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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

科学の本質---宗教的なるものとのつながり---

 あと一年少々で幕を閉じようとしているこの20世紀は、まさに「科学の世紀」と呼ぶにふさわしい百年でした。現代科学は、すべての分野で劇的な飛躍を遂げ、それに伴い人間の生活も世界のあり方も根本的に変わってきました。現実に私たちは日々、科学技術に囲まれた生活を送っています。

 現代科学は技術革新をもたらしただけではありません。最新の各種理論は新しい世界観を示し、人々の意識や考え方に多大な影響を与えています。今や科学は生命や宇宙の根源にも迫りつつあり私たちの存在意義を問いかけています。その反面、最近になって、物質文明の限界性、危険性がしきりに叫ばれるようになりました。当たり前のようですが、人間は、物質と精神という両面からの満足を得てこそ、はじめて豊かな人生が送れます。そして、物質と精神のそれぞれに対応したのが、科学と宗教です。本稿では、現代社会がなぜ科学と宗教という外面的には異なった二つのものの関係を真剣に見直さねばならないか、という点に的を絞って論考を進めます。


 万物の長である人間といえども、肉体的には限りある生命しか持たない存在です。しかし同時に、おのれの生命が有限であることを自覚できる存在でもあります。したがって、意識的であれ、無意識的であれ、無限の生命への願望をもち、無限の世界へ生きようとする意思、意欲を内面に保ちつづけている存在です。

 人類は、有限の生命の底を流れる無限の「命」の世界を感じとり、それを例えば、具体的に記号として表現することに(自利利他のために)命をかけてきました---数学者は数学記号を用いた数式の中に、音楽家は音符記号によって表される楽譜の中に、俳人は十七文字という限られた数の言葉の中に・・・。こうした「記号」化の知的な集成が「科学」であり、「宗教」なのです。


 生命の仕組みを大筋において解明したことは、間違いなく科学の功績といえます。しかし、それでも死に対する人間の不安や恐怖は解消されず、死に対する見解や論理は意味を失うことはありません。つまり、たとえ人間の構造が科学によって解明されても、死に対する恐怖、不安は科学では解明できないのです。人知をはるかに越えたものに接したとき、人間は常に何かの枠組みを必要とすることは確かです。その枠組みとは、直面する恐怖、不安を調節するものです。それを突き詰めると、最終的には宇宙原理に行き着きます。ですから宗教的解釈が意味を失うことは決してありません。人間の精神には必ず宗教が必要であり、現代社会においてすら宗教が一定の発言権を維持している理由は、死に対する不安、恐怖にあると考えられます。とはいえ、科学と宗教は、それぞれ立場は異なりながらも世界を理解するための論理ですから、最終的に相互関係が保たれるべきです。


 現代人の知識をもってしても、この地球をはじめ、私たちを取り巻く「大宇宙」の実体について未解明の部分が多々あります。私たち自身の「心」についても同様です。「感情」は脳のどこにあるのか?、なぜ自分はこの世に生まれてきたのか?、その意義は?等々、際限なく私たちの疑問はふくらんでいきます。しかし仏教の「無智の智」にならい、人類には人間の驕り、傲慢さ、何事もわかっているという態度を抑え、常に問いを抱き、何事からも学んでいくという態度、すなわち「無智」に立脚していく姿勢が求められます。この「無智」に立って人類が歩んできたひとつの側面が科学と宗教の歴史です。

 人類の起源は未だ明らかではありませんが、少なくとも直立二足歩行が人間化への始まりとされています。この直立二足歩行から人類は周囲の自然物を手でつかみ、それに人為的な働きをあたえて道具を生むようになりました。道具を使った人間の労働は、手に鋭い感覚を与え、また、視覚と密接な連繋動作を可能にしました。それは同時に人間の脳を発達させ、労働の知的水準を高め、共同労働の必要の中から言語を生み出しました。人間の脳は、長い歳月における目的意識をもった労働と道具の進化とともに一歩一歩前進してきたのです。また、道具が発達したのは、道具が捨て去られずに保存されたからにほかなりません。「残して保存する」という知的活動に裏付けられた道具の保存は、人類史における偉大な発展の不可欠な一契機だったといえます。そして言語や文字の発生、道具の保存そのものに 「他の人々や未来の人間のため」という「利他」の精神が本質的に宿っているように思われます。


