただし、手段が先にあって目的が後から現れるのではありません。肝心の目的を脇に置いて手段のことばかりを追求していると、所期の想定から逸脱してしまう可能性があります。道を歩いていく場合でも、最終地点を知らずに歩き続ければ、やがて行き倒れとなることは必至です。

 「生きる目的は何か」という問いほど、答えに窮するものはありません。結局は、「生きるために生きている」としか返答しようがないからです。しかし、「なぜ生きるか」が曖昧ならば、「どう生きるか」も結局は不明なままとなってしまいます。当たり前のことながら、目的が明確でなければ適切な手段を選ぶことができません。ただし目的と手段の関係を深く探っていくと、思いのほか複雑で交錯した図式が展開されていきます。医学を例にとれば、その主たる目的は治療による疾病からの快癒です。適切な治療を受ければたしかに病から回復できますが、さりとてわたしたちは治療を受けるためにのみ毎日を生きているのではありません。しかし、健康願望の行き過ぎがかえって日々の体調の変化に一喜一憂する人を増やしています。医学は、治療して延命を図ることはできても、その延ばした命で何を為すかについては答えないのです。あるいは政治についても、その究極の目的は国民の生命財産を守るということに尽きます。そして言うまでもなく、国民が政治のために存在するのではなく、政治が国民のために機能することが大前提です。政治はあくまで、国民のすべてがよりよく生きるための「手段」なのです。そうは言いながら、現実は理想と甚だしく乖離し、目的と手段が転倒していることの方が多いようです。

 概念としての目的と手段の違いがわからない人はいないでしょうが、実際の生活ではこの区別が不分明になり、毎日、必死に生きているといつの間にか、自分が望んでいる目的から遠く離れていることはよく起きるものです。めまぐるしく移り変わるこの時代に自分を絶えず鼓舞させておくためには、いま何を目指して生きているのかが鮮明に捉えられていることがきわめて大切です。その意味で、人生における目的と手段の違いを整理してみると、自分の置かれた現状と今後の在りように気づく契機となるかもしれません。目的によって、それを達成するための手段が変わるだけでなく、価値観や生き方、個性が大きく影響するものです。目的を常に頭に描きながら行動している人----すなわち目的意識の明確な人は、手段の変更が生じたとしても動じることなく突き進んでいけるはずです。目的は分からなくても、とにかく少しでも前進し続けようというのでは、手段のための手段となり、自己撞着に陥ってしまいます。

 他方で、目的は手段を正当化するか、という問題が昔から取り上げられ、論じられてきました。これについては、その目的がどのようなものであるか、また、それらを達成するためにいかなる方途が用いられるかによっても変わってくることは自明です。目的か手段か、という二律背反に関するこの論議は、わたしたちの日常のみならず、社会の様々な案件においても為されています。場合によっては、次のような極端な質問さえ可能なのです。「仮に、ある特定の人物を殺害して世界を救うことができるならば、それを実行すべきか」。「是」と答えるなら、道徳的に正しい結末によって、それを達成するために非道徳的な手段の行使を正当化することになります。しかし、ここで考慮すべき点がいくつかあります。それは、行為の道徳性、結果の倫理性、行為者の正当性です。この状況においては、当該行為(殺害)は明らかに道徳に著しく反しており、殺人を犯す者も疑いなく同様です。一方、世界を救うことは誰が見ても望ましい結末です。しかし、本当にそうであると断言できるのか再考の余地があります。殺害が正当化され、殺人者が罪を問われないで済むとすれば、一体いかなる世界が救われようとしているのか。それとも、殺人者は自分が救った世界において、その罪の処罰を受けるのでしょうか。そして、その救われた世界が、自分たちを救ってくれた者の命を奪うことは理に適っているのでしょうか。

 実は、仏教にも「一殺多生」という言葉があります。文字に即して読めば、一人の極悪人を成敗して、多数の者を救い出すことです。本来、仏教において「殺生」は罪悪中の罪悪ですが、それが時として功徳になり得るきわめて逆説的な考え方でもあります。むろん字義通りの「一殺」ではなく、たとえば暴政覇道に天誅を加えて人民を救うという、虐政からの解放を意味し、その天誅の一撃のことを「一殺多生」という場合もあります。過激思想にも転じかねないこの表現を通じて、わたしたちは常に「目的か手段か」を真剣に考えることが求められていると言えます。結局、何が望ましい目的なのかは社会や時代によって違ってくる以上、あらゆる人間に普遍的に当てはまる道徳的行為を指し示すことはできません。また、「幸福こそあらゆる人間が目指す究極的目的であり、幸福をもたらす行為こそ正しい」という考え方も、何を幸福と考えるかは人と場合によって異なり得るため、万人がいかなる場合にも行うべき、無条件に正しい行為を示すことは不可能です。いかなる状況下でも行うべき正しい行為とは、なんらかの条件あるいは前提が付くものではないはずですが、そのような行為は果たして存在し得るものなのか。この問題は、おそらく倫理上の難問の一つに数えることができるでしょう。

