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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

競い合うことの功罪

 現代社会は競争社会でもあります。しかも競争に関してこんな声が聞こえてきます。「競争して勝たなければ、この厳しい社会に生き残っていくことはできない。それをエゴイズムと非難することは、建て前としては立派だが負け犬の遠吠えに過ぎない」、あるいは「現代の物質的繁栄は競争の成果によるものだ」と。しかし、現実志向で考えれば競争とは一種の必要悪として認めざるを得ないものであり、理想主義的にいえば競争は人間性の円満な陶冶を阻む敵です。ことほど左様に競争をめぐる問題の解決は容易ではありません。

 私たちは実に多種多様な競争---意識的であれ、無意識のうちにであれ---に巻き込まれています。受験戦争、出世競争、生存競争、国際競争等々、もはや競争は私たちにとって避けられない存在となっています。しかし「競争」という言葉について抱く思いは、人それぞれです。競争など無くしてしまう方が住み良い社会が実現できるという考え方や、人間が手を抜き堕落してしまわないためにも競争は必要であるという見方もあります。競争というものが、一方では社会、組織、個人に対して生きる「目標」や「生きがい」を与え、社会の英知、組織の資源、そして個人の能力を最大限に引き出して活用する原動力となっているのは確かです。その反面、社会、組織、個人を勝者と敗者とに分け、社会の安らぎ、組織の余裕、そして個人のゆとりを奪ってしまうということもまた否定できない現実です。競争は現代社会の隅々まで浸透し、あるときは活力を生み、あるときはゆとりを奪う。そうであるならばこそ、私たちはこの競争というものの本質を的確に見極めなければなりません。


 競争の本質を考える際、まず競争には「規則」が存在することを押さえる必要があります。競争とは「優劣を競い合う」ことです。そして「優劣」をつけるには、何らかの基準となる規則がなければなりません。また、競争を実現するためには、それらの規則を守らせる、あるいは個人が競い合うための環境がなければなりません。どんな競争であれ、そこには必ず何らかの基準と環境があります。たとえば生存競争なら、この競争を行う場は「地球」という環境であり、基準とは「生き残る」か「死滅する」かです。そして地球上で競争する以上、そこには風土や気候などさまざまな条件、言うならば大自然という「審判」が存在しています。その中で競い合う生物は当然それらの規則に従わざるを得ない。そして競争に参加するということは、必然的にこの「規則」に支配されることです。市場競争に参加すれば、必ず経済原理に基づく「市場」の規則に支配される。したがって、自分にとって都合の良い規則であれば別に構わないのですが、そうではない場合は競争に参加する前に十分な注意をしなければなりません。競争の前にもすでに規則を巡る競争が存在しています。どんな競争主体でも自分にとって都合の良い規則をつくり、そこに他の多くの客体を参加させようとします。グローバルマーケットという言葉も、一面では全世界を競争に巻き込もうという目論見があり、そこで適応される規則はいわゆる「大国」にとって有利な規則、すなわち「市場」という規則になるでしょう。

 ですから、競争の「規則」を設けること自体、あるいは競争に他者を参加させること自体にすでに競争があります。繰り返しますが、競争の前には競争があり、競争の後にも競争があるのです。この果て無き競争の中で、一体私たちは何をめざすのか。そして何故、私たちは競争をするのか、またしなければならないのか。競争が不可避であるのならば、その競争の本質を捉えるために、競争に付随するさまざまな問いかけに、私たちひとりひとりがなんらかの心構えと対処方針を用意していかなければならないでしょう。

 残念ながら、競争には必ず勝者と同時に敗者が生まれます。敗者は挫折感を味わい、悲しまねばなりません。挫折感や悲しみを越えて次には勝者になるよう努力すればいいではないか、という意見もありますが、どんなに努力しても勝者になれない人はどうすればよいのか。障害者や年老いて病に倒れた人は、最後まで敗者として挫折感や悲しみに浸っていなければならないのでしょうか。競争という戦いが常に存在して勝者と敗者が生まれるのは避けられない以上、問題は、常に「敗者復活戦」を許容するという懐の深さをその社会が持てるかどうかです。この敗者復活を許容することが、人々の心に「希望」という光をともし続ける原動力になるのです。