 有種子農業(穀物栽培)が最初に始まったのはメソポタミア地域であるといわれ、約一万年前にさかのぼります。農耕生活の拡充に伴い定住社会が形成され、以前の狩猟生活と異なり、生産や保存に一定の計画が必要となってきます。収穫した穀物を保存し、翌年の収穫時までの一年間、計画的に食糧を消費しなければならないからです。したがって必然的に人間の思考が論理的、合目的となり、算術が必要とされるようになってきます。農耕技術の進歩とともに、種まき期や収穫期なとの正確なタイミングを知るために天体の運行(星や月の動き)に注意がはらわれ、一年を約十二ヶ月であると割り出し、星の位置で季節を知るようになりました。これが天文学への芽ばえです。また、祭祠堂や神殿などの大きな構造物を建てる必要から、測量などが要求されて度量衡の整備も進みます。他方、農耕の発達は道具類の改良発展につながりました。人間は、自己の筋力以外の自然力を動力源に利用するという技術史上の一大飛躍を実現し、「科学」と呼ぶにふさわしい一貫した物の考え方、見方が発達してきます。

 科学の歴史を少し振り返ってみれば、紀元前四世紀に登場したギリシャのアリストテレスに至って人類の科学は最初のピークを迎え、壮大な自然科学体系が誕生します。その結果、古代から中世までを貫いて支配的となる自然学や宇宙論のすべての基本的骨組ができあがりました。その後は、ギリシャ科学を引きついだユークリッド、アルキメデス、プトレマイオスなどによって科学が発展充実します。しかしローマ帝国の時代に入ってからは、理論科学がローマ人の気質に合わなかったために独創性を失い、もつばら科学の実用的側面だけが強調されるようになりました。中世の科学停滞期からルネサンスを経て、科学が人類に対して多大な貢献を開始するのは、およそ17世紀以降です。

 現代では、小学生でも地球は自転しながら太陽のまわりを公転しているということを知っております。しかし、有限の宇宙から無限の宇宙へ、そして天動説から地動説へと自然観や宇宙観が変革されるまでには、約一千年という実に長い時間を要したのです。ところが、天体の物理学であれ、地上の物理学であれ、その改革をもたらしたものは新しい観測、新事実の発見ではなく、実は、科学者の精神の内部に起こった意識の変化でした。これは大変重要な点です。つまり新しい思考の眼鏡をかけて、今までとは180度違った見方をしてみた結果であるということにほかなりません。科学革命における最大のパラドックス(矛盾があるようで実は正しい説)は、現代の私たちにとって自明のことが、何世紀にもわたって偉大な知性の躓きとなっていたという事実です。私たち人間の自然観や思想の転換、広い意味での固定観念の打破克服がいかに困難なことであるか、深い嘆息をおぼえずにおれません。

 近代科学革命をもたらしたものは、上記のように、思想の転換、すなわち科学者の内部に起こった意識の変化でした。世界中の人々が、地球は宇宙の不動の中心だと信じていたときに、地球は太陽のまわりを回る一天体にすぎないと主張し、周囲を説得するのはどれほど勇気のあることだったでしよう。現代の私たちでさえ、地球が太陽のまわりをまわっているということを自明のこととして頭の中では理解していますが、ややもすれば太陽が地球のまわりを回っていると錯覚を起こすことが多いものです。私たちはどうしても自己中心的な立場から自分の断片的な経験を通して、それがあたかも連続的な、真実の経験として受け取ってしまいがちです。

 万有引力の発見で有名なニュートンは、あるとき自分自身について大略こう述懐しています。その言葉には、偏見や思い込みにとらわれない自由な精神の見事な例が示されています。「世間で私をどう見ているか知らないが、自分自身としては、波打際で戯れる一人の子供のようなものと思っている---それは、真理の大洋がその子の眼前に探求されぬまま無限に広がっているのに、ときたま普通のものよりは色の鮮やかな小石や美しい貝殻などを見つけては喜ぶ子どものように---」

