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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

第三の救済をめざして--愛と慈悲からの超克--

 キリストの「愛」および釈迦の「慈悲」という東西の代表的な宗教の教えがあるにもかかわらず、この二千年を越える年月の間、人類はなぜ平和で幸せな人生が歩めなかったか、あるいは現在もなお悩み苦しむ人々がなぜかくも多くこの地球上に存在するのか。この素朴な疑間を残した状態のまま、いくら我々が「愛」や「慈悲」にすがりついて生きたとしても、上記の事態の根本的な解決にはならない。また、平和を希求し、その実現をめざさねばならないはずの教えが逆に争いを起こしたり、幸せをもたらすべき思想がその対極に人々を引きずり込んでしまうように、現実の中で何かの食い違いを見せている。結局、どこかで現実の生活と、キリストや釈迦の教えが切り離されてしまっているのである。聖者から与えられた「愛」と「慈悲」という教えを、なせ我々は最高度に活かすことができないのか。これは人類にとって悲惨な状況であるといわざるを得ない。「愛」と「慈悲」に加えた、第三の救済原理が求められる所以である。


 キリスト教の本質は、「イエス・キリストの啓示による神の愛と恵みによる魂の救済」を信仰することである。要するに、キリストの言葉は「父と子と聖霊の名において」全ての教えが説かれ、キリストの教えを守ることが神の救いを得ることを意味する。では、神の救済とは何か。それは、教えを信じ、守ればどうなるのか、という点からその意味を窺うことができるだろう。キリストの説く救済とは、結局、神から人間への愛を信じることによって一切の不幸がなくなるということであり、換言すれば、神の愛を信じることの代価として、神の力によって幸福をつかむということである。この基本的な救済の図式は、我々人間の救いは自分を超越した存在から与えられる、という他力信仰である。つまり、キリスト教における救済とは神の愛を得ることであり、一義的には救済は決して「人間同士の愛」(博愛)自体から生まれるものではない。

 神から人間への恵み、それは天から地への力の下方的な流れである。キリスト教以前の原始宗教にみられる、大自然を神とみなし、その法則に従うことによって天地の恵みを受けるという救済の図式が、キリスト教においては神の愛という言葉によって昇華されたと言ってもよいだろう。


 一方、キリストと同じく人類を導いた釈迦の教えは、最も基本的な部分でキリストとは完全に異なる。両者の教えの違いとは、キリストが神の啓示と神の愛によって救済を説くのに対して、釈迦は神のように絶対的な力ではなく、人間の中にある仏心の力、相対的な個々の悟りに救いを求めていることである。このように根本的なところで全く逆の立場に立っているから、愛と慈悲を同じように捉えるとしたならば、事の本質を無視して表層的にしかそれぞれの教えを理解できないことになるだろう。

 では、釈迦は、キリストと比べて具体的にどこが違うのか。

 仏教の創始者釈迦は、インドのサクヤ族(釈迦族)の王の子として生まれた。現在のヒマラヤ山麓に紀元前に存在した小国である。母マーヤーは、出産のための里帰りの途中でゴータマ・シッダールタ(釈迦)を生んだ。しかしマーヤーは出産後七日の後に世を去る。

 いうまでもなく、釈迦は人間として生まれ、人間として死んでいった。彼の生涯は、人間が生きることの悩みや苦しみから、自らの力で解脱する過程であった。それゆえ、彼の教えは、外からの力によって導くのではなく、内からの力によって導くものだったといえる(ちなみに、ブッダとは、「目覚めた人」または「真理を悟った人」という意味で、中国に伝わって「仏陀」と表されるに至る。元来、この言葉は特定の人物を指す言葉ではなく、「仏陀」はたくさん存在し得る。従って、仏教の開祖であるその人はゴータマ・ブッダと名づけて区別されるようになった。また、サクヤ族のムニ(聖者)であるということから、「釈迦牟尼世尊」とも呼ぶようになり、日本ではそれを略して「釈尊」または「釈迦」と言いならわす)。