 とかく人は、「なぜ行うのか」ということよりも、「どう行うのか」に重きを置きがちであり、往々にして「手段の目的化」という現象が起きます。これは、成果を得るための手段である行動について、その行動自体を目的としてしまうことです。たしかに、「目的は何か」を厳密に考え出すと、途端に混乱し始めることがあります。ちなみに経済活動において、「経済」の本質はいかに効率よく生産し、人々に隔てなく分配できるかということですから、あくまで人が恙無く生きるための「手段」です。しかし現代の資本主義社会では、さらなる経済成長のために多種多様な宣伝広告を駆使してわたしたちの欲望をかき立て、消費を煽ることが善とされています。結果として、企業間の競争が激化すると共に地球資源は枯渇し、環境が破壊されていることは疑いのない事実です。これは手段だけが複雑肥大化してしまった典型と言えます。とりわけ「科学」は、手段の目的化が甚だしい分野の最たるものです。20世紀以降の科学の進展はめざましく、物理学は核分裂反応による莫大なエネルギーを利用可能にし、生物学は遺伝情報を解読して遺伝子の組み替えまでできるようになりました。ところが制御のきわめて難しいエネルギーを扱う核技術、あるいは自然界に存在しない作物や生物を生み出す可能性のあるバイオテクノロジーなど、「手段」の驚異的な進歩だけが突出し、科学が目指す全生態系の繁栄という「目的」が置き去りされてしまっている印象が否めません。

 改めて、個人の生き方についてはどうか。『徒然草』には、優先順位を取り違えて人生の目的を見失った男の話(第188段)が紹介されています。大略は次のとおりです。「ある若者が親から、仏教の勉強をして立派な僧侶になりなさいと教えられた。そこで彼はまず、馬の乗り方を習った。法事の折に施主が馬で迎えに来た際、落馬したら見苦しいだろうと思ったからだ。次に、法事後の酒席で何も芸ができなければ施主が興ざめに思うだろうと考え、歌を習った。乗馬と歌謡の力がある程度ついた後も、さらに様々な芸事に上達したいと打ち込んでいるうちに、肝心の仏教を学ぶ時間がないまま、年を重ねてしまった。しかし、この僧侶だけが愚かなのではない。世間の人々にも同じようなことがあるものだ。一生を漫然と構え、目前のことばかりに心を奪われながら月日を送っている人が大半である。肉体は坂を下る輪のように、日々衰えてゆく。それ故、一生のうちで、どれをまず手掛けなければならないか、よく考えねばならない。その他は潔く断念して、自分にとって最も喫緊な事に励むべきなのだ。」

 この男の場合、一人前の僧侶になるのが目的でした。その目的の達成に向かって専心すべきところ、特段いま急がなくてもよいことばかりに手を出しているうちに馬齢を重ねてしまった、という悲喜劇です。主たる目的を放置して目前の些事に振り回されていると、一生はたちまちのうちに過ぎ去ってしまう。いつの時代でも、誰にとっても大切な心掛けです。つまり、何を当面の目的にするか、その判断の重要性を教えているのです。わたしたちは人生の後半において特に、「残された人生で、自分は何をすることを求められているのか」、あるいは「自分の人生を意味あるものにするためには、今後どう生きてゆけばいいのか」という問いに真正面から向き合うことになります。壮老年期の悲哀の大きな部分は、この問いに十分な確信をもって答えられなくなることにあるでしょう。目的と手段の狭間で自分に与えられた運命に対し、どういう態度をとるか。たしかに人生には、一種の「宿命」のようなものもあり、「運命」とも言えるものもあります。また生きているあいだには実に様々な、自分の力では如何とも処理し難いことが頻々と起きる。このような条件下でどのような目的意識と指針を持って臨むかにより、その人の人生の真価が明らかになるのです。

 人は一生の間に、ふと立ち止まって、「自分の生きがいは何なのか」と自問する瞬間が幾度かあります。その際、さらに重ねて次のような問いが発せられるでしょう。「自分独自の生きて行く目的はあるのか。あるとすれば、果たしてその目的に沿って生きているのだろうか」。毎日、生活や仕事に追われて生きていると、哲学者でもない限り、「人生の目的」などについて考えないのが普通です。その半面、流されるままに人生を送ってきて、平凡ではあるが大過ない生活もしているはずなのに、どこか心が満たされない。自分には、今よりもはるかに満足できた人生があり得たのではないかと、考えても仕方のない念慮に襲われてしまう。そうした鬱屈感の源には「目的」の喪失が大きく関わっているのかもしれません。結局、人生の目的とは羅針盤のようなものであり、自身の人生の舵取りに意識を向けつつ人生の目的を作り上げていくには、己の価値観を明確にしていくことが必要なのです。自分の目指している事が袋小路に入り込んでしまったとき、冷静にその原因を分析してみると、いつしか当初の目的が雲散霧消してしまっていて、手段が目的にすり替えられ、それに振り回されていたことに気づきます。ある一つの目的は、より大きな目的のもとでは手段となります。つまり、自分がどの地点に目線を置くかによって、何が目的か、何が手段かが相対的に決まってくるわけです。常に意欲を失わずに、ある一つの目的を達成した後、次の新たな目的を掲げ続ける限り、目的と手段の入れ替わりはどこまでも続いていくことになるでしょう。このことは逆方向にも言えることです。何を成したいかという目線が下がってしまえば、やはり目的と手段の反転が起こり得ます。