 また、嘗てデカルトという哲学者がいました。彼は今から三百数十年前のフランス、つまり、近世ヨーロッパの秩序ができつつあった時期(日本の歴史でいえば桃山時代から徳川時代にかけて)に現われた思想家です。

 デカルトがはじめて、世界を全体として科学的にとらえました。また、そのような世界を客観的に見るところの主体である「我」というものをはっきりつかみ、世界において「我」が、いかなる生き方を選ぶかについて単純かつ徹底した方針を立てました。デカルトがこのような問題意識をもった目的は、ニュートンと同じように、感情や想像に曇らされることのない自由な精神の獲得です。

 暗闇の中を歩む者は、往々にして不安や恐れや妄想にとりつかれます。灯を点じ、行く手を照らすことによってはじめて安心して前進することが可能となります。同様に、「自己」は光、すなわち「理性」によって自由になります。デカルトは、闇を進む旅人の状況を人間一般の状況になぞらえ、世界に光を投じてその中で自己の道を選ぶ、ということが科学のはたらきであり、ものごとを客観的に知ることは自己が妄想を離れて自由を得ることであると論じました。これが仏教でいうところの「自在無碍」の境地です。デカルトは一方で無限な宇宙を客観的、科学的に見るとともに、他方では、その中でみずからの自由意思によって善を選ぼうとする態度を、最初にはっきり示した人です。

 またデカルトといえば、「我思う、故に我在り」という有名な言葉があります。彼は、精神を身体から引き離すことにつとめ、身体から独立した「考える我」の存在を確かめて、心と身の実在的な区別をはっきりと示した人類史上初の人といわれています。彼の考えは単に、精神と物質とが全く相異なる二種の実在であることを主張するという意味の二元論ではなく、人間的な状況に即して打ち立てられた二元論です。すなわち、一方では自己が世界を客観的に見すえる科学的知性を発揮するとともに、他方でその自己はそのような世界の中で自由に意欲的に決断するという、知性的客観性と意思的主体性との二元論です。つまり、同じ主体における知性的認識(知性)と道徳的実践(意思)との緊張関係をあざやかに表しているのです。


 科学というものは所詮、その長所も欠点もすべて、私たち自身の持っている価値観やものの考え方のあらわれとして存在しているに過ぎません。したがって、私たちは常にこの点を自覚するところから出発すべきです。現代自然科学は、現代に生きる私たちのさまざまな様態を映し出す鏡です。例えば、原爆を作り出した科学についていえば、その全ての責任を私たちが引き受けることを通じて、また人間の道具としての科学ではなく科学を自らの身の内に引き受けるという認識を通じてのみ、私たちは自己を変革すると同時に科学を新しい方向に変革することができるのです。

 しかし、文明の技術化、機械化が進んでいくにつれ、人間生活は自然との共感を失って、単調な機械的反復へと追いやられました。自然もまたその神秘的性質を失い、冷たく、非人間化された現実のみが広がっていきました。かつては共同体の人間関係において親密な交流をおこなっていた私たちは、今や、自分自身の個性をはぎとられ、機械的組織の一歯車に成り下がってしまいました。現代の人間は、この機械的文明社会において主人公として君臨するどころか、人格を剥奪され、たんなる「物材」あるいは「要素」として取り扱われています。まさに近代的ヒューマニズム(人間主義)は危機に直面しているといわねばなりません。宗教すら、組織化の一途をたどり、個々人の内面の苦悩を救う、あるいは解消するという本来の役割からはなはだしく逸脱する傾向にあります。現代の科学と宗教がそれぞれに「人間」そのものの存在を忘れているという点では、ある意味で共通したところがあります。しかし、私たちには、原点に立ち戻って、この世の中の「真理」に関して自然界と人間自体の極限まで探る、という科学および宗教に通底した人類全体の崇高な目的があります。