 釈迦の説いた教えとは、畢竟するに宇宙、人生の真埋である。そこから現実にどのような心の在り方、生き方をするのか、がその思想の核心である。つまり、それは自己の中から大自然に沿った知慧を湧かせるということにつながる。その具体的な現れが、「慈悲」という、利他を本質とする言葉に集約されている。釈迦の、悟りに至るまでの過程は、人間としての苦悩を超克する道程だった。それは全ての人間の苦を我がものとして感じ、まさに四苦八苦して得た悟りであったと言える。その救済の力は、外力に根ざすものではなく、その教えに触れる者の内から湧き出る知慧の力によるものであった。すなわち、釈迦の悟り、また成仏するとは、内なる自分の本性に気づくことであり、同時にそれは周囲の人々を活かす力である。


 結局、キリストの説く神と釈迦の説く仏とは同質どころか、むしろ反発しあうような概念だと言える。我々は、キリストの博愛と釈迦の慈悲を他者を利する点で同等のものとして捉えてしまいがちである。しかし、その救済の力がどこに由来するものかという視点に立てば、自ずとそれが全く異質のものであることに気づく。

 キリスト教は、いわば垂直方向による救済である。それは、天に存在する神と現実世界である地に存在する人間の契約関係が背後にあり、教えに従うことによってのみ天からの愛、救済を与えられる。これに対し、釈迦の救済とは、いわば地という同じ次元において人間同士がその内にもつ力を湧かすことによる救済である。従って、垂直の救済に対して、釈迦のそれは水平の救済として捉えることができるだろう。

 救済の源がどこにあるのか、その力の源泉をどこに見出すのか、また誰が誰を救済するのかという視点から両者を眺めれば、一見、同じように見える人類救済の原理の相違は明らかである。一方は天から地への力の流れであり、神による人間の救済である。他方は人間から人間への力の流れであり、人間による人間の救済である。このことは、キリストが神の子であり、釈迦が人間であるという位置づけ、さらに啓示と悟りという思想の発現経緯によって明確に理解できる。垂直と水平、まさに九十度で交わる直線のように、実はそれらは全くの次元の違う思想なのである。


 キリストは予言者ヨハネによって洗礼を受けた。ヨハネは、「悔い改めよ、天国は近づいた」と説き、「罪の許しを得ることのできる悔い改めの洗礼」をヨルダン川において人々に授けていた。洗礼を受けた時、キリストは天から神の声を聞き、その後、荒野においてサタンの誘惑と闘い、自分の一生は「神に仕えることである」と決意して伝道に入ったとされる。最初の伝道の内容は、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」というものであった。つまり、キリストは神の子として神の国、天国を説き、信者はその教えを守り神の愛を得るという救済が始まった。神の絶対を信じること、キリストを信じその言葉を徹底的に信じること、その「信じること」自体が救済の条件であり、それだけで救われるのがキリストの教えなのである。それゆえ、教えの中の「愛」や「人の為すべきこと」は、全て神の意志に従うものであるか否かが基準となる。

 では、この「神の意志」とは何をさすのか。我々は決して神を見ることもできなければ、その言葉を聞くこともできない。いかにキリスト教を信仰しようとも、一般人には神は不可視の存在である。ということは、少なくとも、人間は神でもなければキリストでもなく、またそうなれる可能性も絶対にない。これは、キリスト教の神の概念の最も本質的なことであり、キリスト教による救済の忘れてはならない一面なのである。

 一方、仏教においては、我々ひとりひとりが仏陀となる可能性を秘めている。仏教の救済の前提には、いわば全ての人間が自ら釈迦と同じような人格に到達できるということがあるのである。

 端的にいえば、キリスト教は、永遠に人間とは隔絶した存在としての神に全てを任せる他力型の信仰であり、神という不可視の存在との「契約」である。また神の意志は、神の子であるキリストの言葉として表され、キリストは人間というより神そのものに近い。キリスト教の救済原理には、このような神と人間の上下関係、換言すれば決して人間は神にはなれないという「聖書以前の教え」をまず信仰できることが背後になければならない。神の絶対的な存在と救済は、以上のような人間の「信じ方」によって初めて発動する。神と人間、主とその創造物、絶対的な上下関係、これがキリスト教の垂直の救済の核になっているのに比べ、仏教の場合、人間と人間、導く者と導かれる者は同等の関係という水平の救済を核とする。

