釈迦は菩提樹の下で、縁起の理法を観じて悟りを開いたといわれる。縁起とは、まさに「縁って起こる」という意である。雑阿含経(ゾウアゴンキョウ)という、釈迦時代からほど遠くない仏教展開初期の経典には、「これあるに縁って彼あり、これ生ずるによって彼生ず、これ無ければ彼無く、これ滅すれば彼滅す」と、説かれている。その意味は大要すると、我々が現にこの世に「在る」ものとして存在を認めているものはすべて、我々の意識がそれを他と区別して名をつけることにより、それが「在ることになっている」、ということになろう。いわば、我々の持っている、外界に対するすべての概念の成立について述べているのである。縁起は一般に「因果」と混同されることが多いが、因果は概念を使って構成された考え方(悪因悪果、善因善果など)であるのに対して、縁起はその一つの概念の成立について検討しているので、厳密に言えば同じではない。倶舎論という、上座部系(または小乗仏教系)の経書には、「因果関係の上にあるのが煩悩あるダルマ(有為法)である」とも書かれている。また、パーリ語(サンスクリットと並ぶインドの古語)のスッタニパータ(「経集」という意味)には、「どのような苦しみが生ずるのであろうとも、それらはすべて識別作用に縁って起こるのである。識が止滅(消滅)されるならば、苦が生起するということはあり得ない」と、意識による区別に「縁って」、苦が起こると述べている。
諸行無常の「行」という文字は、「集め造られたもの、人間の意志によって成り立っているもの」という意味であり、人間の意識が大自然の中の一部を勝手に分けているものであって、それは変化するものである。従ってそれを頼りにし、執着すれば、我が思いと現実の変化との間に食い違いが生ずる。苦とはこの現実と我々の思いとの食い違い、すなわち「思うようにならない」ことなのである。仏教はこの苦を滅するための教えであることを示すものが、「苦集滅道」のいわゆる四諦(シタイ)である。
釈迦の最初の説法の論点は、中道と四諦についてであったとされる。中道とは、苦行主義および快楽主義双方を全面的に否定することであるが、反面、それは、すべてにわたって過不足は認められないというような、常識的な注意を喚起しているのではなく、人間が勝手に決めた一つの主義という概念に、自分の一生を、あるいは人生全体を制限し、縛ってしまうことが良くない、という旨を伝えようとしているのであって、「解脱」を得たことは、すなわち人間の概念や言葉は実態に即したものではないとして、これを否定したのがその真意であろう。従って、釈迦は、苦行主義は否定したが、苦行に属する座禅や、あるいは快楽そのものを全面否定したのではない。このことは、後に、インド仏教史において快楽主義的な傾向を強く帯びた歓喜仏などを含む密教(日本では天台宗、真言宗などに受け継がれる)が一時栄えたことなどからも了解されよう。釈迦の成道(悟りを得たこと)に際して、悪魔の放った矢が、美しい花に変わったという説話にも、煩悩と菩提(悟り)さえも、その両者が表裏一体の関係にあることを示す状況が鮮烈に示されている。苦の原因は結局、「煩悩」に尽きる。この煩悩の根本は無明、すなわち「愚痴」である。愚痴とは、悟りの知恵のないことであり、要するに、実体的な、不変の存在でないものを、そうと知らないで大切にし、執着し、渇愛する我見、我執である。この根本無明から、好調に際しての貪欲(むさぼる欲)、不調に際しての瞋恚(いかり)が出ていわゆる「三毒」が構成されるのである。悟りのことを、滅または涅槃(梵語でニルバーナ)というが、六道輪廻という「迷い」の世界の特質は、地獄とか天上界のように、死後において自分が連れて行かれる「場」の種類に応じて損や得がある、というのが迷いの特徴なのであって、これに対し、「悟り」の世界は唯一の真実な、絶対の世界なのである。絶対とは、対立するものが絶えて無い、という意味であり、その意味を深く理解することが仏教の本質に迫る重要な道程である。
四諦の苦の滅への道は、従前別稿で触れた「八正道」であるが、その中心は最初に登場する「正見」である。正見とは正しい見解であり、かつては「無分別智」といわれていた。先に挙げた「諸行無常」に続く、いわゆる三法印の「諸法無我」および「涅槃寂静」も縁起の思想が根底を為しており、ダルマ(「保持する」もの)という絶対の法を因り処として生きることを釈迦は教えたのである。その点でいえば、釈迦の思想は、ウパニシャッド哲学(梵と我に究極する大宇宙と小宇宙の相応した関係を説く、古代インド独自の哲学で、仏教思想の骨格にも影響を与えている。ウパニシャッドという言葉自体は「奥義書」という意)の「梵我一如」とおおむね一致する。だが、釈迦は、ブラフマン(梵)がダルマに変じたこと、苦行主義、精神主義を脱却したこと、階級(カースト制度など)を否定したこと等が、ウパニシャッド哲学と異なる。釈迦は宇宙そのものの成立や、その無限性などに関しての判断は、「無記」あるいは「不戯論」といって、問うことや論じることを戒めている。仮に縁起した「ことば」を用いての議論は観念の遊戯に過ぎず、それよりも、現に我々が直面している苦を消滅することの方が優先されるべきである、との立場を貫いているのである。「悟り」を得ることが仏教の究極の目標であるとすれば、日常的に我々が感得する「因果応報」の観念からさらに一歩進んで、まず「縁起」の理法について理解する必要がある。自分を取り巻く宇宙(いわゆる天文学的な宇宙の意をも含む外界の一切)すべてが自分との関わりを持ち、その間にはまったく境界がなく、混然一体としているという意識のなかに、自我の執着を捨て去ることで融通無碍な境地に達するのである。むろん、このことは達成が極めて困難な境地である。所詮、我々は死の瞬間に至るまで、煩悩執着と闘い、老若男女にかかわらず「自分だけがこの世で特別な存在であり、他の存在(特に他人)は自分の願望、欲望を妨げることのみ多い邪悪なものである」という意識を払拭しきれずに悶々と日を送っていかねばならない存在であるといえよう。釈迦の深い憂愁はまさしく人間のこうした実態に対する一種の絶望感から発している。「縁起」観はそのような人間の有様を徹底的に打ち砕くために用意された考え方である。
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