 科学は本来、人類にとって直接物理的に害も益もない中立なものです。ガリレオが「地球は回っている」と宣言して身の危険を感じたのは、当時においては宗教の教義に害を及ぼすと判断されたからでした。ところが、ニュートンが微積分を駆使して万有引力を発見したとき、世界は挙って拍手を送りました。ガリレオからニュートンに至るこの間に、科学はある意味で宗教よりも上位に立ち、人類の心の主は神から科学へと入れ変わったのです。先述のように、デカルトが「我思う、故に我在り」と言ったのは、人間の上に神が君臨して心の全ての決定を神に委ねていた中世ヨーロッパ千年の歴史に別れを告げ、神の上に対して、考える人すなわち「人間」を置いたことを前提にしています。

 しかし、20世紀に入ってから顕著となった科学信奉への急激な傾斜はやがて、高度な近代工業化社会システムと結びつきます。技術と結びついた科学の力を人類が認識し、その威力に瞠目したのは不幸にも二度の世界大戦を通じてでした。特に大量殺人兵器の出現がその背景となっています。また、米国において軍需を目的としていた「ビッグサイエンス」(巨大科学)と呼ばれる科学技術の本流は、第二次大戦後になってNASA(アメリカ航空宇宙局)を中心とする宇宙開発に向けられていきます。そして21世紀においては、これらの潮流が地球規模での宇宙通信事業や生命化学など新産業技術分野へ大きく動いていくことでしょう。そうした科学の進展の傍ら、現在、人間と自然との統一による生命的世界の実現が、科学と宗教の両面で強く希求されています。

 仏教を開いた釈尊は、「人生は苦なり」と喝破しました。私たちは毎日の生活に四苦八苦しているため、常にあらゆる苦から逃れようとします。これは人間の本能的な祈りであり、仏教ではこの作用を「煩悩の所為」と呼びます。現代人は、諸々の苦から逃れんがために神仏に祈り、これを宗教的信仰として受けとめています。しかし実は、この祈りこそ煩悩のなせるところであると仏教では論じているのです。科学技術も、人間のわがままな欲求に迎合するあまり、物質的で安楽な生活の実現のみに答えようとするならば、それは苦を抜き楽を求める「外道」の道を歩むことになるのです。

 人類は宗教を生み、さらに哲学、芸術、科学などさまざまな知的活動を発展させてきましたが、これらの起源は、人間の根元的な問い、「人間とは何か」、「人間は何を目標として生存しているのか」、「どう生きるべきか」などという命題から出発したものです。つまり、「宗教的な問い」がすべてその背景にあるのです。科学を進歩させてきた原動力の多くは、宗教的な問いがその源となっています。ところが18世紀以後、「進歩」や「進化」の観念が台頭して、科学と宗教は完全に分化し、各々個別の道を歩むこととなりました。先人の業績に新たな知見を加えることによって多方面において文明の高度化に貢献した科学と、時代の如何を問わず人間そのものの本質を追求する宗教(人間の精神自体は「進化」するものではなく、常に不変であるという視点に立脚)は、その相貌が一見すると相反しているように映りますが、宗教を原点として人間の知性が探求心を発揮することにより、この世の中の一切の出来事、現象を知る努力を続けたその集成が科学であるとすれば、科学と宗教は互いに不即不離の関係であることも了解されます。

 現代科学技術の分野では、生命科学や遺伝子工学の発達によって遺伝子操作の研究、あるいは、超精密電子工学の進歩とともに人工知能やロボットの研究などが盛んにおこなわれています。しかし、人間の生命や知能に直接かかわる問題にまで科学技術の研究対象が及ぶと、さまざまな局面で問題意識、危機意識が生まれ、科学の領域でも再び根源的な問いを持つことになります。科学は一定のピークに達するたびに(ちょうど古代キリシャの科学精神がその後オカルト的な神秘主義に埋没していったように)、こうして宗教的な問いに戻っていくわけです。


 17世紀末のヨーロッパに誕生したニュートン力学から、現代の量子力学、相対性理論へと物理学は大きく進歩しました。しかし、これらの理論によって得られた成果は私たち自身の力によって作られたのでなく、人間の存在と無関係にすでに存在している自然界の多様な法則を、今日までの人間の観測と推論の限りをつくして解釈した上で得られたものです。