 仏教における救済は自己を超越した存在から与えられるものではなく、自己の内において悟ることによってもたらされる。この場合、教えを守ることは、自己を悟りへ導くための方法でしかない。キリスト教の場合のように、教えを守れば神の愛による救済が得られるとする状況とは全く違う。あくまで、悟りによる救済は自己の内面の問題に還元される。それゆえ、仏教は相対的な救済の原理だといえる。従って、仏教における信仰とは、自らの中にある悟りの可能性を信じるということになる。誰もが悟ることができ、誰もが仏陀になり得るのである。これを信じ、釈迦の教えによって自己の悟りへの可能性を実現することが、仏教の救済にほかならない。この根拠は、森羅万象に仏性が備っているからである(仏性または仏心)。いわば我々の心は煩悩によって曇らされているものの、その奥には輝くような本心真心があるとする考え方である。仏教の救済とは、この仏心を自ら磨くことである。従って、仏教は自力型の宗教の典型だといえよう。さらに釈迦は、この仏心に従って慈悲心を発現させることを説く。慈悲は無条件であり、「契約」のようにそれを守った結果として与えられるものではない。人間の仏性から自然に湧くものであり、それによって自他が活かされるものなのである。釈迦の救済活動も、この慈悲の心の現実化にほかならない。

 我々は、いかに仏性をもっているとはいえ、釈迦のように完全に悟ることは不可能である。しかし、限りなく釈迦の境地に近づくことはできる。自らの仏心を磨きながら慈悲の心でこの世を極楽にすることは可能である。これこそが、仏教による救済の目的である。つまり釈迦も極楽も、この現実界から隔絶した存在ではなく、いつも身近にあるとする。キリスト教の神と天国が、現実界とは離れた所にある点と比較すれば、ここでもその両者が全く異質であることが分かる。


 「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」。これらは東洋の精神的風土の底に横たわる基本思想である。いわゆる仏法の三法印といわれる世界観、人生観である。内容は非常に思弁的であり、合理性をもっている。キリスト教における世界観は、絶対的存在である神と人間の図式の中で捉えられるが、仏教においては絶対的な存在を認めないために、一切が変化の相で捉えられ、相対的である。三法印は、その相対的な世界観の中核的思想である。従って、仏教においての救済は自らの中にしかないというのも必然であろう。神と人間、および三法印、そのいずれも大自然の法則を説いたものと考えられるが、そこから引き出される人間の救済のありかたは、神の愛か、それとも自己の悟りか、であり、鮮明に対立する救済の原理を導いている。しかし、仏法における三法印の思想は、徹底した相対的な世界観をもつがゆえに、一見すると虚無的で、支えのない不安に人を陥れる。全てが空の相として捉えられるのならば、一般の人々にとっては堪え難い孤独を招く。

 仏教が人々を救済する実効性をもつのは、この三法印の思想そのものによってではない。もし三法印だけであるならば、仏教は単なる哲学思想であり、宗教ではない。釈迦は、そのように大自然の摂理、人生の法則を三法印で表したが、それは悟りを得るための手段のひとつであると見るべきである。世界の実相をあるがままに見つめるとき、そこに生まれる人間の心こそ涅槃であり、知慧の源泉となる。悟りの境地から生じる知慧が般若であり、般若に従って生きる生活こそ真の人間の幸せな生活なのである。すなわち、仏教の宗教性とは、三法印という世界の実相を真に悟った後に、そこには一切の執着から解放された般若の自我が生まれる、という点にある。

 また、仏教には、「一切皆苦」という観念がある。釈迦は、人間の一切の苦は、煩悩に執着するところから生じると考えた。自らが煩悩に執着すれば、全ては苦となる。この苦の人生から逃れるためには、執着を断つこと以外にはありえない。三法印の思想は、そのような執着を断つための教えである。従って、般若は執着のない自由な心から湧く喜びの生活そのものだとも言えるだろう。仏教では苦の原因、世界の相について、詳細に分類、統合され、論理的に説明されるわけだが、基本的には以上のように、般若を自ら湧かす境地に達することで救われるとする。般若の現実的な生活での形式が慈悲として表現される。人は何を為すべきかという点に置き換えると、結局、慈悲の生活を為せということになる。