 競争の一側面である「試験」を考えてみた場合、たとえば学科試験の結果による「成績」や達成した仕事を評価した時の「成績」なるものは、一つの方向に向けた物差しで計った単なるその個人の「瞬間最大風速」に過ぎません。一人の人間の能力は、いろいろな向きを持つ無数の物差しを使わなければ測ることなどしょせん不可能です。さらには、どの物差しで測った測定値も時間の経過と共に変わってしまいます。人を評価する時には、測定された成績の持つこのような意味や限界を客観的に認識することが大切です。むしろ、一人の人間の持つ能力全体を他者が客観的に評価しようとすること自体、神のみが可能な思いあがった無謀極まりない試みです。加えて、時間的に成長し続ける能力の全貌を当の本人すら知り得ることは決してありません。ですから、人生とは自らの能力を絶えず発見しようとする一種の「孤高の旅」である、という点も忘れるべきではないでしょう。

 競争は他面、より新たな成果や優れた出力を生み出すことに対しては確かに効果的です。その成果や出力を競争相手の全員が共有できるシステムであれば、全体としてさらなる進歩につながるでしょう。その傍ら、競争が日常生活の場で展開するとき、先述のように一人の勝者と多数の敗者が生まれます。競争による成果の独占が歯止め無く許され続ける社会システムでは、莫大な富を持つ「幸福者と言われる少数の人々」と「貧困な大多数の不幸者と呼ばれる人々」が出現するのが現実社会です。コンピュータソフトの開発で成功した一個人(米マイクロソフト社のビル・ゲーツ氏)の資産が、小国の数カ国分の国家予算をも超えるという事態を目にすると、専制国家時代の地球規模的な現代版を想起せざるを得ません。競争の勝者が喜びや報償を得ることのできるシステムは、何もせずに利益を得ようとしたり、怠惰をむさぼる人々の増加を防ぐためには、むろん必要です。ただ問題は、勝者の報償が敗者にも還元されるような社会システムなくしては、少数の富める人々と大多数の貧しい人々から成る「二極分化」による悲惨な状況が避けられないという冷厳な事実です。それゆえ、敗者もさまざまな競争に参加して勝者の喜びを得る機会に出会えるようにした社会システムの構築が、より安定的な社会をめざす上で不可欠な要件となるわけです。

 ここで、「吾唯足知」という仏教の言葉を考えてみます。この言葉の中にある「足るを知る」という意識が少数の大きな権力や富を持つ人々の心に定着しているということが、社会を良く機能させるためにまず欠かせない条件です。そして「協力」と「共生」に基づく活動形態こそが、より多くの知恵の参加によってより優れた成果を生みだし、そしてより多数の人々が幸福を共有することとなる活動形態でありましょう。

 最近、「悪平等はいけない、機会は均等であっても結果については自己責任を持つべきである」というような議論が各方面で見受けられます。ところが、競争を肯定し、機会の均等が保証されているという、それ自体客観性をもちにくい条件がなんとなく認められてしまうと、誰もが自分が弱者であるとは認めたくないこと、および機会均等の下での単なる敗者として扱われることから、弱者は事実上存在しなくなります。結果の平等が重視されていた社会では、弱者は弱者として社会の欠陥や責任を追及することによって自己否定感にそれほど苦しまなくてよかった。敗者は本当にその人の自己責任でのみ敗者となったのか、一方の勝者には競争の前からあらかじめ有利な条件はなかったのかなどという点を考えると、単純にそうした「機会均等=競争肯定論」を受け入れることはできないのです。敗者の不満が鬱積すればどこかに標的を求めて攻撃することも起こりかねない危うい社会という一面が、機会の均等を掲げる社会には伏在することをしっかり認識する必要があります。


 振り返ると、20世紀は物質的豊かさを追求する「開発の世紀」でした。そして今世紀は、(自然との調和の中で)人間らしくどう生きるのか、というテーマが新たに重要となるでしょう。「科学技術的進歩の世紀」でもあった20世紀は経済力が唯一の価値観のようにみなされ、効率や競争が優先価値として重視されていました。しかし自然の法則を守るということと、経済(資本)主義というのはどうしても相入れません。したがって、おそらく21世紀においてはこの二者の価値観の衝突が起こり、そこから新しい価値観が生じることは必然であると思われます。いま世界を支配しているのは資本主義の原理、つまり競争の世界であり、これはいうならば有限の勝者と無限の敗者を生み出すシステムです。ですから、いつも自分は勝者側に立ちたいと思ってもそう簡単にはいかない。そのためにも、敗者の論理あるいは、敗者の生きる場所というものが当然必要でありますし、競争に巻き込まれない生き方は果たしてないのだろうかと、思考の枠を今まで以上に柔軟に広げていかねばなりません。