 観測という方法論を考えてみますと、対象物が光の速度(有限)の限界に達した時、現在の私たちには観測という方法自体が拒否されてしまいます。例えば宇宙の大きさは、心の中で想像することはできますが、宇宙の端---光速で膨張しつつあるとされる広がり---については、その地点から私たちの眼まで戻ってくる光を観測の手段としては使えません。にもかかわらず、もし宇宙が有限であるとすれば、その有限の容れ物としての無限があるはずだという単純な発想が湧いてきます。その後は、まさに無限に想像の鎖が続いていくのです。すなわち、私たち人間には自分自身の存在を認識する以前に「無限への憧れ」という「願」が根源的に脳に植え込まれている、と考えざるを得ないのです。これはもはや、科学の世界ではありません。むしろ宗教的世界です。人間は、観測と推論に基づく科学的思惟、そして無限なるものへの本源的な欲求を秘めた宗教的想像の両面を兼ね備えた存在であるといえます。たしかに科学はこの世に「存在しているもの」だけを対象とします。ところが同時に科学の進歩は、「存在」の極限における時空の広がりの曖昧さ---無限性---をとらえてしまいます。「存在」は果たして物質化されるのか、エネルギー化されるのかという「存在」の二重性を見出した現代科学にとって、「存在」は私たちが考えているほど確固としたものではないのです。宗教が深い幽玄な意味を持つのはこの点においてです。


 このように、自然科学の法則にはそこに厳然とした適用の範囲、適用の限界が存在するのです。ただし、人間の意思に無関係に存在する法則性そのものが適用の限界を持っているのではなく、数式や言葉で表現した法則、理論に限界があるのです。同時に、科学の歴史は、さまざまな社会的、個人的環境の影響のために、ひとつの真理へ到達するのに途方もない回り道をしてみたり、また逆に思いがけない抜け道を発見したりしています。

 ある定まった期間の間は少なくとも法則に矛盾が現われないでいるということは、言い換えれば、人は「限界」というものを自覚しないが、その限界の中からしばらくは足を踏み出せないでいる、ということを意味します。それは例えば、望遠鏡の倍率、顕微鏡の解像力というものが技術の発達に依存し、それが私たちの経験の範囲を自動的に制限しているというようなことに関連してくるのです。多くの場合、何らかの理由があって経験の範囲というものがしばらく固定されるところに、法則があたかも絶対的に正確であるかのような印象を与える素地がありました。これらのことは宗教の領域においてもよく考えてみなければなりません。ひとつの理論や概念にとどまっていれば、たとえ宗教といえども、それは死したも同然です。人間の意識が法則(理論)のみに執着することは、科学や宗教における停滞の最大要因です。


 私たちは教えられた問題に対しては、適当な視点の転換を行えますが、あらゆる問題に対して最適な視点から見るということは容易ではありません。

 人の視点、視座が転ぜられるということは、相手の立場に立って考える、あるいは行動するということです。しかし意識の転換は想像以上に困難です。

 ところが、宇宙から地球を見るという体験によって意識の転換がなされた宇宙飛行士の例もあり、決して不可能というわけではありません(それは、地球上の混沌とした視点から宇宙を見るのではなく、無限の広がりを直接肌で感じられる宇宙空間から美しい地球を眺めるという、空間的に異なった視点に立った人の特殊体験によって得られた「宇宙」感、いわば「悟り」といえます)。

このことからわかるのは、人間は物質レベルでは個別的存在ですが、精神レベルでは互いに結合されており、さらに進めば、世界のすべて---森羅万象---が精神的には一体であるということです。自然に対する仏教の基本認識である「山川草木悉有仏性」です。