 聖書の言葉、「求めよ、さらば与えられん」は、キリスト教に限らず、人間界に起こる全ての現象に当てはまる。もし我々が救われようと思わなければ、決して救われることはない。望まなければ何事も成就しない。望むとは、何かを信じることである。

 我々人間は、キリスト教や仏教に何を望んできたのか。少なくとも、その教えによって自分が利することや、名誉や金銭を得たり、権力を得るような瑣末事項ではなかったはずである。時代、社会、身分、性別、人種を超えて、人間の生きる目的を自覚し苦悩や不安から自分を解放することであった。そのような人間の望みに対して、キリストや釈迦は、全く異なる世界観に基づく人間の目的とそこに至る道を提示した。

 キリストの場合、その知慧と力は神のものであると宣言しているが、釈迦はそのような神は認めていない。しかし、釈迦の教えの中にも、悟りの大前提としての神のごとき存在を認めることはできる。それが仏性である。つまり内なる神とでも言うべき仏性があるからこそ、人間は悟ることによって苦から解放されるわけである。仏性の前提がなければ、悟りもありえない。他方、キリストは自分の外に神なる絶対者を感じ、その体験を言葉に表し、またその力を与えられ人々を救済した。

 キリストの説く、外なる神と釈迦の前提としている内なる神、これは人間の魂に繋がる不可視の世界の問題には違いない。それは科学的であるか否かという次元を超えた問題であろう。しかし、我々が生きていることを信じるなら、信仰の是非とは別に、彼らの感じた神を信じることは自然である。人々は神を外なる存在として感じ、キリストの教えに救いを求めたか、内なる神を感じ釈迦の教えに救いを求めた。ちなみに、ドイツの哲学者ニーチェは、十九世紀後半、「神は死んだ」という言葉を残している。今、その意味を、百年の歳月を経た現実の社会状況が如実に物語っている。実際に、個々の人間が喜びを得ているのか否か、スローガンとしての言葉による納得ではなく、生活と現実感覚による納得が新しい神に求められているのである。


 仏教は悟りという内面的な体験を目的とするが、それは心理の内から発するものであるために、言語、思想的な説得力によって到達することが重要な要因であると考えられる。それは絶対的な神の支えのない相対的な到達方法であるから、悟りという目的達成のために、手段である教えはさまざまな思想体系を取り得ることを意味する。本来、釈迦の教えは自己の内に目覚めるべき仏心があり、それを自ら磨くという自力の信仰であったはずである。仏教とはその方法を人々に伝えることで、救済を実現する自力型の宗教である。

 これと比較して、一般にキリストの説く隣人愛は、全ての人に対して分け隔てなく注がれる愛として、博愛の美しさが強調されてきた。「敵を愛せよ」は、そこに自己犠牲の極限が象徴されている感がある。だがキリストは、本来、自己犠牲を強調した隣人愛を説いたのではなかった、我々は敵をも愛さなければ神の愛を得られない。だから敵をも愛せと説く。自己犠牲どころか、積極的に神の愛を求めて自分の霊魂を天国に導くという、能動的な自己救済の教えである。つまり「敵を愛せよ」とは、愛の対象を一切選んではならないということなのである。もし選択的な愛であるなら、神は決して救済しないのである。その教えから、一見、自己犠牲的に見える「悪人に手向かうことなかれ。誰かが汝の右の頬を打つなら、他の頬も向けよ。」という具体的な行動指針が示される。しかし自己犠牲は、自分を一切利する目的がないことだが、これらは裏を返せば、逆に神の愛によって自分を救おうという激しい自利の願いのこもった行いである。

 さらに、キリストは人に施すことを説いたが、これも神の認める行いであるから、人間が為さなければならない行為だとする。仏教で説かれる慈悲も、同じく布施という形式をとるが、キリスト教の場合、常に神へ目が向けられ神の存在なくしては施しも意味を失ってしまう。ここに、キリストの説く「愛」の本質を見るべきであろう。