 仏教世界には「中庸」という概念があります。それは文字通り、どこの地点からでも中間であるということです。つまり貧富の違いを超越して、そういうことに囚われないのが中庸の意味するところです。経済力という価値が支配する中で中庸的思考というのは、しかし、その存在が非常に困難です。ちなみに日本人は、発展途上国の人々と比べていまの生活に満足している人が多いようですが、心の隙間とでもいうべき、何かが欠けているのではないかとの漠然とした不安を抱えています。敗戦で国土が灰燼に帰した日本は、米国のような国をめざして刻苦勉励の歳月を送ってきました。そして米国と肩を並べるところにまでなりましたが、その到着点もやはり荒んだ弱肉強食の世界です。こんなはずでは・・・と誰もが思いはじめています。日本人は戦後の高度成長期にはエコノミックアニマルと呼ばれ、そして現在は不況とグローバル化のもと、国のみならず、個人的にも根本的な構造改革を迫られています。たとえば、マレーシアのマハティール首相は、なぜ日本は終身雇用や年功序列など日本的システムの良さを盲目的に捨ててアメリカンスタンダードを取り入れるのか、と批判しています。給料のよいところに人がどんどん移れば、効率至上主義だけが跋扈する社会になってしまうのは目に見えています。ですから、企業における労働組合の最大のジレンマは、終身雇用制度を含む労働条件の向上には企業の果て無き成長が大前提となるという点です。これは、従業員が敗者にならないように次から次へと新しい商品やサービスを提供し続けて企業を成長させていくということであり、中庸や敗者の論理などは悠長な戯言になってしまうということです。そういった企業社会では、目に見えるもの、形のあるのしか評価されません。ところがその一方で、各人の心の中には深い闇が広がり、しかもその闇は他者に対する邪悪な競争心を胚胎させています。利益追求のあまりに人倫を踏みにじるような風潮が跳梁し、世の中全体が嫉妬慳貪にまみれるようになってくる。激甚な競争が支配する社会の弊害は、敗者による人間性の崩壊と対社会憎悪を生むということです。

 少なくとも個人レベルでは、「足るを知る」という言葉を今こそ噛みしめる必要があります。贅沢や富をめざしてあらゆる分野で憑かれたように競争を展開しているのがアメリカ資本主義の本質です。そうではなく、一定水準の生活や一定の財物が確保できたらそれに感謝して、次には精神的、知的なものに自己の価値発現を移していくということが、「足るを知る」という考え方の根本です。(アメリカで発生した同時多発テロの原因というものを考えると、テロを起こした犯人たちは当然批判され、制裁を受けるべきですが、その原因であるアメリカ資本主義のあり方というものを当然私たちは問うべきであります。一般に人は、節度ある欲求をベースにして公正な競争を通じて財、名誉、地位を獲得していきます。しかし、その度が過ぎて貪欲になると、不正行為を行い、他者を害します。それはわかりきったことですが、ことにアメリカではあとを断ちません。)

 仏教では「貪瞋痴」を三毒といい、貪欲の放擲を要求しています。仏教のこういう実践的な教訓が実際に社会で採用されれば多くの人々は苦しまずにすむのですが、現実には我利を貪る少数の国や企業によって、大勢の人が敗者の憂き目に遭い、人生の暗転を迎えています。

 仏教が教える、我利・我執の放棄、つまり、エゴイズムの放棄を実践的に学ぶことが究極的には本人ならびに社会全体に資するのです。それは、アメリカや日本のみならず、世界共通の問題です。「我利・我執」によって客観的かつ節度ある判断ができなくなる「無明」ほど、人間にとって恐ろしい魔性はありません。仏教では、犯罪でなくても我利・我執に気がつかず他者を傷つけている行為をも強く批判します。