 インドの占い聖典などには、「神は鉱物の中では眠り、植物の中では目ざめ、動物の中では歩き、人間の中では思惟する」といった表現が随所に出てきます。つまり、万物の中に神が遍満しているのです。万物は精神的には一体であるという考え方は、古代人に共通した認識でした。しかし、いつしか科学文明の進歩とともにそのような原初的な感覚が人間から失われていきました。イエス(キリスト)、ブッダ(釈尊)、モハメッド(イスラム教創始者)にしても、あるいは孔子や老子にしても、彼らはみな人間の自意識の束縛から脱して、この世界の「一体感」に触れた人々であるといえます。彼らがまさに「悉有仏性」を実世界の中に見た人なのです。

 以上から、人類が進むべき方向性がひとつ見えてきます。それは、人間の意識が精神的にいっそう拡大していく方向です。イエス、ブッダ、モハメッドなど世界宗教の始祖たちは、早くにこの進化の方向を人類に指し示していた先導者です。どのような進化の過程でも、種全体が大きく変わる前から進化の方向を先取りする個体あるいは存在があるのです(最近、生命の根源の問題や宇宙精神・意思の問題が脚光を浴びています。しかし、そこからの飛躍がなかなか得られません。おそらく、地上の混沌に染まると、そうした探求精神がすぐに雲散霧消してしまうからなのでしょう。やはり、先の宇宙飛行士のように、宇宙空間という上下左右、東西南北を超越した状況にたって地球を眺めないと科学的、宗教的「一体感」の本質がつかめないのかも知れません)。


 いうまでもなく、科学技術が発達すればするほど人間的な欠乏感が強まります。その欠乏感を癒すために現代の人々は苦悶しています。物質の豊かさと裏腹に、心の中は実に殺伐とした風景が展開しているのです。これは洋の東西、老若男女を問わない全地球的な現象です。このように科学技術が人間生活の中にはいり込んでくればくるほど、逆に人間本来の情動的なものが前面に出てきます。それは、多くの人と交わりたい願望や芸術的な情熱であったりします。

 科学的法則の本質は先に述べたように、その法則性そのものは人間がいようといまいと無関係に成立する法則であって、人間とはまったく隔絶した存在であるということです。ですから、科学の進歩は、ある種のものに対して人間が何物かを付け加え、何物かを減らすことができるというものではなくて、そのような法則性を矛盾なく説明し得る認識の方法論が進歩したということを意味します。

 他方、宗教は、人間が自身のこの世における存在意義を確かめ、その尊厳を保とうとする要請から必然的に生まれてきたものです。科学はしばしばその思惑に立ちはだかりながら、自然界の法則性を次第に解明してきました。物理化学的な自然というのは、私たちがそれに関与することはまったくできませんが、生命科学的な在り方については、生命の流れの一極である人間自身が大いに関係している問題です。この意味でも、「人間」という言葉を「生物」に置き換えてみれば、生物的自然と物理化学的自然は相異なる秩序の中にあることができます。


 人の心の内なる宇宙、それを探るのが宗教であるとすれば、科学はこの世の「有様」、この世界を構成する宇宙全体を探っていく学問です。ただ、宇宙の始まり、霊魂の実在などの問題を考える時、既存の法則は当てはまらなくなり、行き詰まっているのもたしかです。こうした閉塞を打開するために、科学と宗教という「水」と「油」が混ざり合う新しい価値観を提示できないものでしょうか? 裏を返せば、私たちは自分以外の「誰か」の存在を意識しなければ、自分自身の真の姿を想像することさえおぼつかないということです。そういう意味でいえば、人類は未だ知的発達段階における幼年期を抜けきっていないといえるかも知れません。

 科学と宗教を統一した新しい価値観が21世紀を目前にして求められています。その目的に向かって、現代科学は果たして「心」ある学問となり得るのでしようか? また現代の宗教は、迷信からの脱却を遂げて真理への道を歩むことができるのでしょうか?

科学と宗教は、それ自体が完結したものではなく、それぞれの立場から見つめ直さなければならないものだともいえます。相互の領域を侵すことなく、物質と精神の違い、あるいは共通性を把握することができれば、近い将来、科学と宗教は従来とはまったく相貌を変えた形で手を結べるはずです。その暁には、私たちのさまざまな人生問題に対して新たな光明が得られ、科学と宗教が互いに融合した中での解決策につながる可能性が芽生えてくるに違いありません。

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