 つまり、行為としては他人に向けられるが、真の目的はいつも神の救済を目指している。キリストの教え全体が、絶対的な神の愛を得るためのものだから当然の帰結であろう。しかしこのことは、愛の行いが自らの中に根ざすものでなく,神によって意味を持つということであり、神そのものの信心が希薄になった現代、「愛」も希薄なものとならざるを得ないということなのである。


 仏教で説く「般若」は、八正道、波羅蜜などを修めることで、存在の全てを全体的に把握する「知慧」を意味する。言い換えれば、般若とは仏性から湧く知慧、最も深い理性である。釈迦は、この知慧を得ることで誰もが仏陀になると考えた。仏教には、この般若から出てくる四種の知慧行という考え方がある(いわゆる四摂法)。これは、人々を仏道に導く四通りの方法であるとともに、道心を起こした人の実践するべき基準だとされる。

・布施摂  真理を教え(法施)、ものを与えること

・愛語摂  優しい思いやりの言葉を投げ掛けること

・利行摂  身体行為(身業)、言語行為(口業)、意識行為(意業)の三業による善行

で人々に利益を与えること

・同事摂  形を変え心を変化させて人々に近づき、人々と同じ仕事にいそしむこと


 この四摂は、それぞれが別個の独立した知慧ではない。要は、他人を利益するという心と実践を四方向の角度から説いたものである。

釈迦が悟りによって得た三法印に代表される思想もさることながら、この四摂法では、現実世界における知慧は利他の実践にあることを明らかにしている。つまり、仏性に目覚めることは、自己の仏性と他者の仏性が繋がっているということの体得であり、自己の仏性の中から自然に他者を利益するという心が湧いてくるということなのである。その境地がすなわち釈迦の説く悟りである。

 キリストは神と人間という垂直の関係において、他者を愛することを説いた。それに対して、釈迦は仏性によって繋がる人間同士の水平の関係において、他者への慈悲を説いた。しかし、両者とも、現実世界における実践徳目としては、利他の行いを説いていることでは共通している。全く異なる救済原理でありながら、結果的に現実世界における人間の行うべきことが同じ利他の教えであることは、実は非常に不思議なことと言わねばなるまい。しかし我々は、利他の行いが人間の従うべき当たり前な真理であると直観する。それゆえ、キリストや釈迦の教えは世界中の人々にとって真理であり続けてきたといえよう。


 キリスト教と仏教を比較すると、「垂直」と「水平」はそれぞれの救済の力の象徴であると同時に、両者の教えや現象が随所に表現されていることが分かる。たとえば、啓示とは上から下、天や神からの力の流れを感じることによって発せられた言葉である。キリストの場合、全ての教えはこの垂直の力に帰結する。人間は神によって支配されているのであり、その教えには絶対服従である。身体的な服従ではなく、精神的な服従。時と場所を選ばず、常に監視されている永遠の服従である。この服従の代償として、我々は初めて救済を得る。従って「愛」という利他の心は、そのような人間と神の関係の中で、神を目指すことによって人間が備える「垂直の力」の変形として捉えられる。

 一方、悟りとは、人間が内に持っている仏性の力を湧かすということにほかならない。仏性から湧く力が知慧であり慈悲であるといえよう。仏性はあまねく全ての存在に備わったものであり、他者の仏性と繋がり活かし合う力の源でもある。全ての人間は仏性で繋がっている。それゆえ、他者を活かし喜ばすことは自分の仏性を活かし喜ばすことに直結する。その力が釈迦の説く悟りによって解放されるのであり、救済が実現する。従って「慈悲」という利他の心は、すなわち人間同士を繋ぐ仏性の力を解放する水平の力の現れとして捉えられる。

 上述のように、キリストは天に神を感じ、釈迦は人間に仏性を感じた。両聖者による人類救済はこの宗教的神秘体験に端を発する。聖者は、その宗教的神秘体験を「神の愛」や「悟り」と名づけ、その体験から出てくる人間の行い、またその体験に到る行いとして、利他の実践である「愛」と「慈悲」を人々に説いた。だから、キリストは愛を説きながらいつも天との繋がりを求め、釈迦は慈悲を説きながらいつも人々と繋がることを求めたといえるだろう。