 経済至上主義の次に訪れるべき持続可能な成長の時代を展望するとき、あらゆる意味で過度な競争は、巡りめぐって自身の生存すら危うくするだけに絶対禁物です。そこには、受験競争や出世競争、会社間の売上競争といった従来の競争原理だけでなく、如何に環境や自然と調和しながら共存していくかという新しい物差しが必要になってきます。私たち人間というものは、放っておけば楽な方へと行ってしまう怠惰な性向を持っていますので、競争社会を全面的に否定することはできませんが、新しい次元の競争をはじめていかなければ、この文明社会の維持は不可能でしょう。

 いま世の中は大変混迷を深めており、社会全体が大きく変わる節目に来ています。そうした節目において、古い価値観や秩序が崩れて新しい社会に移り変わっていくことで長期間にわたって低迷・混乱が続くというのは、当然予想されることです。では現在直面している社会の変革というのは、どのくらいの規模の変革でしょうか。おそらく西洋で三百年ほど前に中世から近世に移り変わった頃と同程度の規模であろうと考えられます。人類は現代にいたるまで長足の物質的進歩を遂げてきたわけですが、そこで失ったものもまた多数あります。今の社会にはいろいろな問題点がありますが、その主たる原因のひとつは、社会が発展する原動力が個人のエゴの追求に依存しているということです。言い換えるならば、個人のエゴが暴走しやすい社会であるということがいえます。自分のエゴの追求に対して歯止めがかからなくなり、それを暴走させてしまう人々が大量生産されるという構図が、現代社会のひとつの基調ともなっています。ちなみに、かつては宗教による「形而上」的な価値観がエゴの暴走を抑える役割を果たしていました。今でももちろん、美意識や倫理感などによりエゴの暴走を抑える歯止めがないわけではありませんが、そうした抑止作用の元を紐解いていくと、人間の美意識や倫理感がいったいどこに由来するのかと考える場合に、実はすべての人間が生まれ持っている根源的な「宗教性」のようなものにたどり着くわけです。そして、そういう基底要因がエゴの暴走をかろうじて抑えてはいますが、社会全体としては宗教や芸術精神の存在意義が薄れてきたため、エゴの追求・暴走を抑える力が弱くなりました。それが随所で(ことに先進工業国において)人間性の喪失や生きがい感の欠如を招いています。競争社会が現出してその競争が激しくなることで、ある意味においては経済成長に対して個人的なエゴの追求はプラスに作用しているのですが、甚大なマイナス作用としてエゴの暴走が抑止できなくなった本人は深刻な行き詰まりや自己限界を感じ、その波及を受けて周囲の人も影響されるという悪循環の連鎖が現代社会の特徴となってきています。そのため、21世紀の社会ではエゴの暴走に対するバランスという意味で「形而上」的な価値観---物質至上主義に対する精神性の優越---が表舞台で語られるような社会になっていくことでしよう。形而上的価値観というのは、人間が心の底に誰しも持っている宗教性というものがポイントになります。

 競争が激烈な闘争心によって全力投球で行われるとき、そこには熾烈な自然淘汰(自然選択)が生じます。実力伯仲の好敵手同士が切磋琢磨する競争や、一定の紳士協定に根ざした競い合いにおいてはその弊害は軽いのですが、人間性から解き放たれた剥き出しの競争は人間の中に潜む敵対心や歪んだ自尊心を助長してしまいます。勝つためには手段を選ばないという攻撃的な歪み、敗北して自分を敗者や落伍者として打ちのめす自虐心、そこから生じる自暴自棄の暴力性という否定的な歪み---それらは競争がゲームではなく、至高な個人的価値をめぐる真剣なものとなったときに避けがたく私たちを支配していきます。そして、現実に競争の弊害が最も顕著に現れているのは、まぎれもなく経済市場、資本主義市場の支柱たる競争原理でしょう。ところがこの問題の最大の難関は、資本主義は今日の国際社会で受容されたシステムであり、[最適と思われる]経済構造だということです。ですが、そこに是認されている暴力的な競争の弊害は一つの全体的構造として人間の精神を束縛し、倫理そのものに真っ向から反発する合理と非情によって促進されていきます。現代社会の構造としての競争、そしてそれに対峙する人間というものの関連を見つめ、最適な経済システムとはどういうものか、私たちはどういうふうに経済、あるいは競争と向かい合っていけばいいかを究明すべき時期にきています。