 わたしたちは常々、明日の幸せを念じながら今日をその準備段階として捉え、取り組んでいます。しかし、幸せを掴むための準備ばかりに時間を費やして人生の終局を迎えてしまうことだけは避けなければならないでしょう。「準備」としての人生とは、空過流転以外のなにものでもありません。したがって、「今」と「此処」にこそ自分の取り組むべき現実があるという、当たり前のことを再認識すべきです。一日一日は区切られていると同時にそれぞれが完結した「時」であり、その足し算が「人生」であると了察した上で、手段を目的化するのではなく、手段が指し示す方向を見ることが肝要です。「自己実現」を願って人生の目的を定め、夢や理想を目指して生きるということは、今を「犠牲」にするという考え方にも直結しかねません。目的に向かって努力しているということは、裏を返せば「今はまだ不十分だが、目的に到達した暁には十分になる」という意味と同義です。ところがこの考え方では、常に「目的に達するまでは喜びを得ることができない、成功したことにならない」と、自分に切迫した暗示をかけていることになります。遠大な目的を掲げてしまうと、それは時として過剰な重荷になってしまいます。「努力」するとは、本来は何か「目的」があって、その目的に向かって邁進するものです。しかし、何事も短期での成果を求められる現代社会においては、「努力」すること自体が「目的」になってしまう状況に陥る人が増えつつあります。立ち止まったその時点で倒れてしまいそうな焦りのみを感じて生きている精神状態からは、「目的」の一点を見据えることなど到底できるはずもありません。それはあたかも、実験室のハツカネズミのように、回る輪の中をただ闇雲に走っている姿と二重写しになっているかのようです。

 人生を、いわば単に生きること、あるいは単に楽しく生きることや、不快から逃れるために生きることであると考えてしまったのでは、人はどこかに向かうことはできません。これは、「無目的」な人生観と言えるものです。その対極に位置するものは、「生きがい」を持った人生です。人は、自分の存在の意味や価値を認識できたとき、あるいは自己の実現欲求が満たされたときに生きがいを感じると言われます。加えて、わたしたちは生きていく過程で多くの経験を重ね、そうした経験の中にも生きがいを感じます。「生きがい」とは「人生の張り合い」でもあり、生きる目的や意義、価値の問題にまで広く関わっています。そして、どのような生き方を目的とするのか、どのような対象を選ぶのか、何に意義や価値を認めるのか、などによって「生きがい」の全体像が定まってきます。

 わたしたちは普段、自分は何者であるか、自分に何ができるのか、自分と他人との違いはどこにあるのか、自分は誰に必要とされているのか、自分は何を為したいのか、等々について真正面から考えることはあまりしません。しかしそれが、人生の節目、生活環境の変化、人生の転機に立たされたとき、初めて自分と向き合うことになります。そして世の中の矛盾や不可解な出来事に直面したとき、自分に問題が突きつけられたような場合に、自分の進むべき道、すなわち人生の目的について採用すべき態度に気づくのではないでしょうか。ただし、自分自身の生きがいに目を向けるということとは、自らの強みも弱みもすべてを受け止め、その中から自分にしか達成できない人生の目的を見出すことでもあります。結果としての成功や失敗に目を向けるのではなく、その過程の中にあり続ける充実感を享受し続けることです。人生の道中を目的のための手段として犠牲にしてしまっていては、一度しかない人生を目標達成という、その一点のためだけに犠牲にし続けてしまうということになります。

 過去や未来が絶えず気になるのは、「今、此処」に集中して真剣に生きていないからです。人生を「線」としてとらえると、過去・現在・未来は一本の線でつながります。その場合、過去の展開から現在が影響を受け、それが未来に波及していくことになります。しかし、人生を「連続する点」としてとらえれば、過去と今、今と未来は必ずしも連結していないことになります。このように考えれば、次の点に移る段階で自分や人生を変える機会が無数に生まれる訳です。何れの人生を選択するかは、各人で決めればよいことですが、人生を「線」ではなく「点」として捉える視点も一考の余地があります。それによって、過去と今、今と未来のつながりを断つことができます。時の狭間に無数の機会と可能性を見出すことができれば、自ずと目的意識が喚起され、それに応じた手段への道筋も自ずと明確になってくるでしょう。

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