  では、愛や慈悲は、どのようなメカニズムで人間を救済することになるのか。キリスト教において愛が報われるのは、「最後の審判」によって天国に導かれるからであり、仏教において慈悲が報われるのは、因果応報によって善果を受けるからである。善悪、正邪の判定基準は、要するに生きている間、常に天から全ての言動が監視されており、その言動が「愛」に従った利他の行いであったかどうかである。しかも、兄弟である他者に対して為された行為は、主に対して為された行いと同等であるという点で、結局、神を信じ愛したかという判定に帰着する。

 一方、釈迦が慈悲の報いとして説く救済のメカニズムは何か。古来からインドには、宇宙は、原因と結果、すなわち因果の法則によって支配されているという宇宙観があった。バラモン教においては、神もそのような宇宙の法の下に位置づけられていたようである。

 釈迦はそのような伝統的な宇宙観を踏まえて理法を説いた。善因には善果が、悪因には悪果が繋がり、この関係は果と因が連続しているとした。人間の行為を業(カルマ)と名づけ、善因悪因として善果悪果をもたらす。要は、善因(慈悲に基づく行い)を為せば、必ず善果を生じるということである。善果とは、苦からの解放であり、安定した心の状態を得ることであり、悟ることでもある。

 慈悲は、すなわち崇高な境地へ到る道である。ここには、神の裁きのごとき明確な因果の切れ目はない。何か神のごとき存在が、二者択一によって善果をもたらすのではない。自らが因果の法の中で安心の境地を辿るしかないのである。つまり、輪廻転生も善因善果の法による支配を受けていて、今世で悟れない者は、再び来世で同じように物質的な形態のもつ苦悩を前世の果として受けるというのである。逆に言えば、悟りとは物質的な死を超越することによって、物質的な苦の世界から永遠に解き放たれた境地を得ることにほかならない。それが涅槃の境地であり、霊魂は再び母胎に宿り物質的形態をとることはないのである。ここに、貪る心を捨て利他に徹することによって、自らが自らを救済するという釈迦の教えの全体像を見ることができるだろう。悟りとは利他の行いの中に、この宇宙に遍満する仏性そのものに自ら辿り着き、その仏性の海原に自己の霊魂を溶かすことだといえる。全ての人々とその心の次元において自ら溶け合うこと。これが釈迦の説く水平の救済の原理である。

 キリストは天を求め.釈迦は人々の仏性の繋がりを求めた。両聖者がそれぞれの方向性を求めて、そこに得た愛と慈悲の教えは、人々の心を支えて長い歴史を刻んできた。垂直と水平。人類はこの二方向を「救いの道」として長年の間、無意識に求めてきたのである。キリストは十字架の上に立ち、釈迦は沙羅双樹の下に横たわり、その肉体的生命を終えた。二千年以上の歳月が、彼らの死にざまを正確に伝えているか否か、それは定かではないし、さして重要なことではない。これを象徴的に言えば、教会は天を目指し、神を求める高い建物となり、寺院は水平へと拡がり慈悲を広げる建物となった。それは単純に建物の構造の相違という表面的なものではない。西洋と東洋の意識構造の違いを表している。我々は教会に入れば、その高い天蓋から無意識に神の視線を感じる。上へと広がるイメージは、天の厳然とした法を象徴するのかもしれない。一方、寺院の境内に入ると、広い敷地に幅広く左右に伸びる建物に、人は地に根づく安らぎを感じる。人間の融和を自然に求めるイメージが心に芽生えるのではないだろうか。また、鐘を撞くひとつの動作にしろ、東洋では水平から鐘を撞き、鈍く低い音が地を這うように人々の心を打つ。ところが教会では、最も高いところに据えられた鐘を、綱を上下させることによって撞き鳴らす。その高い響きは上から人々に降りてくる。

 キリスト教と仏教が垂直と水平の形式をもつということは、単に形式がそうなのではなく、思想がそうなのである。求める方向がそうなのである。我々は両者の救済が垂直と水平の方向であるということを、このようにして視覚的にすでに表現してきたといえよう。垂直と水平、それは互いに独立した方向である。力は分解されることによって、基本的な力の要素の和として表現できるが、直角に交わる力は相互の要素で表現されない。要するに、垂直と水平の力は決して互いに影響し合うことはないのである。キリスト教が天を求め、仏教が人間の内に仏性を求める点では、相互になんら接点をもたないかもしれない。抽象的な思想、理論の次元では、確かにキリスト教と仏教はまったく独自の方向をもち、相互を排除する力も生じない。そして宇宙や世界の有り方についての両者の根本思想が、そのように垂直と水平として独自の救済の力の思想であることは疑いようもないことである。ここから、両者の間で相互批判が起きることもまたやむをえない。