 他の動物と同様、人間には本来、競争(闘争)本能が備わっています。自分が執着するもの、価値を認めるもの、自信を持てるものにおいて私たちは競争心を持ちます。つまり、負けたくない、勝ちたいという優越感への志向性です。そして、競争に勝利した者は心地よい優越感に浸り、敗北した者は挫折と絶望に苦悩します。しかし、優れていることが、つまり、優越すること自体が目的となったとき、その優越感はむしろ有害なものだといえます。すなわち、優秀であることが価値であり、優秀でなければならないという強迫観念を持つことは決して本当の意味で生きることを考えているとはいえないのです。人間の生において確かなものは、優越感に対する排他的な自信などではないでしょう。自分の能力をわきまえ、自分に可能な範囲でなし得ることに意味を探し求めながら努力しようとする信念、それのみが優劣を超えた挫折しない確かさだといえます。ある目的のために能力が足りないならば、その時々にその必要に応じて能力の向上のために努力すればよいのです。そして、その努力は競争とは無縁のものです。人より優れているか、自分が高等な存在であるか、あるいは自分が平均以下の存在であるか、そうした偏差によって価値を判断していても、生きることそのものへの自信や信念は得られないでしょう。競争の優劣という鋭利な人間の取捨選択、そうした弊害の果てに唯一揺るがない確信を見出すには、人より優れたいという欲動から脱却する必要があるのかもしれません。

 般若心経の「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」に代表される大乗仏教は「空」の教えであるとも言われます。「色」は形あるもの、欲望の対象となるものであり、「空」とは何もとらえるべきものがないこと、欲を離れることと解釈されます。つまり、色(物質、欲望の対象)は瞬時も常在せずに変化し、やがて消えて無くなります。空であることとは、ものごとの実体は何もとらえるべきもない、と同義です。人間の欲望は、金銀財宝や贅沢品など目で見て欲しいと思い、他者と比較し、さらに立派な物が欲しいという具合に、「色」が根底となっています。私たちが幸せであると思い求めているものは、実は欲に立脚した一時的な快楽に過ぎません。真の幸せに至るには、所有、比較、競争に囚われた価値観を捨て去り、執着を離れた広い心で生きることが必須です。

 古代インドの教えでは、人生には4つの課題があるとされています。第一はダルマ(義務)で、家族や社会、国家、人類に対して自分に与えられた仕事を果たすこと。第二はアルタ(富利)で、生命の存続、生活に必要な経済力を確保すること。第三はカーマ(欲望)であり、物質的、肉体的、精神的な喜びを充たすこと。そして第四としてモクシャ(解脱)があります。これは心身や現世からの解放、すなわち真の自分自身に出会う(解脱)ということを意味します。

 第三までの課題は地上現世的な喜びや快楽を目的にしていますが、最終段階の「モクシャ」は物質、社会的地位、名誉などあらゆるこの世への執着や囚われから解放されることによって高い次元の精神性が得られ、真の自己(純粋意識)に出会い、終生の幸せ---まさに心身の調和状態---が得られるというものです。これこそが仏教的な意味で完全に悟った状態といえるでしょう。


 一般に、「和」とは規則を守ることによって保てるものですが、仮に規則を破ったとしてもそれを許す心の広さも「和」の精神です。また、国にしても人にしても、それぞれ千差万別の特徴があります。その特性を認め合うというのも「和」の心です。「和」の反対は「競争」です。その根底にあるのは、競い合うところに人としての進歩があるという考え方です。正しい競い合いは必要ではありますが、「和」の精神のない競争には安らぎはありません。聖徳太子は「十七条憲法」の第十条で、「彼の是はすなわち我の非にして、我の是はすなわち彼の非なり。我必ずしも聖に非ず。彼必ずしも愚に非ず。ともにこれ凡夫のみ」と述べています。そのように、私たちが「相手の立場にもなってみる」ことができるならば、「自分が正しく、相手はまちがっている」と思っていても、「ひょっとすると自分がまちがいで、相手が正しいのかもしれない」と思い返す余裕ができます、相手を批判してきたことでも一歩下がって考えることができるようになります。「共にこれ凡夫のみ」という、その「自我」を抑え「のぼせ」を抑え「静かな心」を修することはきわめて大切なことです。

 競争に勝ち抜くことが生活の常識となっている今日、経済の活性化や人間成長に役立つという側面は確かにある点も十分に評価しなければなりません。しかし競争という手段を絶対化した社会システムに限界を感じ始めた現在、競争に勝つことを目的化してはならないでしょう。競争の「自己優先」という価値観を前提としているところに誤りがあり、自己優先の競争原理は争いごとであって、「戦争」などの解決手段と結びつきやすいからです。

 今日、地球環境問題の深刻化を契機に最近「共生」という概念がさまざまな分野で生まれ、競争に勝つことを至上命題としてきた経済社会は、ようやく共生という新しい指標を取り入れて軌道修正すべき時期に到達しようとしています。地球上の全生物がその個性をいかすことによって他を補い、支えあって全体の秩序を維持する機能は自然界のみならず、私たち人間の営む社会にとっても重要であり、その機能は「共創」とでも呼び得るものです。共創の本質は仏教の自利利他の精神であり、他との関連性の中でそれぞれの個性を活かしあって全体の秩序、形成に寄与する機能です。「共創」を取り入れることで自己の持つ個性を活かし、ひとり勝ちではなく、全体の秩序形成に貢献するライフスタイル自体が喜びとなります。その一方では、これまでと比べて不自由や不便さ、貧しさを許容する文化の形成も必要になるでしょう。つまり、自己を活かすことだけでなく、周囲を活かすことのバランス(調和)をはかることこそ大切なのです。共創への意識転換とは、自然・社会・文化の三つの環境を超えた第四の環境「心」分野までを視野を拡大しなければ技術革新だけでは解決できないでしょう。


 人間ひとりひとりは、肉体的に見れば当然ながら単一独立の存在です。それゆえに自己中心的であり、他者と競争する。これは人間の一面として否定できませんが、もうーつ、人間は精神的に共存在、すなわち他者と共に生きていく構造を持っています。そこに社会性が生まれてくる。「衣食足りて礼節を知る」とは、肉体的な要求が実現したその次は精神的な要求を満たさねばならない、という意味です。単一存在的に生きるとは、簡単に言えば、死ねば自分は消滅するということです。一方、共存在的に生きるとは、皆で一つの大きい生命をつくることですから、自分が肉体的に消滅してもより大きな生命のなかで生きていることになります。そこに人生の意義があるのです。ところが競争原理の発露として物質至上主義的な面が色濃くなり、人間が肉体的要求を拡張していくことをおぼえてしまったため、限りなく自己中心的になった。現世的なことにのみすべてを賭け、未来を考えない文明に変質してきたために、単一存在的なことさえ達成できればいいと錯覚してしまったため、そこに矛盾が起きているのです。

 効率、生産性向上、そして収益の極大化を至上命令とする組織を前提とする経営理論がアメリカで発達し、日本でも広く受け入れられてきました。しかし、アメリカ人の価値観、労働倫理、そして市場経済を前提とする新資本主義をベースにした組織経営にはさまざまな点で無理や限界が露呈してきています。国連開発計画の『人間開発報告』における「社会の健康度」調査(UNDP 1998年)によると、「豊かな社会」先進17カ国の指数では、上からスウェーデン、オランダ、ドイツの順で、日本は8位、アメリカは最下位です。アメリカは確かに物質的に豊かな社会かもしれませんが、精神的健康度という物差しで測ってみると最も貧しい社会であると、この報告書は指摘しています。日常生活や仕事に感動して生きるよりも競争に勝つことが重視されるので、ストレスが蓄積され、疎外感に悩み、イライラしながら毎日を送っている膨大な数のアメリカ人や日本人が生み出されているのです。

 仏教の本質は「一行に徹すること、今この瞬間に命をかけること」です。他者の業績や成果を参考にすることは大事ですが、比較考量の念を強く持ちすぎると、やがて嫉妬に変わり、自分を苦しめる結果となります。そのようなことに拘泥せずに、「今この瞬間に自分は何をなすべきか、何ができるか」だけを考えよと、仏陀は私たちに諭しているのです。それが競争の呪縛から我が身を解き放つ要諦でもあります。主体性を確立して、自分の行動の意味を明確にし、納得して自分の行動に全てのエネルギーを集中することにより、時間的そして心理的余裕が生まれ、自分なりの成果の達成が実感でき、最終的に人間としての充実感が生まれてくる可能性が芽生えることでしょう。

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