 キリスト教の側からは、「創造神を否定し、霊魂の不滅を認めないことから、空・不二の思想のように悲観的で人生に諦めた姿勢を説く点」が仏教に対する痛烈な批判となった。キリスト教徒から見れば、仏教の説く悟りは生を否定する死の哲学のごとく映ったであろう。一方、仏教の側からは、「なぜ絶対者である神が、不完全な悪や苦に満ちた世界を作ったのか。悪に陥るような人間を作っておきながら、自己の律法でそれを罰する神は、全く無慈悲そのものではないか」という反撃がなされた。仏教の中では、現実的でない抽象的な存在や法に対しての教えは否定されたため、神の本質や律法についての議論が展開するはずもない。

 なぜ、次元の違う思想から現実生活における教えが、「愛」と「慈悲」という同じような表現をとったのか。この点は、先に述べたように、至極当然のように両者の教えの中に現れているといってよいが、なぜ愛と慈悲の行いを人間が為すべきなのか、をさらに追求すべきである。現代にふさわしい、垂直と水平の救済をさらに実効性のあるものとする第三の教えは、すなわち垂直と水平の交わる点から求められるべきなのである。


 古の人々は、人間の肉体が朽ち果てるということを、現代人よりもはるかに切実に自覚していた。老人であれ若者であれ、いつでも不意に死は訪れた。共に生活している家族や隣人が、翌日には生存していないことが日常である。死が他人事のように生活から隔離された現代人より、はるかに人々は人間の運命を敏感に感じ取っていたとみるべきである。現代人が長寿を願う状況と、当時の人々が永遠の命を求める状況とでは、根本的にその意味が違う。明日の自分が確実にいるだろうと思える人間と、明日の自分がいることさえ不確実な人間とでは、命の価値の感じ方に埋めようのない溝がある。端的に言えば、現代でも不治の病に冒された人が、命の価値を健康人の感じるのと違う次元で感じるように、昔の人々は感じていた。永遠の命とは、不治の病に冒された人が、少しでも命の時を延ばしたいと願うのと類似した感情であったと思われる。

 それゆえ両聖者による救済は、突然人々に襲いかかる死からの解放であり、また明日の生活に対する不安からの解放であった。愛や慈悲に説かれる布施の教えは、そのような不安に満ちた生活を人間同士で支えるしか道はないのだという宣言であった。我々は、まずこのように当時の民衆の現実の生活感覚から、愛や慈悲の真の意味を把握すべきである。だが、その本来の目的は、生存の不確実性に生じる不安からの救いであったといえる。

 自己責任をきびしく求める現代においては、本来、キリストや釈迦の説いた愛や慈悲はそのままでは救済原理にはならない。少なくとも、現実生活に対する愛や慈悲の教えは、その形式において過去と全く逆の形態をとるべき場合が多いと考えられる。

 愛と慈悲。これはキリストや釈迦の時代において、彼らの説く布施の形式で語られる時、救済の真理であった。しかし、現代の物質環境、文化的環境の中では一面の真理でしかない。一面とは、それらの教えの核心が、切実な生存の不安からの解放であったことに帰結する。すなわち、両聖者が救済の力を持ち得たのは、生存の安定を「求めよさらば与えられん」に応える人々の時代であったからだ。それゆえ、生存の安定を切実に「求めず」、あるいは「自己責任の下で生きる」人々にとって、愛や慈悲の意味は布施に代表されるものではなくなった。生存の安定だけではなく、より以上の何かを実現するための原理に基づかなければならない。救いの内容と、その救いが現に実証されること、これが現代における新しい第三の救済(それが何であるか、キリストおよび釈迦に匹敵する聖人が以降登場していない現代にあって、未だ誰にもわからないにせよ)に求められているのである。

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